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命は、現代の最新科学をもってしても創れません。
命は頂き物です。古き良き日本では、頂き物は大事に大事に使っていました。しかしながら、時代の流れとともにデイスポ(使い捨て)の感覚が浸透し、物を大切にするという意識が薄れてしまっています。
お部屋にユリの生け花を1本飾っています。7つつぼみがついていたのを買って来て、部屋に飾っていました。
いま、2つの花が開き、今朝3つ目の花が咲きかけています。
生け花は、根を切られ人の観賞用に供せられます。それでも、与えられた命を全うすべく無心に生きています。そこには、邪心とか、エゴは全く入り込む隙間はありません。
本来、生とはそういう純粋な物だと思います。そこに、人間特有のエゴが入り込み純粋な生が本来の生を全うしにくくなってしまいました。
そのため、悟りを開こうとする人達はエゴを無くそう、あるいはエゴをコントロールすることによって生の純粋性に少しでも近づこうとしてきたのです。
究極の生きかたをユリが身をもって教えてくれたように思います。
頂いた生を大事に全うしましょう!
ひとからかっこいい!と思われるような人物(雰囲気、生き方)になりましょう!
余りに格好悪いひとが、特に大人に多すぎます。
子供は大人をお手本にして意識的にも、無意識にも成長していきます。今の世は、我々大人の生き様が現実に現れているのです。
かっこいい人がいれば、その人に憧れ、その人のようになろうと真似をします。逆もあります。格好悪い人が多ければ、無意識にそうなってしまうのです。
現代に、かっこいい人はいるでしょうか?政治家、俳優、メデイアの中でかっこいい人は皆無に近いと思います。
今の老人は、戦争という大きな試練の中で精魂尽き果てられたのかもしれません。それにしても、余りに格好悪い人が多すぎます。
その中で、かっこいい老人もおられます。その違いはなんでしょうか?
意識の持ち方だと思います。
老いは醜いもの、諦め、消え去るもの、生活レベル、身体レベル、代謝レベルが下がるもの等マイナスの観念が強すぎるのです。
老いとは、本来、年齢の積み重ねであり、その積み重ねにより知識、体験、洞察力がどんどん増えていくものです。しかしながら、いつの間にか老いるとはそうじゃなくなっています。
ワインは古いものほど熟成し、まろやかさを増していきます。レアものは必ず年代のたったものです。
ひとも本来、年齢を重ね徳を積んで熟成された人格者になっていくものです。
賢人は、老人です。
ひとりひとりが、その事を自覚しかっこいいひとになりましょう!
かっこいい人が増えれば、世の中こっこいい世になります。
前回、言葉について書きましたが、言葉もさることながら行動も大切です。
偽装問題が沢山噴出しましたが、これも言行一致していないから問題となるのです。言ってることと、やってることが同じなら問題は生じません。
薬害肝炎の問題にしてもそうです。
命を救うために使った薬が逆に自分の命取りになったのです。誰がそんな事態を予想したでしょうか?一部の人間が良心を売ったのです。
言行一致していないから自分以外の無関係な人まで巻き込み、その人の生命まで巻き込んでしまいました。
自分の外に対して起こる問題は謝ったり、営業停止したりして何とか解決できることもあるでしょうが、命の代替はできません。
また、自分の内に対しては、自分自身を裏切ることになりますから大変なことです。言行一致しないということは、自分で自分を裏切っていることになるということが解っていないのかもしれません。世の中で最大の裏切りです。 自分で自分を傷つけているのですから。
自分が自分を信頼しないで誰が自分を信じてくれるのでしょうか?
言行一致には、言葉以上に深い深い意味があります。
話す言葉も大切ですが、する行動も同じ位大切です。
人生は、言って、やってひとつひとつ確実に魂の成長という階段を昇って行くものです。この作業は省略不能です。今界がだめなら、次界に作業をしなければならないようになっています。決して逃れません。
そのことが判っていない人が大勢おられます。
一昔前、音楽のジャンルでフュージョンというジャンルがありました。ジャズでもなく、ロックでもなく、フュージョンちう言葉ができる前は、ジャズロックとかファンクとか言われていた分野です。今、英和辞典を見てみたらそのような単語はなく、和製英語のようです。
私の認識ではフュージョンはごっちゃまぜという感じです。それぞれのいいところを取り入れて新しいものを創り出すという意味で捉えています。
医学の世界も、明治以前は漢方主体の医療だったのが蘭学が入ってきて、今は西洋医学真っ盛りです。しかしながら、何の分野でも完璧なものはなく、西洋医学にしても限界があるため、それに気づいた人たちが、代替療法、統合医学という名前の医療を実践されています。
まるで音楽界と同じフュージョンな医療が色々出て来ているのです。
残念なのは、多くの医療人がその分野に拘ることです。外科の分野でも、腹腔鏡が出てきていますが、もうひとつ伸び悩んでいます。本当にいいものならもっと広まるはずですが、そうならないには何か理由があるのでしょう。しかしながら、腹腔鏡を専門にする人達は特に腹腔鏡に拘り続けます。その拘りが逆に反発を買い発展を妨げている事に気付いていません。
物事には、それぞれにメリット、デメリットがあるのですから、デメリットを減らして、メリットを増やす医療をすればいいのにと思います。
医療だけに限らず、何事にも拘りはよくありません。何事も受け入れる柔軟性が大事です。
いいとこ取りの、フュージョンな気分でいきたいと思います。
以前、名古屋の大学の元教授が博士論文のお礼に金銭をもらい、収賄で逮捕されました。
博士号を取るには、まずテーマをもらいそれについて研究を何年もやり審査があってその審査に通れば、晴れて博士となります。私の大学では、審査には主査ひとりに、副査が5人くらいいて、それぞれに審査が通ったあとにお礼をするしきたりがありました。そのお礼の額は、教室によって異なり一定のものはありませんが、先輩からいくら位という額を前もって教えてもらいます。もちろん、主査が一番お礼の額は多いです。私の場合はあくまで審査が終了したあとのお礼ですから、試験に便宜を図ってもらうとかいうことはありませんでした。審査の前に、もし本当にお金を渡していたのなら収賄ととられても仕方ないかもしれません。もちろん、当人は便宜を図ったことはないと言うでしょうが。
お礼はあくまでお礼です。額がどうのこうのという問題は別次元です。その人の感謝の気持ちを額で表すのですから、ある人は1万円でもある人は100万円かも知れません。明確なお礼の額が決まってない以上その額を論じるのは論外です(もちろん、常識の範囲内という枠はあります)。
お礼と収賄の額の違いなどあるはずありません。1円でも要求したなら収賄は収賄です。ただ、本来はお礼は感謝の気持ちの表れなのに、それが表にでてニュースになるということは出す側がお礼の気持ちなどなかったということになります。
なら、最初からお礼などしなければよかったのにと思ってしまいます。
仮に、お礼などする気がないのにお礼を要求されれば、それは収賄になります。