和顔愛語と書いて「わげんあいご」と読みます。「和顔」はやさしげな顔つきのことであり、「愛語」は親愛の気持ちがこもった言葉の意です。

現代は、この「和顔」や「愛語」が、つくづく不足しているなぁと思います。

 

ある日の朝でした。少し寝坊をしたため足早に駅の改札を抜けました。前方に一人の初老の女性が困惑した表情で立っているのが見えました。行き先に迷っているんだなと察しがつきましたが、あまりに急いでいたため声をかけられないことを祈ってその場をやり過ごそうとしました。

しかし、あにはからん、声をかけられてしまいました。次の瞬間、私は苦笑いをしながら、懇切丁寧に電車のホームを教えていました。  このとき何が起きたのでしょう。その女性の微かな笑みを湛えた徳のある表情に感服してしまったのです。

さらに遠慮深そうな質問の仕方に感動すら覚えました。まさに和顔愛語でした。

 

患者さんにおいてもこの和顔愛語の人に出会うことがあります。多少の悪態をついても、どうにも憎めなくて、こちらから、つい合いの手を差し伸べたくなってしまいます。本当に不思議です。このような人は困っている顔も愛らしく手助けしてあげたいと人に思わせる力があるような気がします。これは、全く理屈抜きの世界です。

 

 

置き薬の行商さんの話では、時々、和顔愛語を地でいくような奥さんのいる家があるそうです。そのような家は、決まって年々その家が立派になっていくそうです。和顔愛語の奥さんの存在によって、家自体が和顔愛語を体現しているのでしょう。行商人は毎年、家々を回るためそれが確認できるというのです。「笑う門には福来る」の格言そのものです。そのようなことは様々な局面で有り得ると思います。

 

 

病院でもそうではないでしょうか? 和顔愛語のある病院は、年々発展していくような気がします。スタッフの笑顔こそある意味、最高の財産です。和顔愛語の実践、それは何物にも替えがたい病院にとっての宝なのだと思います。

 

 

さて、駅の話に戻りましょう。和顔愛語の女性は多くの人を駅で見かけたと思います。その大勢の人の中から何故、声をかけられたくないと思っていた私に声をかけて下さったのでしょう。

 

 

和顔愛語の一片が私の中にもあったのかもしれない、

そんな考えに至りつつ、妙に微笑んでしまうのでした。

 

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 人を裁くな。

 あなたがたも裁かれないようにするためである。

 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、

 自分の量る量りで量り与えられる。

                        マタイによる福音書7章1~5節 

 

最近は医療費削減の社会的圧力があり、病院内でも様々な改革が断行されています。改革推進者の中には改革を阻む院内の勢力に対し、激しい敵意を示される方がいらっしゃいます。

 

なぜ、あの人はかくも人を批判し裁くことができるのだろう。時々、私は疑問を持ちます。それは高き理想を有するが故という解釈が一般になされます。

 本当にそうでしょうか?

私はそうではないと感じています。

  

「反面教師」という言葉があります。我々は他人の示す残念な姿を目撃するとき「あのようには自分はなるまい」と思うものです。そして同時に「自分は違う。自分はそのような人間ではない。」とその人との分断を無意識に行ってしまうのです。

 

しかし、この瞬間、我々は、その人よりも心の中で優位に立っているのではないでしょうか。そこに、ささやかなエゴの満足が生まれます。無意識下ではありますが、エゴが満たされる瞬間です。

 

ですから、我々は、改革を阻む人を裁けば裁くほど自己の優位性が確立され、自身を素晴らしい人間と思い込むことができるのです。

 

理想を語り、改革を叫ぶ人を目前にするとき我々はその人のエゴを注視しなければなりません。そうすれば本物の改革者であるかの鑑別ができるはずです。

 

これは自分自身にも当てはまることです。エゴは、本当に狡猾です。野放しにすれば「自分以外は皆、悪者」「世の中、全てが悪」という危険なドグマに陥りかねません。

 

さて、格言に戻ってみましょう。 

 

 人を裁くな。

   自分が裁かれないためである。 

 

「あまり人を非難していると、同じ基準で他人から非難されるようになる」という忠告の意味で捉えられることが多いようです。

敢えて申し上げます。

本当に怖いのは、他人からの裁きなどではなく、自分自身による裁きです。 厳しく、人を裁く刃が自分自身に向けられる時ほど怖い瞬間は無いと私は思っています。

純粋で一途な魂であれば尚更です。

自身において極端な自己嫌悪の時期を経験された方であれば、深く頷いていただけることでしょう。

    「人を裁くな」

簡単な表現ではありますが、行ずることにおいてこれほど難しい言葉は無いのかもしれません。

叡智に満ちた“ことば”です。

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スイスの哲学者ピカートのことばで、『沈黙の世界』(みすず書房)からの引用です。

 

  一人の人間の内部にある沈黙は、その人間の存在を超える。

  そして、この沈黙のなかで、人間は過去及び未来の世代につながっているのである。

  

現代社会は音が過剰であると思います。街中が音楽や騒音で溢れかえっています。静かなはずの図書館や公共の車内であっても多くの人が音楽携帯端末を持ち込んでヘッドフォンの音をわざわざ聴いています。この人工的な音に囲まれて我々は日々の生活を送っているのです。

  

人工的な音のない世界は街中では見つけることができません。意識してもそのような空間は簡単には探し出せないでしょう。実際に探してみようとすれば分かりますが、本当にそのような場所は見つからないものです。

 

現代人は都市生活をするなかで、音楽や人工的な音に囲まれることで孤独感を紛らわしているように思えてなりません。携帯電話での会話やメールのやり取りもそのような人工的音の一種だと思います。それらが無ければ現代人は不安を解消できないと思えるほどです。

 

電車の中で多くの人が一心にメール入力をしている姿は、「溺れる者は藁をも掴む」の格言のごとく携帯電話を藁に見立てているように見えてしまいます。携帯電話は現代社会の藁なのだと思います。

 

 

人間にとって、時に静寂を求めることはとても重要であると思います。静寂心に満ちた人物に出会うことがあります。騒音に囲まれた生活をしている私は、そのような雰囲気の人物に敏感に反応してしまいます。その時は音のない静けさという存在を意識することになります。そして、静けさの持つエネルギーや力を再認識させられるのです。

 

 

ピカートが言うように沈黙は音という存在がない状態ではなく、紛れもない存在であると思います。沈黙や静寂の重要性を知る人だけがそれを存在として意識しているような気がします。今日では、このような沈黙の世界や静寂心を保有することが難しくなっています。ですから、その種の人物が際立つのだと思います。

 

 

それは、病院にも当てはまるような気がします。騒々しい病院が何と多いことか。街中の喧騒音が聞こえてきそうな雰囲気があります。在院日数短縮が至上命令となっている今、病院内は戦場の如き喧騒を呈することがあります。様々な院内のコンフリクトが重奏して独特の騒音を生み出しているようにさえ感じられます。

 

 

沈黙や静寂を見出しにくい御時世ですが、

病院ぐらいは沈黙の存在を意識できる場所であるべきでしょう。

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