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現職の大臣の自殺。かいぼー一家でもこどもたちが大臣の自殺について話題にしていました。ご冥福をお祈りします。しかし、TVのニュースでは 「彼は命をもってつぐなった。侍だったんだね。」 などと神妙に話す著名人もいて、それが侍なのか?と情けなくも思います。
ひとの命を語る例としては大臣の自殺はふさわしくない。
17才の今日まで難病と闘い続け、そして今も尚、みなさんに難病者への理解を求めるために、そして命の大切さ、尊さを知ってもらうために、言葉を発し続けるRessarさん。彼女の言葉こそがこどもたちが命について考えるのにふさわしいものだと思います。彼女の言葉には力があります。身体はぼろぼろなのに、彼女の魂から発せられる言葉のパワーに、多くの方々から賞賛、感嘆の言葉が僕のところに寄せられています。
今回も彼女のここまでの必死の歩みをご紹介します。小学校・中学校での生活の模様。そして最後にユニバーサルデザインについての彼女の見識が書かれています。
>今日のブログにコメントを書き込んだEnzoさんは、家庭教師を生業としています。遠くは長崎まで車で2時間くらいかけて行ったりもしている教育者です。サガン鳥栖の熱烈なサポーターでもあり、そちら繋がりで知り合いになりました。
いろんな知り合いがいらっしゃるんですね!
人との繋がりが多い方、また濃厚な方は尊敬しちゃいます。
私も小学5年から家庭教師をお願いしていました。
学校にはまったく・・・いけませんでしたから・・・
両親は、勉強なんてしなくていい。ただからださえ、丈夫であってくれたら・・・それだけでいいと言っていましたが、病気である本人はそんなわけには行きません(笑)。
みんなに追いつくのに必死なんです。
私はまったくといっていいほど、学校にはいけませんでしたが、幸いにも留年は、一度もしたことがありませんでした。
出席日数は明らかに足りなかったのに。不思議です。
きっと担任はじめ多くの先生方が陰でサポート支援してくださったのでしょうね。病院でであった子たちの多くは小学校のころから、何度も留年していた子もいましたから・・・。
私は6歳になる手前、5歳まで病院にいました。
医師より、もう自宅での治療に切り替えた方がこの子の人生にとって、残りの時間にとっても、有意義だと思うからと在宅医療の手続きをしていましたが、それ以前に、両親は普通の子ではないけれど、ふつうの子より多く手がかかるけれど、たくさんの特別の配慮もしてもらわなければいけないけれど・・・でも、地域で、ふつうに、育てたいと強く、幼稚園の入園を希望しました。といっても、強く希望したのは両親ではなく、私だったんですが・・・。
病院は大人ばかりの世界です。周りは先生、看護師さん、保護者の人・・・。右をみても、左をみても、大人、大人、大人・・・。
大人の中で育った私は、同世代とのかかわり方を知らず、今でも同年代の子との話には、正直戸惑い、ついていくことができません。
そんな中で、大人の方と関わるのもよいけれど・・・やっぱり子どもには同じ年の子どもたちと触れ合うことが、成長発達の過程においても、大事だということに、気づきました。
多くの病気を伴っている私を受け入れてくれる幼稚園はもちろんすぐには見つかりませんでしたが、幸い自宅近くの私立幼稚園に理解があり、受け入れていただきました。
感染症の危険で、多くのリスクを伴い、そして体力もないことから、行ったり行けなかったり・・・。
入退院も繰り返しましたし、名前がそこにあるだけ、という感じでした。私立でしたが、いわゆるお受験校で、週末には幼稚園ながら宿題がありました。その宿題をするのが、当時の私は唯一の楽しみで、幼稚園にはあまりいけなかったけれど、病院のベッドのうえで、せっせと問題を解いていたような記憶があります。
小学校の入学の際も、教育委員会と公立の校長、養護教員の話あいの元、やはりこんなに重度であるならば、養護学校に行かれることをお勧めします。といわれたそうですが、両親はどうしても公立で、健康な子どもたちと同じように、は行かないかもしれないけれど、送り迎えも、学校内での待機もしますから、何かあっても学校側に責任は押し付けませんから、と必死で母がお願いし、幸いにも理解ある学校だったので、受け入れていただきました。
本当は、養護に行くべきだったはずなんですがね。
受け入れていただいた小学校の校長、養護担任、学級担任には、感謝しています。
小学校もほとんどいけませんでした。
遠足も行ったことがありません。
病院に入院することが多く、退院しても、絶対安静、自宅待機の日々が続いていました。
小学4年生と5年生に恩師となる教師と出会い、二人の女性教員によって、私は文字と出会い、文字を書くこと、文字を書く難しさを教えていただき、人として、大事なことを、卒業後も、教えていただきました。
小学校最後の修学旅行は、多くの困難と主治医もストップをかけていましたが、4年生のときと同じ担任のお蔭で、多くのハンディを背負いながら、多くの先生方の協力と配慮を必要としながら、行けたことは何よりもの思い出になりました。
そのときの担任が、「(Ressarさんの本名)は私のかわいい生徒です!絶対に連れて行きたいんです!!」と主治医に何度も言い、主治医も根負けして、紹介状と何かあったときの指示書などを書いていただきました。
両親もその夜は電話を横に、いつ電話がかかってきても、すぐに飛び立てるように、構えていたそうです。
幸い、種々の発作もなく、養護の先生のお世話になりながら、修学旅行は楽しい思い出になりました。
中学は・・・あまりいい思い出がありませんが。
中学の入学のときも、やはり養護学校を進められたのですが、留年もなく、小学校も何とか卒業できたのだから、こちらで受け入れてくださいと、母と共に頼みに行き、小学校からの引き継ぎもあり、中学はしぶしぶといった感じで、納得してくれましたが・・・。それがそもそもの選択の間違いだと気づくには、そう時間はかかりませんでした。
担任になった教師も、養護の先生も、保健室の先生も、無理解で病児に対しての思いやりもないような言動を平気でされるような方々だったんです。
小学校では比較的濃厚にケア、サポートしてくださっていただけに、中学でのこの対応は、非常にショックでした。
また、このころは私の病状も進行していっていましたし、自力で立つこともままならない状態だったので、学校にもドクターストップがかかっていたにもかかわらず、担任はじめ保健室の先生からは、毎日のように電話の嵐・・・
それも体調を気遣うものではなく、一方的に、「はよ、学校おいでや」というものでした。
発作がおきているのに、熱が39度もあるのに、どうして行けというんだろう。
この人たちは、何もわかっちゃいないんだ・・・。ただ、私が学校嫌い、不登校と決めつけているんだ・・・と悲しくなったのを覚えています。
私は学校が好きでした。小学校のころいじめにもあいましたが、明日また学校に行けなくなるかも知れない私にとっていじめは幼稚に見えましたし、我慢することもできました。だって、明日にはまた、長期入院するかもしれないのですから・・・。
それでも中学には行ってからのこの教員の心ない対応で、私は学校そのものに居場所を見いだせなくなり、行きたくてたまらなかった学校が、とても苦痛の場に変化していきました。
そのころは、もう毎日がつらく、体もしんどく、心不全も悪化して、とにかく息ができないほどの苦痛と戦いながら、毎日毎日点滴に通っていました。そんな中でも、教師の心ない言葉は飛び交います。
理解されないことが悔しくて、情けなくて、私は自分を見失いそうになりながら、教師に負けじと立ち向かうように、つらくても学校に通いました。
行っても1時間か2時間。それ以上は医師から許されないのです。それは小学校から続いていたもので、私にとっては、当たり前のことでした。
あの悲劇は1年生の夏。起こりました。
その日も、いつものように点滴して、遅刻しながら門をくぐったのです。が、うん悪く見知らぬ教師に出会いました。
その教師に、遅刻したことをとがめられ、点滴してきたことなどを話しても信じてもらえず、校庭1週走って来い!といわれたのです。私は、心臓が悪いこと、走ることはできないこと、伝えたのですがそれも、頭ごなしで否定されるだけで・・・私はもう、この先生に何を話しても無駄だと思い、どうなってもいいとすら思ってしまって、かばんを放り投げ、走りました。走れるわけありませんよね。
20mもしないうちに、倒れ、意識を失い、心臓が止まってしまいました。そして、救急車で運ばれ、10日間も意識が戻りませんでした。
幸い、意識も回復しましたが、両親はもちろん主治医も怒りが収まらず、学校を相手に、訴訟を起こすことになったのです。
約3年の訴訟の末、学校側は、二度とその教師を教壇に立たせないことを条件に和解を求めてきました。
私ももうこのころは、卒業もしていましたし、病気と闘うことで精いっぱいだったので和解に応じた次第です。
その事件をきっかけに、ドクターは完全なる通学ストップをかけ、私は2年生になったのと同時に、二度と中学には足を踏み入れませんでした。
2年も1年のときと同じ担任でしたが、あれだけ毎日電話をしてきては、私も両親もノイローゼ気味まで追い込んだ音沙汰が、2年になったと同時にぴたりとやみ、それから丸1年間、見捨てられた感も同然、何も連絡もありませんでした。
3年になる前に、やっと担任と保健室の先生が今まで何の連絡もせず見捨てていたことを詫びてくれました。
許せませんでしたが、謝ってくれたことで、いつかはこの人たちの事を許せるような気がしました。
いくら裁判をやって、裁いたとしても、私たちの真意は訴訟を起こすことではなかったのです。
ただ、こうして目の前にいる一人の生徒に、誠心誠意向き合って、謝ってほしかっただけでした。
それだけで、私も両親も、主治医も救われたはずです。
結局、卒業式にも出席できませんでした。もうこのころには、動くこともできなくなっていたのです。
主治医からも卒業式への参加は、認められませんでした。
でも、卒業式後日、家の外に、クラス全員が来てくれて、「卒業おめでとう」の言葉とクラス全員が書いてくれた色紙をもってきてくれました。
一度も合ったことも、しゃべったことも、同じ教室で勉強をしたこともない彼らが、クラスメイトのひとりとして私を思ってくれていたこと、見ず知らずのクラスメイトのために、来てくれたことは、うれしかったです。
3年のときの担任は、馬があったのか、歩けなくなっていた私に気遣い、何よりも病気を理解し、体を気遣ってくださったことがうれしかったです。
何よりも、毎月欠かさず、プリントを持ってきては、雑談をしてくれた彼女に、1年生や2年生では考えられなかった教員のぬくもりを感じました。
あまりいい思い出は残っていない中学生活でしたが、強いていうなら、3年生の1年間が、充実した時間だったような気がします。
「配慮」は、「特別扱い」ではありません。
ユニバーサルデザインが定着しつつある今ですが、健康な人も障がいを持った人も、赤ちゃんもお年寄りも、青年も、わけ隔てなく、みんなが同じように使いやすいデザインを。という趣旨のものが多くなってきています。
私は反対ではありませんが、ただ、使いにくい点はどうしても感じずにはいられません。
例えば、私は直腸膀胱障害で、排尿排便のコントロールができません。
また、消化器の疾患で、一日3リットルもの下痢がおきます。
いつ腹痛の発作がおき、一度起きると、顔面蒼白になり、血圧も低下します。
すぐにお手洗いにいったりしないと、意識を失ったりしてしまうことがよくありました。
今ではぶっちゃけ、バルーンとおむつですが。。。
車いす用のトイレをユニバーサルデザイン化されるところが多くなり、張り紙には、「どなたでもお使いください。」と書かれているところが多いです。
「どなたでも」ということは、もちろん健康な人も意味していますよね。
車いすの人は、車椅子トイレではないとできません。
それを、健康な人に使われてしまったりすると、車いすの人は困ります。
私のように、直腸膀胱障害で自身で排尿排便コントロールができない人もたくさんいらっしゃいます。
そんなときに、健康な歩ける人が使ってしまって、入れないとき、自身でコントロールができませんから、ぶっちゃけ漏れてしまうこともあるのです。
ユニバーサルデザインを推奨している障がいを持った方もいますが、同時にユニバーサルデザインは、使いにくい、健常者が考えたものであるから・・・という声もよく聞きます。
こういう障害もあること、トイレの問題だけではなく・・・
誰もが同じようにできる社会。
病気だから、障害だから、特別扱いをしてほしいわけではなく、病気であるから、配慮がいる部分もあるということ・・・。
障がい者や病気を持った者が暮らしやすい、困ったときに声をかけられるそんなやさしい社会になれば、健康な人も住みやすい社会になると思うんです。
そのためにはまだまだ、長い年月がかかりそうですね・・・。
次のメールに臓器移植の事を書こうと言っていたのに、家庭教師の話から、なぜか学校の話になってしまいました。
次には送りますね。
このメールを4時間かけて、打ちました。
また、メールします。
それでは、おやすみなさい。
Ressar
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