何気なくサポティスタ(http://home.att.ne.jp/blue/supportista/)のブログを見ていたら、『がばい武雄deフットサル』(http://supportista.way-nifty.com/blog/)という題名でミスマガジン(http://www.sphereleague.com/)が書いているのを見つけました。
5月19日、『武雄市フットサル宣言』(http://blog.m3.com/kaibo/categories/13・・・夢の途中(Ⅲ))当日の女子チーム対戦の模様が詳しく書いてあります。そして何より嬉しいのはメンバーが「また、佐賀でフットサルしたい!」(本音を言えばちゃんと武雄と言って欲しかった・・・笑)と書いてくれていることです。
リバイバル(http://www.geocities.jp/revival_saga/)のみんな!また企画してね!(^^)!
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古民家を再生してNPOで経営されているレストラン『食彩家 こずみ』に行ってきました。東川登町にあります。武雄から嬉野方面に走れば、国道沿い右手にすぐわかります。赤い看板がでてます。
古民家自体は道路から少し奥に引っ込んでいます。
さすがに古民家。涼しくて気持ちいいです。
昔の日本の家ってこんな感じでしたね、って体感できます。
食事もおいしくて、ゆっくりした時間が過ごせました。
こんなすてきな空間が武雄にも出現して、いい意味で武雄は変わってきてるなぁ、と思います。
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Ressarさんのメール。実は数日遅れでここに載せています。でも今日は順番を変えて一昨日のものを載せます。今回はおばあちゃんとお母さんについて語ってくれています。Ressarさんといっしょに写ったおばあちゃんの写真を僕に送ってくれましたが、そこに写っているおばあちゃんの表情は、「このかわいい、自慢の孫を護る。」という固い決意が見える、目の光、きゅっと結んだ口元、Ressarさんの手を包み込みしっかり握られた節くれだった大きな手、すべてがすばらしいものでした。
こんにちは☆
きょうは昼から、祖母が入院している病院に母が出かけるため、本日非番の担当医とお留守番です。
「はるちゃんの在宅医療を支えるチーム」なるものが病院内で立ち上げられ、非番の医師が交代で見守ってくれます。こんな医療に出会えたことに感謝です。
松岡農相の死は大変衝撃的でしたね。
残念です。
いろいろ激しくバッシングされて、相当追い詰められていたんだろうと思います。ひとの命は尊いもの。その死からその人の生き様をあれこれ推測することではありませんよね。
世論が激しいのは、真に残念であり悲しい限りです。
ZARDの坂井さんの転落死も衝撃的でした。
坂井さんの歌が好きだっただけに、残念です・・・。
母方の祖母は、今年82歳になりました。5年前に整形外科的疾患で寝たきりとなり、リハビリを頑張って家の中だけ、歩けるまで回復していました。
今年の3月31日が祖母の誕生日だったのですが、私はいつも心配をかけている祖母に、年金の月には必ずお小遣いをくれる祖母に、何かできないかと、外に買いには行けない身ですから、ネットであれこれプレゼントを探しました。やっと見つけたのが、和小物の巾着です。
これから少しずつ車椅子でも外出できる日が増えてくることを願い、買い物に行くときにでも、財布などを入れて持ってくれるのに最適なサイズを選び、プレゼントしました。
祖母はそれを非常に喜んでくれ、大事に大事にしてくれています。
そして、自らの誕生日の日に、私にお返しだと言って、近所の果物屋さんに自分の足で歩いて、リンゴを買いに来てくれたのです。
食事制限が厳しい私に、抗がん剤の副作用で何も食べれない私に、少しでも食べれるものを、食べれそうなものを選んで、真っ赤なおいしそうなリンゴを3つ。買ってきてくれたのです。
足腰が弱ってるおばあちゃん。ひとりでは危険なおばあちゃん。転倒でもしたら・・・。
のちに果物屋さんのおじさんから聞いたことです。
「おばあちゃん、リンゴ買いに来てくれたよ。どれがいいかなぁ~ってにこにこしてはったよ」
重たかっただろうに、しんどかっただろうに。
その翌日。4月1日深夜、トイレに行こうとベッドからおき、戻ろうとしたそのとき。つまづき、転倒してしまったのです。
そして一人では動くこともできず、隣の部屋で寝ている祖父は耳が遠く、ベッドにある電話に手を伸ばすこともできず、助けを呼ぶこともできないまま、4時間がたちました。
まだ、朝晩は底冷えのする季節です。
4時間後、同居中の叔母が仕事から帰宅し、祖母を発見。すぐに我が家に電話をくれ、父が起こしに行きました。
そのときは、だれもの頭に、「骨折」という文字は浮かんでいませんでした。私を除いては・・・
私はボランティアの経験、そして自らの経験上、お年寄りの転倒は、まずは痛みを訴えなくても、骨折を一度は疑うべきという教えがあります。
加齢によって骨年齢があがり、脆くなり、またお年寄りの大半は骨折時に対する痛みの感受性も低いといわれています。だから、私は念のため、病院に連れてった方がいい、骨折してたら大変だから、何もなかったらそれでいいじゃないかと両親を説得して、夕方に病院に連れて行きました。
左大腿骨の骨折でした。すぐに手術をすることになります。
しかし、祖母は肺が悪く、術後合併症や様々なリスクがあると事前に言われ、大変心配しましたが、幸いにもすぐに麻酔から目が冷め、心配されていた合併症も出ず、その後リハビリ病院に転院。祖母が手術を受けたとき、私は感染症にかかってしまい、緊急入院をしていました。病床の上で、祖母の手術が無事終わることを祈っていました。
手術も無事終わり、祖母は順調に回復しました。
高齢とは思えないくらスピードで、病院スタッフも驚いています。
祖母は、「自慢の孫やねん。難しい病気持ってるけど、やさしい子やねんで。これなぁ、この子が私の誕生日にくれやってん。」といい、あの巾着を見せていました。
もう、今週末くらいに退院という話も出ており、今日は母が祖母の病院に行く予定です。
母は本当に立派だと思います。
私の介護・看護から、祖父母の介護まで。それに毎日の家事がつきまといます。
自宅でひとりでいる祖父も同じ82歳。
ぼちぼち歩けますが、足元はおぼつかず、祖父が転倒しないかとびくびくします。
歯が悪く、食事も流動食形でないと食べれないので、毎晩母が食事の世話に行き、帰ってきては我が家のご飯の支度をする・・・。
叔母が祖父母の家に同居していますがいろいろあり、一緒に住んだこともないので、ちょっと家事でも介護の面においても私たちと感覚が違うんですよね。
もっぱら今まで母がひとりでやってきたんですから・・・・。。
きょうは祖母の話をしてみました。
昨日、あまり眠れなかったので、今からちょっとお昼寝します。笑
おやすみなさぁい☆
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臓器移植、特に小児の移植については国内での論議はなかなか進みません。でのそんな中でも臓器移植を待ち望んでいる子たちはいて、しかもその願いが叶わず亡くなっていく。そんな友人のメッセージとともにRessarさんが臓器移植の問題について語ります。毎日痛みや苦しみと闘いながら、どこにこんなにしっかりと考えを述べる頭脳、精神が存在するのか?いつものことながらRessarさんには感嘆という言葉を送るしかありません。
(Ressarさんについてお知りになりたい方はこの命シリーズの①から読んでいただければ幸いです。)
さて、今日は、臓器移植について、書いてみたいと思います。
ご存じのように、小児の臓器移植は日本では法律上認められていませんよね。
なので、臓器移植の適応とされた多くの児は、海外へ渡米し、治療を受けることになります。
しかし、その渡米には、多額の費用がかかり、とても個人で負担できるような金額ではありません。何千万、時には1億にもなるのですから・・・。
街頭で必死でわがこの命を救おうと、募金を呼び掛けているご両親がいます。ボランティアたちがいます。
どうして日本に在国しながら、日本で治療ができないのか。
そこには、日本の独特の偏見や宗教的問題、矛盾や理不尽なことばかり、伴っています。
私が所属している団体は、1人1人に呼び掛け、署名を集め、法改正を強く訴えてきました。
しかし、いまだ小児にまつわる移植問題は前進していません。
私の仲間にも何人もの移植待機児がいます。
助かるには、心臓移植しかないといわれた子。
一生涯の透析から解放されるには、腎臓移植しかないといわれた子。
げんきになるには、移植しかないと言われた子や親は絶望的な気持ちになり、それが母国日本でできないとされては、とても言葉では言い表せないほどの絶望感があると思います。
運よく募金が集まり、渡米したとしても、ドナーの待機中に、亡くなってしまう子が後を絶ちません。
異国での言葉の通じない医師たちに囲まれて、最期を迎えてしまう子どもたち。
親せきや友達にもあえず、たった一人で旅立ってしまうことに、なぜ日本ではできないのと、泣きながら、主治医に答えを求めたことがありました。
私の心臓病の友達で、心臓移植をしなければ、半年も生きられないと宣告された13歳の女の子がいました。
彼女は移植が必要で、海外へ行かなければならないと告げられたとき、笑ってこう言ったそうです。
『日本を変える。』
その言葉に医師やご両親や共に闘い続けた私たちにも大きなショックを与えました。
しかし、そんな気丈な彼女をよそに、病魔は進行し続けます。
移植が早急に必要なときがやってきてしまいました。
しかし、彼女は、「アメリカでできて、どうして日本ではできないの。」と泣いたそうです。
医師らや両親の説明と説得で、彼女もようやく渡米しなければならない事実を受け入れ、準備にとりかかっていた、まさにそのときでした。
急変し、彼女は、心不全で14歳の生涯を閉じました。
本当にあっけなく、それでも彼女は、自分の人生をまっとうし、素晴らしく旅立っていきました。
私より、一つ下でした・・・。
余命半年といわれながら、さらに半年もの時間を懸命に生きた彼女の人生は、決して、悲観され、可哀想な人生ではなかったと思っています。
最期まで、「日本を変えるんだ。」といって、笑っていた彼女。病と闘った彼女は、とてもすばらしい子でした。
彼女の死は、今後の小児に対しての臓器移植に関して、改めて深く、考えなければならない。という改革を起こしてくれました。
一昔前に比べ、一般国民にも、『臓器移植』という言葉が定着しつつあります。
多くのマスコミメディアが移植について目を向けられるようになった今、私たちはもっと国に声を出しえ行かなければ、と思うのです。
心臓移植だけではありません。
日本で、生体腎移植は子どもでもできますが、それでも例が少なく、海外で腎臓移植をしなければならない子もいます。胆道閉鎖症の子にとっての肝臓移植も大きな問題です。
移植はとても大切でありながら、とてもデリケートな問題でもあります。
実は、私も、臓器移植待機児のひとりでした。
しかし、多臓器障害のため、残念ながら移植待機者リストには乗りませんでした。
常に全身状態が悪く、元主治医の留学先であったアメリカに問い合わせていただいたのですが、悪すぎて移植はできないといわれたそうです。
手術も、移植もできない・・・。
それはまさに、死へのカウントダウンでした。
年々移植待機児者は増えています。
しかし、渡米し、移植を受け、無事に帰国できた方は、わずか数%しかありません。
もし、日本で移植ができたら・・・
膨大な金額を集める必要はなく、異国での言葉や文化、宗教的な不自由もなく、何より生まれ育った母国を信じ、移植に安心して挑み、多くの助かるいのちがあるはずです。
『移植』
それは、1つの通過点にすぎず、そこにまつわる問題は、数多く、長い戦いを強いられることになります。
移植の問題は、そうした移植後が、「第二の移植との闘い」になるのかもしれません。
日本で臓器移植を。
子どもたちに、日本の素晴らしさを伝えたい。
だって、私たちは日本で生まれ、日本で育ったのだから。
日本はダメだという前に、日本を自分たちの力で、変えようと動き出してほしい。
私たちは、母国日本を信じたい。。
生まれ育った『日本でげんきになりたい。』と思う子どもたちは、日本の政治や法律・宗教的なことに反するものでしょうか。
メディアや国民が意識し始めている今だからこそ、臓器移植について、そして、日本の現状についても、理解をしなければならないと思っています。
臓器移植・・・それは自分には関係ないと思っている人でも、他人事だと思っている人でも、そんなことは程遠い未来のことだと漠然と思っている人でも、それは突然、やってくるのです。
決して他人事ではなく、いつ自分や家族に降りかかってきてもおかしくない事態として受け止め考える必要があると思います。
日本を変えたい。
日本で元気になりたい。
そう思って渡米するために日本を離れなければならない子どもたち。
大好きな家族や友人と別れて、言葉も通じない異国で治療を受けなければならない子どもたち。
移植を待つ間に急変する子も後を絶ちません・・・・
病児者や障がい児者がもっと住みやすい社会にならなければ、という思いも強くなります。
病児を取り巻く環境は実に多様に存在します。
経済的問題のみならず、親の精神的・身体的負担に加え、児の就学問題・進学・就職などの社会的問題も多く存在します。
様々な場所で、様々な立場の人が、そのような問題に取り組んでいますが、解決していくのはまだまだ先のことであり、病児を取り巻く環境は決して万全とは言えません。
病気であることを理由に、普通校への入学を断るケースも多くあります。
健常者と同じ条件で就職させてもらえないケースも耳にしました。
もっともっと、世の中に難病といわれる子どもたちの事を知ってほしい。
一昔前と比べ、差別や偏見は一見軽減したように思えますが、まだまだ一般の人たちへの理解や協力体制が十分とは言えません。。
私自身、重度の心臓病や多臓器障害のため、理解されず、差別など協力の得られない状況で、悩み、迷い、苦しみました。
私たちの後を継ぐ病児たちのためにも、この社会を変えなければならない、日本という国を変えなければならないと、強く思います。
このままでは、今後増えていくであろう病児や障がい児たちがますます住みにくい社会になってしまいます。それだけは何とかして避けたい。でもそう思うものの、私は何の権力も力もない人間です。
私一人の力では日本を変えることはできません。
でもそれが、50人、100人、200人・・・日本国民が、一緒に国に声をあげれば、何かが変わるかもしれない。。
情報を発信し、一人一人の意識を向上させ、国民ひとりひとりの理解を得、意識を向上させることができたら・・・。
きっと日本という国は、変わっていけると思うのです。
変われる余地が、変われるその光が、変われる自信が、変わっていけるだけの力が、まだこの国には残されています。
生意気だと思います。
何もできないのに・・・
でも、誰かが伝え、変わっていかなければ、日本はますます住みにくい社会になります。
病児者や障がい児者だけではありません。
一般の健康な方も、住みにくい社会になります。
そうなる前に、何とかしなきゃ。
本当にそうなる前に・・・。
少しでもいい。
ほんの少しでもいいから。
今の日本の状況や情勢に、そしてその理不尽な割り切ることができない事情で苦しむ人たちの事を、考えることはできないものか・・・。
病気と向き合いながら、迫り来る死と戦いながら生きるその一人として、彼らのために何ができるか。
そう考えたとき、私には、情報を現実に伝えることしか思いつきませんでした。
行動を起こそうにも私は一人の力で立つことも歩くことも、喋ることもできません。
移植のために海外へ飛び立とうとしている彼らのために、街頭で、募金に立つこともできません。
だけど、伝えたい。伝えて行きたいと思ったのです。
この想いを、かいぼー先生なら、そしてかいぼー先生のブログに来ている人たちなら、受け止めてくださると思ったから。
どうか、一人一人の感性で、ひとりひとりの考え方で、ひとりひとりの想いで、答えを導いてほしい。
生活全般にかけて、私は常に介護・看護がいる身です。
けれど伝えていく力は、残されました。
何度も心停止し、脳内への酸素供給も途絶えられたり、数々の疾患で知能低下をきたしてもおかしくなかったのに、でもどういうわけか、考え、理解し、伝える力は最期まで残されました。
だから、私は伝えます。
残されている機能を発揮するのが、私の生きている証ですから・・・。
ひょっとしたら、神様が私には伝えていく義務があると、考え伝える力を最期まで残していただいたのかも知れません。
移植はデリケートな問題ですが、軽々しく語ってほしくはない。でも、重々しくも話してほしくない。。
当たり前に、普段の日常会話に出てこれたら、いいですね。そんな社会になることを、心から願っています。
『日本を変える』
そう言って、旅立っていった彼女の命のメッセージを伝えます。
Ressar
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世界保健機構(WHO)は受動喫煙の害を防ぐため、飲食店を含む公共施設と職場を屋内全面禁煙にするよう勧告しました。
分煙や換気によって受動喫煙の害を減らすことはできないと指摘しました。
たばこを吸うひとに聞きたい。みなさんは自分がたばこを吸っているそのたばこの先端から出ている煙の有毒性を知っていて、たばこを吸われていますか?
先日のあるイベントでの僕の体験です。そこには小学生もたくさんいました。その人ごみの中、有力者であるその人はいつものように火のついたたばこを手に持って歩いてこられました。そしてにこやかに僕に話しかけてこられました。「先生。たばこは止めないといけないかもしれないけれど、僕は止めるなら最後に止めます。なぜならたばこの税は地方に落ちますから。役には立ってますもんね。」・・・すみません。そのたばこの煙が僕の顔にもあたってますけど。周囲の子ども達にもあたってますけど。その方はいい人なので、わざとしているのではないと思います。無知なるが故なんでしょう。
公共施設も館内禁煙とはなっていますが、喫煙所は出入り口にあるため、受動喫煙はばんばんさせられます。喫煙者の利便性を考えて喫煙所を設けられているとしか思えません。海外では非喫煙者は立ち寄らないようなすごく不便な場所に喫煙所は設けてあるそうです。そうしないと館内禁煙の意味はありませんよね。形だけではなく実効があることをしましょう。
またよく子どもの前に出られる方々。子どもはあなたがたの姿を覚えていて、大人になったらあなた方のことを思い出してたばこを吸うようになります。影響を考えれば、誰もいないところで吸うのは自己責任で仕方がないとしても、人前では吸わないようにしてもらいたいと思います。
そしてそのようなことが徹底されると、自発的に禁煙しようとする人も増えてくるだろうとWHOは予測しています。
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現職の大臣の自殺。かいぼー一家でもこどもたちが大臣の自殺について話題にしていました。ご冥福をお祈りします。しかし、TVのニュースでは 「彼は命をもってつぐなった。侍だったんだね。」 などと神妙に話す著名人もいて、それが侍なのか?と情けなくも思います。
ひとの命を語る例としては大臣の自殺はふさわしくない。
17才の今日まで難病と闘い続け、そして今も尚、みなさんに難病者への理解を求めるために、そして命の大切さ、尊さを知ってもらうために、言葉を発し続けるRessarさん。彼女の言葉こそがこどもたちが命について考えるのにふさわしいものだと思います。彼女の言葉には力があります。身体はぼろぼろなのに、彼女の魂から発せられる言葉のパワーに、多くの方々から賞賛、感嘆の言葉が僕のところに寄せられています。
今回も彼女のここまでの必死の歩みをご紹介します。小学校・中学校での生活の模様。そして最後にユニバーサルデザインについての彼女の見識が書かれています。
>今日のブログにコメントを書き込んだEnzoさんは、家庭教師を生業としています。遠くは長崎まで車で2時間くらいかけて行ったりもしている教育者です。サガン鳥栖の熱烈なサポーターでもあり、そちら繋がりで知り合いになりました。
いろんな知り合いがいらっしゃるんですね!
人との繋がりが多い方、また濃厚な方は尊敬しちゃいます。
私も小学5年から家庭教師をお願いしていました。
学校にはまったく・・・いけませんでしたから・・・
両親は、勉強なんてしなくていい。ただからださえ、丈夫であってくれたら・・・それだけでいいと言っていましたが、病気である本人はそんなわけには行きません(笑)。
みんなに追いつくのに必死なんです。
私はまったくといっていいほど、学校にはいけませんでしたが、幸いにも留年は、一度もしたことがありませんでした。
出席日数は明らかに足りなかったのに。不思議です。
きっと担任はじめ多くの先生方が陰でサポート支援してくださったのでしょうね。病院でであった子たちの多くは小学校のころから、何度も留年していた子もいましたから・・・。
私は6歳になる手前、5歳まで病院にいました。
医師より、もう自宅での治療に切り替えた方がこの子の人生にとって、残りの時間にとっても、有意義だと思うからと在宅医療の手続きをしていましたが、それ以前に、両親は普通の子ではないけれど、ふつうの子より多く手がかかるけれど、たくさんの特別の配慮もしてもらわなければいけないけれど・・・でも、地域で、ふつうに、育てたいと強く、幼稚園の入園を希望しました。といっても、強く希望したのは両親ではなく、私だったんですが・・・。
病院は大人ばかりの世界です。周りは先生、看護師さん、保護者の人・・・。右をみても、左をみても、大人、大人、大人・・・。
大人の中で育った私は、同世代とのかかわり方を知らず、今でも同年代の子との話には、正直戸惑い、ついていくことができません。
そんな中で、大人の方と関わるのもよいけれど・・・やっぱり子どもには同じ年の子どもたちと触れ合うことが、成長発達の過程においても、大事だということに、気づきました。
多くの病気を伴っている私を受け入れてくれる幼稚園はもちろんすぐには見つかりませんでしたが、幸い自宅近くの私立幼稚園に理解があり、受け入れていただきました。
感染症の危険で、多くのリスクを伴い、そして体力もないことから、行ったり行けなかったり・・・。
入退院も繰り返しましたし、名前がそこにあるだけ、という感じでした。私立でしたが、いわゆるお受験校で、週末には幼稚園ながら宿題がありました。その宿題をするのが、当時の私は唯一の楽しみで、幼稚園にはあまりいけなかったけれど、病院のベッドのうえで、せっせと問題を解いていたような記憶があります。
小学校の入学の際も、教育委員会と公立の校長、養護教員の話あいの元、やはりこんなに重度であるならば、養護学校に行かれることをお勧めします。といわれたそうですが、両親はどうしても公立で、健康な子どもたちと同じように、は行かないかもしれないけれど、送り迎えも、学校内での待機もしますから、何かあっても学校側に責任は押し付けませんから、と必死で母がお願いし、幸いにも理解ある学校だったので、受け入れていただきました。
本当は、養護に行くべきだったはずなんですがね。
受け入れていただいた小学校の校長、養護担任、学級担任には、感謝しています。
小学校もほとんどいけませんでした。
遠足も行ったことがありません。
病院に入院することが多く、退院しても、絶対安静、自宅待機の日々が続いていました。
小学4年生と5年生に恩師となる教師と出会い、二人の女性教員によって、私は文字と出会い、文字を書くこと、文字を書く難しさを教えていただき、人として、大事なことを、卒業後も、教えていただきました。
小学校最後の修学旅行は、多くの困難と主治医もストップをかけていましたが、4年生のときと同じ担任のお蔭で、多くのハンディを背負いながら、多くの先生方の協力と配慮を必要としながら、行けたことは何よりもの思い出になりました。
そのときの担任が、「(Ressarさんの本名)は私のかわいい生徒です!絶対に連れて行きたいんです!!」と主治医に何度も言い、主治医も根負けして、紹介状と何かあったときの指示書などを書いていただきました。
両親もその夜は電話を横に、いつ電話がかかってきても、すぐに飛び立てるように、構えていたそうです。
幸い、種々の発作もなく、養護の先生のお世話になりながら、修学旅行は楽しい思い出になりました。
中学は・・・あまりいい思い出がありませんが。
中学の入学のときも、やはり養護学校を進められたのですが、留年もなく、小学校も何とか卒業できたのだから、こちらで受け入れてくださいと、母と共に頼みに行き、小学校からの引き継ぎもあり、中学はしぶしぶといった感じで、納得してくれましたが・・・。それがそもそもの選択の間違いだと気づくには、そう時間はかかりませんでした。
担任になった教師も、養護の先生も、保健室の先生も、無理解で病児に対しての思いやりもないような言動を平気でされるような方々だったんです。
小学校では比較的濃厚にケア、サポートしてくださっていただけに、中学でのこの対応は、非常にショックでした。
また、このころは私の病状も進行していっていましたし、自力で立つこともままならない状態だったので、学校にもドクターストップがかかっていたにもかかわらず、担任はじめ保健室の先生からは、毎日のように電話の嵐・・・
それも体調を気遣うものではなく、一方的に、「はよ、学校おいでや」というものでした。
発作がおきているのに、熱が39度もあるのに、どうして行けというんだろう。
この人たちは、何もわかっちゃいないんだ・・・。ただ、私が学校嫌い、不登校と決めつけているんだ・・・と悲しくなったのを覚えています。
私は学校が好きでした。小学校のころいじめにもあいましたが、明日また学校に行けなくなるかも知れない私にとっていじめは幼稚に見えましたし、我慢することもできました。だって、明日にはまた、長期入院するかもしれないのですから・・・。
それでも中学には行ってからのこの教員の心ない対応で、私は学校そのものに居場所を見いだせなくなり、行きたくてたまらなかった学校が、とても苦痛の場に変化していきました。
そのころは、もう毎日がつらく、体もしんどく、心不全も悪化して、とにかく息ができないほどの苦痛と戦いながら、毎日毎日点滴に通っていました。そんな中でも、教師の心ない言葉は飛び交います。
理解されないことが悔しくて、情けなくて、私は自分を見失いそうになりながら、教師に負けじと立ち向かうように、つらくても学校に通いました。
行っても1時間か2時間。それ以上は医師から許されないのです。それは小学校から続いていたもので、私にとっては、当たり前のことでした。
あの悲劇は1年生の夏。起こりました。
その日も、いつものように点滴して、遅刻しながら門をくぐったのです。が、うん悪く見知らぬ教師に出会いました。
その教師に、遅刻したことをとがめられ、点滴してきたことなどを話しても信じてもらえず、校庭1週走って来い!といわれたのです。私は、心臓が悪いこと、走ることはできないこと、伝えたのですがそれも、頭ごなしで否定されるだけで・・・私はもう、この先生に何を話しても無駄だと思い、どうなってもいいとすら思ってしまって、かばんを放り投げ、走りました。走れるわけありませんよね。
20mもしないうちに、倒れ、意識を失い、心臓が止まってしまいました。そして、救急車で運ばれ、10日間も意識が戻りませんでした。
幸い、意識も回復しましたが、両親はもちろん主治医も怒りが収まらず、学校を相手に、訴訟を起こすことになったのです。
約3年の訴訟の末、学校側は、二度とその教師を教壇に立たせないことを条件に和解を求めてきました。
私ももうこのころは、卒業もしていましたし、病気と闘うことで精いっぱいだったので和解に応じた次第です。
その事件をきっかけに、ドクターは完全なる通学ストップをかけ、私は2年生になったのと同時に、二度と中学には足を踏み入れませんでした。
2年も1年のときと同じ担任でしたが、あれだけ毎日電話をしてきては、私も両親もノイローゼ気味まで追い込んだ音沙汰が、2年になったと同時にぴたりとやみ、それから丸1年間、見捨てられた感も同然、何も連絡もありませんでした。
3年になる前に、やっと担任と保健室の先生が今まで何の連絡もせず見捨てていたことを詫びてくれました。
許せませんでしたが、謝ってくれたことで、いつかはこの人たちの事を許せるような気がしました。
いくら裁判をやって、裁いたとしても、私たちの真意は訴訟を起こすことではなかったのです。
ただ、こうして目の前にいる一人の生徒に、誠心誠意向き合って、謝ってほしかっただけでした。
それだけで、私も両親も、主治医も救われたはずです。
結局、卒業式にも出席できませんでした。もうこのころには、動くこともできなくなっていたのです。
主治医からも卒業式への参加は、認められませんでした。
でも、卒業式後日、家の外に、クラス全員が来てくれて、「卒業おめでとう」の言葉とクラス全員が書いてくれた色紙をもってきてくれました。
一度も合ったことも、しゃべったことも、同じ教室で勉強をしたこともない彼らが、クラスメイトのひとりとして私を思ってくれていたこと、見ず知らずのクラスメイトのために、来てくれたことは、うれしかったです。
3年のときの担任は、馬があったのか、歩けなくなっていた私に気遣い、何よりも病気を理解し、体を気遣ってくださったことがうれしかったです。
何よりも、毎月欠かさず、プリントを持ってきては、雑談をしてくれた彼女に、1年生や2年生では考えられなかった教員のぬくもりを感じました。
あまりいい思い出は残っていない中学生活でしたが、強いていうなら、3年生の1年間が、充実した時間だったような気がします。
「配慮」は、「特別扱い」ではありません。
ユニバーサルデザインが定着しつつある今ですが、健康な人も障がいを持った人も、赤ちゃんもお年寄りも、青年も、わけ隔てなく、みんなが同じように使いやすいデザインを。という趣旨のものが多くなってきています。
私は反対ではありませんが、ただ、使いにくい点はどうしても感じずにはいられません。
例えば、私は直腸膀胱障害で、排尿排便のコントロールができません。
また、消化器の疾患で、一日3リットルもの下痢がおきます。
いつ腹痛の発作がおき、一度起きると、顔面蒼白になり、血圧も低下します。
すぐにお手洗いにいったりしないと、意識を失ったりしてしまうことがよくありました。
今ではぶっちゃけ、バルーンとおむつですが。。。
車いす用のトイレをユニバーサルデザイン化されるところが多くなり、張り紙には、「どなたでもお使いください。」と書かれているところが多いです。
「どなたでも」ということは、もちろん健康な人も意味していますよね。
車いすの人は、車椅子トイレではないとできません。
それを、健康な人に使われてしまったりすると、車いすの人は困ります。
私のように、直腸膀胱障害で自身で排尿排便コントロールができない人もたくさんいらっしゃいます。
そんなときに、健康な歩ける人が使ってしまって、入れないとき、自身でコントロールができませんから、ぶっちゃけ漏れてしまうこともあるのです。
ユニバーサルデザインを推奨している障がいを持った方もいますが、同時にユニバーサルデザインは、使いにくい、健常者が考えたものであるから・・・という声もよく聞きます。
こういう障害もあること、トイレの問題だけではなく・・・
誰もが同じようにできる社会。
病気だから、障害だから、特別扱いをしてほしいわけではなく、病気であるから、配慮がいる部分もあるということ・・・。
障がい者や病気を持った者が暮らしやすい、困ったときに声をかけられるそんなやさしい社会になれば、健康な人も住みやすい社会になると思うんです。
そのためにはまだまだ、長い年月がかかりそうですね・・・。
次のメールに臓器移植の事を書こうと言っていたのに、家庭教師の話から、なぜか学校の話になってしまいました。
次には送りますね。
このメールを4時間かけて、打ちました。
また、メールします。
それでは、おやすみなさい。
Ressar
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多くの方々に護られ生きてこられたRessarさん。護りたくなりますよ、そりゃ。
私もその一員になりたい、と多くのこのブログの読者の方々も思われているようです。僕も同じ気持ちです。
健康な人の気持ちも健康な人にしかわからない、というRessarさん。健康な僕はその言葉にびっくり。またまた驚かされました(笑)。
こんにちは。
体温調節がうまくいかない私は、この時期、扇風機とファンヒーターを両方おいています・苦笑
>大変な思いをして生きていますね。ただただ頭が下がります。
私だけが大変な想いをして生きているわけではありません。
両親も祖父母も、弟も、彼も・・・先生たちも。
私の「病気」という同じ荷物を背負って生きてきたのですから・・・。
よく、病気の人の気持ちは、病気の人しかわからないといいます。
でも、私は思うのです。
病気の人の気持ちは、当事者にしかわからないというのなら、健康な人の気持ちも、健康な人にしかわからないと・・・私には、健康な人の気持ちはわかりません・・・。
ですから、同じじゃないかな、と・・・。
見た目は車椅子でも、寝たきりでも、動けなくても。
感じる心は、ふつうの人たちと同じように、持ち合わせています。
生きたい・・・生きる・・・生きよう・・・。
私の素直な気持ちです。
>そして主治医の先生もお休みの中、いっしょにお留守番だなんて、ご苦労様ですし、またあなたはそのようなお人柄だから、みんなから愛されているんですよ。
以前神経内科の主治医が言っていました。
「みんな、あなたに呼ばれてきたんだよ(笑)。それは、あなたの人徳です。」と。
愛されているからこそ、この出会いを大切に、自分なりに多くのものを吸収したり、伝えたりして、大切にしていきたいと思っています。
>僕はただ遠くから無責任にこうしてメールをして、きついあなたからお返事をもらって、すみません。あなたや周囲の方の思いやご苦労から考えれば、僕がしていることは情けない限りです。
情けないなんて、思わないでください・・・。
かいぼー先生は、先生なりに、私と向き合ってくれています。こうして、メールをくれます。
外からの刺激が限られている者にとって、人とのつながりは、このメールという機能だけです。
そんな者に、温かなメッセージを届けてくださる先生のやさしさに感謝しているんですよ。
>そして医師になりたかったあなたは、もうすでに医師以上です。母になりたかったあなたは、もうすでに母です。すばらしい母性を持っておられる。あなたの言葉から、優しい、そして強い母親像がしっかり見えます。
ありがとうございます=*^-^*=にこっ♪
せめて、弟の小学校の卒業まで・・・中学の入学までは・・・見届けていたい。彼の成長を・・・と思っていますが・・・。
今今が、一番大切で、厳しいと身を持って感じています。。
母みたいな、お母さんにはなれなかったけれど。
先生みたいなお医者さんにはなれなかったけれど。
多くの事を失ったり、諦めたりしながら、生きるという人間として一番大事なことを人生のテーマに、考え、学び、得られたことはあると思います。
自分の人生に、責任と誇りを持っていたい。
自分の最期が訪れたとき、胸を張って、「精いっぱい生きた」と言い切れるように。
そんな自分でいたいと思います。
それでは。
Ressar
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自分は誰かに守られている。だから大丈夫。どうしようもなくなったら非科学的なことでも信じられることを信じて救われたい。また困っている人や苦しんでいる人に対して言葉をかける時も、何と言っていいかわからないとき、心から信じてはいないけど気慰みに言うことってありますよね。
僕は守護霊に関しては、しっかり信じているわけではありませんが、でも2度ほど不思議な体験をしていて、救われました。
でも、そんな僕の気慰みな言葉にもRessarさんは答えてくれました。その冷静さ、その真面目さは決して遊びではない、いつも命と真剣に対話をしながら生きてきた彼女だからこその答えでした。
そしてRessarさんは確実に何者かに守られていたから今までも、そしてこれからも生き続けていかれるのだ、と思いませんか?そしてRessarさんの命を守ってくださっている人の中には、確かに彼女が思っているおばあちゃんもいらっしゃるのだろうと思います。
今日の熱は39度8分。
昨夜は猛烈な腹痛と背痛で、眠れず・・・。
また、嘔吐の際に簡単に食道が切れてしまうので、吐血もしました・・・。と、相変わらず、壮絶な夜を過ごしました。
こちらでも、嘔吐下痢症がはやっているみたいです。
うちは弟以外、お腹が弱いので、すぐに下したりします。
私は、先天性の消化器疾患や消化器がんによって、一日3リットルもの下痢をきたします。
お年寄りにとって、夏は堪えます。
脱水は怖いですからね・・・。
何もないことを、祈ります。
私はALS(筋萎縮性側索硬化症)もあります。子どもには珍しいと聞きました。
でも、小児神経病棟にはちらほらいましたが・・・。
私は脊髄進行性筋萎縮症も持ち合わせていて、幸い?かどうかは分かりませんが、こちらのほうが生まれつきなので、重度の分類に入り、ALSは徐々にですが、進行しますね。。
過酷な運命は、どうしても、つらいです。
>非科学的な話をしてもいいですか?僕の守護霊は、そういうのが見える人から言わせれば、めちゃくちゃ強いそうです。そんじょそこいらにはいない、特別なのだそうです。すごいでしょ?
かいぼー先生の守護霊は、ものすごく強いんですねっ!!
私の守護霊はどうなんだろう?
うちはキリスト教ではありませんが、祖母の代から、先祖供養をしています。といっても、宗教ではないです。
先祖を自らの手で供養する。これって、当たり前なことだと思うので・・・。
私は神という存在を信じきれませんが、困ったときには神頼みしてしまい、お参りにもいくし、典型的な日本人です。
でもやっぱり、しんどいときは、神様より、3年前に亡くなったおばあちゃんに頼んでしまいます。
人はいずれ、死を迎える。それは100%避けることはできない事実なのだと。
死を受け入れるんじゃなくて、死と向き合ってみたい。
最近、そう思うようになりました。
だって、死はタブーではないはずだから。
もっともっと、普段の会話の中で、話題にしてもいいものだと思うんです。
見えない力は、この世に存在していると思います。
それは、人間の力ではどうにもできないものでもあるけれど、人の命は限られていながら、その限られた中で、どのように生きるか。
そして、生命は無限に連鎖していて、それが途切れることはないと思っています。
時には、しんどくもなるし、痛いときや苦しいときは、いやになってしまうけど・・・
それを口にしては、周りが悲しんでしまう。
私だけじゃない、家族にもいろんな苦しみがあっただろうから・・・。
今日も目覚めたことに感謝です。
かいぼー先生の一日が、晴れやかでありますように。。。!
Ressar
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昨日は第22回「うめーランド」が御船山の麓、御船が丘梅林でありました。
ここの売りはロケーションの良さですね。
大勢の方が10時からの開場なのに、毎年のリピーターの方々でしょう。8時半頃から入場場所に人だかりができていました。
感動したのはリバイバルのみなさんが9時ごろ来られました。手にはゴミ袋を持って、ごみ拾いのボランティアをして10時前までしてくれていました。地域密着は地味な活動から。実行委員会のメンバーも口々に「あれはリバイバルてばい。」と言っていましたから効果はありましたよ。
梅の実をみんなひとしきり取られたころ、11時から私たち武雄区子どもクラブによる本邦初公開『如蘭塾物語』を披露しました。
これがなかなか評判が良くてよかったです。子どもたちもリハーサルよりも上手にできました。
地域の事をこのような形で発表していくことはとても意義のあることだと実感しました。この模様はいくらかは地元のケーブルテレビのCable One でも放送されると思いますので、ぜひご覧ください。僕は野中忠太のお面をかぶって出ています。
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難病児のきょうだいを支援するボランティア。この視点は僕にはありませんでした。
僕の長男は6才まではよく喘息発作を起こし、大学病院などに年に3~4回、入院していました。次男が生まれて半年くらいのこと。僕は家から少し遠い病院で当直している深夜、妻から電話がありました。長男の喘息発作がひどい。真冬でとても寒い夜、午前2時ごろ、僕はどーしても病院は動けないので、妻は生後半年の次男を、毛布をいっぱい入れたベビーキャリーに入れ、片手に抱え、もう片方には意識朦朧とした喘息発作の3歳の長男を支え、駐車場まで歩き、病院へ。点滴を受けている間、寒い廊下で次男と待ち、点滴が終えても発作が治まらないということで入院が決まり、手続き。さぁ、次男はどうしよう・・・。僕が当直の時に限って2,3回そんなことがありました。夫が医師でも、いや医師だから役立たず。そんな状況でした。
開業医になって妻が言った言葉。「これで毎日、あなたはいるわね。飲みにいってもとりあえず夜は帰ってくるし。」
幸い武雄に引っ越してきて空気がよかったのか、小学校に上がって自然と喘息発作が治まってきたからなのか、その後に入院したのは1回だけで、今は軽い発作をたまーに起こすくらいになりました。
難病児を支えるボランティア。その言葉を聞いて、そんな自分のことを思い出しました。喘息発作での入院はせいぜい1週間くらいでしたが、難病児の場合はそれですまないことが多いですし、また頻繁にそういうことが繰り返されるのですから、親、そしてきょうだいのご苦労や辛抱は大変なものでしょうね。そう思います。
それではRessarさんのお言葉にお耳を拝借。
こんばんは
今日は返信が遅れてごめんなさい。
熱が高いのはいつものことです。
でも、先ほどまで膵臓の痛みがひどく、うなっていました・・・。往診に来たドクターに痛み止めをワンショットで入れてもらって今やっと、和らぎつつあるところです。
>しかし、やっぱりあなたはすごい!病児のきょうだい支援について、そんなに深く考えたことありませんでした。この視点はとても大事なことだと思います。ですからこのことについてもブログに載せたいと思います。
ありがとうございます♪なんか、照れちゃいます・・・。
多くの人が病児やその親御さんに焦点を充てられますが、忘れられている<病児のきょうだい>というのも、大事な視点だと思います。
きょうだいもまた、誰にも言えない不安の渦の中で、いろいろな想いを抱えて生活しています。
病児には病児や親の会(患者会)があるけれど、きょうだいにはそのような会が存在しません。
アメリカではすでにきょうだいのワークショップなどがありますが、日本ではまだまだといわざるを得ません。
病児だけじゃなく、きょうだいにもメインのスポットを充ててあげたい。
いつも病児にかかりっきりのお父さん、お母さんを、せめて一日だけでもきょうだいだけが一人占めできる日をつくってあげよう・・・。
それが、日本ではじめて、きょうだいの日と称して、きょうだいと親御さんが触れ合う場、病児はその日は保育スタッフがみる事になっています。
私も設立当初から、かかわらせていただき、また、弟もきょうだいとして幾度かそのワークショップに参加させていただき、私も保育スタッフとして病児のサポートに入っていたことがあります。
こうした活動が、もっと広く、全世界に駆けめぐり、私たちの思いがまっすぐ。人々の心に届くことを、願っています。
>僕と話すことがなくなるまでお話ししようよ(笑)。僕はおしゃべりだから、話すことがなくなるなんてことはあーりませんけどね(笑)。
楽しみにしています♪
私ももっともっと、先生に語りあえるように、生きたいという思いが強くなりました。
Ressar
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