訃報のお便りを見聞きする度に、ひとの死、について思います。
私の母は14年前、阪神淡路大震災の11日前に突然逝きました。
そして母が比較的若くして逝ったからでもありますが、今でも「同級生だ」あるいは「母と以前付合いがあった」とおっしゃる方が、かいぼー医院の患者さんとしていらっしゃいます。ずっと地元に住んでらっしゃる方はもちろんですが、ある程度高齢になって武雄に戻ってこられた方などもおられます。そして健康管理のお願いにと、息子である僕が診療している、かいぼー医院に来られるのです。
母のことを楽しく話してくださる様子を見て、「あぁ、母はまだ健在だなぁ」と思うのです。
人の死は、そのひとのことを語るひとがいなくなったときが、本当のそのひとの死、だと思います。
なので、そのひとに死んでほしくないと思う人は、そのひとのことを語ればいいのです。僕はそう思います。
また法事をしていくのも大変なことですが、これもその方が亡くなることで、以後は縁が遠くなる世代の方々を繋いでおく役割もあるなぁ、と。そのことで自分たちの世代では知りえないことを知ることができます。生きている間にもっと聞いておけばよかった、ということは結構ありますからね。
また僕の場合、初めての経験である法事を次々にこなしていくことで悲しむ余裕がなかった。これも効能のひとつかなぁ、と。忌明けをしてやっとホッとした記憶があります。その時でも、あぁ、次は百か日で、その次は初盆かぁ、そして1周忌、翌年も3回忌じゃん、と毎年続く法事の予定にげんなりしていました。
でも、それもこれも、前述したような効果効能があり、もっともコアなコミュニティである家族、そして親族、そのすぐ周囲のコミュニティであるご近所さん、友人(しかもこれは亡くなったひとの友人ですから、残された人々にとっては新たな繋がりになることもあります)との繋がりを維持する役割もあります。
そのひとが亡くなることでさまざまな重要なことが確認され、再構築されるのです。
そういう意味でも亡くなられる方には感謝です。
ひとの死に接するとき、僕はそのように思います。
※もうひとつ強く感じた(感じたかった?)こと。それは、血の繋がりがあるということは、そのひとの遺伝子は自分の身体にも受け継がれているということです。そのひとの情報は自分の体内にもある。それはそのひとのすべての死ということにはならないと理解しました。そうしてそのひとの生(情報)は受け継がれていくということです。
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