誕生してから今まで、幾つもの難病を発症してきて、どれも難しいものばかり・・・そして、どれも症例数が少ないもの。
原因不明、治療法なし、予後不良…。
それらすべての難病の原因が、ある一つの疾患の疑いが出たのは、生後2カ月のころでした。
当時の免疫主治医が、留学していたボストンの小児病院の医師らに私のすべての経過を綴ったデーターを転送し、向こうの医師の見解を聞く事になった。
その結果、この通常では考えられないような事が一個の個体に次々に起きるのは、まれだか、ICMDSではないかと、言われ、診断がつくに至りました。
過去に数例この病気だった患児のデーターをも送ってもらい、照らし合わせた結果、非常に症状や経過も酷似している事が分かりました。
日本では、初の症例。世界でもわずか数例の報告しかない。でも、今まで科学でも解明されなかった事が、すべて、気休めかも知れないけれど、この病気のせいだと分かっただけでも、両親は幾分か心が楽になったらしいです。
両親はよく私の小さかった頃の事、それこそ誕生までの事や生まれた時のあの壮絶な日々の事を、聞かせてくれる。私が聞きたがっていたのもあるのだけれど…。両親は隠さずありのままの、真実を伝え続けてくれた。
何度も何度も、『あなたをここまで、育てるのは、とっても大変だったのよ』と、教えられました。
育児の知識なんて、ない、新米のパパとママは、ふつうより手のかかる娘に、てこずりながら、どれだけの苦労を重ねてきたのだろう。
入院ばかりの日々。治ったと思ったらまた、新たな感染症を引き起こし、いったい風邪が治る日があるだろうか?と思うくらいに、何に対しても感染してしまっていました。
私が、生きていくには、この両親でなければ、ならなかった。でなきゃ、私は生まれる事も、ほかの人なら、私は生まれることも生きることもできなかった。
この、両親だから、私は今までいのちを繋ぎとめる事ができた。心から、そう思います。
思春期に入った頃、微妙な時期に、病気と友人関係の狭間で悩み、両親にも当たってばかりだった日々がありました。でも、その時だって、泣き叫びながら、想いにならない想いをぶつけた時、母は、私の体を力強く抱きしめて、『(Ressar)は、あたしが守る!!』と母も泣きながら、言ってくれたんです。
あの時から、私は、親になんでも話すようになりました。
悩みも、思っていることも。一緒に悩み、一緒に考え、たとえそこに、答えがなくとも、共に歩んでくれた両親を心から信じたんです。
痛みも分かち合った。苦しみも分かち合った。辛さも悲しさも、共に分かち合った。
そして、楽しさも嬉しさも一緒に、分かち合ったんだ。
私たち親子は、決して他の重度障害児を抱える親御さんのように、前向きな生き方ではありません。
毎日迷いの中…。
そして、未来さえ見えない、不確かなまま、今を生きる事で精いっぱい。
明日の事すら考えられない。
それは、時に無計画という名の下、非難される考えでもあるけれど、それが、私たち親子の生き方。
今日は今日、明日は明日。明日の事は誰にも分からない、不確かなもの。健康な人でも、明日には交通事故に遭うかも知れない。大地震が起きて、日本という国がどうなるか、分からない。
明日は、手にすることが出来ない、不確かなもの。だから、あたしたち親子は、いつもこの今という一瞬一瞬を大切に、生きていたいと思うんです。
例え明日死んだとしても、悔いの残らない人生を、自分の人生に責任と誇りを持って、歩んでいきたいと思う。
そうして、生きてきた。そして、これからも、そうして生きていく。
全然前向きじゃない私の生き方。
再発や進行した時には、落ち込みもするし、マイナスな感情とぶつかる時もある。
でも、それも、全部あたしだと受け入れられたら、私はもっと、成長できるのかな。。
「今年の誕生日は迎えられないかもしれない・・・」
といわれ続けながら、私は今日、ここで、18回目の誕生日を迎えることができました。
それは、本当に、奇跡に近いことなのかも知れません。
だけど、それを、「奇跡」という言葉にしてしまうには、あまりにも簡単過ぎて。
だって、これまで生きてこれたのは、ただ単なる「奇跡」では片づけられない程、周りに生かされてきたのだと、強く思うから。
10年前、今の私がいるなんて、誰もが想像だに出来なかった。
そして、今から10年後、私がこの世に存在しているかと聞かれれば、答えられません。
一分一秒先のことが予測できない病気だからこそ、いつ何があっても後悔だけはしないように。。
私たちは、そうやって、この18年の日々を、ただ目の前のことだけに必死になりながら・・・生きてきました。
昨年に余命1カ月と宣告されたとき、あの気丈だった父が、はじめて主治医の目の前で涙を流し、
「娘のためなら、すべてを捨てる覚悟はできています。」と言いました。
私のためなら、仕事も捨てる覚悟があった父。
そして現に、仕事を何度も変わってくれました。
私の中では、父は強くて、決して人前では涙を見せない人という印象があったのに、あの日・・・私は、はじめて、父の
弱さをみました。父の震える背中を見ました。
今年の4月、出血多量で心肺停止、緊急入院したとき、
両親は、最後の覚悟を、決めたそうです。
そして、弟も・・・、私がいなくなるかも知れないという事実と、必至で向き合おうと、様々な葛藤と闘っていました。
母は、「今年の夏、(Ressar)は、よう乗り越えられたね」と、父と話していた。
6月に在宅医療に戻ってきたとき、主治医から、
「今年の夏を越せるかどうか」と言われていた。
しかし、私は今年の夏どころか、誕生日を痛みの中でも、こうして、迎えられることが出来、後1カ月ほどで、年を越そうとしている。
そうやって・・・今まで、多くのことを乗り越えてきた。
だけど、だから、「だいじょうぶ。」だなんて、誰もが思ってない。
今日、何とか生きられても、明日の朝には、心臓が止まってるかも知れない。
突然死の可能性・・・だって。。
こうやって、淡々と自分の日常を綴っているけれど、その裏には、痛みと闘ってる現実もあって、目が見えにくい中、必至でキーを打ってる現実もあって・・・
そんなの、画面の向うでは、わかりようがないこと。。
「在宅でいれるくらいだから、大丈夫なんだね。」とか、
そういうわけではなくて、大切な何かを犠牲にしてでも、家族で過ごしたいから、在宅でがんばってる。
ほんとは、家族も私も、毎日に限界を感じてる・・・。
だけど、家族の誰もがそれを感じながらも、決して表情や態度に表さないのは、少しでも、みんなが繋がっていたいから。
少しでも、ほんの一瞬でも長く、同じ空間にいたいから。
ただ、その想いだけで、厳しい在宅を、今日も生きてる。
親だって人間。私だって感情がある生き物。
ぶつかるときもあるし、傷つけ合うこともある。
だけど、家族だから。
分かりあえたり、例え分かり合えなくてもいいと言える本音もあるんだ。
重度難病を抱え、重度重複障害の身で、日常生活全般にわたって介護がいる身での生活は、家族も本人も、それを支える人も、しんどい。
在宅生活は、ある意味で、本人と家族の自己犠牲の元成り立っています。
だけど、今日まで、生かしてくれて、ありがとう。
胸を張って言える。
私は、生まれてきてよかった!
そして、私は、幸せでした。今も、とても幸せです。
来世でも、再び、父と母の子として、生まれきたい。
大切なものはそのままに、第二の人生は・・・病気が治ればいい。
素敵な誕生日となりました。
これまで、いろんな出会いと別れがあった。
いろんな人がいて、いろんな考えを持った人がいる。
そして、いろんな人生が、ある。
これからも、私は私らしく、そして私色の花を咲かせ、無色透明な心にたくさんの虹色を足して生きたいと思います。
今まで育てて、たくさんの愛と優しさをくれた家族と、主治医や看護師さん医療スタッフ、いつも傍で励まし、共に歩いてくれた仲間や友人に、いろんな事を教えてくれた小学校の教師に、そして、愛する事の本当の意味を教えてくれた、彼に。心から感謝します。
素敵な誕生日をありがとう。
涙のバースディでなくて、良かった…。
ありがとう、ありがとう、ありがとう…。
かいぼー先生からのメール、涙が出るほど、うれしかった!
出会えたことに、感謝です。
本当にありがとうございました。
Ressar
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『いのち』
こかい えいじ 作
はなです むしです からだです
とりです くさです こころです
それらは みんな いのちです
いのちは どれもひとつです
いのちのふるさと ちきゅうもひとつ
かぜがふき くもがながれる ちきゅうのうえに
いらないものなど ありません
たがいに ささえて いるんです
みえない手を出し こえを出し たがいに ささえているんです
どれもひとつで どれにもひとつ
ぜんぶが だいじな いのちです
・・・
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