臨床医とは、病気を診断したり治療することを本来の任務とする人ではない。
臨床医とは、その本来の任務として
人間が病気から受ける衝撃全体を最も効果的に取り除くという目的をもって、
病む人間をマネージする人である。
フィリップ・アンソニー・タマルティー博士は、ジョンズ・ポプキンズ大学内科名誉教授です。かのウィリアム・オスラー教授の薫陶を受けた先輩医師たちによって教育され、患者中心の医療に徹底された方であります。上記は、その著書『よき臨床医をめざして』からの引用です。診察におけるサイエンスとアートの真髄を学ぶ最良のテキストだと思います。そして、その行間には、病める人間に対する深い洞察と慈愛の精神が溢れ出ています。先生の患者に対する暖かな眼差しが伝わってくるようでもあります。 EBM全盛の現代医学において、改めて強調されなければならない内容であると思います。そして、さらに私自身の研修医時代のひとつの記憶を蘇らせてくれました。
それは、外科の病棟での夜間の回診のごくありふれたシーンで始まりました。ひとりの中年女性が腹痛の症状をわれわれ研修医の羨望の的となっていた極めて優秀な先輩外科医に訴えかけました。一通りの身体所見をとったあと先輩医師は、腹痛の原因は見当たらないと患者さんに説明しました。
それでも、患者さんは、あれこれと痛みがあることを訴え続けました。ひとつひとつの患者さんの訴えに対し、先輩医師は、逐一、科学的、医学的論拠で以て、そんな症状は起こりえないことをとうとうと証明してみせました。そして最後に、それらの症状は、気のせいに過ぎないと断言して、その場を立ち去りました。
その時の冴え渡る医学的ロジックに感服する同僚の研修医の表情とどうにも納得できず、不安げな患者さんの表情との明らかなギャップを私は忘れることができません。
医学の歴史上、何度も繰り返えされてきた光景に過ぎないのかもしれません。 しかし、以来私は、その先輩医師を尊敬できなくなりました。その時は、深く意識しませんでしたが、タマルティ先生のこの格言と出会った瞬間にその理由を知ることとなりました。
“その人にとっての真実”
われわれ医療者は、ややもすると患者さんの訴えをその発する言葉そのままに受け入れることが出来なくなってしまっているのかもしれません。われわれは、患者さんからの訴えを聞くときに逐一、医学用語に置き換え、診断のプロセスを踏まえ、時にこちらから質問を発しながら、聴いているのだと思います。しかし、患者さんの訴えがわれわれの医学の概念から外れてしまう時には、その訴えは無下にも切り捨てられることが多いでしょうし、そのような割り切りが無意識下に行われてしまっているような気がするのです。
患者さんの訴えは、少なくともその人にとっての真実であるはずです。医学的に有り得ない症状であったとしても、紛れも無いその人にとっての真実であることをわれわれは、謙虚に受け止めなければならないはずなのです。
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禅の世界のことばです。この世の中には、文字化できないものが歴然と存在する、という意味です。 最近のマネジメントの世界で注目されている「暗黙知」に通ずるものでしょう。東洋では、古くから認識され伝承されてきました。
ものごとの本質は、時として文字化することで陳腐化してしまうものです。あるいは瑞々しさが失われたり、その生命力が削がれてしまうものです。また、敢えて文字化することを控えることで、その瑞々しさを保つということが意図的に行われたりもします。これは、東洋独特の智恵の世界であると思います。
その暗黙知を伝えるのに三つの方法があります。指示法・隠喩法・否定法とされています。富士山の素晴らしさを伝えるのに百万の文字は必要ないでしょう。むしろ、無駄といえるでしょう。
「まず、登ってみなさい。そして、眺めてみなさい。」
これだけで十分ではないでしょうか。これは、第一の指示法にあたります。体験の仕方を教えてあげることです。どういう心得で、その体験をすべきかを先達は教えてあげるべきなのです。あるいは、一緒に体験させてやるのです。先達の息づかいを間近に感じながら、体験させてもらうのです。その時、一人では掴み得ない素晴らしい何かを掴んでいるものなのです。
暗黙知を伝える第二の方法としては、隠喩法が挙げられます。あるメタファーを持ち出すことで、間接的に伝えていくというものです。童話などから得られる人生の深い智恵などは、その典型でしょう。
第三の方法は否定法です。これは、禅問答が好例でしょう。言葉にならないギリギリの智恵の世界を伝えるのですから、簡単には伝えられないわけです。指導者が否定して、否定して、否定しきった後に、弟子が自ら悟るという構図です。これは、指導するほうにも相当な覚悟が要ります。大変に厳しい世界です。そもそも、暗黙知を伝えること自体がかなり難しいことなのです。そう覚悟しなければなりません。
さて、臨床の素晴らしさを伝えるのにはどうしたらいいでしょう?臨床家としての喜びや醍醐味は、決して言葉で語り尽くすことはできないでしょう。正に暗黙知の世界といえます。そこで、私ならこう答えるでしょう。
「ベッドサイドに張り付いていなさい。」
これだけで十分でしょう。臨床指導者にはこの心得を伝授することのできる力量が求められると思います。
不立文字の真意をお分かり頂けたでしょうか?
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第33代合衆国大統領 ハリー・S・トルーマンのことばです。波乱万丈の生涯と苦悩に満ちた政治生活を余儀なくされた人ならではの格言ではないかと思います。
個人主義、成果主義のアメリカにあって、大統領にまで上り詰めた人のこの言葉は、一方で、意外なようでもあります。むしろ私には、そのようなアメリカであればこそ、このような本格的なリーダーを選出してくるのだと思いました。上の格言から想像する人物像を人のいい職業人を連想していてはいけません。このような人物は、決して単なる好々爺ではないのです。その実像は、志高く、凄みのあるリーダーであるはずです。
人は多くの場合、実績を追い求めてしまうものです。自らが、この世に生きて、存在したという事実を確認するために、実績という証を遺そうと躍起になるのです。時に、友情や人倫に多少反しても、実績、業績を求めてしまうのです。現代人は、その傾向が一層、顕著になっていると思います。しかし、一途に業績を求めてしまうと、必ずや、他との軋轢を生むことになります。多くの場合、より多くの業績を求めるあまり、生き方が汚くなってしまいます。人物から潔さが失われていきます。時に浅ましさすら表出ようになります。
それではいけない!
とトルーマンは言っているのです。より大事を為そうとするのであればあるほど、自らの功を急ぐような心の在り様を諌めているのです。むしろ、他人に功を譲る覚悟が必要であると主張しているのです。その意味するところは、人格的に、かなりの高みに位置することであるとすぐに理解できると思います。なかなか到達し得ない境地です。ましてや、志が高く、大欲を抱くときには、尚更です。他人に功を譲るのは、より困難になるはずです。両立は難しいものです。
トルーマンはそれを実践した人だったのでしょう。私は、このような心の在り様をトルーマン流と名付けて日々の戒めとしています。このトルーマン流を信じ、かつ実践して、これが真実であることを証明したいものです。
ところで、自分にとっての最大の業績とは何でありましょうか?よくよく考えてみると、目に見える、カタチあるものではないように思えてきます。
そして、気づかされました。
清々しい生き方、健全なる生活態度、心の在り様、そのものを正しく保つことを自らの最大の実績、業績とすることが何より重要なのだと…
そうすれば、私にもトルーマン流が可能になるかもしれません。
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われわれが人間を彼らがあるがままに受け入れるならば、
それはよい扱い方ではない。
われわれが彼らを、彼らがそうあるべきであったかのように取り扱うならば、
われわれは彼らをその行くべき方向へと導くのである。
ゲーテのことばです。人間存在を知り尽くしたゲーテならではの箴言だと思います。
また、映画『マイ・フェア・レディ』の一節も引用したいと思います。
「おわかりでしょう。
(ドレスの着こなし方や話し方など)習ったり、覚えたりできることは別として、
本当のところ、貴婦人と花売り娘との違いは
どう振舞うかではなく、どう扱われるかです。
期待されているかどうか。これが違うのです…」
これらのことばを深く噛みしめるときに、医療人としての態度を見つめ直さなければならないと感じました。これまでの自分自身の患者さんへの態度を反省せざるを得ません。患者さんたちは病態に伴う痛みや様々な症状のために、健常時とは違う様態になりがちです。病を負い、病人として入院している今、これまでとは別人に変貌しているかもしれません。我々が目にするその人の姿は、多くの場合、以前のその人とは違ってしまっているのです。そのことを我々はしっかりと認識しなければなりません。
その人はいつもより怒りっぽく、涙もろく、時に笑い上戸になっているかもしれません。普段より気難しくなっているに違いないのです。愚痴ることが多くなっているかもしれません。病気をきっかけにして目にするもの全てに苛立ちを感じているかもしれません。病院の中で目にするその人の姿をその人の全てと捉えてはいけないはずです。医療者としての我々に見せる姿は、仮の姿でしかないのです。本来のその人の姿は、きっと別のものなのです。
そして、人間が人間にできる最大級の贈り物とは何か?
それは、“信じる”ことだと思います。
その人の可能性をどこまでも信じ続けることではないか、と思います。その人を信じ切ってあげることが最高の贈り物になるのだと思うのです。お金や物財では叶えることのできない、人間にとって本質的に大切なものがそこに生まれるような気がするのです。そして、その人を信じることによって、自分自身も、何がしかのものを得ることができるはずだと思うのです。医療者自体もこれまでとは一味違う高みに引き上げられるような気がするのです。
最後に元リッツ・カールトンホテルCOOの言葉で結びとしたいと思います。
われわれは、
紳士淑女に仕える紳士淑女である。 ホルスト・シュルツ
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