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明日、御船が丘梅林で 『うめーランド』が開催されます。
そして11時から茶屋の横のメインステージにて武雄区子どもクラブによる出し物 『如蘭塾物語』 が披露されます。
今日午後からリハーサルです。しっかり練習して子ども達が『如蘭塾』の成り立ち、そして歴史についてお話しますので、ぜひみなさまお誘いあわせの上、ご来場ください。
僕も如蘭塾創設者『野中忠太』役でお面を被って出演予定です!(^^)!
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今日ご紹介するRessarさんからのメールもすごいです。彼女のすごいところは思慮の深さとともに広さです。自分のことで精一杯と思うのですが、彼女は僕では思いも及ばない周囲への気配りや配慮、そしてその身体でどうして、と思うように行動もされます。神に生かされているとも思ってきましたが、彼女そのものが仏ではないかとも思えてきました。それが17歳の子なのだと思い出すとき、やはり自然と頭が下がり、今日もRessarさんが一日を過ごせますように、と強く念じます。
こんにちは♪
こちらこそ、かいぼー先生からのメールでいつも励まされています☆
こちらは、真夏のように・・・とうとう今日は29°を記録しました。
5月でこんなのなのですから、真夏には、一体どうなることやら・・・。地球温暖化の恐ろしさを感じます。
今日も弟はげんきに、学校に行きました。
まだまだ、帰ってはきませんが、いつもやさしく明るく、喧嘩をしても、私が困っているとそっと手をさしのべてくれるやさしい子に育ってくれたことが、私の自慢です(=*^-^*=にこっ♪)
弟にはずいぶんとさみしい思いをさせました。
弟とは7歳離れていて、きょうだいというよりは、弟は私にべたべた、私も弟を溺愛してしまいます。
私が7歳のとき、弟ができましたが、母親は弟を生むことにためらいがあったと聞きました。
「難病を抱えている(私)だけで十分だと思った。下を育てる自信もなかった。」
でも、その時父が言ったそうです。
「せっかく授かった命なんだから、二人で育てよう。」
その言葉で、母は弟を出産することを決意したそうです。
父と母が出会って、私が生まれた。
でもそこに至る道は、私には語ることもできない多くの涙と葛藤もあったのだと思います。
母は私の前に一度流産しており、非常に子どもができにくい体でした。お医者さんからも、「子供は難しい。」といわれていたそうです。
もう半ば子どもはあきらめていたころ、私を授かり、両親はもちろん、両家祖父母も初孫として、大変喜ばれ、かわいがられました。
そんな私が難病であることを知ったのは、胎児3カ月のころ、産科医での検診のときでした。
産科医より、心拍が非常に早く200を超えているとの事で、心臓病を疑われ、母子センターへ紹介入院しました。
当時はまだ胎児診断というものが、発達していなかったので、その医療に先駆けて診てもらったことは、幸運なことだったと思います。
母子センターでは、まだ胎児日数が浅かったため、詳しくはわかりませんでしたが、胎児不整脈と診断され、入院治療を行ったそうです。
時間が経つにつれ、病状ははっきりと映し出すことができ、生後16週のころには、重度の心臓病、肺疾患、腎臓がない(左の腎臓の上部だけが残っている感じでした)など・・・多くの異常を指摘され、胎児死することの方が生存して生を受けるより、はるか可能性としては高かったんだそうです。
そして、胎児20週のとき、胎児水腫にかかり、母体ともに危険な状態に陥りました。これ以上引き延ばすのは、母親の体も危ないとされ、24週のときに緊急帝王切開で、425グラム、超未熟児の私が誕生したのです。
誕生後の私は、骨の病気で、多発骨折して生まれてきました。肋骨、大腿骨、上椀骨・・・実に10カ所以上も骨折して生まれてきて、2、3日が山、といわれていたそうです。
多くの染色体異常を伴い、多くの合併症と不可解な病状を持って生まれてきて、生後2カ月のころ、確定診断がつきました。
それは、当時の主治医が、留学していたボストン小児病院に私のデーターを送り、現地の医師がつけた診断でした。
日本では初の症例、世界でもたった8例しか報告がない稀少難病であると告げられました。
多くが胎児期になくなり、たとえ生を受けても、歩くことはできなく、しゃべることもなく、目も耳も見えているか聞こえているかわからない、生存は難しいと数少ない文献にはそう記されています。
しかし、私は今では寝たきりですが、歩行障害があるものの、一度は歩行を獲得し、車椅子でしたが、17年も生きられたのは奇跡だと多くの医師がいいました。
医師でさえ、この病気が何か知らない人が多く、病院を受診するたび、知られていないこの病の孤独さを知りました。
それでも、私はふつうの少女です。
学校にはまったくいけなかったけれど、健康な友達はいないけれど、多くの仲間がいます。
守られた環境の中で、守られた人たちの中で、生きてきました。
その守られた環境から一歩外へ出たとき、社会の冷たさを感じました。
私は当たり前ですが子どもが生めません。
自身の体で育つとは考えられないし、また抗がん剤や放射線治療を幾度となく受けてきたので、例え妊娠できたとしても子どもも奇形を持って生まれてくることは容易に想像できます。
中学のとき、主治医にそのことを問い詰めたら、「残念だけど、子供は生めない」とはっきり言われたことがありました。ショックでした。頭ではわかっていたけれど・・・
女として生まれた以上、やはり子供を生みたいと思うものです。
悔しかったです。
でもその悔しさを一番わかってくれて、共感・励ましてくれたのもまた、弟の存在でした。
彼は私のできないことを、進んで手助けしてくれます。
重たい車椅子を車に積み込む作業も、車椅子の整備も、空気入れも。
また、感染症にかかりやすいので、家族以外の接触はできず、それをよくわかっている彼は、あそびたい盛りなはずなのに、一切家に友達を呼んだりしません。
わかっているんですね。。たった10歳の弟の中にも、姉は感染症で、たった風邪でも、命取りになることを。
まだ、10歳です。まだ5年生です。
私が入院するたびに、両親は付き添い、弟は幼少期を祖父母に育てられました。
それでも弟はぐれることもなく、反抗するでもなく、さみしいと口にすることもなく、ひとりで耐え、一人で消化し、やさしい心に育ってくれたんですね。
どんなにさみしかっただろう。口には出せなかっただけで。
そんな病児のきょうだいにも支援の手を、さしのべたい。
そんな思いで、きょうだい児支援のボランティアにもつきました。
けれども、活動していくうちに、自分の弟でさえ気持ちを分かれないのに、どうしてほかのきょうだいの気持ちがわかるのだろう・・・
そう思ってもいます。
多くの小児病院、小児病棟では、中学生までの病棟への面会は、感染症の危険から、面会はできないことになっています。小さなきょうだいたちは、母親と離れて、遠くの親せきに預けられたり、ひとりで留守番したり、また病院の何もないロビーで、母親が病児と面会している間、ひとりきりで冷めたお弁当を食べたり、ゲームをしたり、本をよんだり、宿題をしたりして、過ごしています。
でも、病院は、小さな子はひとりで過ごすには、あまりにも危険な場所でもあります。
誰かが見守りに入れないだろうか・・・
誰かがいっしょに母親の面会が終わるまで、きょうだいたちと遊べないだろうか・・・
そんな思いを抱き、昨年、○○市(関西)のいくつかの病院に、きょうだい児のための保育ボランティアが導入できました。
子どもが病気になったとき、ご両親は戸惑い、不安になり、多くの葛藤を抱きます。
一時期、きょうだいに目を向けられなくなったとしても、それは誰にも責められるものではありません。
でも、きょうだいも、きょうだいなりに、悩み、不安になり、多くの葛藤を抱いています。
自分がいい子にしていなかったから、お兄ちゃん(おねえちゃん)が病気になったのだろうか。
病気を小さなきょうだいは、自分のせいだと罪悪感に支配されます。
そんなきょうだいたちに、病気になったのはだれのせいでもないこと、あなたを見ている大人がいることを、伝えたい。
きょうだいを支援することは、病児を支援することより難しいといわれています。
でも、私は、少しの間だけ、ボランティアに携わり、ボランティアとして、多くの事を得ました。
悲しい別れもあったけど・・・多くの仲間たちに支えられて、今があると思っています。
弟には感謝しています。
ささいなことでの喧嘩は耐えないけれど・・・
よきパートナーです。
また長くなってしまいました・・・反省。。
また、メールします。
Ressar
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