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Doctors Blog

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昨日はRessarさんの18歳の誕生日でした。このブログにもいつもより多くの方からアクセスをいただき、また心のこもったコメントもいただいています。ありがとうございます。

そして僕の短い祝福のメールに対して彼女から返事がありました。いつもながら丁寧なそして力みなぎる文章でした。

僕は彼女に対して何もしてやれません。そして彼女から多くの教えと力をもらいます。彼女が今も僕に対して言葉を発してくれていることに感謝と悦びを感じます。

僕の方がありがとうです。

 

ありがとうございます
朝起きたら、いっぱいメールが来てて、びっくりです。

覚えてくれていたんだぁなんて、しあわせなんだろー

入院している子どもに遊びを届けるボランティアグループを代表して、メンバーのひとりが、誕生日ケーキの画像付のメールをいただきました。
メンバー全員の気持ちがこもってて・・・。。
去年の誕生日は、代表に選ばれた人が、わざわざ自宅まで、忙しい合間につくってくれた手作りのプレゼントを持ってきてくれました!
活動にも全然参加できなくて、定例会すら行けなくて、ほんと会費とMLだけで繋がっている会員なのに、こんな私を、「仲間やん」と言ってくれたスタッフ。
「何でも言って!遠慮したらアカンで~」そう言って、遊びに連れ出してくれたメンバー。

あの時出来た繋がりは、現場から離れた今も確かに、存在しています。

今までメールもあまり交わしてこなかった、お互い遠慮してた仲間からも、メールが来ました。
覚えていてくれた・・・・・・ただ、それだけで、もう感動。。

ありがとう

でも、なんだかこの歳になると、もう自分の誕生日にそんなに感動しなくなってる・・・というのは、老化?!

歳とるの嫌だなぁ~と感じるのは、体だけじゃない心も退化していっている証拠なんだろうか・・・汗。

弟に、「20歳過ぎたら、もう、おばさんやでなぁ~」と、サラぁ~と言われ、凹んでしまったよ・・・。。
「でも、3歳の子からしたら、アンタはもう、おっちゃんになるねんで。」と言いかえしてやったんですw


時の流れはいつだって平等に訪れる。
楽しかったあのときは、過ぎ去り、いずれ『過去』となる。
だから、私は、あの時感じた感情を、心から、噛み締めていたいと思います。

18
年前の今日。
両親は、両家祖父母は、どんな想いで私の誕生を待っていたのでしょうか。
妊娠僅か2カ月で、すでに私の心臓は、母のお腹の中で、消えいりそうだったと聞ききました。
そして、12週の時、心音の急激な低下、異常を指摘され、母子医療センターで入院。詳しい検査の結果、16週の時に、重度の心臓病、染色体異常、種々の異常を指摘され、そのまま安静。
一切動く事を許されず、入院生活となったらしいです。
20
週の時に、胎児水腫になり、母子共に危険な状態に陥り、厳しい制限を守りぬき、私を必死で守ってくれた母。
異常を指摘され、我が子が、誕生する前に、亡くなってしまう確率が高いとされ、産むか産まないかの選択を迫られながらも、どんなに障害が重くても、この世の空気を吸わせてやりたい。生きにくい社会だけれども、綺麗なものがたくさんあることを、見せてやりたい。
そんな親ゴコロで、私を受け入れてくれた。

例え生を受けても、長くは生きられないことをわかっていながらも、両親は・・・私を受け入れてくれました。
これから幾度の試練がある。それでも、お子様を育てる覚悟はありますか?と母子センターの部長に言われ、両親は覚悟を決めた、と以前話してくれた事がありました。

18
年前の今日。
私は、緊急帝王切開で生まれ、重度仮死状態でこの世に生を受けた。その体重、僅か425g。大人の手の平より、小さくて、壊れてしまいそうな程の赤ちゃんでした。
先生方の懸命な手厚い医療で、私は今日まで、生き延びる事が出来た。今日まで生かされていることへの重み。
ここまで私を育ててくれる過程は、どれほど大変なもので、どれほど、壮絶な戦いだっただろう。
きっと、言葉で言い尽くせないほど、それこそ、こんなページに書き綴る事が出来ないほどの、苦労と心労を重ねての、育児だったに違いないです。
誕生後、次々と明かされる病名に、両親は戸惑い、そして行き場のない不安に駆られたと言いました。

原因不明、進行性、難病、今の医学を持ってしても、治療法がない・・・。
そして、1週間が山。

生まれた我が子の顔をみる事が出来ないまま、様々な検査と治療を繰り返され、
そして、生後2日で受けた大手術。一か八かの手術でした。心臓と消化器・腎臓・脳神経の同時手術。生まれる前から、血液疾患だと分かり、凝固因子の輸血をも確保し、心臓専門医と消化器・腎臓・脳神経の、どちらも日本でトップを競う教授自らの執刀だった。もしかしたら、手術室から生きて帰ってはこれないかも知れないみんなが覚悟していた事でした。
途中何度も心停止して、大量出血を起こし、危なかったけれども、37時間の大手術を終え、425グラムの小さな体は、生きたいと、がんばって耐えぬいてくれたんです。

たった一度きりのOP。これが最初で最後のOPとなるであろう、といわれていました。
出血疾患な私は、安易に体にメスを入れる事が出来ません。でも、あの一度きりのOPがあったから、私は、今日まで生きてこれたんだと思います。
あの時、執刀してくださった、先生は、当然ながら、私の記憶の中にはありません。
そして両親の記憶にも、それは曖昧なものでしか、ないそうです。
娘のいのちを救ってくれたあの先生の事を思い出せぬほど、その後の日々は、壮絶な戦いの試練の連続だったから。2、3日が山といわれ、1週間が山といわれ、1カ月持たないかもといわれ、1年もつかどうかそう言われながら、私は今日まで来た。

例え歩けなくとも、いつだって心の両足で、歩いてきた。
何度も絶望を経験し、何度も、心が折れそうになった。
でも、いつも傍には、優しい笑顔で見守ってくれる両親が、転んでしまった時は、手を差し伸ばして、立たせてくれた両親がいました。
いっぱいの寂しさと我慢もしてきただろうに、こんな姉を精いっぱいの小さな体で、支えてくれた弟がいた。
精いっぱいの愛情と優しさで、いつも見守ってくれた祖父母がいた。
私のいのちを、100%の力で、守ってくれた先生や看護師さん、医療スタッフがいた。
くじけそうになったとき、あきらめそうになったとき、一緒に歩いてくれた仲間がいた。
こんな頼りない私を、最後まで信じてくれた人がいた。
私の人生を背負い、私を愛してくれた人がいた。

ここまでの道のりは、決して、平坦ではなかったけれど、胎児期に亡くなってもなんら不思議では、なかったけれど、むしろ生きているのが、不思議だと言われもしたけれど、私が今日まで、生かされてきたのには、何かの意味があるのだと、思いたい。
この世に残さなければならない、学ばなければならない、やらなければならない、私にしかできない何かがあったのだと、思いたい。

 

(※このブログの字数制限のために、一度に入りきれませんでした。下の日記に続きます。省略したくなかったもので。。。どうぞご覧ください。)



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誕生してから今まで、幾つもの難病を発症してきて、どれも難しいものばかり・・・そして、どれも症例数が少ないもの。
原因不明、治療法なし、予後不良
それらすべての難病の原因が、ある一つの疾患の疑いが出たのは、生後2カ月のころでした。
当時の免疫主治医が、留学していたボストンの小児病院の医師らに私のすべての経過を綴ったデーターを転送し、向こうの医師の見解を聞く事になった。
その結果、この通常では考えられないような事が一個の個体に次々に起きるのは、まれだか、ICMDSではないかと、言われ、診断がつくに至りました。

過去に数例この病気だった患児のデーターをも送ってもらい、照らし合わせた結果、非常に症状や経過も酷似している事が分かりました。
日本では、初の症例。世界でもわずか数例の報告しかない。でも、今まで科学でも解明されなかった事が、すべて、気休めかも知れないけれど、この病気のせいだと分かっただけでも、両親は幾分か心が楽になったらしいです。
両親はよく私の小さかった頃の事、それこそ誕生までの事や生まれた時のあの壮絶な日々の事を、聞かせてくれる。私が聞きたがっていたのもあるのだけれど。両親は隠さずありのままの、真実を伝え続けてくれた。

何度も何度も、『あなたをここまで、育てるのは、とっても大変だったのよ』と、教えられました。
育児の知識なんて、ない、新米のパパとママは、ふつうより手のかかる娘に、てこずりながら、どれだけの苦労を重ねてきたのだろう。
入院ばかりの日々。治ったと思ったらまた、新たな感染症を引き起こし、いったい風邪が治る日があるだろうか?と思うくらいに、何に対しても感染してしまっていました。

私が、生きていくには、この両親でなければ、ならなかった。でなきゃ、私は生まれる事も、ほかの人なら、私は生まれることも生きることもできなかった。
この、両親だから、私は今までいのちを繋ぎとめる事ができた。心から、そう思います。
思春期に入った頃、微妙な時期に、病気と友人関係の狭間で悩み、両親にも当たってばかりだった日々がありました。でも、その時だって、泣き叫びながら、想いにならない想いをぶつけた時、母は、私の体を力強く抱きしめて、『(Ressar)は、あたしが守る!!』と母も泣きながら、言ってくれたんです。
あの時から、私は、親になんでも話すようになりました。
悩みも、思っていることも。一緒に悩み、一緒に考え、たとえそこに、答えがなくとも、共に歩んでくれた両親を心から信じたんです。
痛みも分かち合った。苦しみも分かち合った。辛さも悲しさも、共に分かち合った。
そして、楽しさも嬉しさも一緒に、分かち合ったんだ。

私たち親子は、決して他の重度障害児を抱える親御さんのように、前向きな生き方ではありません。
毎日迷いの中
そして、未来さえ見えない、不確かなまま、今を生きる事で精いっぱい。
明日の事すら考えられない。
それは、時に無計画という名の下、非難される考えでもあるけれど、それが、私たち親子の生き方。
今日は今日、明日は明日。明日の事は誰にも分からない、不確かなもの。健康な人でも、明日には交通事故に遭うかも知れない。大地震が起きて、日本という国がどうなるか、分からない。
明日は、手にすることが出来ない、不確かなもの。だから、あたしたち親子は、いつもこの今という一瞬一瞬を大切に、生きていたいと思うんです。
例え明日死んだとしても、悔いの残らない人生を、自分の人生に責任と誇りを持って、歩んでいきたいと思う。

そうして、生きてきた。そして、これからも、そうして生きていく。
全然前向きじゃない私の生き方。
再発や進行した時には、落ち込みもするし、マイナスな感情とぶつかる時もある。
でも、それも、全部あたしだと受け入れられたら、私はもっと、成長できるのかな。。

「今年の誕生日は迎えられないかもしれない・・・」
といわれ続けながら、私は今日、ここで、18回目の誕生日を迎えることができました。
それは、本当に、奇跡に近いことなのかも知れません。
だけど、それを、「奇跡」という言葉にしてしまうには、あまりにも簡単過ぎて。
だって、これまで生きてこれたのは、ただ単なる「奇跡」では片づけられない程、周りに生かされてきたのだと、強く思うから。
10
年前、今の私がいるなんて、誰もが想像だに出来なかった。
そして、今から10年後、私がこの世に存在しているかと聞かれれば、答えられません。
一分一秒先のことが予測できない病気だからこそ、いつ何があっても後悔だけはしないように。。
私たちは、そうやって、この18年の日々を、ただ目の前のことだけに必死になりながら・・・生きてきました。

昨年に余命1カ月と宣告されたとき、あの気丈だった父が、はじめて主治医の目の前で涙を流し、
「娘のためなら、すべてを捨てる覚悟はできています。」と言いました。
私のためなら、仕事も捨てる覚悟があった父。
そして現に、仕事を何度も変わってくれました。
私の中では、父は強くて、決して人前では涙を見せない人という印象があったのに、あの日・・・私は、はじめて、父の
弱さをみました。父の震える背中を見ました。

今年の4月、出血多量で心肺停止、緊急入院したとき、
両親は、最後の覚悟を、決めたそうです。
そして、弟も・・・、私がいなくなるかも知れないという事実と、必至で向き合おうと、様々な葛藤と闘っていました。

母は、「今年の夏、(Ressar)は、よう乗り越えられたね」と、父と話していた。
6
月に在宅医療に戻ってきたとき、主治医から、
「今年の夏を越せるかどうか」と言われていた。
しかし、私は今年の夏どころか、誕生日を痛みの中でも、こうして、迎えられることが出来、後1カ月ほどで、年を越そうとしている。
そうやって・・・今まで、多くのことを乗り越えてきた。
だけど、だから、「だいじょうぶ。」だなんて、誰もが思ってない。

今日、何とか生きられても、明日の朝には、心臓が止まってるかも知れない。
突然死の可能性・・・だって。。
こうやって、淡々と自分の日常を綴っているけれど、その裏には、痛みと闘ってる現実もあって、目が見えにくい中、必至でキーを打ってる現実もあって・・・
そんなの、画面の向うでは、わかりようがないこと。。


「在宅でいれるくらいだから、大丈夫なんだね。」とか、
そういうわけではなくて、大切な何かを犠牲にしてでも、家族で過ごしたいから、在宅でがんばってる。
ほんとは、家族も私も、毎日に限界を感じてる・・・。
だけど、家族の誰もがそれを感じながらも、決して表情や態度に表さないのは、少しでも、みんなが繋がっていたいから。
少しでも、ほんの一瞬でも長く、同じ空間にいたいから。
ただ、その想いだけで、厳しい在宅を、今日も生きてる。
親だって人間。私だって感情がある生き物。
ぶつかるときもあるし、傷つけ合うこともある。
だけど、家族だから。
分かりあえたり、例え分かり合えなくてもいいと言える本音もあるんだ。

重度難病を抱え、重度重複障害の身で、日常生活全般にわたって介護がいる身での生活は、家族も本人も、それを支える人も、しんどい。
在宅生活は、ある意味で、本人と家族の自己犠牲の元成り立っています。


だけど、今日まで、生かしてくれて、ありがとう。
胸を張って言える。

私は、生まれてきてよかった!
そして、私は、幸せでした。今も、とても幸せです。
来世でも、再び、父と母の子として、生まれきたい。
大切なものはそのままに、第二の人生は・・・病気が治ればいい。

素敵な誕生日となりました。

これまで、いろんな出会いと別れがあった。
いろんな人がいて、いろんな考えを持った人がいる。
そして、いろんな人生が、ある。
これからも、私は私らしく、そして私色の花を咲かせ、無色透明な心にたくさんの虹色を足して生きたいと思います。

今まで育てて、たくさんの愛と優しさをくれた家族と、主治医や看護師さん医療スタッフ、いつも傍で励まし、共に歩いてくれた仲間や友人に、いろんな事を教えてくれた小学校の教師に、そして、愛する事の本当の意味を教えてくれた、彼に。心から感謝します。

素敵な誕生日をありがとう。
涙のバースディでなくて、良かった
ありがとう、ありがとう、ありがとう


かいぼー先生からのメール、涙が出るほど、うれしかった!
出会えたことに、感謝です。
本当にありがとうございました。

 

 

Ressar

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