< 誕生日のメール(第67話ー②) | メイン | はっはっはぁ >

昨日はRessarさんの18歳の誕生日でした。このブログにもいつもより多くの方からアクセスをいただき、また心のこもったコメントもいただいています。ありがとうございます。

そして僕の短い祝福のメールに対して彼女から返事がありました。いつもながら丁寧なそして力みなぎる文章でした。

僕は彼女に対して何もしてやれません。そして彼女から多くの教えと力をもらいます。彼女が今も僕に対して言葉を発してくれていることに感謝と悦びを感じます。

僕の方がありがとうです。

 

ありがとうございます
朝起きたら、いっぱいメールが来てて、びっくりです。

覚えてくれていたんだぁなんて、しあわせなんだろー

入院している子どもに遊びを届けるボランティアグループを代表して、メンバーのひとりが、誕生日ケーキの画像付のメールをいただきました。
メンバー全員の気持ちがこもってて・・・。。
去年の誕生日は、代表に選ばれた人が、わざわざ自宅まで、忙しい合間につくってくれた手作りのプレゼントを持ってきてくれました!
活動にも全然参加できなくて、定例会すら行けなくて、ほんと会費とMLだけで繋がっている会員なのに、こんな私を、「仲間やん」と言ってくれたスタッフ。
「何でも言って!遠慮したらアカンで~」そう言って、遊びに連れ出してくれたメンバー。

あの時出来た繋がりは、現場から離れた今も確かに、存在しています。

今までメールもあまり交わしてこなかった、お互い遠慮してた仲間からも、メールが来ました。
覚えていてくれた・・・・・・ただ、それだけで、もう感動。。

ありがとう

でも、なんだかこの歳になると、もう自分の誕生日にそんなに感動しなくなってる・・・というのは、老化?!

歳とるの嫌だなぁ~と感じるのは、体だけじゃない心も退化していっている証拠なんだろうか・・・汗。

弟に、「20歳過ぎたら、もう、おばさんやでなぁ~」と、サラぁ~と言われ、凹んでしまったよ・・・。。
「でも、3歳の子からしたら、アンタはもう、おっちゃんになるねんで。」と言いかえしてやったんですw


時の流れはいつだって平等に訪れる。
楽しかったあのときは、過ぎ去り、いずれ『過去』となる。
だから、私は、あの時感じた感情を、心から、噛み締めていたいと思います。

18
年前の今日。
両親は、両家祖父母は、どんな想いで私の誕生を待っていたのでしょうか。
妊娠僅か2カ月で、すでに私の心臓は、母のお腹の中で、消えいりそうだったと聞ききました。
そして、12週の時、心音の急激な低下、異常を指摘され、母子医療センターで入院。詳しい検査の結果、16週の時に、重度の心臓病、染色体異常、種々の異常を指摘され、そのまま安静。
一切動く事を許されず、入院生活となったらしいです。
20
週の時に、胎児水腫になり、母子共に危険な状態に陥り、厳しい制限を守りぬき、私を必死で守ってくれた母。
異常を指摘され、我が子が、誕生する前に、亡くなってしまう確率が高いとされ、産むか産まないかの選択を迫られながらも、どんなに障害が重くても、この世の空気を吸わせてやりたい。生きにくい社会だけれども、綺麗なものがたくさんあることを、見せてやりたい。
そんな親ゴコロで、私を受け入れてくれた。

例え生を受けても、長くは生きられないことをわかっていながらも、両親は・・・私を受け入れてくれました。
これから幾度の試練がある。それでも、お子様を育てる覚悟はありますか?と母子センターの部長に言われ、両親は覚悟を決めた、と以前話してくれた事がありました。

18
年前の今日。
私は、緊急帝王切開で生まれ、重度仮死状態でこの世に生を受けた。その体重、僅か425g。大人の手の平より、小さくて、壊れてしまいそうな程の赤ちゃんでした。
先生方の懸命な手厚い医療で、私は今日まで、生き延びる事が出来た。今日まで生かされていることへの重み。
ここまで私を育ててくれる過程は、どれほど大変なもので、どれほど、壮絶な戦いだっただろう。
きっと、言葉で言い尽くせないほど、それこそ、こんなページに書き綴る事が出来ないほどの、苦労と心労を重ねての、育児だったに違いないです。
誕生後、次々と明かされる病名に、両親は戸惑い、そして行き場のない不安に駆られたと言いました。

原因不明、進行性、難病、今の医学を持ってしても、治療法がない・・・。
そして、1週間が山。

生まれた我が子の顔をみる事が出来ないまま、様々な検査と治療を繰り返され、
そして、生後2日で受けた大手術。一か八かの手術でした。心臓と消化器・腎臓・脳神経の同時手術。生まれる前から、血液疾患だと分かり、凝固因子の輸血をも確保し、心臓専門医と消化器・腎臓・脳神経の、どちらも日本でトップを競う教授自らの執刀だった。もしかしたら、手術室から生きて帰ってはこれないかも知れないみんなが覚悟していた事でした。
途中何度も心停止して、大量出血を起こし、危なかったけれども、37時間の大手術を終え、425グラムの小さな体は、生きたいと、がんばって耐えぬいてくれたんです。

たった一度きりのOP。これが最初で最後のOPとなるであろう、といわれていました。
出血疾患な私は、安易に体にメスを入れる事が出来ません。でも、あの一度きりのOPがあったから、私は、今日まで生きてこれたんだと思います。
あの時、執刀してくださった、先生は、当然ながら、私の記憶の中にはありません。
そして両親の記憶にも、それは曖昧なものでしか、ないそうです。
娘のいのちを救ってくれたあの先生の事を思い出せぬほど、その後の日々は、壮絶な戦いの試練の連続だったから。2、3日が山といわれ、1週間が山といわれ、1カ月持たないかもといわれ、1年もつかどうかそう言われながら、私は今日まで来た。

例え歩けなくとも、いつだって心の両足で、歩いてきた。
何度も絶望を経験し、何度も、心が折れそうになった。
でも、いつも傍には、優しい笑顔で見守ってくれる両親が、転んでしまった時は、手を差し伸ばして、立たせてくれた両親がいました。
いっぱいの寂しさと我慢もしてきただろうに、こんな姉を精いっぱいの小さな体で、支えてくれた弟がいた。
精いっぱいの愛情と優しさで、いつも見守ってくれた祖父母がいた。
私のいのちを、100%の力で、守ってくれた先生や看護師さん、医療スタッフがいた。
くじけそうになったとき、あきらめそうになったとき、一緒に歩いてくれた仲間がいた。
こんな頼りない私を、最後まで信じてくれた人がいた。
私の人生を背負い、私を愛してくれた人がいた。

ここまでの道のりは、決して、平坦ではなかったけれど、胎児期に亡くなってもなんら不思議では、なかったけれど、むしろ生きているのが、不思議だと言われもしたけれど、私が今日まで、生かされてきたのには、何かの意味があるのだと、思いたい。
この世に残さなければならない、学ばなければならない、やらなければならない、私にしかできない何かがあったのだと、思いたい。

 

(※このブログの字数制限のために、一度に入りきれませんでした。下の日記に続きます。省略したくなかったもので。。。どうぞご覧ください。)



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