私は(強くはありませんが)囲碁や将棋を嗜みます。それで痛感するのが「強い人の強さ」。どうやっても勝てない人というのがこの世にはいます。アマチュアでもため息が出るくらい強い人がいますが、プロの強さと言ったら、これはもう同じ人間とは思えません。読みの深さ(未来がどうなるか)と記憶力(過去がどうだったか)、さらには心理の力(相手の表情を読む、迷うときには相手が一番困るような手を選択する)まで動員して戦っている姿を見たら、もうため息さえ出ません。テレビでたまに見る名人戦中継など、見ているとこちらが息苦しくなってしまうくらいです。
ところで、囲碁や将棋の「強さ」の正体は、何でしょう。「次の手」は常に有限なのですから、有限×有限×有限×有限……としらみつぶしで先を読んでいくことは、理論的には可能なはずです。ただ、あまりにその数が大きくなりすぎるから、しらみつぶし法は現実的ではないだけ。だったら「強い人」の頭の中では何が行なわれているか、と言えば、取捨選択でしょう。有望そうなスジに絞り込んでからその先を読んでいく作業。「先を何手まで読むか」も重要ですが、「どのスジの先を読むか」はもっと重要なのではないか、と私には思えます。一見まったく見込みがないような線の先に突然大逆転の手が出てくるかもしれない、それを感覚鋭く最初から捨てずに読んでみる、という能力が「強さ」になります。
最近は「研究」という言葉がよく出てきます。もちろん研究自体は以前からありました。ただ、昔(昭和の時代くらいまで)は基本的に個人でするものだった研究が、最近は集団で、しかもコンピューターも駆使して行うものになっているのだそうです。すると、下手すると実際の対戦は「研究成果の競い合い」になってしまいます。つまりより深く「予習」した者が有利。「予習」を万全にやっておけば、あとは「決まったストーリーどおりに場面を展開」していく「作業」になってしまいます。そして「それ」が一度公開されると、みながそれを学習して「その次」へ進んでいきます。学習しない人間は取り残される。
これはなんだか「人間同士」の対局ではなくて、「予習」と「記憶力」の勝負といった感じです。「名人に勝つコンピュータープログラム」が出現する前に、人間の棋士がコンピューターの親戚のような存在になってしまったような。でも、できたらもうちょっと“人間くさい勝負”の世界を見たい、というのは、古くて弱い人間のグチでしょう。
臨床医学の世界も、「予習」と「記憶力」は重要です。ただ、囲碁将棋での「読み」とかコンピュータープログラムとは違って、「いい加減さ」も重要であるところが違う、とは言えるでしょう。将棋の読みやプログラムで「歩を突いて角道を開け」たら、以後の読み筋ではその角道は開いたままです。それが閉まることはありません。しかし臨床医学の場合には、ずっと“読んで”行って、「どうもこの角道が開いているのは都合が悪い」となったらそれは「とりあえず脇に置いておく」あるいは「なかったこと」にしておいて、診療行為を続行する、ということがあります。もちろん「読み筋自体が間違っている」場合もあります(当然それは念頭に置きます)が、「大筋は合っているのだから、細かい矛盾には目をつぶろう」という場合もあるし、これでけっこう上手くいくことが多いのです。100%隅から隅までぴっちりしているのが好みの人には、我慢がならないことかもしれませんが。そういった「いい加減さ」が本当に不必要なのなら、医者なんか全員首にしてコンピューターの医療エキスパートプログラムにすべてを任せればよい、ということになるでしょう。しかしそういった世界は私の好みではありません。患者が問診にすべて正確に答えることができればいいですよ。だけど、もしも重要な質問に一つでも間違えて解答したらプログラムの「読み」は「違う筋」に入ってしまいますから、患者は正しい診断に到達できない可能性がやたらに高まってしまいます。それはあまり嬉しくないように思うのです。(プログラムが「リニア」でなければ正診率は高まるでしょうが、そこまでファジーなものを人間が簡単に組めるものかどうか、私は知りません)
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (4)
そろそろ日本各地の学校では夏休みが始まったようですね。
昔の小学生の夏休みの宿題の定番は絵日記と昆虫採集、と聞いたことがあります。私が育ったのは林などは影も形もない環境で、もしも昆虫採集が宿題で出たら、ゴキブリと蝿と蚊がメインで、夜になったら飛んでくるカナブンや蛾が彩り、となったでしょう。河口に行けばフナムシも手に入ったかな。
で、その頃田舎で「昆虫少年」として昆虫採集を盛んにしていた人が後日少年時代の思い出をエッセイに書いていたのですが、その中に「自然破壊をしてはいけない」と都会から来た大人に注意されたことを読んだ覚えがあります。で、その人(誰だったかなあ、北杜夫?)は「子どもの昆虫採集で、昆虫が死滅したり自然環境が破壊されることはない」と言っていましたが、私はその意見に賛成です。子どもが採る程度は“誤差の範囲内”です。他の虫や鳥が補食する量とは何桁も違うはず。もし「人間による自然破壊」を問題とするなら、昆虫採集に関しては「業者」による乱獲を問題とした方が効果的でしょう。欲に駆られた人が特定の昆虫を集めるために卵の段階でまとめて(下手すると木ごと)自然からむしり取っていく行為は、その昆虫をその地域で絶滅させるのには、ずいぶん“役立つ”のです。さらに、「昆虫」を直接のターゲットとはしていなくても、大規模な「開発」は、その地域の環境そのものを破壊・変質させることになります。
そういった「大人の行為」を無視して、自然破壊でも何でもないいたいけな子どもの昆虫採集を咎めるのは、私には自然愛好家でも環境破壊反対派でもなくて、単に「自分より弱い人間をいたぶって喜ぶ人間」の行為にしか見えませんでした。
そういえば、七夕での笹流しでも似たニュアンスを私は感じています。「笹などを流すのは、川や海を汚染する」と笹流しが中止されていたり、行なわれる場合でも下流で回収する、という動きが日本のあちこちであるそうです。
ところで、子どもたちが願いをこめて笹を川に流すのは「川を汚す不届きな行為」なのでしょうか。たしかに、プラスチックをわざわざ流したらそれはゴミになるでしょう。でも、自然に還る素材だけだったら? プラスチックゴミが問題なのだったら、子どもたちにそのことを伝え、自然に還る素材を自分たちで集めさせてそういったものだけで笹に飾り付けを行なわせれば、伝統保存と環境学習とが一挙に行える効果があるはずです。一つの川に笹が数本……これは“誤差の範囲内”ではありませんか?
どうしても「川にものを流すことは一切許さない」と強硬に主張する「自然破壊反対派」がいるのなら、たとえば梅雨時の集中豪雨の時に、川を流れ下っていく大量の土砂や流木やゴミの数々を、河口で待ち受けてしっかり回収してもらいたいものです。いたいけな子どもたちに文句を言うよりも自然保護に役立つと思うのですが。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (1)
2007年12月にこのブログを始めて2年半、投稿した記事はいつのまにか1500を越えました。
我ながらよく書いたものだと思います。特に最近は一日二本の投稿が続いていますが、まるで「朝刊・夕刊」ですね。ここまでくると、どこまでこのペースが続けられるか、と興味を持ってしまいます(まるで他人事のような書き方ですが)。とりあえずネタかやる気か、どちらかが切れるまでは続けてみましょう。今のところは特に無理は感じていませんので、もうちょっとは続くんじゃないかというのが私の予想です(またまた他人事のような書き方ですが)。
おかげさまでアクセス数は総計が140万を越えました。この数字の大きさには、ちょっとたじろいでしまいます。m3では過去の「日別」「月別」の記録が残っているのですが、「4月」で見ると、2008年4月のアクセス数は25,377、2009年4月は49,909、2010年4月は78,029……なんと表現したものか、ともかく“順調”な伸びです。比較の基準を持っていないので確信はありませんが、市井に埋もれた無名人のブログとしては、これはすごい“実績”なのではないでしょうか。コメント返しもろくにしない愛想の悪いブログで申し訳ありませんが、読者の皆様、これからもよろしゅうおつきあい下さいませ。
固定リンク
|
コメント (2)
|
トラックバック (0)
大晦日です。年末には今年の十大ニュースとかこの一年を振り返って、という記事を書くのが標準的な態度でしょうが、私は天の邪鬼ですから、一年の締めくくりとして一風変わった記事を書いてみましょう。
たまには「私」という人間について赤裸々に語ってみようという趣向です。と言っても、自分自身について言及することにはあきらかに「自分に対する偏見フィルター」が(ほとんどの場合、厳しすぎるか甘すぎるかのどちらかに)機能しますから、客観的に私の行為に関する一領域の「データ」を並べて、そのデータ自身に物語らせよう、という目論見でやってみます。
私は重度の活字中毒です。若い頃には標準的な厚み(200〜300ページ)の文庫本なら1時間程度で読み切れていましたが(ですから、本屋で数時間立ち読みをして文庫本を何冊か読み切る、が学生時代の休日の娯楽でした)、さすがに加齢とともに視力と集中力と背筋力が落ちてそれに比例して読書力は落ちています(背筋力?と思われるかもしれませんが、姿勢が崩れるとあちこちが痛くなって読書に集中できなくなってしまうのです)。それでも、テレビをほとんど見ない・晩酌をしない・当直は基本的に暇、という空き時間を生み出す三大メリットを有効に使って、古今東西硬軟理文老若男女おかまいなしの乱読を現在でも続けています。
その中で医学のにおいが漂うものの感想をこれまでこちらの「読書感想」シリーズで紹介しています。最近ちょっと「読書感想」系の投稿が多くなっていますが、これはネタの水増しを狙っているわけではなくて、ここで紹介したい本を読むことがたまたま増えているからです(どうせ医学系の本を読むのは「仕事」の一部です。あくまで読書は趣味なので、趣味の時間はできるだけ自分の商売から離れたものを読もうとしてはいるのですが)。そこで、仕事以外で今月何を読んだかをちょっとまとめてみました。
私は同時に何冊かを平行して読むことが多いのですが(本によって読む速度はバラバラです。休日に一挙に数冊まとめて読むこともありますし、ものによっては一日に数ページずつこつこつ読み続けることもあります)、読み始めた時期は問わずこの12月に入ってから昨日までの30日間に読了したものに限定してリストにしてみました(私はこの数年、二度読みや二度買いを予防するために、読んだ本の記録を残しているので、こういったリストアップは簡単です)。
『わが骨を動かす者へ ──1611年のシェイクスピア』(上巻・下巻)マイケル・グルーバー 著、 冨永和子 訳、 エンターーブレイン、2008年、1800円(税別)
『情念戦争』鹿島茂 著、 集英社インターナショナル、2003年、2800円(税別)
『安全学』村上陽一郎 著、 靑土社、1998年、1800円(税別)
『安全学の現在』村上陽一郎(対談集)、靑土社、2003年、1800円(税別)
『日本めん食文化の一三〇〇年』奥村彪生 著、 農文協、2009年、3800円(税別)
『シルバーウィング ──銀翼のコウモリ(1)』ケネス・オッペル 著、 嶋田水子 訳、 小学館、2004年、1600円(税別)
『サンウィング ──銀翼のコウモリ(2)』ケネス・オッペル 著、 嶋田水子 訳、 小学館、2004年、1600円(税別)
『ファイアーウィング ──銀翼のコウモリ(3)』ケネス・オッペル 著、 嶋田水子 訳、 小学館、2004年、1600円(税別)
『自分の体で実験したい ──命がけの科学者列伝』レスリー・デンディ、メル・ボーリング 著、 C・B・モーダン イラスト、梶山あけみ 訳、 紀伊國屋書店、2007年、1900円(税別)
『ラ・フォンテーヌ寓話』ラ・フォンテーヌ 著、 ブーテ・ド・モンヴェル 画、伊藤比呂美 訳、 白泉社、1981年、1400円
『天文対話(上)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1959年、★★★★
『天文対話(下)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1961年、★★★
『食品偽装の歴史』ビー・ウィルソン 著、 高儀進 訳、 白水社、2009年、3000円(税別)
『ヴィクトリア朝ロンドンの下層社会』ヘンリー・メイヒュー 著、 松村昌家・新野緑 編・訳、 ミネルヴァ書房、2009年、4600円(税別)
『ドイツ高速鉄道ICEー3ケルン脱線事故 ──鉄道用車軸の金属疲労はなぜ起ったか』平川賢爾 著、 慧文社、2009年、3000円(税別)
『オーディンとのろわれた語り部』スーザン・プライス 著、 当麻ゆか 訳、 徳間書店、1997年、1200円(税別)
『直筆商の哀しみ』ゼイディー・スミス 著、 小竹由美子 訳、 新潮社、2004年、2800円(税別)
『天才と分裂病の進化論』デイヴィッド・ホロビン 著、 金沢泰子 訳、 新潮社、2007年(09年5刷)、1900円(税別)
『日本SFアニメ創世記 ──虫プロ、そしてTBS漫画ルーム』豊田有恒 著、 TBSブリタニカ、2000年、1500円(税別)
『コーヒーとコーヒーハウス ──中世中東における社交飲料の起源』ラルフ・S・ハトックス 著、 斎藤富美子・田村愛理 訳、 同文館、1993年
『メリーゴーラウンド』ロザムンド・ピルチャー 著、 中山富美子 訳、 東京創元社、1998円、1800円(税別)
『ベルギー人は肩が凝らない ──ソシュール言語学に魅せられて』飯島英一 著、 創造社、2000年、2095円(税別)
『天球回転論』コペルニクス 著、 高橋憲一 訳・解説、 みすず書房、1993年、3600円(税別)
『それは火星人の襲来から始まった ──現実を侵略するヴァーチャル・リアリティの脅威』マーク・スロウカ 著、 金子浩 訳、 早川書房、1998年、1900円(税別)
『沈んだ世界』J・G・バラード 著、 峰岸久 訳、 創元推理文庫、1968年、150円
『精神病院の社会史』金川英雄・堀みゆき 著、 青弓社、2009年、2800円(税別)
『ある文人代官の幕末日記 ──林鶴梁の日常』保田晴男 著、 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー283)、2009年、1700円(税別)
小説は、児童もの(ちなみにケネス・オッペルで一番のお勧めは『エアボーン』です)・冒険小説・寓話・現代小説、ノンフィクションに歴史もの、はては古い古いガリレオ・ガリレイやコペルニクスまで。なんというバラエティの豊かさ、と私は自画自賛しつつ、あきれはてます。お前になにか「一本スジの通った人生のポリシー」はあるのか?と。ただ、このリストをじっくり眺めたら(もしできたら、全冊読破をされたら)、「こんな本の群れを喜んで読む人間」としての「おかだ」を理解する糸口が得られるかもしれません。(ちなみに、『天才と分裂病の進化論』と『沈んだ世界』以外はすべて図書館から借りてきています。本当は図書館の方向には足を向けて寝られないはずなのですが、あちこちの図書館を活用しているのでそれが難しいのが悩みの種)
しかし、これだけ並べると、自分の精神生活を裸でさらしたみたいで、なんだかすんげえこっぱずかしい気分になってしまいますな。ま、たまには、サービスサービス(葛城ミサトの口調)。
ただ読書の場合、「何を読むか」も大事ですがもっと大事なのは「どう読むか」でしょう。農業で言ったら「土作り」「施肥」に当たる作業を、本を読むことで脳に対して行なっている、と私は捉えています。本当はもっと若いときにこの作業をしっかり行なっておくべきだったのですが、言っても詮無いことは言わないことにしましょう(言っちゃいましたが)。ある講演で「人は、明日死ぬ、というときまで成長の可能性がある」と聞きましたが、それが本当なら私はまだ成長の可能性が(たぶん)あるわけで、まだまだせっせと脳を本で耕し続けることにします。
ちなみに、12月に入ったときに読みかけで今でも読みかけのままなのは、
『悲しき熱帯(2)』レヴィ=ストロース 著、 川田順造 訳、 中央公論新社(中公クラシックス)、2001年、1400円(税別)
『ゼロ年代の想像力』宇野常寛 著、 早川書房、2008年、1800円(税別)
の二冊です。どちらも医療とはかすりもしない内容ですから、たぶんこちらに読書感想は書かないでしょう、というか、いつになったら読み終えるのかな?
ついでですが、このお正月、私は勤務に関しては出勤義務が全然ありません。さて、本を読む時間がたっぷり。図書館から『磁力と重力の発見』(山本義隆 著、 みすず書房)全3巻と『レ・ミゼラブル』(ヴィクトル・ユゴー、潮出版社)これまた全3巻、を借りてきてテレビの脇に積んでみました。見ているだけで読む前から満足感がこみ上げてにまにましてしまいます。
これが2009年最後の投稿(の予定)です。
本年はありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
人気ブログランキングに参加中です(励みになりますので、できましたらクリックをよろしく)
固定リンク
|
コメント (4)
|
トラックバック (54)
先週、ブログの読者の立場で、もし読後に何か反応をしたいと思ったらどんな手があるかと考えてみました。まず「推薦」ボタンがあります。m3のシステムがブログの記事の最後にこのボタンを用意していてくれて、それを押すとm3ブログのトップページに「医師による月間推薦記事ランキング」として集計結果が掲載されます。ただしこのボタンを押せるのはm3の登録メンバー(医師)だけ。m3に登録していない人だったら、できるのはコメントをつけるか自分や他人のブログでここのことについて触れるか、くらいでしょうか。どちらもそれなりにハードルの高さを感じます。
そこでこの27日に「人気ブログランキング」という所に登録をしてみました。これなら読者はお手軽にクリックだけで反応ができます。もちろんポジティブなものだけでネガティブな反応はできませんが、すべてがいっぺんに簡単に満足できる、というのは難しいでしょう。
ここはちょっと面白いシステムで、複数のカテゴリーに登録が可能で、クリックの配分も選べます。私は「転がるイシあたま」を「医学」と「本・読書」に登録して、配分をとりあえず「80%と20%」にしました。クリックされたら、「医学」で0.8クリック/「本・読書」で0.2クリックカウントされる、という仕組みです。できたら選択制(ブロガーが「この記事は医学」「この記事は本・読書」とか、読者が「この記事は医学の方に投票したい」とか選べる)だったら嬉しいのですが、残念ながらそこまでにはなっていません(一応要望は出しました)。なお、同一IPからのクリックは一日一回だけ有効カウントされるそうです。
で、参加してまだ数日ですが、週間ランキングで「医学」は21位/193人、「本・読書}は197位/728人、で上昇中、というまずまずのスタートです。もし記事がお気に召したら、クリックをよろしくお願いします(なおこの文章は、読者の皆さんにクリックを強制するものではありません)。
固定リンク
|
コメント (3)
|
トラックバック (6)
私はMacOSとWindows-XPの両刀遣いです(現在完了進行形)。
マイクロソフトとの付き合いは、1987年に中古で買ったNECのPC-9801でMS-DOS2.11を使って以来ずっとですから……あらら、もう20年以上。
MacOSとの付き合いは1993年から、当時はまだMacOSとは言ってなくて、漢字Talkとかの頃。7.1の愛称がなぜか「おにぎり」でしたっけ(「E電」と同様、定着はしませんでしたが)。ただし、アップル社自体とはAPPLE][からの付き合いですからもうそろそろ30年です。
なぜMS-DOSとつきあい始めたかと言えば「日本語」です。患者情報を整理したり論文を書いたりするためにはやはり日本語が扱いやすいマシンが欲しかったものですから、一太郎3(ATOKは6)を買うとそこにまるでオマケのようにMS-DOS2.11が付属していました。(当時のPC-98は、普通に立ち上げるとBASICマシンとして機能しました。起動直後に突然“How many files(0-15)?”なんて質問をぶつけられて素人は返答に困る仕組みになっていました。で、一太郎などの5インチフロッピーを入れてから立ち上げるとフロッピーのDOSを読み込んでDOSマシンになるわけです) DOSを単体で購入したのは3.3からで、あとはずっとバージョンアップに付き合ったし、Windowsも、3.1(*1)、95、98、ME(*2)、XPと律儀に付き合い続けています(NTも3.51と4はさわっています)。VISTAは近寄る気がありませんが7はたぶん買うでしょう。
*1)3.1は即座にDOSに戻しました。理由は経験者ならわかるかも。Macの環境に比較してあまりにあんまりだったのです。ちなみに95でも、大量に日本語入力をする場合にはDOSモードに降りてエディターでやっていました。95でワープロソフトだと私の入力スピードについて来てくれなかったものですから。
*2)MEは一週間で98に戻しました。理由は経験者ならわかるはず。あれについてわざわざ語る気はありません。
Win95以来、家庭用はiMac/個人はWindowsのノート、という使い分けをずっとやっていましたが、昨年から個人用もMacのノートに切り替えて、今はMacBookPro(13インチ)を使っています。13インチというと画面が小さいように感じますが(実際、見た目はずいぶん小さいのですが)、私の使用経験と感覚ではノートで「13インチのMac」は「15インチのWindows」よりもはるかに快適に使えます。Winの場合、ほとんどのソフトはフル画面にしないと使いづらいのに、Macだと多数の画面を一度に少しずつずらして開いておいて次から次にわたり歩くこともそれほどストレスではありません。何がそんなに違うのかは明確に言語化できませんが。
現在のMacOSには、BootCampという、思わず「ビリー」を頭につけたくなるような名前のソフトが最初から組み込んであって、Windowsさえ買ってくればそのままそれをインストールすることが可能になっています。ただし起動時に「MacOS」か「Windows(XPかVISTA)」を「選択」できるだけで、その両者を一度に立ち上げることはできません。切り替えるときには再起動が必要です。昨年はそれで動かしていたのですが、ハードディスクをWin用に領域確保しておかなくちゃいけないとか、TimeMachine(Macに最初から組み込まれているバックアップ用ソフトで、とんでもない優れもの)でバックアップを取るのにWin領域のデータは無視されるとかが気になって、今はParallelsというソフトでWin-XPを動かしています。これがまた優れもので、MacOSの上でParallelsが動きさらにその上でWindows(私の場合はXP)が動きその上でWin専用のソフトが動く、という仕掛けです。ソフトの上にソフトが乗っかって、やたらと手続きが多く鈍重な反応しか期待できないような感じですが、これが実はよい意味で期待はずれ。やたらきびきびWinが動いてくれます。体感的にはそのへんのWin専用マシンよりも一太郎などは反応がよくて、驚きます。ある意味Intel系のMacは最強のWinマシンなのかもしれません。MacOSを省略できるBootCampだったらさらにその差は歴然としていますが。速度ではBootCampに負けますが、Parallelsで特筆するべきは「両者が共存」していることです。お互いがお互いを共有している感じで、MacからWin領域のデータを、逆にWinからもMac領域のデータをいじることができるのです(さすがに“他のマシン”のファイルをいじるときにはそれなりに時間がかかりますが)。
画面の下にあるドック(Win-XPだったら、クイック起動を含めたツールバーに似たもの)にMacのソフトのアイコンがずらずら並んでいますが、私の場合一太郎などWin用ソフトのアイコンもいくつかそこに平気で鎮座ましましています。で、そいつをクリックするとParallels → Windows-XP → 一太郎 とさっさと立ち上がってまるでMacのソフトのような顔をしてたとえば一太郎のウインドウが、すでに開いているMacのソフトに並んで平然と出現します。もう笑っちゃいます。
私はWinでは「猫まねき」というキーボードカスタマイズソフトでいろいろ変態的、もとい、個性的なキーアサインにアレンジしていました。(ダイヤモンドカーソルを左手だけで使えるようにすることや、左下のALTキーをMacのコマンドキーのように使えることを中心にいろいろいじくっていたのです) 今またそれを導入するかどうか考えているのですが、問題はMacのキーボードに猫まねきを噛ませると一体何が起きるのか、です。これはいやな予感がするんですよね。とりあえず大量に日本語入力するときにはMacで素直にやっておいて、編集だけ一太郎でやったほうがATOKの辞書も混乱せずにすむかな。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (0)
私はmixiで、ある大きな(参加メンバー数が五桁の)コミュニティの管理人もやっています。ちんぷんかんぷんの人のために解説しますと……やたらと人が集まっているネット上のmixiというサイトには、個人メンバーの日記とそれにコメントをつける人たちの個人的なつながりとは別に、ある特定のテーマごとにそれに興味を持つ人が集まる場が設けられており、そこをコミュニティと呼びます。コミュニティの中にはさらに細かいサブテーマごとにそれぞれ別の掲示板を設けることができ、それをトピックと呼びます(たとえば特定のアニメなら「○○ダム」のコミュニティの中に「音楽について」「サブキャラの××が好き」といったトピックが並ぶ/憲法なら「日本国憲法に賛成(反対)」というコミュニティに「○条について」「改正案」といったトピックの群れ、といった感じです。例示したのはあくまで架空のもので実在のコミュニティと似ていてもそれは偶然です)。コミュニティの管理人は、トピックを誰が作るか(管理人だけに限定/メンバーなら誰でも自由に)の決定とか有害な行動をとるメンバーを排除する(発言を禁止する)管理権限を持ちます。管理権限というとなんだか大げさですね。昔のパソコン通信NiftyServeのフォーラムの管理者(SysOpとかSubSysOp)は会社の管理職に似た権限を持っていましたが、mixiの方は基本的に大した権限はありません。どちらかというとマンションの管理人に近いように私は感じています。
で、多くの人間が集まればそれは様々な意見が出てきます。で、定期的に必ず出てくるのが「今のコミュニティの(あるトピックの)雰囲気はよろしくない。管理人がナントカしろ」というご意見。
面白いのは、それらの人の発言が必ず、「自分の個人的な意見ではない。客観的な正しさを持っている」という主張と「管理人がナントカするべきだ」という指示・命令がセットになっていることです。さらに、他人に対する攻撃・非難(こんなつまらないトピックを立てやがって/こんなつまらないトピックで喜んで発言しやがって)が付着しており、でも自分が理想とする発言を繰り返して“お手本”を示すとか理想とするトピックを立ててみせるという行動を欠いているのも共通の特徴です。
さらに面白いのは、管理人に対する態度です。「管理人がナントカしろ」というのはつまりは管理人の権限で他者(その人が気に入らない行動をする人びと)を思うように動かせ、という要求ですが、そこで管理人が「じゃああんたも○○をしろ」と言ったら、絶対それには素直に従いません。「他者は管理人の“権威”に従うべきである」と「自分はその例外」とが見事に両立しています。「自分>管理人>その他のメンバー」の“ヒエラルキー”がご自分の中では確立している様子ですが、そんなものを露骨に見せられて、誰がその人に素直に従います?(反語)
もし私があるコミュニティの雰囲気が自分の気に入らなかったら、そしてそれを変えたいと本気で思ったら、「自分は今とは違うこういった雰囲気が好みである」と宣言をして(あるいはそういった宣言抜きで)、自分好みの発言をする・自分好みのトピックを立てる、といったことで“同志”を募り、それによって雰囲気が少しでも変わることを願います。管理人をこづきまわすことに熱心になるよりもね。(「悪意の人間が集中している」状況ではまた別の手を考えますが、今は“非常時”ではなくて“平時”でのお話) それで“同志”が集まらなかったら、それは自分の考えていることかやっていることがそこでは不適切だった、ということでしょう。
もちろん彼らの「動機」は善意です。「このコミュニティがもっと良くなって欲しい」というのは善意以外の何ものでもありません。しかし、その善意が独善かどうかの自省とその善意を現実化するための手法が妥当かどうかの検討を欠いている場合、それは相手には届きません。(ちなみに、そこで激高して「自分の善意が実現しないとは、あんたがおかしい。反省しろ」と暴力的に執拗に迫り続けるのがきっと最近流行の「モンスター○○」なのでしょう。自己が確立できず他人に依存(*)して生きている人の悲鳴かもしれませんが)
*)私はここでは、薬物依存やアルコール依存と同じ意味で「依存」を使っています
突然話が大きくなります。多くの人が集まれば、そこには多くの思いが集まります。ただしそれらの思いを単純に「正しい」「間違っている」で断じることはできません。それぞれの人のそれなりの思いなのですから。
私はそこに多神教の世界を重ねています。様々な神々が存在する世界に「唯一絶対の真理」は存在しません。もしあるとしたら、そこは一神教の世界です。「その神の教義(ドグマ)」は唯一絶対ですから、それに反した存在は「異教」「異端」となって攻撃されます。なるほど、「自分は正しい」の人が他者に対してとげとげしく攻撃的であるわけです。だけど多神教の信者である私にとっては、コミュニティに集まったさまざま人の思いを尊重することが重要なのです。自分の「正義」を押しつけることではなくて。
ところで、そこで「様々な人の思いを尊重する」と言うと必ず「ならば自分の思いも尊重しろ」と反射的に要求する人がいますが、それらの人のホンネは「自分の思い“だけ”尊重しろ」です。「も」と「だけ」の違いが一番明確になるのは、私があっさり「それはダメ」と言った瞬間です。「も」の人はしばらく考え込んだり「なぜ?」と聞き返したりしますが、「だけ」の人は頭を瞬間沸騰させます。「“正しい”自分の思いを拒否するとは許せない」(異教だ異端だ宗敵だ)と。ということで、きわめてわかりやすい“リトマス試験紙”として、私はその手法を愛用しています。私は、その人が述べる意見や思いの内容の妥当性だけではなくて、それを実現するための手法も非常に重要だと考えていますから。あ、ここで公表してしまったから、また別の手を考えなければならないかな。
医療でも事情は同じです。(長い前振りでしたが、やっと(短い)本題です) 「患者」という単一の存在はありません。“それ”は様々な思いを持った人々の集合体です。そこで医者が「自分のドグマ」を押しつけたらどうなるでしょう?(あるいはある患者が医者と他の患者すべてに「自分のドグマ」を押しつけることも同様です) いろいろな人がいろいろな人生といろいろな病気を背負って集まった状況で医師がすることは「自分が信じる正しさ」を他人に押しつけることではなく、他人を操作することでもなく、それぞれの人がどこを拝んだら一番“御利益”があるかを神々の中から選択する手伝いをすることでしょう。多神教的に私はそう考えています。
※ふつう「多神教」と「一神教」が戦ったら、多神教の方が分が悪くなります。多神教は一神教の存在を(多くの神々の一人として)認めますが、一神教は多神教の存在を認めませんから。だけど、多神教の側も少しは歴史から学んで、「ドグマを信じるのはあんたの勝手だが、それをこちらに押しつけることは認めない」の線で頑張るしかないでしょうね。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (24)
ブログを書いていて良いことは、記録が残ることです。
昨年の1月3日に何を書いていたかと1年前のブログを開くと「頭を冷やせ(2)」でけなげにも出勤していた記録を見つけました。さらにその日には職場で高熱を出しています。こういった些事は記録しておかないとすぐ忘れちゃうんですよね。
実は昨年に引き続き、今年も今日1月3日は出勤でした。さて、熱が今年も出るかな、と思いましたが、さすがに2年連続同じ日に休日出勤&発熱、という“事件”はありませんでした。あったらブログの良いネタになったんですけどねえ。ちょっと残念です。
ブログを書いていて悪いことは、記録が残ることです。
1年前のものやその周辺を改めて読み直して思ったのですが、なんとも文章や構成がどうもぎこちなく感じます。ブログを書き慣れていないのが一目瞭然。おっと、もちろん今が上手とは言えませんが、それでも1年書き続けて少しはマシになっているはず(少なくともそう信じたい)。あの頃は「読んだら妙な影響を受けて独自性が損なわれるかもしれない」と他の方のブログはあまり読みこまず“独力”で書いていたのでどうも独りよがりのにおいがぷんぷんします。
え? 今もぷんぷん? ……それは失礼しました。精進します。
「記録」といえば、アクセス記録を見ると本ブログへのアクセス数はちょうど1年前の年末年始の同じ日の大体3〜4倍となっています。吃驚と雀躍です。m3のアクセス分析はデータが不十分なのでどちら方面から多くお越しなのかはわかりませんが、真っ当なものを書いていたら興味を持ってくださる人は増えるはず、と信じて地道に続けていきます。幸い「書きたいという欲望」や「書く余力」はまだまだ残っていますので。
「読者」の存在は、書き続けようという原動力です。さらに、独善にかたまった「チラシの裏の落書きもどき」にならないように自己チェックする緊張感の源にもなります。本当にありがとうございます。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (0)
書誌情報:『脳と心』ジャン=ピエール・シャンジュー/ポール・リクール 著(対談)、合田正人・ 三浦直希 訳、 みすず書房、2008年、4800円(税別)
神経生物学者シャンジューと哲学者リクールによる「脳と心」に関する対談です。(原題を直訳すると「自然・本性と規則 ──われわれをして思考させるもの」となるそうです)
シャンジューはニューロンを研究しそこから人の心に迫ろうとしています。つまり「分子 → 心」です。ところが彼には悩みがあります。研究対象が小さく精緻になればなるほど「心」が見えなくなってしまうのです。(だから彼は還元主義ではありません)
リクールは哲学的に人の心に迫ろうとしています。いわば「世界 → 心」です。ところが彼にも悩みがあります。哲学はこの世界では孤立してしまっており、「心の座」としての「脳」研究の最前線で得られた成果をそのまま哲学で生かすことができないのです。
心を真ん中に置くと、この両者は大きさ(およびその性質)を基準にほぼ“反対”に位置する、とも見えます。「分子 → 心 ← 世界」と。したがって両者の対談は、すれ違い・衝突し・交差し・すり寄り・ねじれ、まるで氷上での決闘かダンスであるかのようにことば同士が単独であるいはペアとなってスピンをしながらスリリングに紡がれていきます。
感心するのは、二人とも自分の立場に固執しないことです。守るべきものは守ろうとしますが、必ず相手のことばにも耳を傾けることを忘れません。それは彼らにとって「言語はわれわれを私的主観性から脱出させます。言語とはいくつもの前提に立脚した交換です」だからでしょう。その前提とは一つは「他者は私が思考するのと同様に思考し、私と同様に見たり聞いたりし、私と同様に行動し苦しんでいるという確信」、もう一つは「これらの主観的経験は代替不能であると同時に伝達可能であるという確信(「あなたは私に成り代わることはできない」と「お願いですから私のことを理解するように試みてください」)」です。だからこそ「合意を得るのが会話の機能」(リクール)と断言できるのでしょう。さらに、二人は自分が使うことばについて、常に明快に定義をしています。その手続きをすることで「同じことばを双方が違う意味で使う」場合にも無用な衝突が避けられています。時には双方が同じ単語を違う意味で使い、それをお互いが理解しているという場面さえあります。
このへんは日本人が下手くそなところでしょう。日本人が「議論」したら、容易に全否定か全肯定に走りがちです。そして発言内容の全否定はさらに相手の人格や存在の全否定に容易につながっていきます(掲示板のフレーミングやTVでの「討論」番組を見ていたら私はげんなりします)。
ともあれ、二人は豊穣な会話を続けます。あまりに豊穣かつ難解すぎて私はその多くを理解できませんがそれでもその豊かさを味わうことはできます。
そうそう、二人は多くの点で対立をしますが、合意を容易に形成する場合もあります。たとえばル・ナン兄弟の絵の美しさやフォーレのレクイエムを聴いての感動(私はル・ナンは知りませんが、フォーレは好きなので「うんうん」と深く肯きました)。また、ルネ・デカルトが中世のくびきから逃れて見事に問題提起を行ったが解決はしなかったことでも二人は即座に合意に達しています。私はここでは中途半端に肯きます。写真や造形美術はシニフィアンとシニフィエの区別を必要としない、ここではまた大きく肯きます。
ただ、リクールがグールド(進化論)の主張に同意を示したところで、私は驚きました(シャンジューも驚きを隠しません)。たとえ本人が「文学的に」と主張していても、よく聖書を参照する人が、それと同時に進化論にも理解を示せるのは、やはりこちらにはオドロキです。リクールは頑固だけど懐が深い人のようです。
私は自分が受けた教育のせいか、ついついシャンジューの立場の方に寄ってしまいます。「心」を「(器官としての)脳の機能(の表現形)」として見たくなるのです。しかしそれを受け入れようとはしないリクールの指摘は重大なものを多く含んでいます。シャンジューは還元主義や唯物論とは一定の距離を置いていますが、リクールはそこが徹底しています。
たとえばリクールは「脳が表象を世界に投影することで、世界は完成する」と述べます。では、その「完成した世界」を認識するのは誰なのでしょう?
読んで感心しているだけでは芸がないので、私なりに一部だけでも少しは深く読解してみようと思いましたが、あまり大きなテーマは手に余るので、ちっちゃくちっちゃく、「遮断」という「補助線」をこの本の隅っこに引いてみることにしました。
『ドウエル教授の首』という昔の小説には「首だけにされた人間」が(複数)登場します。しかし首だけで脳はちゃんと機能するでしょうか。首だけだと、それ以下の全身の表在知覚情報(痛覚・触覚など)や深部知覚(自分の体が存在していることに関する知覚)を失っていますが、そうすると人は容易に自分を見失ってしまいます。
深部知覚を欠いた状態に関してはオリヴァー・サックスのエッセー集が有名です。深部知覚を欠くと人は自分だけではなくて世界の認識が変わってしまいます。
表在知覚に関しては心理学の世界に「感覚遮断実験」というヘンテコな実験があります。人の五感をすべて低下させた環境においておくと注意力や論理的思考力が低下し、最後には幻聴や幻覚が生じるようになりました。この実験を扱った映画に「アルタード・ステーツ」がありますが、この映画のとんでもない結末はともかく、人は感覚を遮断されてしまうと容易に「自分」でなくなってしまうのです。
つまり、「世界」は感覚を通して「私」に影響(あるいは補正)を常に与え続けているのです。言い方を変えれば、世界との感覚による接触を失うと私は「私」でいられなくなるのです。
もう一つ。「社会からの遮断」はどうでしょう。小児期に社会から遮断されて育った人(たとえば「狼少女カマラとアマラ」。これには真実性に留保がついているようですが、それならアメリカでの乳児期から部屋に閉じこめられて親に全く世話をされず触れあいも会話もなく放置された状態で育った人の例(読んだ本のタイトルは忘れました))は、ある時期をすぎているとどのように教育をしても社会的な人間としては振る舞えなくなります。つまり、社会との遮断は「社会的な存在としてのヒト」ではなくて「動物としてのヒト」を生むのです。となると「心」は「脳」にだけ閉じこめておいてはいけないようにも思えます。
以上より、脳が心の主座であるとしても、脳と脳(あるいは脳と世界)との「関係」の上(中?)にも「心」が存在する、と言えそうです。私は、科学寄りの立場からはそこまでは“妥協”できます。というか、本書でも重要なテーマである「道徳」はこんなやり方で見るのが一番早道でしょう。
ただの思いつきですが、「文化」や「道徳」はすなわち「社会の心」なのかもしれません。ちょうど「人(脳)」に「心」があることに対応するように。だとすると、「脳」を細かく分析的に研究することは「心」を研究する手法としては限界が最初から設定されているのかもしれません。だって社会を分析して個人に行き着いても、その「関係」をきちんと表現できない限りその「心」(道徳や文化)は見えないでしょう?
このへんが私の限界なので、もう一度リクールに戻ります。「自分の脳が表象を投影することで完成した世界」を認識するのは誰なのでしょう? 私はついつい「唯識」(初期大乗仏教で唱えられた、極端に単純化したら「この世は縁起で成り立ち、人はそれを五感と無意識で認識している」という思想体系)を持ち出したくなるのですが、話が脱線しそうなので自重します。
しかし疲れました。この本を読書中に私は普段使わない脳の部分を活動させていたようです。ま、たまにはそんなところも使ってやりませんとね。……ただ、心は変な使い方をすると疲労するのかな? それともこれは脳の疲労?
そうそう、これだけの本ですから、参考文献のリストだけではなくて、詳細な索引が欲しかったと思います。作る人にはきっと地獄の苦しみでしょうけれど。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (1)
財布を調べると、最近は全然使わなかったので先月分のお小遣いが3万円丸々残っていました。これだけあれば旅行代理店で東京への出張パック(1泊分)が買えます。さらに、この前祝日出勤した代休が平日に使えます。
……突然決心して家族に朝食の場で発作的に宣言しました。「おら、東京さ、行ってくるだ」(何弁だ?)。
私が初めて上京したころ、特急で12時間もかけて移動した覚えがあります。親父が若い頃上京したときは、まるで『三四郎』(夏目漱石)の冒頭シーンのようにSLで途中に泊まりを入れて行ったそうですから、それよりはずいぶん楽になっていたわけですが。それが今は家を出て都内のホテルに入るまで、一番早いと3時間半、遅くてもせいぜい5時間ですから、本当に隔世の感です。新幹線よりも飛行機のパックの方が値段が安い、というのも昔の人間にはオドロキです。と言っても今回は空ではなくて、地べたをごろごろ転がって行くことにしました。乗り換えでちょこまか時間を区切られずに一度座ったらそのまま本を読み続けたかったものですから。
昨日はまず六本木でピカソを見ました。ピカソは3番目に好きな画家なので堪能しました(ちなみに、2番目に好きなのは、ダリです)。ただ、私が好きな「青の時代」の作品が一つだけだったのは残念。
空気と水の問題と人が多すぎる点から東京に住みたいとはそれほど思いませんが、こういった機会が次々ある、という点は本当にうらやましく思います。息子にも久しぶりに会いたくて連絡を入れましたが、バイトで忙しいらしく、父親の顔をどうしても見たいという熱意に欠けています。しかたありません。そもそも、仕送りでは学費と住居費と食費(の一部)までしかカバーできず、それ以上はバイトでまかなう生活にしたのは、私の責任ですから。
息子がダメとなっても、会いたい人は都内に何人もいるのですが、考えてみたらこれは滅多にない機会ですから「大都会での孤独」を楽しむことにしました。宿が新宿なのでちょっとうろうろしましたが、歌舞伎町をかすっただけで「ここは私の世界ではない」とわかり、中村屋でインドカリーを食べてさっさと引き上げました。
さて、ピカソとカレーで勢いをつけて、今日はフェルメール(私が一番好きな画家)です。ポケットには『フェルメール全点踏破の旅』(朽木ゆり子、集英社新書)を入れました。きっと凄い人でしょう。展示作品リストの中で一番心引かれる「小路」がゆっくり鑑賞できればいいのですが。
この二日間のインプットで私の「良い絵を見たい衝動」は満足して、また数年は静かに寝ていてくれることでしょう。そうでないとまた突発的に「おら、東京さ、行くだ」になっちゃいます。
そういえば、「東京に上る」は「上京」ですが、すると東京に滞在中は「中京」、東京から下るは「下京」で良いのでしょうか。まるで京都の地名のようですが。
ということで、現在の私は中京です。今から上野に向かい、夕方には下京です。(上中下がそろいました)
では、行ってきま〜す。
固定リンク
|
コメント (2)
|
トラックバック (0)