私は阪神淡路大震災を5歳のときに経験しました。大阪でもかなりの揺れでした。外泊中で、祖母の家で寝ており、壁に面して私が寝、隣には祖母が寄り添い寝てくれていました。他の部屋に両親と祖父が寝ていました。早朝の地震で、箪笥の上においていた衣装ケースやダンボールなどが揺れと共に下に落ちてきました。とっさに祖母が覆いかぶさってくれ、私は傷ひとつおいませんでした。祖母の上に荷物が落ちてきましたが、祖母も軽症ですみました。阪神大震災で、祖母の兄弟も亡くなりました。地元の救命士さんも当時阪神大震災の救援に向かっていたといいます。しかし、彼らはより多くの被害が出ている地域にいくよう命じられているため、途中、消防車をとめて、助けてくれ、中にまだ人がいる、子どもが、年寄りが、泣き叫ぶ人々を、彼は後で必ず来るから、と被害の大きい地域で活動しました。そして、戻ってみると、自分にあのとき助けてほしいとすがっていた方々は煙にまかれ亡くなっていたのだと、講演のときに聴かされました。だからこそ、地域のちからが必要なんだ、と。自分たちは多くの被害がある地域にいかなければならないから、せめて、自分の隣近所の家族構成など、核家族化している現代だからこそ、改めて防災意識を高めてほしい、万が一のとき、助けるのは、僕らじゃない。地域の人たちなんです、そう繰り返していた彼は、情熱に溢れていました。今回の震災は、原発・津波と地震だけの問題ではありませんでした。2週間後、現地にいっていた彼らは、大阪消防1次隊と帰ってきました。呆然と立ち尽くす者、ほっとして涙を流した者、すぐに家族に連絡をいれてた者、恐怖で声が出ず、崩れた者。あの日の消防署内は、それぞれの人間ドラマがありました。それから、1週間後。追悼式と現地に行った彼らの表彰式が行われました。しかし、真先に名前を呼ばれたのは、私でした。何も聴いていなかったので、戸惑っていると署員が車椅子を押して前まで連れて行かれ、指揮本部の感謝状と消防勲章バッチを頂きました。そのバッチはとても重かった。これはいのちの重さだと思いました。私に何ができたんだろう。ただ、願い、祈り、泣くことしかできなかった。
指揮本部は、後続隊に引き継ぐ形で今も中長期的な心理的なケアに追われています。後で聞くところによると、初期の救命で福祉隊が入るのは、全国でもはじめて、とのことでした。福祉は人命の二の次。しかし、それは同時に平行して行わなければならないことなのだと今回の実体験をもとに、感じました。と、こんな震災から半年が過ぎようとしています。私はそれから、骨折したり、心不全悪化したり、血液の病気が再発し、入院(短期間ですが)したり、と色々ありました。大学もがんばっています。試験が重なるときは、余裕もなくしますが、
勉強したくても学校にいけなかった、そんなことを思うと中卒から大学へ行けたこと、試験のたびにひやひやしますが、今のところ試験に全て合格していることなど、ちょびちょびがんばっています。かいぼー先生ともメールがなかなか出来ませんでした。今日はいつも心配し、見守ってくださっている皆さんへ 久々の便りを書いてみました。こころとこころの援助。いのちといのちの支援。想いと想いの連鎖。人々のこころに寄り添い走る伴走者としての相談員をこれからも目指したいです。
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長くて すみません(笑)
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