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医療の現場において、「自分は取るに足らない存在であり、治療を受ける価値など無い」と本気で信じている人に出会うことがあります。高齢で、身寄りの無い人に多いかと思います。その言葉によって、我々医療人が本当に治療を中止してしまうことはさすがにないでしょうが、時に深く考えさせられます。

 

患者さんの心理としては病気を治したいけれど、そのために払われる社会的、人的資源あるいはそのための犠牲を考えると治療を受けることを躊躇ってしまう、そういう方は、意外に多いのかもしれません。 

そのような場合の医療にどのような価値を見出したらよいのでしょう? その答えが、この格言の中に秘められているように思えます。

 

   あなたが癒されるとき、世界も癒される。

   だから、あなたは癒されるべきなのです。 

 

このクリシュナムルティの深遠なる思想には到達できないにせよ、この自他一体、一如の世界、Onenessの境涯を体得したいものです。

人を裁くのではなく、その人にむしろ心を沿わせていくことが大切です。簡単にできることではありません。世界の調和や平和の実現は、他者を客観視し分析するという問題解決型の手法では不可能な気がします。

心理学の用語に「可能的自我」があります。可能な限り他者の環境や心情を理解し、自らをその他者に重ね合わせて考えてみる、というものです。要するに、思考実験として他者になりきるということです。

 

   あなたは世界であり、世界はあなたである。 

 

そして、このことばの真意を我々が体得できたとき、はじめて真の平和が訪れるように思います。

癒しのあるところに、この世界の癒しも可能となるのです。

人が癒される瞬間は、世界全体も癒されているに違いないのです。

 

   「臨床の現場でのささやかな癒しが、世界全体の癒しに、どこかでつながっている」 

 

そんな気がしてならないのです。

 

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43歳の若さで急逝した写真家 星野道夫氏が小学校の卒業文集に書いたことばです。

 

自然をこよなく愛し珠玉の写真とエッセイを遺された彼のファンは、今なお多いようです。小学生らしからぬ含蓄のある言葉です。「さすが」と言わざるを得ません。

 

現代文明は川を素早く渡ることだけを必死に考えてきたように思います。より早く加速して渡ることが正しいこととの思い込みがあります。できれば水に濡れることなく渡ることを求めてきたようでもあります。効率性、スピード、より高いパフォーマンスがあらゆる面で求められています。そのように思考し、行動することが当たり前になっています。

 

その現代文明に対し、十二歳の星野少年はアンチテーゼを突きつけたのです。

その後の彼の人生は、そのことば通りとなりました。

40数年の短い人生はある意味、浅い川といえるのかもしれません。しかし、彼はその川を誰よりも深く渡ったのではないかと思います。遺された文章をみると、それが分かります。そこには浅い川を深く渡らなければ知り得ないような瑞々しい視点があるように思われます。深い境涯が感じられます。

 

 

今ここで、自分自身の歩みを振り返ると恥ずかしくなるばかりです。必ずしも浅い川ばかりでは無かったはずなのに、何と大急ぎで渡ってきてしまったのだろう。脇目もふらず駆け抜けるように渡ってきました。ですから、ある意味、何も残っていないのです。臨床家として、多くの人の生死の瞬間に立ち会ってきたはずなのに、それに見合うものが自分の中には形成されていないのです。その体験に相応しい成長が自分の中に見出せないのです。愕然とさせられます。

 

 

臨床の現場は医療者にとって、日常化し過ぎているため時に浅い川になってしまうのかもしれません。しかし、その川こそ、心して深く渡らなければなりません。看取りの瞬間において最期の伴走者である我々医療者が、大急ぎで川を渡ってしまうのはいけないことのような気がします。

むしろ、患者さんが大急ぎで渡ろうとするところをスローなペースメーカーとなって、深くゆっくりと伴走すべきだと思います。

 

 

そのような臨床家としての歩みを繰り返すことで、

我々自身が浅き川も深く渡るという

人生の奥義を体現していくのではないかと考えます。 

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和顔愛語と書いて「わげんあいご」と読みます。「和顔」はやさしげな顔つきのことであり、「愛語」は親愛の気持ちがこもった言葉の意です。

現代は、この「和顔」や「愛語」が、つくづく不足しているなぁと思います。

 

ある日の朝でした。少し寝坊をしたため足早に駅の改札を抜けました。前方に一人の初老の女性が困惑した表情で立っているのが見えました。行き先に迷っているんだなと察しがつきましたが、あまりに急いでいたため声をかけられないことを祈ってその場をやり過ごそうとしました。

しかし、あにはからん、声をかけられてしまいました。次の瞬間、私は苦笑いをしながら、懇切丁寧に電車のホームを教えていました。  このとき何が起きたのでしょう。その女性の微かな笑みを湛えた徳のある表情に感服してしまったのです。

さらに遠慮深そうな質問の仕方に感動すら覚えました。まさに和顔愛語でした。

 

患者さんにおいてもこの和顔愛語の人に出会うことがあります。多少の悪態をついても、どうにも憎めなくて、こちらから、つい合いの手を差し伸べたくなってしまいます。本当に不思議です。このような人は困っている顔も愛らしく手助けしてあげたいと人に思わせる力があるような気がします。これは、全く理屈抜きの世界です。

 

 

置き薬の行商さんの話では、時々、和顔愛語を地でいくような奥さんのいる家があるそうです。そのような家は、決まって年々その家が立派になっていくそうです。和顔愛語の奥さんの存在によって、家自体が和顔愛語を体現しているのでしょう。行商人は毎年、家々を回るためそれが確認できるというのです。「笑う門には福来る」の格言そのものです。そのようなことは様々な局面で有り得ると思います。

 

 

病院でもそうではないでしょうか? 和顔愛語のある病院は、年々発展していくような気がします。スタッフの笑顔こそある意味、最高の財産です。和顔愛語の実践、それは何物にも替えがたい病院にとっての宝なのだと思います。

 

 

さて、駅の話に戻りましょう。和顔愛語の女性は多くの人を駅で見かけたと思います。その大勢の人の中から何故、声をかけられたくないと思っていた私に声をかけて下さったのでしょう。

 

 

和顔愛語の一片が私の中にもあったのかもしれない、

そんな考えに至りつつ、妙に微笑んでしまうのでした。

 

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 人を裁くな。

 あなたがたも裁かれないようにするためである。

 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、

 自分の量る量りで量り与えられる。

                        マタイによる福音書7章1~5節 

 

最近は医療費削減の社会的圧力があり、病院内でも様々な改革が断行されています。改革推進者の中には改革を阻む院内の勢力に対し、激しい敵意を示される方がいらっしゃいます。

 

なぜ、あの人はかくも人を批判し裁くことができるのだろう。時々、私は疑問を持ちます。それは高き理想を有するが故という解釈が一般になされます。

 本当にそうでしょうか?

私はそうではないと感じています。

  

「反面教師」という言葉があります。我々は他人の示す残念な姿を目撃するとき「あのようには自分はなるまい」と思うものです。そして同時に「自分は違う。自分はそのような人間ではない。」とその人との分断を無意識に行ってしまうのです。

 

しかし、この瞬間、我々は、その人よりも心の中で優位に立っているのではないでしょうか。そこに、ささやかなエゴの満足が生まれます。無意識下ではありますが、エゴが満たされる瞬間です。

 

ですから、我々は、改革を阻む人を裁けば裁くほど自己の優位性が確立され、自身を素晴らしい人間と思い込むことができるのです。

 

理想を語り、改革を叫ぶ人を目前にするとき我々はその人のエゴを注視しなければなりません。そうすれば本物の改革者であるかの鑑別ができるはずです。

 

これは自分自身にも当てはまることです。エゴは、本当に狡猾です。野放しにすれば「自分以外は皆、悪者」「世の中、全てが悪」という危険なドグマに陥りかねません。

 

さて、格言に戻ってみましょう。 

 

 人を裁くな。

   自分が裁かれないためである。 

 

「あまり人を非難していると、同じ基準で他人から非難されるようになる」という忠告の意味で捉えられることが多いようです。

敢えて申し上げます。

本当に怖いのは、他人からの裁きなどではなく、自分自身による裁きです。 厳しく、人を裁く刃が自分自身に向けられる時ほど怖い瞬間は無いと私は思っています。

純粋で一途な魂であれば尚更です。

自身において極端な自己嫌悪の時期を経験された方であれば、深く頷いていただけることでしょう。

    「人を裁くな」

簡単な表現ではありますが、行ずることにおいてこれほど難しい言葉は無いのかもしれません。

叡智に満ちた“ことば”です。

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スイスの哲学者ピカートのことばで、『沈黙の世界』(みすず書房)からの引用です。

 

  一人の人間の内部にある沈黙は、その人間の存在を超える。

  そして、この沈黙のなかで、人間は過去及び未来の世代につながっているのである。

  

現代社会は音が過剰であると思います。街中が音楽や騒音で溢れかえっています。静かなはずの図書館や公共の車内であっても多くの人が音楽携帯端末を持ち込んでヘッドフォンの音をわざわざ聴いています。この人工的な音に囲まれて我々は日々の生活を送っているのです。

  

人工的な音のない世界は街中では見つけることができません。意識してもそのような空間は簡単には探し出せないでしょう。実際に探してみようとすれば分かりますが、本当にそのような場所は見つからないものです。

 

現代人は都市生活をするなかで、音楽や人工的な音に囲まれることで孤独感を紛らわしているように思えてなりません。携帯電話での会話やメールのやり取りもそのような人工的音の一種だと思います。それらが無ければ現代人は不安を解消できないと思えるほどです。

 

電車の中で多くの人が一心にメール入力をしている姿は、「溺れる者は藁をも掴む」の格言のごとく携帯電話を藁に見立てているように見えてしまいます。携帯電話は現代社会の藁なのだと思います。

 

 

人間にとって、時に静寂を求めることはとても重要であると思います。静寂心に満ちた人物に出会うことがあります。騒音に囲まれた生活をしている私は、そのような雰囲気の人物に敏感に反応してしまいます。その時は音のない静けさという存在を意識することになります。そして、静けさの持つエネルギーや力を再認識させられるのです。

 

 

ピカートが言うように沈黙は音という存在がない状態ではなく、紛れもない存在であると思います。沈黙や静寂の重要性を知る人だけがそれを存在として意識しているような気がします。今日では、このような沈黙の世界や静寂心を保有することが難しくなっています。ですから、その種の人物が際立つのだと思います。

 

 

それは、病院にも当てはまるような気がします。騒々しい病院が何と多いことか。街中の喧騒音が聞こえてきそうな雰囲気があります。在院日数短縮が至上命令となっている今、病院内は戦場の如き喧騒を呈することがあります。様々な院内のコンフリクトが重奏して独特の騒音を生み出しているようにさえ感じられます。

 

 

沈黙や静寂を見出しにくい御時世ですが、

病院ぐらいは沈黙の存在を意識できる場所であるべきでしょう。

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資本主義精神の申し子とも言うべきベンジャン・フランクリンのことばです。資本主義の精神とは、利潤の追求(金儲け)が一つの自己目的となっていて、貨幣が貨幣を生むということを正常なこととする精神です。しかもそのことが倫理的に見てよいことだと考える精神なのです。

 それまで利潤の追求は社会正義に反し、人生の目的になり得ませんでした。にも拘らず、歴史的に重要なエトスの変換が起きました。それが資本主義精神だったのです。彼は自らが習得すべき徳目を「十三徳」にまとめ上げ、実際に日々チェックしながら自己修練に励んだそうです。

プロテスタンティズムと資本主義の精神の歴史的融合は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によって明らかにされました。それは、この一言に要約されると思います。

 

   「行動的禁欲」

 

唯一つの目的達成のために全身全霊を集中的に注ぎ込むことです。私は、そこにストア派の深い影響を感じるのです。

現代の、とくに日本社会の価値観はこの資本主義精神が歪曲され、経済絶対主義に堕してしまったように思われます。お金が全てという思想がまかり通ってしまっています。何かが失われてしまいました。それが行動的禁欲なのではないでしょうか。

  

「恪勤(かっきん)」という言葉があります。「恪」は、まじめに事を処理する意だそうで、他の人が休むときも休まずに自分の仕事をすることと辞書には書かれています。古くから日本にはこのような素晴らしき精神、文化が存在していました。労働に関する先人の堅実な思想、智恵、それらに敬服します。

 

それらの伝統文化を次の世代に語り継がなければなりません。否、語るのではなく、行じていかなければなりません。

  

ベンジャンと資本主義精神から離れ、格言に戻ってみましょう。われわれは、現実の自分とは違う、もう一人の自分の存在に気づかされることがあります。

 

徹底した自己洞察により、自らの内なる声に耳を傾ける時、もう一人の自分との対話が始まります。 そして、その対話を歴史上の有徳の人物にまで及ぼすことが出来るようになると、われわれの生活態度は一変することになるでしょう。

 

そのような時、われわれの生き様は高尚なる精神となって時代を越え生き続けることになるのかもしれません。

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マルティン・ルター(1483-1546)はドイツの神学者、牧師で宗教改革の中心人物です。

 明日、世界が終わりになってしまうということは、今日、リンゴの木を植えても実りを得ることは出来ません。リンゴの木自体もなくなってしまいます。それどころか、その人のそれまでの蓄財も業績も記憶さえも一切が無くなってしまいます。あるいは人類の歴史でさえ失われてしまうのです。人間という種が存在していたこと自体も忘却されてしまうのです。全てが無に帰するわけです。全ての存在が失われる訳ですから、今日一日を刹那的に、享楽的に生きるのが普通かもしれません。

それなのに、

それなのにルターは、今日、リンゴの木を植えようと言うのです。

  

私には、このルターのことばが気を衒ったものでないことは理解できます。ヤケクソで言っているわけではないはずです。この「リンゴの木を植える」という表現には、明日への希望を持って日々の勤めを果たしていくというルターの熱いが込められているような気がします。そしてその真意は、未来において全ての存在が失われようとも、ひとりの人間が生きて正しく存在したという事実は決して失われないということなのだと思います。これは私に大変な意味をもたらしてくれます。

  

「神の義」を本質的に見つめていた彼ならではの視点ではないでしょうか。世間体や時流に流されない、彼のぶれない生き方とその覚悟を感じることができます。

 

さながら、医療人としての我々であれば、明日、世界が終わりになったとしても病める人のそばに寄り添っていくこととでも言えるでしょうか。日々、坦々と自らの為すべきことのみに邁進する。そんな世界をルターは目指したのでしょう。

  

不意にその日が訪れるかもしれません。それは誰にも分かりません。世界に終わりが来ようとも、あるいは永遠に続くとしても、自己の在り様を貫くことが大切なのです。

 

   世界が、どう在るかが問題なのではなく、

  自己が、どう在るかのほうが重要な問題なのです。 

 

さて、明日、確実に世界が終わるとしたら、今日、貴方はどうしますか?

 

リンゴの木を植えると言えるでしょうか?

  

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「くう」の「くう」 「くう」の「くう」なるかな ・・・、と読みます。「栄耀栄華を極めたソロモン王でさえ、・・・」とよく引用される、あのソロモン王の言葉です。

 

人生に意味はあるのか、無いのか? この究極の問いにソロモン王は、世の中の全てが空虚であり、意味など無いと言っているわけです。ソロモン王に限らず、この世の成功を手中にした人たちが、精神的には満たされることなくニヒリズムに陥っていることが、少なからず見聞できます。

  

高校時代の私はこのソロモン王の言葉を知って失望したものです。自分がこれから船出をしようとしている人生、その大海は空虚そのものである。夢や希望は幻想に過ぎない。キング・オブ・キングスと讃えられたソロモン王の言葉であるだけに、無視のできない強烈なメッセージとなりました。

 

しかし、よくよく考えてみるとソロモン王がそう言ったとしても、個々の人生すべてがそうとは限りません。そもそも他人の人生はどうであれ、自分の人生は自分で決定すべきでしょう。

  

今日の世の中、とくに日本を見てみるとニヒリステックなムードが蔓延しています。人々の思考の内部にさえ、密やかに忍び込んでいます。文化人と呼ばれるような知識の豊富な人に顕著ではないかと思われます。今日の文化人たちの精神の空虚感は寒々しいものがあります。

理想を求める、若き精神は、一方で、ニヒリズムの罠に陥りやすいものです。我々は意識的に、人間本来の健全さを取り戻す努力をしていかなければなりません。

   

再び人生に意味はあるのか、無いのか? 

意味はあるという合理論と意味など無いというニヒリズム

真実はどちらなのでしょうか? 

コインの裏と表のようなものですから、一方が真で、他方が偽であることは確かです。しかし、どちらが正しいかは、未だ分かっていません。有史以来の先人たちが格闘してきましたが、結論が出ることはありませんでした。永遠のテーマともいえるのかもしれません。結局は、各人がどちらを信じるかでしかないのです。自らの信じる方向を思い定め、その信条に基づいて歩み始めるしかないのです。

  

臨床に身を置く我々としては、人生やいのちには厳格な意味があることを体感的に理解していると思います。逆に、完全なニヒリズムの立場に立てる医療人はいないと私は信じています。

 

そう、医療人としての我々は、職業選択のその瞬間から合理論の立場にあるはずなのです。それなら人生を絶対肯定する立場で積極的に歩んでいくべきでしょう。

  若き医療人たちよ、ニヒリズムの罠に陥ることなかれ!

我々の使命は、ニヒリズムを超克し、さらに、人生、いのちを意味あるものにすることにあるはずです。

  

高校時代の私は、このソロモン王のニヒリズムを乗り越えるべく悪戦苦闘しました。

 

そして卒業文集に、こう認めました。

 

    空の空 

   空の空なるかな

   すべて “喰う”なり

 

 

 

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初代 若乃花(第45代横綱)・花田勝治氏は、強くなる秘訣は?の質問に「休まないことです」と答えていたそうです。

この「休まない」とは毎日欠かさず稽古をするという意味ではなく、稽古の時間内では小休止も取らずに連続して練習するというものです。例えば四股や鉄砲、ガチンコの立会いなど練習も様々なものがあると思いますが、多くの人の場合ひとつの練習が終わると一息ついてしまうものです。その間、僅か数分間なのでしょうが、その時間も休まない、ということです。

  

その話を聞いて以来、なるべくワークタイムの時間は小休止をとらないように心がけてきました。仕事と仕事の合間の細切れの時間を休まないようにするのです。それまではボーと過ごしてしまうことが多かったのですが、その細切れの時間を有効に使うように努めています。

 

「休まない」こと それは、ちょっとしたことのようですが、なかなかできるものではありません。実践してみると分かります。

 

それが少しだけ出来るようになって、自分でも仕事における体力が付いてきたなと感じていました。しかし、、それは体力ではなく知的スタナでありさらには集中力であることにある時気づきました。とするとガムシャラな相撲の稽古で培われるものの本質は、技や体力ではなく集中力だったのかもしれません。

   

我々、医療人の仕事は、体力勝負の肉体労働であることが多いと思います。終日、デスクワークで済むことは無いでしょう。その医療人がプロフェッショナルとして求められる資質として、身体的な体力は誰もが認識しているでしょう。しかし私はそれ以上に知的スタナとしての集中力を強調したいと思います。そして、一般に考えられている体力は、実はこの集中力によって下支えされているように思えるのです。

  

皆さん、患者さんの話を聴いても耳に入らず間を持たせることもできずにそそくさとその場を立ち去ったというような経験はないでしょうか?

 

私の場合そんなときは完全に集中力が切れています。知的スタナである集中力が途切れると、場を維持し、間を持たせることが出来なくなるのです。誤った選択をしてしまうことにもなりかねません。

  

先に、花田氏の真意が集中力の鍛錬にあったのでは?と書きました。土俵の鬼との異名をとり、ここ一番の勝負強さは、その後の二子山部屋も隆盛も含めひとつの時代を築いたといえます。休まないことで身に付いた集中力、その為せる技であったと私は信じています。

 

とすると集中力を身に付けたプロの医療人においてはギリギリの判断を迫られる局面において必ずや力を発揮するのではないかと考えます。

 

本物の集中力は決定的に重要な時点にて私に最良の決断を導き出させてくれると信じています。

 

 

卓越した集中力を身に付けたいものです。

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アウレーリウス(121-180)はローマの皇帝かつ哲人です。 蕃族の侵入や叛乱の平定のために東奔西走する日々でありましたが、その僅かな時間の合間を使って自らを省みることを怠りませんでした。  

彼の著作である「自省録」には彼自身のストイックな生き様が赤裸々に綴られています。誰に読まれることも想定されずに自らの魂の清さだけを頼りに書き留められたものであることが分かります。それだけに、我々が日常の雑事に流され、自己を見失いがちになるのを軌道修正するには、うってつけの良書であると思います。

  

人民を支配する皇帝という身でありながら、彼は敢えて、ストア派の哲学を身を以って実践していきます。何故に、そのような厳しい道をすすんで歩もうとするのか?若い頃の私には不思議でなりませんでした。刹那的に生きたいとは思いませんが、かと言って、あまりに禁欲的になり過ぎるのもどうかと思います。同時代の多くの人が、彼を堅物と思ったことでしょう。扱いに大変、困ったに違いありません。人生を謳歌するという点が全く感じられませんから・・・。

  

しかし、自分自身、歳を重ね、冒頭のことばを深く噛み締めることができるようになって、少しずつ理解できるようになりました。

 

彼にとって生きることとは、その時代のみを生きることではなかったのでしょう。皇帝としての勤めを果すことだけが全てではなかったのでしょう。数千年の人類歴史の中にあって、偉大なる先人たちに伍して、生き抜こうとしたのだと思います。否、それを乗り越えていこうとする決意さえ感じることができます。これこそ、正に生き様と言えるでしょう。むしろ、最初から彼はその時代を生きることを超えて歴史性を以って生きることを自らに課したのかもしれません。社会的地位や役割をこなすことなどにとらわれてはいなかったように思われます。皇帝であろうと、なかろうと、彼は、同じような生き方をしたように思えてなりません。崇高なる魂にとって、生きた時代や社会的役割、職業などはどうでも良いことなのかもしれません。それらを超越した立場で自らの人生を捉えていたのではないでしょうか?

  

そんな魂の存在を知ってしまった私は彼との邂逅を果したいと願うようになりました。真に魂の邂逅を果すためには、自分自身、この人生で精一杯の生き様を遂げなければならないと感じます。アウレーリウスは魂の永遠性を信じ、有徳の生涯を送った古人との魂の邂逅を一途に願ったのではないでしょうか。私は、そう思っています。

  

最後に、アウレーリウス自身のことばで結びとします。

 

  自分が誠実に、謙虚に、善意をもって生活しているのを

 たとえ誰も信じてくれなくとも、誰にも腹を立てず、

 人生の終局目的に導く道を踏みはずしもしない。

 その目的に向かって純潔に、平静に、

 何の執着もなく、強いられもせずに

 自ら自己の運命に適合して、歩んでいかなくてはならないのである。       『自省録』

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