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『武雄よかとこブログ』で黒尾の大銀杏の見事な黄葉が話題になっています。そしてその大銀杏がある場所に黒尾神社があります。
この黒尾神社にも関係のある記事が12月号のかいぼー医院の広報誌『でんでん通信』(毎月院内で400部発刊、無料、早いもん勝ち・・・笑)にあります。小鳩の家保育園の園長先生(井上一夫先生)が書かれました。まずその文章をご紹介します。
「下宮はどこだ!!」(哲学者・梅原猛さんの教え)
もう18年も前になるだろうか、哲学者・梅原猛先生を『武雄の大楠』にご案内したことがある。帰りに武雄神社の境内から、馬駆け参道を見下ろしながら先生が私に発したのが表題の言葉である。地元の私たちが日ごろ「下宮」と呼んでいるのは、参道横(射手塚の横)にあり、お祭りの道具や準備をする小屋風の建物である。その建物を指差しながら私が答えると、「それは違うのではないか、下宮は田んぼの真ん中か・田んぼが一望に見渡せる場所にある筈だ」と返された。次の質問Q=「上宮」はどこに在る?、A=上宮は御船山の頂上にあります。Q=何と書いてある?A=住吉宮と書いています。そうか、それは海の神様だ!と教えてくれた。翌日、武雄宮司に下宮の在りかを尋ねると、それは朝日町の黒尾神社であると教えてくれた。(市営中野住宅を通り過ぎタケックス(株)の社屋の裏から入る神社)早速黒尾神社を訪ね境内に立つと、武雄や北方や白石町の水田が一望され、有明海まで望めるかのような位置・高さにあり、改めて梅原先生の教えに敬服したものである。そのことを先生に報告すると、さらに以下のことを話してくれた。神社には上宮(奥宮)中宮(里宮)下宮(田宮)の三宮がタテにつながってあり、普通お参りしているのは里宮である。下宮は田宮と呼ばれるように、神様は春に下宮に下り稲の収穫を見届けて秋に中宮・上宮に帰る、その意味で下宮は神様の「お旅所」である。神社の春祭り(下り)・秋祭り(上り)はその儀式を行っているのであり、さらに、中宮からの奥の方や上の方は神域であり、人間がみだりに入ってはいけない・侵してはいけない場所であるという。10月23日の「武生供日」のメインイベント流鏑馬が今年も華やかに催された。毎年この日は保育園はお休みである。それは美しい流鏑馬を見ることに合わせて、地味ではあるが「栗おこわ」を炊き、今年の収穫をもたらしてくれた自然や生産者に感謝する気持ちで、家族・地域で「お祝い」をして欲しいと思っている。(一年に一日『食』の休日を)梅原先生のご教示にあるように日本全国にこのような神社配置がされ、自然崇拝(アミニズム)や農に対する感謝の儀式が行われてきたのであろうが、そのことが商業化や国際化の中で子どもたちまで伝わらなくなってきているようだ。そのような文化といえるようなものを、一度消滅させてしまえばその復権は難しい。可愛い子ども神輿が回ってくる・子どもたちの素直な心は伝承文化を受け止める十分な心を持っている。むしろ、それを丁寧に話して聞かせる立場の、私たちのあり方が問われているようだ。東京発の情報だけに回されてると、貴重な地域文化と向きあう時間を失ってしまいそうだ。「国際貢献」という四文字に、流れに身を任せていれば楽である。一方で、忘れてならないのは「地域貢献」の四文字であるが、この部分には自分の持つ能力で誰でもが参加できそうである。(多様な人たちの参加と協働)
街路の紅葉から始まり、そのカラーの一部が御船山を上り始めた。かなり遅れてきた今年の紅葉を愛でながら、自分の地域のこと・子どもたちのこと・を梅原先生の教えと共にまとめてみた。
今でも武雄には春祭り、秋祭りがありますが今ひとつ住民にこれらの祭りの存在意味がわからない、ということがありました。とくに春祭りは。
でも、今回の記事を見て、春祭り、秋祭りの意味がわかりました。そしてそれならば、春祭りは神様の下行の祭りで武雄神社から黒尾神社まで。秋祭りは神様の上行の祭りで黒尾神社から武雄神社へ。
そのようなストーリーを持って行えば、武雄町から朝日町までを含むスケールの大きな、しかも厳かな大祭ができる可能性はあるなぁ、と思います。
住民に意味がわかる祭りがいいなぁと僕は個人的に思います。
「それにしても武雄神社が中宮で黒尾神社が下宮とは、えらい距離が離れてますねぇ。」と井上先生に尋ねたところ、「武雄神社は阿蘇神社と並ぶくらいのスケールが大きい神社なんですよ。」とおっしゃいました。
お金はかけずとも住民の心に沁みる大祭が地元にあるといいですねぇ。
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浦和が愛媛に負けた!
天皇杯5回戦に駒を進めたのはJ2では(昨日の結果の予想を織り込み済みで)サガン鳥栖だけ、と言っていたのだけど、アジアチャンピオンの浦和がJ2で10位の愛媛に負けた。
選手たちのコメントはここをクリックして、読んでみてください。
愛媛の宮原選手のコメント、俺たちは何のためにサッカーをしているのか試合前に話し合った 、は印象的でした。同じプロ選手(Jリーガー)としてのプライドを確かめ合い、気持ちを奮い立たせたかったのでしょう。
選手を数人ベストメンバーから入れ替えたとはいえ、浦和のメンバーは錚錚たるものでした。
連戦の疲れはあったでしょうが、それ以上に油断があったと思われます。
今回のことでわかること。
アジアチャンピオンと言えども身体ともに万全の状態で試合に臨まないとJ2下位のチームに負けることもあるということ。それくらいJ1、J2に力の差はない、ということです。
ボールテクニックやフィジカルにはそんなに差がないのですから、強いチームかどうかを決めるのはやっぱり精神力なんですねぇ。この強い気持ちを90分間持続できるか、シーズン通して持続できるか、が強いチームになれるかどうかのカギなんです。
サガン鳥栖が強くしなければならないポイントはここだと昨日の試合結果を見て、改めて思いました。
※J2ではサガン鳥栖だけ、というのは実は大間違いで草津(名古屋に勝った)が残っていました。しかもJFLのホンダFC(柏に勝った)と当たるんですよね。
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昨日はRessarさんの18歳の誕生日でした。このブログにもいつもより多くの方からアクセスをいただき、また心のこもったコメントもいただいています。ありがとうございます。
そして僕の短い祝福のメールに対して彼女から返事がありました。いつもながら丁寧なそして力みなぎる文章でした。
僕は彼女に対して何もしてやれません。そして彼女から多くの教えと力をもらいます。彼女が今も僕に対して言葉を発してくれていることに感謝と悦びを感じます。
僕の方がありがとうです。
ありがとうございます☆
朝起きたら、いっぱいメールが来てて、びっくりです。
覚えてくれていたんだぁ♪なんて、しあわせなんだろー☆
入院している子どもに遊びを届けるボランティアグループを代表して、メンバーのひとりが、誕生日ケーキの画像付のメールをいただきました。
メンバー全員の気持ちがこもってて・・・。。
去年の誕生日は、代表に選ばれた人が、わざわざ自宅まで、忙しい合間につくってくれた手作りのプレゼントを持ってきてくれました!
活動にも全然参加できなくて、定例会すら行けなくて、ほんと会費とMLだけで繋がっている会員なのに、こんな私を、「仲間やん♪」と言ってくれたスタッフ。
「何でも言って!遠慮したらアカンで~」そう言って、遊びに連れ出してくれたメンバー。
あの時出来た繋がりは、現場から離れた今も確かに、存在しています。
今までメールもあまり交わしてこなかった、お互い遠慮してた仲間からも、メールが来ました。
覚えていてくれた・・・・・・ただ、それだけで、もう感動。。
ありがとう♪
でも、なんだかこの歳になると、もう自分の誕生日にそんなに感動しなくなってる・・・というのは、老化?!
歳とるの嫌だなぁ~と感じるのは、体だけじゃない心も退化していっている証拠なんだろうか・・・汗。
弟に、「20歳過ぎたら、もう、おばさんやでなぁ~」と、サラぁ~と言われ、凹んでしまったよ・・・。。
「でも、3歳の子からしたら、アンタはもう、おっちゃんになるねんで。」と言いかえしてやったんですw。
時の流れはいつだって平等に訪れる。
楽しかったあのときは、過ぎ去り、いずれ『過去』となる。
だから、私は、あの時感じた感情を、心から、噛み締めていたいと思います。
18年前の今日。
両親は、両家祖父母は、どんな想いで私の誕生を待っていたのでしょうか。
妊娠僅か2カ月で、すでに私の心臓は、母のお腹の中で、消えいりそうだったと聞ききました。
そして、12週の時、心音の急激な低下、異常を指摘され、母子医療センターで入院。詳しい検査の結果、16週の時に、重度の心臓病、染色体異常、種々の異常を指摘され、そのまま安静。
一切動く事を許されず、入院生活となったらしいです。
20週の時に、胎児水腫になり、母子共に危険な状態に陥り、厳しい制限を守りぬき、私を必死で守ってくれた母。
異常を指摘され、我が子が、誕生する前に、亡くなってしまう確率が高いとされ、産むか産まないかの選択を迫られながらも、どんなに障害が重くても、この世の空気を吸わせてやりたい。生きにくい社会だけれども、綺麗なものがたくさんあることを、見せてやりたい。
そんな親ゴコロで、私を受け入れてくれた。
例え生を受けても、長くは生きられないことをわかっていながらも、両親は・・・私を受け入れてくれました。
これから幾度の試練がある。それでも、お子様を育てる覚悟はありますか?と母子センターの部長に言われ、両親は覚悟を決めた、と以前話してくれた事がありました。
18年前の今日。
私は、緊急帝王切開で生まれ、重度仮死状態でこの世に生を受けた。その体重、僅か425g。大人の手の平より、小さくて、壊れてしまいそうな程の赤ちゃんでした。
先生方の懸命な手厚い医療で、私は今日まで、生き延びる事が出来た。今日まで生かされていることへの重み。
ここまで私を育ててくれる過程は、どれほど大変なもので、どれほど、壮絶な戦いだっただろう。
きっと、言葉で言い尽くせないほど、それこそ、こんなページに書き綴る事が出来ないほどの、苦労と心労を重ねての、育児だったに違いないです。
誕生後、次々と明かされる病名に、両親は戸惑い、そして行き場のない不安に駆られたと言いました。
原因不明、進行性、難病、今の医学を持ってしても、治療法がない・・・。
そして、1週間が山。
生まれた我が子の顔をみる事が出来ないまま、様々な検査と治療を繰り返され、
そして、生後2日で受けた大手術。一か八かの手術でした。心臓と消化器・腎臓・脳神経の同時手術。生まれる前から、血液疾患だと分かり、凝固因子の輸血をも確保し、心臓専門医と消化器・腎臓・脳神経の、どちらも日本でトップを競う教授自らの執刀だった。もしかしたら、手術室から生きて帰ってはこれないかも知れない…みんなが覚悟していた事でした。
途中何度も心停止して、大量出血を起こし、危なかったけれども、37時間の大手術を終え、425グラムの小さな体は、生きたいと、がんばって耐えぬいてくれたんです。
たった一度きりのOP。これが最初で最後のOPとなるであろう、といわれていました。
出血疾患な私は、安易に体にメスを入れる事が出来ません。でも、あの一度きりのOPがあったから、私は、今日まで生きてこれたんだと思います。
あの時、執刀してくださった、先生は、当然ながら、私の記憶の中にはありません。
そして両親の記憶にも、それは曖昧なものでしか、ないそうです。
娘のいのちを救ってくれたあの先生の事を思い出せぬほど、その後の日々は、壮絶な戦いの試練の連続だったから。2、3日が山といわれ、1週間が山といわれ、1カ月持たないかもといわれ、1年もつかどうか…そう言われながら、私は今日まで来た。
例え歩けなくとも、いつだって心の両足で、歩いてきた。
何度も絶望を経験し、何度も、心が折れそうになった。
でも、いつも傍には、優しい笑顔で見守ってくれる両親が、転んでしまった時は、手を差し伸ばして、立たせてくれた両親がいました。
いっぱいの寂しさと我慢もしてきただろうに、こんな姉を精いっぱいの小さな体で、支えてくれた弟がいた。
精いっぱいの愛情と優しさで、いつも見守ってくれた祖父母がいた。
私のいのちを、100%の力で、守ってくれた先生や看護師さん、医療スタッフがいた。
くじけそうになったとき、あきらめそうになったとき、一緒に歩いてくれた仲間がいた。
こんな頼りない私を、最後まで信じてくれた人がいた。
私の人生を背負い、私を愛してくれた人がいた。
ここまでの道のりは、決して、平坦ではなかったけれど、胎児期に亡くなってもなんら不思議では、なかったけれど、むしろ生きているのが、不思議だと言われもしたけれど、私が今日まで、生かされてきたのには、何かの意味があるのだと、思いたい。
この世に残さなければならない、学ばなければならない、やらなければならない、私にしかできない何かがあったのだと、思いたい。
(※このブログの字数制限のために、一度に入りきれませんでした。下の日記に続きます。省略したくなかったもので。。。どうぞご覧ください。)
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誕生してから今まで、幾つもの難病を発症してきて、どれも難しいものばかり・・・そして、どれも症例数が少ないもの。
原因不明、治療法なし、予後不良…。
それらすべての難病の原因が、ある一つの疾患の疑いが出たのは、生後2カ月のころでした。
当時の免疫主治医が、留学していたボストンの小児病院の医師らに私のすべての経過を綴ったデーターを転送し、向こうの医師の見解を聞く事になった。
その結果、この通常では考えられないような事が一個の個体に次々に起きるのは、まれだか、ICMDSではないかと、言われ、診断がつくに至りました。
過去に数例この病気だった患児のデーターをも送ってもらい、照らし合わせた結果、非常に症状や経過も酷似している事が分かりました。
日本では、初の症例。世界でもわずか数例の報告しかない。でも、今まで科学でも解明されなかった事が、すべて、気休めかも知れないけれど、この病気のせいだと分かっただけでも、両親は幾分か心が楽になったらしいです。
両親はよく私の小さかった頃の事、それこそ誕生までの事や生まれた時のあの壮絶な日々の事を、聞かせてくれる。私が聞きたがっていたのもあるのだけれど…。両親は隠さずありのままの、真実を伝え続けてくれた。
何度も何度も、『あなたをここまで、育てるのは、とっても大変だったのよ』と、教えられました。
育児の知識なんて、ない、新米のパパとママは、ふつうより手のかかる娘に、てこずりながら、どれだけの苦労を重ねてきたのだろう。
入院ばかりの日々。治ったと思ったらまた、新たな感染症を引き起こし、いったい風邪が治る日があるだろうか?と思うくらいに、何に対しても感染してしまっていました。
私が、生きていくには、この両親でなければ、ならなかった。でなきゃ、私は生まれる事も、ほかの人なら、私は生まれることも生きることもできなかった。
この、両親だから、私は今までいのちを繋ぎとめる事ができた。心から、そう思います。
思春期に入った頃、微妙な時期に、病気と友人関係の狭間で悩み、両親にも当たってばかりだった日々がありました。でも、その時だって、泣き叫びながら、想いにならない想いをぶつけた時、母は、私の体を力強く抱きしめて、『(Ressar)は、あたしが守る!!』と母も泣きながら、言ってくれたんです。
あの時から、私は、親になんでも話すようになりました。
悩みも、思っていることも。一緒に悩み、一緒に考え、たとえそこに、答えがなくとも、共に歩んでくれた両親を心から信じたんです。
痛みも分かち合った。苦しみも分かち合った。辛さも悲しさも、共に分かち合った。
そして、楽しさも嬉しさも一緒に、分かち合ったんだ。
私たち親子は、決して他の重度障害児を抱える親御さんのように、前向きな生き方ではありません。
毎日迷いの中…。
そして、未来さえ見えない、不確かなまま、今を生きる事で精いっぱい。
明日の事すら考えられない。
それは、時に無計画という名の下、非難される考えでもあるけれど、それが、私たち親子の生き方。
今日は今日、明日は明日。明日の事は誰にも分からない、不確かなもの。健康な人でも、明日には交通事故に遭うかも知れない。大地震が起きて、日本という国がどうなるか、分からない。
明日は、手にすることが出来ない、不確かなもの。だから、あたしたち親子は、いつもこの今という一瞬一瞬を大切に、生きていたいと思うんです。
例え明日死んだとしても、悔いの残らない人生を、自分の人生に責任と誇りを持って、歩んでいきたいと思う。
そうして、生きてきた。そして、これからも、そうして生きていく。
全然前向きじゃない私の生き方。
再発や進行した時には、落ち込みもするし、マイナスな感情とぶつかる時もある。
でも、それも、全部あたしだと受け入れられたら、私はもっと、成長できるのかな。。
「今年の誕生日は迎えられないかもしれない・・・」
といわれ続けながら、私は今日、ここで、18回目の誕生日を迎えることができました。
それは、本当に、奇跡に近いことなのかも知れません。
だけど、それを、「奇跡」という言葉にしてしまうには、あまりにも簡単過ぎて。
だって、これまで生きてこれたのは、ただ単なる「奇跡」では片づけられない程、周りに生かされてきたのだと、強く思うから。
10年前、今の私がいるなんて、誰もが想像だに出来なかった。
そして、今から10年後、私がこの世に存在しているかと聞かれれば、答えられません。
一分一秒先のことが予測できない病気だからこそ、いつ何があっても後悔だけはしないように。。
私たちは、そうやって、この18年の日々を、ただ目の前のことだけに必死になりながら・・・生きてきました。
昨年に余命1カ月と宣告されたとき、あの気丈だった父が、はじめて主治医の目の前で涙を流し、
「娘のためなら、すべてを捨てる覚悟はできています。」と言いました。
私のためなら、仕事も捨てる覚悟があった父。
そして現に、仕事を何度も変わってくれました。
私の中では、父は強くて、決して人前では涙を見せない人という印象があったのに、あの日・・・私は、はじめて、父の
弱さをみました。父の震える背中を見ました。
今年の4月、出血多量で心肺停止、緊急入院したとき、
両親は、最後の覚悟を、決めたそうです。
そして、弟も・・・、私がいなくなるかも知れないという事実と、必至で向き合おうと、様々な葛藤と闘っていました。
母は、「今年の夏、(Ressar)は、よう乗り越えられたね」と、父と話していた。
6月に在宅医療に戻ってきたとき、主治医から、
「今年の夏を越せるかどうか」と言われていた。
しかし、私は今年の夏どころか、誕生日を痛みの中でも、こうして、迎えられることが出来、後1カ月ほどで、年を越そうとしている。
そうやって・・・今まで、多くのことを乗り越えてきた。
だけど、だから、「だいじょうぶ。」だなんて、誰もが思ってない。
今日、何とか生きられても、明日の朝には、心臓が止まってるかも知れない。
突然死の可能性・・・だって。。
こうやって、淡々と自分の日常を綴っているけれど、その裏には、痛みと闘ってる現実もあって、目が見えにくい中、必至でキーを打ってる現実もあって・・・
そんなの、画面の向うでは、わかりようがないこと。。
「在宅でいれるくらいだから、大丈夫なんだね。」とか、
そういうわけではなくて、大切な何かを犠牲にしてでも、家族で過ごしたいから、在宅でがんばってる。
ほんとは、家族も私も、毎日に限界を感じてる・・・。
だけど、家族の誰もがそれを感じながらも、決して表情や態度に表さないのは、少しでも、みんなが繋がっていたいから。
少しでも、ほんの一瞬でも長く、同じ空間にいたいから。
ただ、その想いだけで、厳しい在宅を、今日も生きてる。
親だって人間。私だって感情がある生き物。
ぶつかるときもあるし、傷つけ合うこともある。
だけど、家族だから。
分かりあえたり、例え分かり合えなくてもいいと言える本音もあるんだ。
重度難病を抱え、重度重複障害の身で、日常生活全般にわたって介護がいる身での生活は、家族も本人も、それを支える人も、しんどい。
在宅生活は、ある意味で、本人と家族の自己犠牲の元成り立っています。
だけど、今日まで、生かしてくれて、ありがとう。
胸を張って言える。
私は、生まれてきてよかった!
そして、私は、幸せでした。今も、とても幸せです。
来世でも、再び、父と母の子として、生まれきたい。
大切なものはそのままに、第二の人生は・・・病気が治ればいい。
素敵な誕生日となりました。
これまで、いろんな出会いと別れがあった。
いろんな人がいて、いろんな考えを持った人がいる。
そして、いろんな人生が、ある。
これからも、私は私らしく、そして私色の花を咲かせ、無色透明な心にたくさんの虹色を足して生きたいと思います。
今まで育てて、たくさんの愛と優しさをくれた家族と、主治医や看護師さん医療スタッフ、いつも傍で励まし、共に歩いてくれた仲間や友人に、いろんな事を教えてくれた小学校の教師に、そして、愛する事の本当の意味を教えてくれた、彼に。心から感謝します。
素敵な誕生日をありがとう。
涙のバースディでなくて、良かった…。
ありがとう、ありがとう、ありがとう…。
かいぼー先生からのメール、涙が出るほど、うれしかった!
出会えたことに、感謝です。
本当にありがとうございました。
Ressar
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今日はなんとRessarさんの誕生日です♪僕とメールでの交流が始まって半年。その間、このブログで彼女のメールを紹介してきて今回で66回目。僕のPCには200ページ以上の彼女の文章が保管されています。ありがたいことです。僕が医師としてやっていくのに重要なバイブルとなります。
今日はみなさんも彼女の誕生日をいっしょに祝ってくださいね。
こんばんは☆
めっきり寒くなりましたね。。
先週は、神経難病の再発、感染症でまたまた大変な日々でした。
今日、おじいちゃんのお見舞いに母が行ってきたのですが、数日前から祖父が腹痛を訴えて検査した結果、膵炎の値が上がっているとのことで、現在絶食で治療を開始されているとのことです。
今は病状が落ち着いていると・・・。。
私も重症急性膵炎から重症慢性膵炎へ移行したので、膵炎の痛みのつらさ・・・分かります。。
すい臓の発作のときはほんと、身を引き裂かれた方がどんなに楽か・・・と思いますから。
でも、うれしいことがありました!
祖父が母に、「クリームパン食べたい。。」と言ったそうです。
今まで歯肉の炎症がひどく、食べ物すら受け付けなかったので、祖父が何か食べたい。と言ったことはありませんでした。だから母とともに感激してます。ただ、絶食なので食べさせてあげられないことが残念でなりません・・・。
相変わらず歯肉は痛いといっていますが・・・・・・・。
祖父を必ず、在宅で看れるように、私もがんばります☆(何を頑張れるだろう・・・せめて母の負担にならないように、介護量を減らすとか・・・)
こちらの地域でも、嘔吐・下痢がはやってます。
ちなみに私は、27日で18歳になりますが、体の機能は乳幼児並みだそうです・・・成長発達してないそうです・・・。。
なので、ふつう乳幼児しかかからないといわれる感染症も、私はふつうに、かかってしまうので・・・・・・
年齢的には「内科」になりますが、身体の能力・機能では、「小児科」から離れられないそうです・・・(在宅医の先生談)
こども病院では、点滴のたびに、新生児科の先生が呼ばれていたので・・・。
細い上に、本来あるべきところに血管がないとか(?!)で、よく先生泣かせの血管でした。
先生は、何故、お医者さんになったんですか?
ずっと聞いてみたかったんです。
また、内科を目指したきっかけも、あったんでしょうか?
私の血液腫瘍専攻の主治医(小児科医)は、以前、こんなことを言ってくれました。
“今でこそ治る病気になった小児がんでも、30年前は、ほとんどの子が小児がんと診断された時点で、死を宣告されることと等しかった。今の治るようになった病気は、多くの子どもの犠牲によって得た、医学の代償であるという想い。治るようになった子も、その昔この病気で助からなかった子が自らの命を張って、医学に貢献した。研修医時代にその現実に直面して、小児がん専門医になろうと思った。”
また、小児神経難病を専攻されておられる主治医は、
“進行性の難病が多いこの分野で、30年以上携わり、多くの子どもの死を見てきた。そこから感じることは、治らない病気が、この先進国でも治せない病気がまだまだたくさんあるという現実に、ただ理不尽さを感じる。
正直治らない患児の元には、気持ちがしんどくなり、いけないとわかりつつも、自然と足が遠のいてしまう。”
そんな話を聞かせてもらったことがありました。
医師としての本音も、医師の苦労も、分かりたいと思ってます。
でも、神経主治医が言われた、
“正直治らない患児の元には、気持ちがしんどくなり、いけないと分かりつつも、自然と足が遠のいてしまう。”
という言葉に対して、神経難病を抱える児として、かなりの衝撃を受けたことも事実です。
小児がんに携わっている医師が言っていました。
病気には2種類ある。
治せる病気と治せない病気。
では、医学、医療者の役割はなんなのだろう。
治せない病気を治せるようにすること。
これが一番わかりやすいと思うし、これこそ医学の進歩でしょう。
しかし、現在日本が抱えているがん医療の最大の問題はそこではないような気がします。
大人のがん医療は「日本のどこの地域にいても標準治療を受けることができるように」ということに力を入れています。
つまり、進歩した医学を何処でも受けられるようにすることが課題であり、折角進歩した医学を生かせていなというのが、現在の一番の問題点だと考えているのではないでしょうか。
最新医療も大切ですが、
治せる病気を治すこと、
スマートな医療をすること、
これらのことも非常に大切で、なおかつやる気になればできることです。
(やる気にならなければならないのは、医療者だけではなく政府もです)
では、治せない病気に対しては何ができるだろうか。
「治せない」 ということは、「何もできない」ということとは違います。
ただこのことは、頭ではわかっていても受け入れることは非常に困難です。
このような状況の時の対応策は人それぞれで、かつ時々刻々と気持ちも変わります。
ものすごく大雑把に分けるとすると、次の2つの選択肢があります。
「 わずかでも治癒する可能性のある治療をしつづける」
「 病気を治すための治療は全くせずQOLを重視する」
この2つの選択肢の間を、気持ちが揺れ続けます。
治療するメリットと、治療しないメリット。
治療するデメリットと、治療しないデメリット。
こどもが何を望んでいるのか。どうすれば笑ってくれるのか。
むずかしいです。
ほんとに、むずかしい。
そう言った、小児がんの専門医がいました。
私は、
「わずかでも治癒する可能性のある治療を続ける」
「病気を治す為の治療は全くせずQOLを重視する」
この二つの選択で、とても迷いました。
それは私だけではなく、家族も、主治医たちも、迷い戸惑い、窮地に追い込まれていました。
しかし、私には、前者の選択はほとんど閉ざされていたのです。
私には、「僅かでも治癒する可能性」が、ほとんどありませんでした。
必然的に、後者を選ばなければならなかったのです。
しかし、私はどうしても、治療を一切やめて、迫り来る死に無防備になれるほど、まだこの世に未練もありました。
情けないですが、せめて、弟がもう少し成長するまで、生きたいと思ったのです。
あの時、主治医に、
「いい加減、治療に頼るのはやめにしよう。」と言われた時、
誰もがあきらめたわけじゃない。
だけど、先生にまで辛い言葉を言わせてしまった事に、
自分の病気を、心から呪いました。
私たちが出した答えは・・・
「在宅で積極的な(体に負担になる)治療はしない。
でも少しでも進行を送らせるために、抗がん剤などの対症療法を続ける。
在宅で、ターミナルを過ごす。」
それが、あの時、私たち家族が出した、最後の・・・結論でした。
そして、今現在も、果たしてその選択が正しかったのかどうかは、分かりません。
しかし、私達は、
「これがよかった。」とは、決して言えないのです。
「これでよかった。」と、自分に納得を与えます。
結論と後悔は、紙一重。
だからこそ、私は、これまでどんなに厳しいリスクを伴った賭けに対してでも、
心の加重の大きい方を、選択として選びました。
その結果がよかったかどうかは、未だに分かりません。
だけど、ただ一つ、言える事は、
あの時選んだ答えによって、私は今も、今日も、ここで、生きられた。
それは、今の私の、真実です。
その真実だけをとれば、あの時選んできた私の選択は、
決して間違っていなかった。と言えるでしょう。
生きるって、そんな簡単なことじゃない。
生きるって、楽しいことばかりじゃない。
生きてたらいいことあるよ、って気休めが欲しいわけでもない。
私には、生き続ける苦しみも、分かるから。
でも、あの時の、あの選択を、
きっと、間違っては無かった!と、胸を張って、いつか、言えたら、いいな。
今は、強がりではなく、本心から、そう思います。
これからの季節、先生も患者数が増えて、大変になりますね。。
もちろん、患者さんにとっても、厳しい季節になります。
うちの両親は、“この夏よう乗り越えたな・・・”と二人で話しているのを偶然、耳にしました。
私は、今年のこの夏を、乗り越えられない。と言われていました。
でも、まだ生きてます。
決して「奇跡」ではない何かによって、私は今年の冬を迎えます。
そして今年のこの冬を乗り越えられるかは、誰にも分かりません。
でもきっと・・・信じてます。。
先生も、風邪など気をつけてくださいね。
Ressar
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昨日サガン鳥栖はホーム鳥栖スタジアムでの今季最終戦でした。
戦う気持ちを最後まで見せてくれましたが、残念ながら0-0の引き分けに終りました。
このような試合をものにしていかないとJ1昇格はないのだろうと思いました。
全力を出して戦うことはできていても、最終局面での冷静さに欠ける部分があるのです。一気にドリブルして切り込んできて、ゴール前にフリーで味方が走りこんで来ても、パスせずそのまま気持ちでシュートを打ち、しかもふかしてしまう。そのような場面が何回も見受けられます。その瞬間、気持ちは熱くても、冷静な部分を持ち、瞬時の判断で、自分が打つのかパスするのかの判断をし、小憎らしいばかりの的確なパスが出せるようになれば、と思います。
もちろん、劣勢を跳ね返すような強い力のこもった強引なプレーも時には必要。そういうことも試合の流れの中で判断できるようになれればいいと思います。
来季はがむしゃらにサッカーをするというレベルから一皮剥けて、もちろん全力プレーは必要ですが、かつ試合巧者な部分も身につけ、しっかりJ1昇格を果たしてもらいたいと思います。
ライバルのアビスパ福岡がこの日勝利したために、最終戦のアビスパとの九州ダービーを待たずに8位が確定しました。できれば最終戦、福岡との直接対決に勝利してアビスパを抜いて7位になりたかったところですけどね。
来季はロッソ熊本もJ2に昇格してきます。九州ダービーが倍増します。ますます熱いJ2!でもJ1で九州ダービーをしてもらうのが夢です。
試合後、ホームでの今季試合を終了し、挨拶する選手そしてスタッフ。
サガン鳥栖のHPにはベテラン選手のこんな頼もしいインタビューも載っています。
まだまだ今季最終試合のアビスパ戦。そしてリーグ終了後も天皇杯に勝ち残っているために戦いは続きます。来季のためにも全力を尽くして頑張れ!
そしてサポーターも頑張って来季の年間パスポート、買いましょうね!(^^)!
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昨日、佐賀県医師会で医療連携委員会が行なわれました。この委員会もスタートから1年以上が経過し、間もなく脳卒中、心筋梗塞、糖尿病そして各種がんの医療連携パスの概要が示せそうなところまできました。佐賀県内のすべての医療機関に対して何度もアンケートを実施し、やっとここまできました。
ネットで確認はできませんでしたが、会議の中で、全国に先がけて高槻市が連携パスを作り上げた、という話しが出ました。さすが高槻!高槻市と高槻市医師会がうまく協力・連携したからこそ早くできたのだと思います。
佐賀県も、一度作ったものを再度各医療機関に示し、訂正があればしていただき、そこで出来上がったものを県に提出し、来年4月から公表される段取りのようです。
開示内容は現在あるものをそのままするのではなく、おそらく一般向けと医療機関向けに内容は分けられるとは思いますが、とにかく県医師会が総力を挙げて作り上げてきました。僕も何度も診療が終了した後、佐賀まで資料を作って会議に出ました。それは自分の医院のためではなく武雄・杵島地区そして佐賀県民のために、という気持ちで時間を割いて行動してきました。もちろん僕だけではなく、そこに出席している各地域の代表の医師も同じだと思います。
医師会は世間一般からは保守団体のように捉えられていますが、僕の正直な感想はそうではありません。一般の方々が分かりにくい医療制度、ややもすれば、言い方は悪いですが、行政に都合のいいように言いくるめられそうな制度改革に対して、国民が不利益を被らないような観点から物申している団体です。
ですから各地域の医療に関しても、その地域に係わる問題に対して、各地域の行政とその地域の医師会は綿密な連携をとって医療・福祉行政を行っていく必要があります。
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在宅で診ているおばあちゃんといつもいっしょのタマちゃん。
前回行ったときはおばあちゃんの顔の上に覆いかぶさっていてびっくりしましたが、今日はちゃんと隣りで布団着て寝ていました。
2人?ともとても幸せそうです。
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ある医師のブログをご紹介します。一般の方々は医師がどのような環境下で仕事をしているかをご存知ありません。医師について一般的なイメージは、『お金を稼いで、ぜいたくな生活をしている』というところですか?政府も医療機関にはまだまだ経済的余力があると見て、来春の医療法改正ではさらなる診療報酬の削減を言います。小児科、産婦人科、そして今回は勤務医の激務についてはマスコミも取り上げ、少しは、少しは改善しようという試みが診療報酬上は見えますが、所詮小手先。現場のことを本当には理解できていません。
さて、今回の話は勤務医の話ですが、しかし、実は開業医でも在宅で重症患者さんを抱えて診ている医師は同じような状況です。以前、このブログにも書きましたが僕の知り合いの先生は在宅で2人の昼夜を問わず頻繁に呼ばれる患者さんを持ち、結果、ご自身が発作性の心房細動を起こされ、深夜自分で救急車を呼んだ、ということがありました。一歩間違えば突然死もありえた話です。そして在宅にそのような患者さんを抱えているので入院はせず、外来に通院しながら往診は対応されたということです。危険な話です。
真面目に在宅医療をしている先生ほど心身ともに磨り減る思いで仕事をし、体調を崩す危険を侵してでも頑張り、しかしそのことに対しての責任の重さや過酷な労働状況が判断されることはなく、ただ責務は押し付けられ、そして診療報酬の減算の中で経営的にも喘いでいるというのが現状です。
現在の厚生労働省と財務省のやり方が続けば医療現場は崩壊の可能性が高いと思います。
『犠牲』
身近な医者を、2人亡くしています。
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一人は約10年前。
当時30代の、先輩医師です。
研究に、臨床に、非常に忙しくなさっていました。
たまにご連絡を下さる時は、
決まって深夜2時3時のメールでした。
学生時代は体育会でご活躍された先生で、
人間?と思いたくなるようなタフさと、
ひょうひょうとした笑顔を併せ持った
爽やかな先生でした。
大学病院勤務時代の夏、当時研修医だった私たちを集めて
ナイター見物に連れて行って下さったことがありました。
外野席で、ビールを飲みながら
ハンバーガーとポテトをほお張って
みんなでひゃあひゃあ言っていたら、
先輩だけ眠ってしまったのを、今でも覚えています。
その日も、病院で夜遅くまでお仕事をなさっていました。
術後の患者さんが落ち着くのを見届けた後、
0時過ぎから論文の添削を始めたところまでは、
他の医師が見ていました。
翌朝、出勤してきた同僚医師が、
医局で倒れている先生を見つけた時には
既にお亡くなりになっていたそうです。
葬儀には、婚約者の女性は
出て来ることができなかったと、
後で聞きました。
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今度は、友人医師を亡くしました。
彼女も、30代です。
同じ職場の上級医師が、過労でその病院に入院中でした。
元々、一人が過労になるような労働環境ですから、
多くをお話しする必要はないでしょう。
一人が入院・休職しても、現在の医療事情では
代替要員は派遣されませんので、
残ったドクターたちは、目も当てられない忙しさでした。
緊急opeのある科の医師で、
毎日遅くまでopeをした上に、
夜中も容赦なく呼び出されていました。
「過労だけは気をつけようね。壊れる前に、逃げようね」
と、お互い言い合っていたのに・・・
その日、彼女は当直でした。
翌朝、交代で当直に来た若い先生が当直室に入ると
彼女は机にうつ伏せになった状態で、亡くなっていたそうです。
大きな悲鳴を聞いて、一番に駆けつけた人が
何と過労で入院中の、彼女の上級医師でした。
その先生は、自分が休職したからだと自分を激しく責め、
入院先も変えた上に、退職されてしまいました。
残った同じ科の先生たちも、
全員がご自分を責め続けています。
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二度と犠牲者を出したくありません。
どうしたらいいでしょう。
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