初代 若乃花(第45代横綱)・花田勝治氏は、強くなる秘訣は?の質問に「休まないことです」と答えていたそうです。

この「休まない」とは毎日欠かさず稽古をするという意味ではなく、稽古の時間内では小休止も取らずに連続して練習するというものです。例えば四股や鉄砲、ガチンコの立会いなど練習も様々なものがあると思いますが、多くの人の場合ひとつの練習が終わると一息ついてしまうものです。その間、僅か数分間なのでしょうが、その時間も休まない、ということです。

  

その話を聞いて以来、なるべくワークタイムの時間は小休止をとらないように心がけてきました。仕事と仕事の合間の細切れの時間を休まないようにするのです。それまではボーと過ごしてしまうことが多かったのですが、その細切れの時間を有効に使うように努めています。

 

「休まない」こと それは、ちょっとしたことのようですが、なかなかできるものではありません。実践してみると分かります。

 

それが少しだけ出来るようになって、自分でも仕事における体力が付いてきたなと感じていました。しかし、、それは体力ではなく知的スタナでありさらには集中力であることにある時気づきました。とするとガムシャラな相撲の稽古で培われるものの本質は、技や体力ではなく集中力だったのかもしれません。

   

我々、医療人の仕事は、体力勝負の肉体労働であることが多いと思います。終日、デスクワークで済むことは無いでしょう。その医療人がプロフェッショナルとして求められる資質として、身体的な体力は誰もが認識しているでしょう。しかし私はそれ以上に知的スタナとしての集中力を強調したいと思います。そして、一般に考えられている体力は、実はこの集中力によって下支えされているように思えるのです。

  

皆さん、患者さんの話を聴いても耳に入らず間を持たせることもできずにそそくさとその場を立ち去ったというような経験はないでしょうか?

 

私の場合そんなときは完全に集中力が切れています。知的スタナである集中力が途切れると、場を維持し、間を持たせることが出来なくなるのです。誤った選択をしてしまうことにもなりかねません。

  

先に、花田氏の真意が集中力の鍛錬にあったのでは?と書きました。土俵の鬼との異名をとり、ここ一番の勝負強さは、その後の二子山部屋も隆盛も含めひとつの時代を築いたといえます。休まないことで身に付いた集中力、その為せる技であったと私は信じています。

 

とすると集中力を身に付けたプロの医療人においてはギリギリの判断を迫られる局面において必ずや力を発揮するのではないかと考えます。

 

本物の集中力は決定的に重要な時点にて私に最良の決断を導き出させてくれると信じています。

 

 

卓越した集中力を身に付けたいものです。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

アウレーリウス(121-180)はローマの皇帝かつ哲人です。 蕃族の侵入や叛乱の平定のために東奔西走する日々でありましたが、その僅かな時間の合間を使って自らを省みることを怠りませんでした。  

彼の著作である「自省録」には彼自身のストイックな生き様が赤裸々に綴られています。誰に読まれることも想定されずに自らの魂の清さだけを頼りに書き留められたものであることが分かります。それだけに、我々が日常の雑事に流され、自己を見失いがちになるのを軌道修正するには、うってつけの良書であると思います。

  

人民を支配する皇帝という身でありながら、彼は敢えて、ストア派の哲学を身を以って実践していきます。何故に、そのような厳しい道をすすんで歩もうとするのか?若い頃の私には不思議でなりませんでした。刹那的に生きたいとは思いませんが、かと言って、あまりに禁欲的になり過ぎるのもどうかと思います。同時代の多くの人が、彼を堅物と思ったことでしょう。扱いに大変、困ったに違いありません。人生を謳歌するという点が全く感じられませんから・・・。

  

しかし、自分自身、歳を重ね、冒頭のことばを深く噛み締めることができるようになって、少しずつ理解できるようになりました。

 

彼にとって生きることとは、その時代のみを生きることではなかったのでしょう。皇帝としての勤めを果すことだけが全てではなかったのでしょう。数千年の人類歴史の中にあって、偉大なる先人たちに伍して、生き抜こうとしたのだと思います。否、それを乗り越えていこうとする決意さえ感じることができます。これこそ、正に生き様と言えるでしょう。むしろ、最初から彼はその時代を生きることを超えて歴史性を以って生きることを自らに課したのかもしれません。社会的地位や役割をこなすことなどにとらわれてはいなかったように思われます。皇帝であろうと、なかろうと、彼は、同じような生き方をしたように思えてなりません。崇高なる魂にとって、生きた時代や社会的役割、職業などはどうでも良いことなのかもしれません。それらを超越した立場で自らの人生を捉えていたのではないでしょうか?

  

そんな魂の存在を知ってしまった私は彼との邂逅を果したいと願うようになりました。真に魂の邂逅を果すためには、自分自身、この人生で精一杯の生き様を遂げなければならないと感じます。アウレーリウスは魂の永遠性を信じ、有徳の生涯を送った古人との魂の邂逅を一途に願ったのではないでしょうか。私は、そう思っています。

  

最後に、アウレーリウス自身のことばで結びとします。

 

  自分が誠実に、謙虚に、善意をもって生活しているのを

 たとえ誰も信じてくれなくとも、誰にも腹を立てず、

 人生の終局目的に導く道を踏みはずしもしない。

 その目的に向かって純潔に、平静に、

 何の執着もなく、強いられもせずに

 自ら自己の運命に適合して、歩んでいかなくてはならないのである。       『自省録』

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

イラクの復興支援の最中、凶弾に倒れた奥 克彦氏のことばです。早稲田のラガーマンだった人ならではの熱いハートが伝わって来るようです。

 

本物の現場主義を見るような思いがします。真実は現場の真只中でしか掴み取ることはできない。紛れもない真理だと思います。さながら,われわれ医療人においては、ベッドサイドが真実のグラウンドと言えるでしょう。

  しかしながら、現場主義にも落とし穴がある、ということも忘れてはなりません。 経験主義ともいうべき、似非現場主義です。 

 

私は消化器外科医ですが、外科の世界にも、あらゆる手術を経験してきたという先輩が時々いらっしゃいます。確かに後輩の目からは、素晴らしい外科医ともいえるのですが、その先輩自身から伝わるものが、あまりに乏しいということが時として経験されます。また、様々なキャリアを有する医療人に遭遇することがあります。看護師、放射線技師、臨床検査技師等の資格をダブル、トリプルで持っていらっしゃる方です。さらに医師でも分野の違う幾つもの専門医資格をもっている方等々、現場でのキャリアや資格としてみれば大変素晴らしいはずなのですが、実際の人物にはそれほどの魅力も感じ得ないということを時々経験します。

 

肩透かしにあったような、この空虚さの正体は一体何なのでしょうか?それは本来、現場の経験から得られるべき智恵が大きく欠如しているからではないかと思います。語る言葉の行間や人格から滲み出る香りとして本来それらの智恵は表出してきます。その智恵が感じられないのです。

 

長らく日本の企業は現場主義を唱えすぎるあまり、表面的な経験主義に堕してしまったように思えます。様々な経験は積んでいるが、人物に中身が無い人、医療の現場にも意外に多いのではないでしょうか?現場主義の落とし穴というのはこのためです。それでは現場主義を本来のものにしていくにはどうしたらよいのでしょう?

  

ナレッジ・マネジメントの手法に古くから“反省”というものがあります。反省という姿勢を通して経験を体験に高めるというものです。経験ではなく体験をすることによって、知識の吸収ではなく智恵の獲得を目指すのです。

 

実際の臨床の現場において、智恵を導くような深い反省の機会を持つということは簡単ではありません。そこで考えたのが、学会発表という舞台です。自分たちの日々の医療行為の結果をデータにまとめ整理する。学会までの準備および発表によって、徹底した言語化がなされます。智恵というものは、知識の整理や言語化の果てに、初めて与えられる天からのギフトのようなものだと思います。すると時として、智恵のみならず為してきた医療行為の深い意味までも悟れることがあるのです。こういう体験の蓄積こそが現場主義の醍醐味ではないかと思われます。

  

冒頭の奥大使のことばには、ある種の凄み、覚悟が感じられます。その生涯は、徹底した現場主義に貫かれていたようです。次元こそ違いますが私も医療の現場にこだわっていきたいと思います。表面的な経験主義に流されないための錨として学会発表にもこだわっていきたいと考えています。

  

大リーグのイチロー選手はフィールドから野球を変えたと言われます。徹底した現場へのこだわりが今日のイチロー選手を誕生させました。

 

  我々も、医療の現場から「日本の医療全体を変えていく」 という気概を持ちたいものです。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

ユダヤの聖典『タルムード』からの引用です。

世界の調和的存続はわずか三十六人の義人、すなわち、神の摂理を実行する人たちによって支えられている、という言い伝えが遺されています。

 

彼らの大半は、農民や職人、商人といった地味な職業に従事しており、あまり目立たない謙虚な人たちなのだそうです。しかも彼ら自身、世界の調和を支えている「三十六人の義人」のひとりだと気づいてはいないというのです。

 

仮に自らがその一人であると自覚したり、他人から認知される場合、義人ではなくなってしまうという厳しい制約があるのです。

  

この「タルムード」のたとえ話は、市井にあって、人知れず誠実な人生を全うしようとする人々をどんなにか励ましてきたかしれません。少なくとも私は、大きな癒しを得ることができました。

 

 善行に関して我々は、自分を認めてもらうために行うことがあります。かつてトルストイが公園で物乞いに金貨を渡すとき近所の人が目撃してくれていたことに安堵した、という自らの心の動きを吐露しています。それが、我々人間の偽らざる姿ではないでしょうか?  

世界を支えるのに三十六人の義人が必要だとすれば、規模こそ違え病院においても義人が必要なはずです。病院が素晴らしきものとして存立し続けるには人知れず善行を施し、精神的支柱となる人間が必要でしょう。その数が何人であるかは分かりません。一人でも十分なのかもしれません。あるいは世界と同じように三十六人が必要なのかもしれません。 

一般に病院存続のための重要人物は、難手術を軽々とこなすスーパー外科医であったり、最新のマネジメントに長けた辣腕経営者、どんな難病もたちどころに診断してしまう経験豊富な内科医、最新の学会の知見を数多く有するコ・メディカル、身を以って患者中心の医療を実践しているスタッフなどが挙げられることが多いと思います。多くの患者さんたちに天使のごとく慕われる心優しきナースがいたとしても、私は、その人が義人そのものではないと考えます。周りからの賞賛や認知がある場合、その人は義人としての資格を失うのですから…。 

今日、組織の中で活躍している人は、それなりに認められ、賞賛されているものです。その人は、その時点で既に報われているといえるのではないでしょうか。それらの人々が組織を実質的に支えているのは事実でしょう。しかし、それだけでは、組織や世界は存続できないと知るべきでしょう。

 

  人知れず黙々と汗と涙を流し、時には血を流す人の存在こそが、世界の存続に決定的な役割を担っているのだとタルムードは教えています。

こうしている今も、世界と病院を真に支える義人の存在があることを私は信じて疑いません。

 

  

組織の中での自らの努力が実らず、認められないとき、自らを憂えてしまうのが我々の常です。

しかしながら、そのような時こそ、

世界とこの病院を支えているのがこの自分かもしれない、と思うことは、

人間存在のギリギリのところで万人に許されているような気がしてなりません。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

チーム医療人
More プロフィール

Search

Calendar

<< 2007/09 >>
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

トップページ

Doctors Blog

ブログの購読

新着トラックバック