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2011.09.16 08:14 |  生活 / くらし  |  Ressar  |  かいぼー  | 推薦数 : 0

haruka`s mail(part4 )

私は阪神淡路大震災を5歳のときに経験しました。大阪でもかなりの揺れでした。外泊中で、祖母の家で寝ており、壁に面して私が寝、隣には祖母が寄り添い寝てくれていました。他の部屋に両親と祖父が寝ていました。早朝の地震で、箪笥の上においていた衣装ケースやダンボールなどが揺れと共に下に落ちてきました。とっさに祖母が覆いかぶさってくれ、私は傷ひとつおいませんでした。祖母の上に荷物が落ちてきましたが、祖母も軽症ですみました。阪神大震災で、祖母の兄弟も亡くなりました。地元の救命士さんも当時阪神大震災の救援に向かっていたといいます。しかし、彼らはより多くの被害が出ている地域にいくよう命じられているため、途中、消防車をとめて、助けてくれ、中にまだ人がいる、子どもが、年寄りが、泣き叫ぶ人々を、彼は後で必ず来るから、と被害の大きい地域で活動しました。そして、戻ってみると、自分にあのとき助けてほしいとすがっていた方々は煙にまかれ亡くなっていたのだと、講演のときに聴かされました。だからこそ、地域のちからが必要なんだ、と。自分たちは多くの被害がある地域にいかなければならないから、せめて、自分の隣近所の家族構成など、核家族化している現代だからこそ、改めて防災意識を高めてほしい、万が一のとき、助けるのは、僕らじゃない。地域の人たちなんです、そう繰り返していた彼は、情熱に溢れていました。今回の震災は、原発・津波と地震だけの問題ではありませんでした。2週間後、現地にいっていた彼らは、大阪消防1次隊と帰ってきました。呆然と立ち尽くす者、ほっとして涙を流した者すぐに家族に連絡をいれてた者恐怖で声が出ず、崩れた者あの日の消防署内は、それぞれの人間ドラマがありました。それから、1週間後。追悼式と現地に行った彼らの表彰式が行われました。しかし、真先に名前を呼ばれたのは、私でした。何も聴いていなかったので、戸惑っていると署員が車椅子を押して前まで連れて行かれ、指揮本部の感謝状と消防勲章バッチを頂きました。そのバッチはとても重かった。これはいのちの重さだと思いました。私に何ができたんだろう。ただ、願い、祈り、泣くことしかできなかった。

指揮本部は、後続隊に引き継ぐ形で今も中長期的な心理的なケアに追われています。後で聞くところによると、初期の救命で福祉隊が入るのは、全国でもはじめて、とのことでした。福祉は人命の二の次。しかし、それは同時に平行して行わなければならないことなのだと今回の実体験をもとに、感じました。と、こんな震災から半年が過ぎようとしています。私はそれから、骨折したり、心不全悪化したり、血液の病気が再発し、入院(短期間ですが)したり、と色々ありました。大学もがんばっています。試験が重なるときは、余裕もなくしますが、

勉強したくても学校にいけなかった、そんなことを思うと中卒から大学へ行けたこと、試験のたびにひやひやしますが、今のところ試験に全て合格していることなど、ちょびちょびがんばっています。かいぼー先生ともメールがなかなか出来ませんでした。今日はいつも心配し、見守ってくださっている皆さんへ 久々の便りを書いてみました。こころとこころの援助。いのちといのちの支援。想いと想いの連鎖。人々のこころに寄り添い走る伴走者としての相談員をこれからも目指したいです。

ーーーーーーー

長くて すみません()

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2011.09.13 08:14 |  生活 / くらし  |  Ressar  |  かいぼー  | 推薦数 : 0

haruka`s mail(part3)

考えても考えても、わかりません。とにかく、そのお年よりを助けたい、その現地とこちらの想いはともにひとつも揺らぎませんでした。私は中学の頃から地元の救命士さんと小さな会を立ち上げ、市民に救急法を普及する会を発足させました。彼が代表で、私が副代表。ふたりしか実質いない、小さな会でした。ふたりで講習会に出向いたり、講演をしたり、と活動していました。

そんな彼は10年勤めた消防をやめ、3年前からコスタリカへ青年海外協力隊として派遣されていました。2年契約ですので、今年に帰ってくるものとばかり思っていた私は、とにかく彼に電話で指示を仰ぎたい、そう考え、コスタリカの日本大使館に思い切って電話をしていました。向こうでも日本のこの震災を大変心配していて、彼はすでに日本に帰国しているということを聞きました。すぐに彼の携帯に電話をすると、今宮城のほうで活動しているとのこと。情況を伝え、岩手に誰かいないかと伝えると、これも何かの縁でしょうか。同じ救命の会の会員であった当時は赤十字の隊員だった方が隊長になっておられ、その方が今まさに岩手の釜石で活動拠点していることを教えてくださいました。藁をもすがる思いで、そちらに電話したところ、「生存者がおるんか!わかった、でももう深夜やから、明朝にすぐに救助に向かう」そう約束してくれ、未明そのおじいさんは、無事に助け出すことができました。91歳、心臓病もちで、薬も全部ながされた、でも生きていてくれました。幸いにもおじいさんが使っていた介護用ベッドは流されず、そのままだったので、ここからは福祉隊の出番です。介護ベッドをすばやく分解し、避難所へ運びました。病院で診察を受けましたが、特に異常なく、念のため入院しましたがすぐに避難所に息子さんと戻られました。小さな救出劇でした。私のちからではなく、当時築き上げてきた仲間の存在の連鎖が、大切ないのちを救うことができました。しかし、救えたいのちばかりではありません。救えなかったいのち、救えたはずのいのち。いのちに年齢は関係ありません。子どもだから悲しむ、高齢者だから仕方ない、そう思わないでほしいのです。高齢者さんも「生きたい」と願っています。その想いを奪う権利は、私たちにはありません。だから、91歳というおじいさんを誰も見捨てなかった。ひとりでも多くのいのちを。

いろんな想いをこの震災で経験しました。私が探していたある同業者の死亡も確認されました。彼は最期まで高齢者さんの避難誘導をしていたと聴きました。また、関連法人の職員の大半が津波でいのちを落としました。遺体安置所にも現地員は足を運んだそうです。そこで私の知っている、彼らも知っている、園長(施設長)のご遺体もありました。死亡者リストの中に自分の知っている人が増えていくと、だんだんと書く手がとまり、泣きながら作業していたように思います。ある介護士は、津波で流されながらも、ベッドで寝たきりの高齢者さんを水に浸らないように、片方は運よくどこかの瓦礫にベッドが挟まり、もう一方は女性介護士が一晩、持ち上げ続けたと聞きました。3月の東北はまだ寒い時期。水は氷みたいに冷たかっただろうに、彼女は一晩自身ずぶぬれになりながら、高齢者さんのベッドごと持ち続けたんです。多くの職員は誘導中に津波にのまれました。

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2011.09.12 07:56 |  生活 / くらし  |  Ressar  |  かいぼー  | 推薦数 : 0

haruka`s mail(part2)

そうして、深夜3時、非常識だとは思いつつも、さすがに電話回線の混雑も深夜はおさまりつつあるのではと思い、お父様にかけたところ、無事つながりました。そしてその青年の安否もご家族に被害がないこともわかり、こちらは一安心しました。

が、それから私の長い長い2週間ははじまりました。社長が「福祉隊も現地に派遣する。政府と掛け合う」といい、救命が優先される災害時に福祉が関わる、というのは、前代未聞のことでした。政府からは、とにかく人が欲しかったのか、「高齢者が多い地区なんです。福祉隊を派遣するなどという発想がありませんでしたが出来るのならお願いします。」という指示がでたため、消防署とも連携し、大阪消防二次部隊と一緒に15名現地に派遣しました。

「適任ははるちゃんや」の一言で私はそこの責任者になり、2週間家にも帰ることができず、消防に缶詰になりながら、現地情報と死者の確認作業、安否情況を整理する日々でした。現地に行く人選も私と社長で行いました。怖かった。手を上げて率先していってくれる人は自己責任という形もとれますが、それでも15名には満ちません。その中から人を選ぶんです。中には家族がいる者もいます。万が一何かがあったら・・・皆、がんばってくれたと思います。

私たち福祉隊にできることはそう多くのことではありません。人命救助が優先され、助け出された後、避難生活する体育館などを回り、高齢者や幼児の不安や話し相手を聞くことくらいしか、できません。要介護高齢者においても、ベッドも何もない状態で、そこにいる赤の他人の人に、体位交換などを教えて、次の避難所をまわる、そんな技術提供をするしかできませんでした。福祉は医療(救命)の二の次、と考えられがちです。確かにそうかもしれません。でも助かったあとの、こころのケアが二次、三次になってはいけない・・・。

現地に到着した彼らから随時伝えられる情報。。ひっきりなしに、東北や関東方面の本部側に預けている高齢者様のご家族様からの問い合わせも相次ぎました。「すみません、安否確認中です。」この言葉を繰り返し、心の中では無力感だけが残っていました。私は本部のほうのご家族様とも電話で安否情報を伝える役割でしたので、ひっきりなしになる電話や現地からの途絶えることのない悲惨な情報・・・。。そして、リストにあがっていた利用者様の死亡が確認された、との数々の報告に、涙を流しました。もう、無理だ。もう、嫌だ。関西に住んでいるご家族にそのことを伝えなければなりません。こころが痛みました。いえ、無力感だけでした。「そうですか・・この大震災ですからね、ある程度覚悟してました。でも、早期に見つけていただいてありがとうございます」多くのご家族からのねぎらいとお礼を言われ、私はたまらなく、自分の無力と自然の驚異の恐ろしさを感じました。

私たちが大阪消防と現地に滞在できる期限は2週間と決まっています。後は後続隊に任せることになっていました。この2週間、私はほとんど眠ることもできませんでした。病院だけは所長と消防所長の計らいで、その時間だけ抜け出させてもらい、またとんぼ帰りという生活でした。

それは現地にはいって二日目の岩手に派遣した彼らからの緊急通達でした。避難所に向かっているところ、避難所からもらってきたのか、おにぎり二つ、お水二つをもった中年男性がこちら側に歩いてきたといいます。「どうされましたか」そう声をかけると、「この中にまだ寝たきりの親父が取り残されてるんや。でも家が半壊してもうた。消防に今助け出してくれへんか、っていうてきたけど、歳も歳やし、助け出せてもこの寒さで避難所で生活できますか、なんていうんや。年寄りは、親父は、ここで死ねって言うんか!!」と息子さんはその場で泣き崩れたそうです。まだ生きている。例え、高齢者であっても、放置することは、見殺しと同じだ。向こうの消防もまだ被害の全容もつかめず、そのように発したのだと推測します。誰も悪くはないのです。そんな事情を知った彼らから、無線で、「半壊家屋に高齢者が取り残されています。地元警察消防では手がたりず助け出すことができません。我々で助け出してもいいですか。指示願います」そんな無線がはいりました。私はとっさに所長と目をあわせました。彼らは私の指示を待っていました。所長と消防所長、局長と私たちが集まり話し合いましたが、私たちは地震の専門家ではありません。もし、家屋にはいったところ、二次災害でお年寄りはおろか息子さんやうちの隊員まで犠牲になったら・・・そんなことを思うと、簡単に指示が出せるわけもありませんでした。決断力は早いほうの私もさすがに、待ってほしいと現地に伝えることしか出来ませんでした。。

 

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このブログで100回以上ご紹介してきたressarさん改めharukaさん(右横にRessarのカテゴリーもありますのでどうぞ)。生まれながらに重複障害、難病を抱え、積極的治療はない(ターミナル)ということで在宅で過ごされています。しかし幸いなことに彼女はそのような状況の中でも大学で勉強し、また学費のために仕事もし、またその聡明な頭脳で持って自分ができる社会活動もしています。限界まで頑張ってしまい、体調を崩しては短期間の入院は何度もされてます。最近とんと彼女のことをここで紹介することがありませんでした。で、先日twitterで『最近先生私のことブログに書いてくれないね』と言われ『だったら文面で送ってよ』と言ったら今度は携帯にメールで『そんなん先生で適当に紹介してくれたらいいやん』みたいな関西人らしい言葉とともに電話していいですか、の内容がきて、30分くらい電話で話しました。彼女の声はなかなか可愛いです。そしてやはり聡明な話で気づかされることがたくさんありました。またその後、ブログ用に文章にまとめてくれました。これが長いんです。東北大震災時の彼女の行動および感じたことが書いてあります。長いので何回かに分けて載せます。ressarファンのみなさま、とりあえず今日は告知です(*^_^*)

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この年でX`masプレゼントをもらうとは思っていませんでしたよ。

これがイヴの日に届きました。何でしょう?

CDです。作詞はharukaさん。harukaさんとはこのブログでRessarさん(横にカテゴリーもありますよ)で登場する女性の方です。大好きだったおじいちゃんへの想いを込めた詩に、日本クリニクラウン協会さんが協力して、『ちめいど』さんが曲をつけて、そんなみなさんの想いの詰まったCDをharukaさんが送ってくれたのです。イブで騒がしい我が家で僕一人CDに聴き入っていました。haruちゃん、ありがとう☆

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2010.02.25 07:53 |  Ressar  |  かいぼー  | 推薦数 : 0

母の誕生日

久々にRessarさんのメールです。今年初めてだったんですね。(以前の分はカテゴリーのRessarをウリックして読まれてくださいね。)病状に変わりはありません。良い時もあれば悪い時もあります。その時その時を頑張って生活されています。彼女自身制約の多い中で精一杯生活し、かつ前進していく姿は素晴らしいと思います。で、今日紹介するメールは、調子がよかったのでしょう。お母さんの誕生日のために奮闘した彼女にしてはめずらしく身体を張った行動のメールです。なのでテンションも高め(笑)。

今日はだぁいすきなお母さんの誕生日☆

もう2週間ほど前から、プレゼントも決め、結局オルゴールにして、昨日届いたので、渡したんですが・・・・なんと代引きにしてたため、更に時間指定してなかったため、あたしが寝てる間に来まして、、母に金額が知られたという・・・ちょっと切ないプレゼント渡し。。で、喜んでくれたのですが、0時を回り、誕生日になった瞬間、隣の部屋に寝てた父から、「お母さん、誕生日おめでと!!」という声・・・だけ。それに続き、弟も「おめでと!!」・・・・同じく声だけ。
「なんなんさぁ?」と私が言うと、「だって、もう日付変わったで!だからおめでとうっていわな」
はぁ?あのさ・・・・あんたら、何かプレゼント用意したわけ・・・全部あたしが準備したのにさ・・・なのに、一番肝心なところだけとるのってずるくねぇ?!まったく、うちの男たちって・・・・・。。
母の誕生日や母の日は世間でもにぎわうけど、父親の誕生日とか父の日とか、あまり取り沙汰されないねぇ。。うちも例外ではなく・・・・。挙句には、わすれてるという・・・・ごめんなさぁい。。

実わぁ・・・ちょっとむちゃな計画をたてまして・・・。
(母が用事で出かけている間に)
さぁ、ここから本日の無謀な計画出動!左手だけのもてる力で、買い物に出た!手作りケーキをつくろう!と思い立ちまして・・・。。これは実は誰にも言っていない。いつもは相談役の弟にさえ、内緒。無論父親なぞ論外。
昨日に届いたオルゴールはとても喜んでくれたのですが、もっとなにかしたい!と満足できず、ケーキの土台はよぉ作れないので、土台は買って、あとはデコレーションの諸々と生クリームをお買い上げ。
この時点でへろへろ。心拍数、めっちゃあがってた(笑)
で、家になんとか帰り着き、さぁつくろう!とがんばってたら。。生クリームうまくつくれない・・・にゃぁ。。さすがに筋力ない手では、生クリームは、難しい。。
失敗。。なんなん、市販のやつやねんからもっと手軽にできたらええやん。とひとりツッコミながら、つくってました・・・。

そうだ!冷蔵庫で冷やしてたら、少しは固まるかも?!と冷蔵庫に寝かすこと、20分。
ヨーグルト状てか、どうみても液体ですが。どうにもならんので、そのままぶっかけました。とりあえず、のせたら、なんとかなるだろうと(笑)

ふたつ作ったのぉ~いつもはひとつなんだけど、二ホール買っちゃった☆ひとつは普通のシフォンケーキでもういっこは、ショコラのやつ。
お母さん、喜んでくれるかにゃ。それより・・・ひとりでまた行った・・・と知れたら今度こそほんと、怒られるかも・・・と、やっと後片付けも終わり、ケーキの隠し場所も決め、後は帰りをまつだけ♪
そうこうしてるうちに母が帰宅しまして、サプライズにじゃじゃーん!!と。
出した瞬間、母の顔がいつもの疲れた表情から一変。すんごい久々にみた、母のはじける笑顔☆「ひとりで買いに行ってつくったん?かわいい☆ほんま、ありがとう・・・・」後半は涙で、声にもならなかったけど、作戦大成功☆☆☆

いやぁ、こんなに喜んでもらえたなら、心拍数あがっても行った甲斐がありましたよ☆
いつも、痛みを背負っている母だから、私も共にあなたの人生の少しでも背負わせてほしいと願った。人の人生を全て背負うことは出来ないと知ってからも、それでも私は大好きなあなたの痛みとその人生を、共に背負い、共に痛みもすべてを受け入れ、向き合いたいと思った。その気持ちに、嘘はなかった。母が抱いている悲しみや痛みの全てを、私はそのまま全てを受けいれることもできない。
でも、ほんの少しだけ。あなたの痛みをわかりたい。あなたの悲しみを背負いたい。そして、悲しみや痛みだけじゃなく、喜びも共に分かち合いたいのです。一番大好きなあなたがわらってくれたら、私も最高に嬉しい。あなたが悲しんでいたら、私の心も痛い。喜んでもらえてよかった。

「出来れば、この『○○(母の年齢)』ってのはいれんといてほしかった()」といわれましたが()だって、いれたかったんだもん。更には、「オルゴールも嬉しかったけど、こんなん言うたら失礼やけど、こっちのほうが断然うれしい」と・・・・へっ??あのぉ、、オルゴールのほうが高かったんですが・・・・汗。メッセージも刻んでもらったんですが・・・・滝汗。

こんなケーキでいいなら、毎日でもつくりまっせ!!味は保障しませんが・・・いや、保障つきじゃないのでご了承ください。

はっぴばーすでぃ☆お母さん☆

 

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2009.12.30 10:45 |  生活 / くらし  |  Ressar  |  かいぼー  | 推薦数 : 0

Ressar さん 年末スペシャル

Ressarさんはどうされているんですか?」とか「Ressarさんのこと とても気にしています。」と僕のブログの読者(優しい方々が多いんですねぇ)からしばしば言葉をいただきます。そして最近はメールの内容がプライベートなことが多くなった(仲良しになったってこと?…笑)ので、ここで公開できないものばかりなんです。それですっかりRessarさんのメール紹介がご無沙汰になってしまいました。そして紹介がないとますます読者のみなさんが心配されますので、今回はここ1カ月ほどの間のいくつかのメールの中から選んで、それをさらに抜粋してご紹介いたします。 

20歳のお誕生日)

昨日、プレゼントが届きました☆☆☆本当にありがとうございます。とっても嬉しかったです。 両親共々、大変恐縮です。。気を使わせてしまってすみません。。。 もう、祝ってもらえる歳でもないので、どうぞ気を使わないでくださいね。 先日から、私宛に宅配便が相次いで、本当に恐縮しまくりです。。 20年前、生きることが難しいとされ、たとえ生を受けても、一生医療の力なしでは生きていくことが出来ない難病であると、宣告されました。 胎児の頃から、心不全が強く、出生後の手術も、大変難航しました。 今年の冬は越えられないだろう、といわれながらも、一年一年歳を重ね、気づけば20歳を迎えていました。 ターミナル期であると宣告されてから、数年。今もいのちの期限と闘っています。しかし、いつ何が起きてもおかしくはないから、出来るうちに出来るだけのことを、したいと強く願うようになりました。 家族が、仲間が、心からこの日を待っていてくれたこと、支えてきてくれた事実と大きな愛情の中で、私は今生きていられるのだと想います。 縁あってかいぼー先生にめぐりあい、いくつもの時を重ねてきました。こんな私にずっと付き合っていただいたこと、深謝します。本当にありがとうございます。  心のこもったお手紙もとてもうれしかったです。可愛い手紙の織り方に、思わずにこっとしてしまいました。子どもさんが折られたのですか? 私も小学生の頃、ちょうど学校内で手紙交換なるものがはやっていて、授業中、先生の目を盗んで、後ろから手紙がまわって来るんです。それに返事を書いて、また次の人に回す・・・。 先生は気づいていたかも知れませんが、特にお咎めもなく、スリルに思わずわくわくしたことを思い出しました。 本当にありがとうございました。

(ある日のメールのお礼)
動物の写真、とってもうれしかったです。
癒しを求めていたので()

とってもかわいいですね

実は、私、カビバラとアルパカが好きなんです(
)
よくみんなから変わった趣味だね。。。といわれますが。。


今日も一日いろんなことがありました、
精神的にもかなり、つらいです。
祖父を失ったときよりもずっと・・・・・。。

動物に癒されまくったので、今日はもう寝ます。
寝れると、、いいなぁ。。。

(メールのお礼(2))

夜分にいつもごめんなさい。
いろんな動物の写真送ってくれてありがとうございます。とっても癒されました。

冬は感染症の危険で、あまり外へ出してもらえないので、春になったら動物園行きたい!と両親にねだっているところです。
レッサーパンダに会いたい。。
実はレッサーパンダが好きで、
私のネットネームも、レッサーからとって、ressarなんですよ()

今週末は、岩手から友人が来てくれる(頚椎損傷で寝たきりの子です)ので、逢うのがたのしみです。

わが家で何事もないことを祈ってます。。

(成人式の報告)

昨日は朝から成人式で、初めての着物。
知り合いの美容師の人に頼んだので、ぜんぜんきつくもなく、無事に終えることができました。

祖父がいたら・・・どんなによかっただろうと・・・想いながら。。

昨日は、写真嫌いな父も、よほど娘の晴れ姿がうれしかったのか、終始にやけ顔で、「次ぎ、俺も俺も」と私とのツーショットを嬉しそうにとってくれました。
母とも、はじめて本格的なスタジオで一緒に写真をとりました。

弟とも、並んで撮ったら(車椅子が見えないように背景を変えてくださいました)私より背が高くて、まるで私が妹のようで・・・これじゃ七五三だね、と家族で笑う場面もありました。。

本当に静かに年を越したいと想います。。

 

(年末のこと)

今日は今から父方の祖父の家へ泊まりにいってきます 私ひとりで() 弟も一緒のはずだったんですが、気が変わったらしく(思春期だからころころ変わりやすい・・・男)、いかないようです。。

 

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2009.11.26 08:12 |  生活 / くらし  |  Ressar  |  かいぼー  | 推薦数 : 0

明日が20歳のお誕生日♪

Ressarさん おめでとう♪

明日はRessarさんの20歳の誕生日です。毎日毎日懸命に生きていらっしゃいます。相変わらず聡明で、僕にいろんなことを教えてくれます。ありがとう。Ressarさん。これからもよろしくネ。

 

こんばんわ。
メールありがとうございます。
あまり調子がよいとはいえませんが・・・・・
何とか生きています。
かいぼー先生の友達も亡くなられたんですね・・・・。
祖父のことを想いだしました。
もう今月で亡くなってから7ヶ月になります。
早いもんですね・・・・・。。
一時期は精神的にもどん底まで落ちました。
睡眠障害も重度化していきました。
ここまで落ちるか、というほど精神的にもきつい日々をこの半年間ずっと続きました。
でも、今は祖父の死が決して受け止められ前向きに捉えられたわけではありませんが、全ての出来事に感謝しています。

私は祖父の孫であり続けたという事実がある限り、その想いは変わりません。
今でも何が正しくて何をすべきだったのか、何が出来たのか、わかりません。
でも、死が避けられない事実であったならば、素直に受け止めるべきだとも想います。
いつまでもうじうじ迷っていても仕方が無い。

今でも祖父の声、ぬくもり、優しさ、忘れることはありません。
その全てが、私の原動力となっていたことは確かでした。
だからこそ、昨年の今頃は試験に向けただひたすら勉強しました。
祖父と一緒に同じ時間を生きたくて。
祖父と一瞬でも交わりたくて。
祖父の人生に触れたくて。
今では手遅れだった気もします。
でも当時の私は精一杯のもてるだけの力を出し切りました。
その結果が年末の急変、年明けの緊急手術となったのだとしても、私は何の後悔もしていません。
自分の限界を知りました。
同時に自分にとって一番大切な存在に気づきました。
病気は・・・・・残酷ですね。。
時間が許さない病気と向き合って、もう20年の月日が経とうとしているのに、実はまだ自分自身の限界というものを、私は知りません。
知るのが怖い、と想うことが正直な気持ちです。
生まれてくる前、母のお腹の中ですでに重度障害であることを告げられたとき、医療の助けが無ければ長くは生きられない、無事に生まれてきても、長期生存は望めないと、説明を受けたそうです。
幾度の手術と困難を乗り越え、寝たきりであると宣告されながら、奇跡的な生存を重ね、毎年、今年の誕生日は迎えられないかもしれない、といわれながら、1年1年確実に歳を重ねてきました。
先天性心疾患の重度枠に入る私は、その過去のデーターからも、20歳以上の長期生存はきわめて厳しいことも知っています。
中学のときには考えもしなかった、こんなに病状が確実に悪くなっていくことを。
深刻さは伝わっても、まだまだ大丈夫だと、何の根拠も無く自分に言い聞かせることができた私は、まだまだ子どもでした。
今はもう・・・・決して自分の身体にうそや誤魔化しは通じないということを身をもって知りました。
正直な気もち、前までは確かにあった病気と向き合うことが、怖くなったんです。
死ぬことが怖いのではありません。
生きて、いつ急変するとも知れぬこの病気と向き合うことが、怖くなりました。
そして一番怖いのは、それによって家族の生活が変わり、介護等の労力と迷惑を家族にかけることが怖くて仕方が無いのです。
家族も人間だから、介護疲れでしんどいときもあります。
決して親だから、子どもの介護をすることが当たり前だとは私は想いません。
障害を持っているから、親に愛されなければならないとは想いません。
健康な子どもでも、愛せない親がいるのだから・・・・
両親や弟は、本当に優しい人なので、いつも私中心で物事を考えてくれます。
自分たちだけならば、行けることも、私がいるために別ルートを探さなければなりません。
確実にあった体力や気力までもが、今は伏せていることを嫌でも認めざるを得なくなりました。
車椅子にも長く座っていることができなくなりました。
食事も腸での吸収が悪く、それだけでは十分なカロリーがとれず、現在栄養状態も悪く、栄養改善のために何らかのアクションが必要か検討中です。
心臓のほうも、今年の手術では結局変性部位がいたるところにあると判明し、切除ができず、CRT-Dの電池交換だけでおわりました。。
術後、痙攣したりと、命の危険が大きすぎたならば、手術なんてしなければよかった・・・・そう想ってきました。
でも、この入院で教えられたこともたくさんでした。
もう再入院なんて絶対に嫌だけれど、またいつか自分の病状ではそれが遠くないであろう未来に訪れることも承知しています。
なかなか思うようにいかない自分の身体。
いつの間にか、耐える、ということが身に染みているようで、多少のしんどさには鈍感になってしまいました。
人の顔をうかがってから、自分のことを言うようになりました。
無理することが当たり前になっていた。
そうしなければ、健康な人たちと同じことをこなすことはできなかったから。
でも結局は、現実と理想の壁の狭間で、いつも迷っている自分がいます。
いろんな思いを抱えて・・・・・
いろんなしがらみの中で生きています。。
20歳を目前にして、大人になるって何かをなだめて受け入れて、諦めることなのだとしたら、
私は大人になんてなりたくないとさえ思ってしまいます。
死を美化され風化されないためにも、
取り巻く環境から命というものを真剣に捉えて考えていく・・・・そういう課題がひとりひとりにあってもいいのではないでしょうか。
いつか死は自分にも、自分の家族にも訪れることなのだから。。

日付が変わったので今日ですが、
今日は母と成人式の着物を選びにいってきます。
本当は夏に展示会があったのですが、調子が悪くていけなかったので、個別に行くことになりました。
20歳の誕生日、成人式、一番楽しみにしているのはやはり両親みたいです。
本人はスーツでいいやん、、、と思ってしまうのですが、母が絶対振袖だ!とすでに掛けていたので、明日見に行ってきます。
毎年誕生日やクリスマスにプレゼントをくれる弟に、今年も「何が欲しい?」と聴かれたんですが、特に思い浮かばず・・・・なんでもいいといったら、不機嫌な顔をされまして()
結局、ネックレスを弟にねだりました(
)
二次成長を迎えて、すでに声変わりしておっさんみたくなってきてますが、めっちゃ可愛い弟です(
)
学校が休みの日は部屋に乱入してきて、一緒に深夜までパソコンしたりゲームしたり、いい遊び相手になっています。

また、メールしますね。
かいぼー先生からのメールいつも励まされています。
またメールくださいね。
寒くなってきたのでお体たいせつにしてください。
インフルエンザ、佐賀でもはやっているようですね。
大阪でも相次いでの感染者、知り合いの感染続発が続いています。
私はワクチンがうてないので、治療薬のタミフルも飲めないので、ただひたすら罹らないことを祈るのみです。
それでは・・・・おやすみなさい。
夜分に失礼しました。

Ressar

 

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2009.09.04 08:20 |  生活 / くらし  |  Ressar  |  かいぼー  | 推薦数 : 0

前進

サガン鳥栖の島田選手のブログ。文末に毎回「前進」と書いてあるのが好きです。で、今日はRessarさんのメールをご紹介します。前回(8月21日)ご紹介したメールの2つ後に来たものです。なかなか精神的に立ち上がれなくて思い悩んでいたRessarさんが一筋の光明を見出した、そんな内容のメールです。「前進」そんな感じです。(以前のRessarさんとのメールはCategoryでRessarの項をクリックしてご覧ください。)

 

こんばんは。いろいろご心配かけるようなメールでごめんなさい・・・。。後で読み直して、馬鹿だなぁとつくづく自分の弱さを感じました。。人に頼ることが、人に甘えることが、知らずに生きてきたんです。。かいぼー先生に、つい本音を言ってしまいました。。それにお忙しい毎日にもかかわらず、優しい暖かいメールをありがとうございました。 少しずつ、どん底を見ては一筋の光りを見つけ、またどん底を見る・・・その繰り返しではありますが、人間というものは、そういうものであるのかも知れません。。
昨日は、祖父がお世話になった施設の夏祭りでした。相談員さんや祖父の担当だったケアワーカーさんからも誘われ、ぜひに・・・といわれていたのですが、その施設に今はもういなくなった祖父を想うと・・・一歩を踏み出せずにいました。。でも、わずか一年にも満たない特養での生活だったけれど、確かに祖父はあの施設で笑顔を築いていた。。それだけは、紛れもない事実でした。だから、つらいけれど、祖父がいないあの場所へもう一度行こうと決めたんです。。それで、心の整理が出来るなら、という想いも少しはありました。
でも・・・・何も心は変わらないままだった。いえ、、変わってはいけないんだと、気づきました。
相談員さんたち、職員さん方のご配慮で、特別に家族様席を特等で使わせてもらい・・・・
祖父の写真も持参して、いっしょに夏祭りを見物しました。
本当はすぐに帰るつもりでした。ここにいれば、想い出しそうで、想いが溢れそうで、自分がこれ以上壊れてしまいそうで、、怖かったから。。
でも、一度踏み入れたこの施設を、私は、なかなか出ることができませんでした。。
職員の皆さんが暖かく、それは以前と何も変わらないままの笑顔で、、迎えてくださったこと。。
去年の今頃は、祖父は笑って、一緒に夏祭りを楽しんでいました。手の不自由な私の食事介助に、「はよ、せんか」とせかしては、私をあせらせながら、それでも喜んでたこ焼きやカキ氷を食べてくれたこと。。私が唯一祖父に出来た介護は、、それくらいのことでした。。
祖父がいなくなってから、私の精神も、保っていた体力も、すべて・・・消えてしまった。。
もう、福祉の道には携われないと想いました。
自分の精神の限界を見て、これ以上自分は福祉という立場にいるべきではない、進むべきではないと想ってしまったんです。その想いは、この数日でどんどん膨らんでいきました。
初盆も終わり、情けないけど、馬鹿馬鹿しいけれど、自分の弱さを知りました。
でも、、違ったんです。。
昨日夏祭りに参加して、たくさんのお年寄りに出会ってしまったんです。盆踊りの音頭にあわせて手を動かし、嬉しそうに笑っているおばあちゃんたちの姿を見て、職員さんにたこ焼きやカキ氷を食べさせてもらって、笑顔なおじいちゃんたちの姿を見て、私の心に眠っていた、閉ざしてしまっていた、「もう一度、福祉の現場へ戻りたい。もう一度、高齢者福祉の現場へ・・・」その想いが、また溢れてきてしまったんです。。
それは、言葉に出来ないほど、力強く、揺れることもない想いでした。 祖父がくれた一筋の光りでした。
生きる希望さえ見失いそうだった今、また新たに、祖父のちからによって、そしてこの施設の職員さんや利用者さんの笑顔によって、私の今は、支えられて繋がれていきました。
お年寄りが大好きなんです。その想いが、萎えることは決してありませんでした。どんなに自分がどん底にいても、決してその想いだけはいつだって、色褪せることはなかった。。
祖父といろいろ語り合ったこの場所。
祖父の笑顔を見た場所。
祖父と関わりあった場所。
そこへ行くことを最後まで躊躇っていた自分が、妙に馬鹿らしくなりました。おじいちゃんに、「ほら(Ressar)、しっかりしろ」と叱られたような気がしました。
最後に、多くの入居者さんやご家族さんが来られている中、 施設長はじめとした相談員さん、関わってくださった看護師さんたち、そして介護士さん職員方に、
「また、遊びにきてください。(Ressar)さんなら大歓迎です」
「身体に気をつけてね」
(おじいちゃんの名前)さんや(Ressar)さん御家族さんに出逢えてよかったです。」
泣けてきました・・・・・私は、ひとりではないんだ・・・・ここでまた、笑顔を貰った・・・
おじいちゃんに心の中でそっと語りかけます。
・・・・・ 私、まだまだ弱虫だけど、もうちょっとだけ、もう一度だけ・・・・福祉、学んでもいいかな・・・・・と。。
おじいちゃんと過ごしたあの場所へ、、もう一度、戻りたいんだ・・・・。。
それが、素直な気持ちでした。
ボロボロだった精神と身体に、昨日は少しだけ枯れかけた花に水をやることが出来た。
でも、、もう少し泣いてもいいかな・・・・・強くなくて、いいですか・・・・。。
おじいちゃんが出会わせてくれたたくさんの物語。私、自分の人生すら投げ出そうとしていました。でも、もう一度、築いてみます。祖父と生きた時間を。この施設で祖父と職員さんが築き上げてきた時間を。
まだまだ前向きには生きれないけれど、後ろ向きな生き方にも、寄り添えるそんな自分で居続けたいと想います。。もうちょっとだけ、、泣いてもいいですか・・・?。。おじいちゃんのことをいっぱい想って。。心からっぽにして、ただ、おじいちゃんと生きた時間だけを思い出したい。。
福祉ってなんなんでしょう。人々の「幸福」ってなんなんでしょう。
福祉を目指す駆け出しの私には、まだ明確に、その答えを持ち合わせてはいません。きっと、これから相談員として現役である限り、そして福祉を目指す限り、、その答えなど、永遠に輪からないのかも知れません。。
大学入学の出願も、迫りつつ、
こんな精神のまま出願することが果たしていいのかどうか、迷っていた今。そんなときに、この夏祭り行事に参加しました。そしてたくさんの笑顔とであってしまったんです。
去年はあの中に祖父も確かにいた。いろんな想いが溢れ出てきます。。溢れる思考を止めることが出来ません。。
でも、もう一度、もう一度だけ。。出来るとこまで、行きたいと想いました。
前向きに生きることなど出来ません。しかし、そんな生き方でも、後ろ向きな人生にも向き合える、そんな生き方でも、それが自分だといえるように・・・それは恥でなく、そんな自分の生き方をいつか誇りとすることができるように・・・祖父母が導いてくれた全てのことに、今は恥じることのないように・・・
かいぼー先生が、想っているほど、私はそんなに優しい人間ではありません・・・冷酷な部分も持ち合わせています。。
人を本気で想うことなど・・・自分のことを犠牲にできるほど、本当に人は、その人のためだけに生きれるのかどうか・・・・。
でも、恩師の言葉をいつも心に留めています。「どうせどん底にいるのなら、もっとどん底を見なさい。そして自分のどん底を知り、他人のどん底を知りなさい。」自分のどん底、限界を知っている人は、他人のどん底の痛みを知ることが出来る・・・
少しでもそんな自分に近づけたら、、そんな想いでいっぱいです。。
かいぼー先生、ありがとうございました。先生からのメールで、元気が出ました。
まだまだ、精神は不安定だけれど、がんばっています。
今夜はゆっくり眠れるといいな・・・・・。。

Ressar

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2009.08.21 07:56 |  生活 / くらし  |  Ressar  |  かいぼー  | 推薦数 : 0

思うようにはいかない

久しぶりにRessarさんのメールを紹介します。Ressarさんとのこれまでのメールは右のCategoryでRessarの項をご覧ください。これまで100件以上(今回が110件目)ご紹介してきました。彼女の命があることに感謝しています。そして彼女はそのような厳しい身体状態とともに聡明な頭脳を持ち、自分の生き方を懸命に探っています。いや、手繰り寄せようとしています。どうにもならないこの身体、それを背負うのは宿命。そして、でも、彼女は自分の力で自分の信じる道を進もうと。そんな彼女の純粋なそして必死な生き方に感銘を覚えます。僕の方が力をもらっています。このブログの読者の方々からも直接そのようなお声をしばしばいただきます。そういうお声が彼女の力になります。そんな彼女、もちろん、いつも前向きなはずがありません。壁にぶつかっては苦しみます。そしてきっと乗り越えていきます。

夜分にごめんなさい・・・。なんだか、いろいろ考えすぎてたら、、眠れなくなって。。。誰かと突然話しがしたくなりました。。
私、正直今の病状が楽観視できないということを、忘れていたのかもしれません。。祖父母の影響で、高齢者福祉の道に、もう一度戻りたい、、それは祖父の死によって、更に強く思わさせてもらったことでした。。でも、私は何も現実には、、自分の病状のことを把握していなかったのかもしれません。。
先日、心臓の主治医と小児がんの主治医と担当医が訪問にきました。その際、年末のあの急変から心臓ばかりに注目されすぎていて、他の疾患も多々あるのに、そちらのほうは疎かになっていた事実に直面し、数値は明らかに小児がんが進行していることを示していました。。主治医から、このままの数値が続くならば、入院治療を視野にいれたほうがよいと提示されました。

多少なりとも医学の知識がある私です。この数値と今の病状をみても、入院が妥当であることは必須であることはわかっているのです。。
でも、どうしても、納得できなかった。。
現場に戻りたい、と、もう一度福祉の現場に戻りたいと、高齢者支援にあたりたいと、本気で思った、
思い描いた私の未来は、間違っていたのでしょうか。
私は・・・確かに自分の身体を、寿命を、体力を削ってまで、病児支援相談員と言う仕事に徹してきました。その中で、出会った子どもたち、親御さん。関係者。相談員仲間。。つらかったとき、仕事で悩んだとき、迷ったとき、そっとそばで見守ってくれたのは、いつだって両親であり、弟であり、祖父母であり、また大切な仲間たちでした。。
抗がん剤や放射線治療をまっくすで使っていた時期。無菌室から出ることもできなかった地獄の日々。あの日々だけにはもう、戻りたくないと想います。
主治医から余命宣告を受けて、ターミナルを選択し、在宅での生活を続けて2年。。もはや限界はきたようです。。
度重なる抗がん剤治療で、元々不完全な心臓は更に負担をかけすぎて、弱る一方でした。 在宅に戻ってからも、抗がん剤を完全に止めることはできず、マイルドな治療を行ってきましたが、それでもがん細胞は一時は勢力が衰えたように思ったのに、、また暴走をしはじめてきました。。
人は、無力ですね。。
私は、そのときが来るならば、素直に、自然と死を受け入れようと思っています。自然の摂理に、人間は逆らうことはできません。。私は何人もの仲間を見送ってきました。最愛な人の最期にも、何度も立ち会いました。
人はこんなにも、無力なのでしょうか。科学や医療は、必ずしも発展しなければならないとは私は思っていません。科学を成し遂げる者が人間である以上、必ず(限界)というものはあります。
限界を認めることから、人の死も自然と受け入れられるときが来るでしょうか。。
私は今も何も変わっていません。。志も、あのときのまま、去年と何も変わっていないんです。変わったのは、私の病状と確実に悪くなっていく体力のなさ、そして周囲の環境。。。
一年で、人の人生はこんなにも変わるもんなんですね。。

私は・・・・・・父のいうとおり、この病状で、大学進学したいなど、現場でもう一度がんばりたいと思ったこと事態間違っていたのでしょうか。。。自分自身が、一番わかっていたはずなのです。
確実に進行していく中、自分にしか分からない些細な体調の変化。それに気づきながらも、気づかないフリをしてきました。。
父の言葉は、いつも正しかったのです。「現場なんて、どうやって戻るねん。お前にはもう無理や」冷たい言葉でしたが、父はいつだって私のことを想い、私の現状を知っていました。
一方で母親はいつだって、私を応援してくれた。何をするにしても、したいと思ったことは背中を押してくれた。迷っていたことも、母が背中を押し続けてくれたから、がんばることもできていたのです。
両親からしたら、私は迷惑かけっぱなしのどうしようもない親不孝な娘です。でも、、これだけは譲れない確かな想いが、強い想いが、、あった。。
病気は、、どうして出来ることを、日に日に奪い、
遺された時間が後どれくらいなのか、私にも分かりません。。
 (中略)
何をするにも、不便が伴います。。それを回りに伝えることも、疲れてしまうときもあります。。入院を拒否した取引に、仕事の時間を減らすことを条件に取引をしました。何かを犠牲にしなければ、生きていけないんですね。。

今は悶々と、自分の体力のなさ、進行のスピードの速さ、毎日のしんどさと向き合いながら、自分の身体と精神の両方の限界を噛み締めています。。
私に・・・・夢を見ることは、再び夢を語ることは、馬鹿なたわごとだったのでしょうか・・・?
夜中にごめんなさい。。
誰かと話しがしたくて。。
ひとりでは抱えきれない自分が、情けないです。。
 

Ressar

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