資本主義精神の申し子とも言うべきベンジャン・フランクリンのことばです。資本主義の精神とは、利潤の追求(金儲け)が一つの自己目的となっていて、貨幣が貨幣を生むということを正常なこととする精神です。しかもそのことが倫理的に見てよいことだと考える精神なのです。

 それまで利潤の追求は社会正義に反し、人生の目的になり得ませんでした。にも拘らず、歴史的に重要なエトスの変換が起きました。それが資本主義精神だったのです。彼は自らが習得すべき徳目を「十三徳」にまとめ上げ、実際に日々チェックしながら自己修練に励んだそうです。

プロテスタンティズムと資本主義の精神の歴史的融合は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によって明らかにされました。それは、この一言に要約されると思います。

 

   「行動的禁欲」

 

唯一つの目的達成のために全身全霊を集中的に注ぎ込むことです。私は、そこにストア派の深い影響を感じるのです。

現代の、とくに日本社会の価値観はこの資本主義精神が歪曲され、経済絶対主義に堕してしまったように思われます。お金が全てという思想がまかり通ってしまっています。何かが失われてしまいました。それが行動的禁欲なのではないでしょうか。

  

「恪勤(かっきん)」という言葉があります。「恪」は、まじめに事を処理する意だそうで、他の人が休むときも休まずに自分の仕事をすることと辞書には書かれています。古くから日本にはこのような素晴らしき精神、文化が存在していました。労働に関する先人の堅実な思想、智恵、それらに敬服します。

 

それらの伝統文化を次の世代に語り継がなければなりません。否、語るのではなく、行じていかなければなりません。

  

ベンジャンと資本主義精神から離れ、格言に戻ってみましょう。われわれは、現実の自分とは違う、もう一人の自分の存在に気づかされることがあります。

 

徹底した自己洞察により、自らの内なる声に耳を傾ける時、もう一人の自分との対話が始まります。 そして、その対話を歴史上の有徳の人物にまで及ぼすことが出来るようになると、われわれの生活態度は一変することになるでしょう。

 

そのような時、われわれの生き様は高尚なる精神となって時代を越え生き続けることになるのかもしれません。

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マルティン・ルター(1483-1546)はドイツの神学者、牧師で宗教改革の中心人物です。

 明日、世界が終わりになってしまうということは、今日、リンゴの木を植えても実りを得ることは出来ません。リンゴの木自体もなくなってしまいます。それどころか、その人のそれまでの蓄財も業績も記憶さえも一切が無くなってしまいます。あるいは人類の歴史でさえ失われてしまうのです。人間という種が存在していたこと自体も忘却されてしまうのです。全てが無に帰するわけです。全ての存在が失われる訳ですから、今日一日を刹那的に、享楽的に生きるのが普通かもしれません。

それなのに、

それなのにルターは、今日、リンゴの木を植えようと言うのです。

  

私には、このルターのことばが気を衒ったものでないことは理解できます。ヤケクソで言っているわけではないはずです。この「リンゴの木を植える」という表現には、明日への希望を持って日々の勤めを果たしていくというルターの熱いが込められているような気がします。そしてその真意は、未来において全ての存在が失われようとも、ひとりの人間が生きて正しく存在したという事実は決して失われないということなのだと思います。これは私に大変な意味をもたらしてくれます。

  

「神の義」を本質的に見つめていた彼ならではの視点ではないでしょうか。世間体や時流に流されない、彼のぶれない生き方とその覚悟を感じることができます。

 

さながら、医療人としての我々であれば、明日、世界が終わりになったとしても病める人のそばに寄り添っていくこととでも言えるでしょうか。日々、坦々と自らの為すべきことのみに邁進する。そんな世界をルターは目指したのでしょう。

  

不意にその日が訪れるかもしれません。それは誰にも分かりません。世界に終わりが来ようとも、あるいは永遠に続くとしても、自己の在り様を貫くことが大切なのです。

 

   世界が、どう在るかが問題なのではなく、

  自己が、どう在るかのほうが重要な問題なのです。 

 

さて、明日、確実に世界が終わるとしたら、今日、貴方はどうしますか?

 

リンゴの木を植えると言えるでしょうか?

  

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「くう」の「くう」 「くう」の「くう」なるかな ・・・、と読みます。「栄耀栄華を極めたソロモン王でさえ、・・・」とよく引用される、あのソロモン王の言葉です。

 

人生に意味はあるのか、無いのか? この究極の問いにソロモン王は、世の中の全てが空虚であり、意味など無いと言っているわけです。ソロモン王に限らず、この世の成功を手中にした人たちが、精神的には満たされることなくニヒリズムに陥っていることが、少なからず見聞できます。

  

高校時代の私はこのソロモン王の言葉を知って失望したものです。自分がこれから船出をしようとしている人生、その大海は空虚そのものである。夢や希望は幻想に過ぎない。キング・オブ・キングスと讃えられたソロモン王の言葉であるだけに、無視のできない強烈なメッセージとなりました。

 

しかし、よくよく考えてみるとソロモン王がそう言ったとしても、個々の人生すべてがそうとは限りません。そもそも他人の人生はどうであれ、自分の人生は自分で決定すべきでしょう。

  

今日の世の中、とくに日本を見てみるとニヒリステックなムードが蔓延しています。人々の思考の内部にさえ、密やかに忍び込んでいます。文化人と呼ばれるような知識の豊富な人に顕著ではないかと思われます。今日の文化人たちの精神の空虚感は寒々しいものがあります。

理想を求める、若き精神は、一方で、ニヒリズムの罠に陥りやすいものです。我々は意識的に、人間本来の健全さを取り戻す努力をしていかなければなりません。

   

再び人生に意味はあるのか、無いのか? 

意味はあるという合理論と意味など無いというニヒリズム

真実はどちらなのでしょうか? 

コインの裏と表のようなものですから、一方が真で、他方が偽であることは確かです。しかし、どちらが正しいかは、未だ分かっていません。有史以来の先人たちが格闘してきましたが、結論が出ることはありませんでした。永遠のテーマともいえるのかもしれません。結局は、各人がどちらを信じるかでしかないのです。自らの信じる方向を思い定め、その信条に基づいて歩み始めるしかないのです。

  

臨床に身を置く我々としては、人生やいのちには厳格な意味があることを体感的に理解していると思います。逆に、完全なニヒリズムの立場に立てる医療人はいないと私は信じています。

 

そう、医療人としての我々は、職業選択のその瞬間から合理論の立場にあるはずなのです。それなら人生を絶対肯定する立場で積極的に歩んでいくべきでしょう。

  若き医療人たちよ、ニヒリズムの罠に陥ることなかれ!

我々の使命は、ニヒリズムを超克し、さらに、人生、いのちを意味あるものにすることにあるはずです。

  

高校時代の私は、このソロモン王のニヒリズムを乗り越えるべく悪戦苦闘しました。

 

そして卒業文集に、こう認めました。

 

    空の空 

   空の空なるかな

   すべて “喰う”なり

 

 

 

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