昔、小学校の正門内の庭には必ずと言ってよいほど二宮尊徳(金次郎)の石像があったものです。私の母校にも、薪を背負い、歩きながら読書をする金次郎像がありました。

 一般に理解されている二宮金次郎のイメージには、多少の誤解があるように思われます。苦学、勤勉、品行方正、等々何とも静的で、根暗なイメージが付きまといます。実際の彼は、体格が良く、性格も激しく、大変ダイナックな人物だったようです。

 そんな二宮金次郎の遺した格言です。 この言葉ほど、彼の人となりを示したものは無いように私は思います。小さなことを積み上げていって、やがて偉大なることを成し遂げる、という強い意志を伴うものです。コツコツと小さきことを為していったら、気が付いてみると、結果的に大きなことが出来ていた、ということは我々も時々経験します。

 しかし、彼が言わんとした真の意味は少し違うような気がします。 そうではなく、偉大なることを為すために、目の前の小さなことを強い意志力を持って、すぐに開始し、コツコツと意識して積み上げていく。これが彼の生涯を通して為された手法です。 一般に考えられるような、積小だから為大になるという構図ではなく、むしろ逆に、為大だから積小を始めるというイメージで、さらに、積小をより重要視しているのが彼の基本姿勢だと思います。

 そのような人生のゴールデンルールの存在を彼は確信していたようです。彼の生涯を知ることで、積小為大のゴールデンルールを私も確信するに至りました。

 

  ここで少し、話題を変えてみましょう。理想の病院とは、どんな病院でしょうか? スラスラと答えられる人がいるかもしれませんが、ほとんどの場合、答えに窮してしまうのではないでしょうか? 人それぞれの価値観のなかで、それぞれの理想の病院像があるはずです。

 私は、理想の病院の最終解はないと思っています。理想の病院像は、時代と共に変化し、進化していくものだと考えます。理想とは、決して到達することの出来ない、永遠の目標なのかもしれません。理想の病院建設を志す者として出来るのは、それを心に抱き、不断に努力することだけのような気がします。 

 それらの姿勢は“カイゼン(改善)”という言葉に置き換えることができるのではないかと思います。今や、カイゼンは世界的用語となっていますが、組織の一人ひとりが自分に出来る小さなカイゼンを為していくことが理想への近道なのでしょう。理想の病院建設のためには、全員が、年に一つでも、二つでも、小さなカイゼンを実現することが大切なのです。果敢に自己変革を成し遂げ続けることが重要です。スタッフが一丸となり、そのような姿勢を貫くことが出来たとき、そのあり様、有体は、既に理想を手にしていると言えるのかもしれません。 

 

繰り返しになりますが、二宮金次郎の主張は、小さなカイゼンを積み上げていくとやがて大きな仕事につながるものだ、というものだけではありません。

 

 常に、小さなカイゼンを断行し続けるという覚悟と決意が身に付いたとき、我々は既に、為大ならぬ、偉大に至っていると言えるのではないでしょうか。 

 

それこそが、彼の本意のように思えてなりません。

 

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 凡庸な教師はしゃべる。

 良い教師は説明する。

 優れた教師は示す。

 偉大な教師は心に火を付ける。

                ウィリアム・アーサー・ワード

  

 英国 19世紀の哲学者のことばです。私には人を教育してやろうという思い上がった気持ちはありませんが、教育ということを考えるとき必ずこの格言が頭に浮かんできます。

臨床の現場において、後輩や他のスタッフに仕事を教えなければならない場合があります。まずは凡庸な教師よろしくしゃべりまくることになります。仕事のマニュアルや知識を伝えるためです。しかし、あるレベルを超えると理解度を確認しながら説明するようになります。さらに老婆心から図で示し、具体例を出して説明します。時には実演したりします。そして、全身全霊で教え伝えようと努力します。そして願わくは、相手の心に火を付けたいと思うのです。

  

皆さん、人の心に火を付けることは可能だと思われますか?

 

  私は自信を持って、然りと答えます。本物の教育とは、生徒の心に火を付けることだと本気で信じています。 この感覚は、心に火を付けられた経験が無ければ、分からないものなのかもしれません。幸いにして私は、心の火を灯してくださる先輩に恵まれてきました。これは私にとって大きな財産です。

  

職業人としての教師にはならなくても、組織のリーダーとなるためには、この教師的要素は持ち合わせていなければならないと思います。まず、第一に話すことばに力が必要です。聞く者の腹に響くような言霊(ことだま)があれば最高です。今日のリーダーにはこの言霊が無くなったとよく言われます。ことばの持つ偉大なる力を復興させなければなりません。言霊を語ることを意識することから始める、それしかないのだと思います。それを続けていくと自己の存在そのものに中身が無ければ、ことばに力が宿ることはないことにやがて気づくはずです。結局は、生き様が問われるということなのでしょう。

  

リーダーと言霊

 

 ここには不可分な関係があるように思えます。リーダーたるものことばに言霊を宿し、多くの人の心に火を付けることを意識すべきでしょう。そのために、生き様が問われるのであり、力に満ちて存在しなければならないのだと思います。

  

言霊を宿すリーダーとなるためには、他人に火を付けるだけではなく、常に自分に火を灯し続ける術を有しなければならないような気がします。人間にそんな力があるのかと訝しがる人もいらっしゃるかもしれません。しかし、私は信じています。

  

  真のリーダーにはその力が備わっていることを…

  

逆境や失意のときも、自らを鼓舞し、自らの心に火を灯すことが出来る

人間はそのような力を有することが可能であり、それこそ、リーダーの資質であると

ゆるぎない確信をもって申し上げたいと思います。

 

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 一にして(ばん)(ゆ)く、之を博学と謂う。

萬にして又萬、之を多学と謂う。   伊藤仁斎『童子問』

 

一を聞いて十を知る人はいるものです。時々、そんな人に出会います。一芸に秀でた人には、何か共通した香りがあるように感じられます。

 

一方、十を聞いて十を知るどころか、一も理解できない人がいます。この場合、その人の能力によって左右されているというより、その人の物事に臨む姿勢や覚悟に負うことが多いように思われます。要は、やる気の問題ということでしょうか。

  

さて、上の格言に戻ってみましょう。萬を教えられて萬を理解するというのは、多学に過ぎない。こんなものは、当たり前なのだそうです。博学とは、一を教えられて萬を理解する、あるいは萬に通じることだと言うのです。本当の学問をする態度というのは、「一にして萬に之く」ものでなければならないのです。真理探究における、厳しい学問の世界です。

  

これからの知識社会においては、ナレッジ・マネジメントが重要とされます。情報の洪水の中で、流されないように注意しなければなりません。気が付いてみると溺れてしまっている、という事態になりかねません。情報の発信者たる人間のほうが、逆に情報に支配されようとしています。

 

「一にして萬に之こう」とする態度は、極めて、重要な心の在り様だと考えます。「萬にして萬」の多学的態度では、単なる物知りに過ぎません。しかも、これからの時代、あらゆる分野に精通することは不可能なのです。そのことをしっかりと認識しなければなりません。知識の蓄積だけで重用されるという時代は完全に終焉したのです。これまでのような知識の切り売りや知識の仲介では、身を立てることはできません。生身の人間の頭では、家庭用パソコンのハードディスクにも太刀打ちできません。知識の仲介についても、インターネットには勝ち目はありませんから・・・。

  

知識の集積、蓄積という点で、コンピュータに首座を奪われてしまった今日の知識人たちには、新たな役割が充てられそうです。必然的に、そのような道を模索しなければならないでしょう。新たな役割、使命とは、知識、情報の分析、意味付け等ではないかと考えます。知識の解釈や意味付けは、感情や情緒、価値判断を伴うため、人間でなければ出来ないものです。

 

逆に考えれば、無味乾燥な知識の蓄積・整理の作業から解放され、本来の人間がなすべきことだけに集中できるようになるということかもしれません。

  

ここまで考えてみると、仁斎の「一にして萬に之こう」とする態度は時代を越え今日こそ、より一層、重要なものになりつつあることに気づかされます。

  

「一にして萬に之く」決意こそが、知識人、一人一人に、益々、求められる資質になるでしょう。

  

そのようにして初めて、知識人とコンピュータとの共存が可能になるのだと思います。

 

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 昔、殷の湯王は洗面器の底にこの格言を書き、毎朝、自分への戒めとして日々の歩みをスタートしたそうです。

  伊藤仁斎も 『古学先生文集』に

 “勇往向前一日は一日より新たならんことを欲す” と書いています。

  

 勇往邁進、日々新たならんとする意欲と行動があってこそ、世の中を変革し得る偉業を成し遂げることができるのでしょう。

  

「新」の字は、「木」「斤」「辛」からなります。「木」を「斤」で切り取ると、この作業は辛いが、そこに新しいものが生まれる、というのが「新」の字の由来だそうです。

  

私は会津の出身ですが、会津藩校“日新館”の伝統を耳にして育ちました。“日新館”の由来も、上の格言にあります。余談になりますが、幼き会津人が必ず躾けられることばがあります。

  

“ならぬことはならぬ” (してはいけないことは、絶対にしてはいけない)

  

そこには説明や理屈などありません。只々、ダメなものはダメなんだ、ということなのです。そのような伝統を重んじ保守傾向が強い会津人が、“日新”を口にしても軽率さを感じることはありません。むしろ、自らを常に変革し、成長を遂げようという先人の強い意志を感じながら、私は育ちました。

  

最近、社会や企業等において変革という言葉を耳にすることが多くなりました。組織の構造的問題、閉塞感などから、変革を口にしなければ、不安を払拭できない状況に追い込まれているのかもしれません。しかし、現状を打破するためだけに闇雲に唱えられる変革の大合唱は、時として大きな過ちを犯すことにつながります。今日、巷で囁かれる変革の掛け声は、方向性の定まらない浮ついたもののように思えて仕方ありません。ある意味、変革という言葉を唱えるだけでそのほとんどの目的が果されてしまうような、そんな浅薄な状況、あるいは本質に至ることの無いムードが世の中に蔓延しているように感じます。今日の変革と名の付くものは、最後まで実践することが問われることなく済まされてしまっているのではないでしょうか?

  

変革という言葉の背後に覚悟めいたものを見出せないのです。変革という言葉の根底には伝統を重んじるという堅実さを感じることができないのです。日新ということばに込めた湯王の覚悟と実際の行動にわれわれは、今一度、思いを馳せるべきでしょう。

  

日新と変革との違い  これを意識しなければなりません。

 

真の意味で、この世の中をより良きものにしようと願うならば、変革を唱えるだけではなく日新を日々実践していかなければならないと思うのです。

 

  日新とは、自分以外の他を変えるということより、

むしろ、自分自身の心の在り様を諌めた箴言である、ということに思い至るのです。

  

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