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 パチンコのプリペイドカード、煙草のタスポカード、昔の(アナログ)ハイビジョン放送と今の地上デジタル放送……高速道路のETCも、料金所の人手の削減や料金所での渋滞の緩和という意味はわかりますが、今与党が言っている高速の休日割引がETC専用と聞くと、なんでそこまでETCを優遇して普及させたいのか、その意図がいぶかしく思えてきます。

 そうそう、天下りの人たちの給料や退職金を税金で面倒見なければならない必然性。

 もう一つそうそう、労働行政も厚生行政もまともにできない現役の厚労省官僚。食品行政が(それも食品表示レベルのことでさえ)まともにできない農水省の官僚。日本の学力を落としている文科省の官僚。

 「医療不信」の人には「医者の必要性がわからない」と思われているかもしれませんが。

 頭がくらくらしてきたので、今日はこれまで。礼。

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2008.12.03 07:03 |  医療制度 / 行政  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 ふるさと

 私の時代とは医学部の入試もいろいろと変わってきています。学士入学とかAO入試のことは聞いていましたが、最近は推薦入学で地域枠とかふるさと枠が設けられるようになったんですね。先週、某所の忘年会でその話を聞き、ちょっと書いてみる気になりました。


 まず、あるブログの記事の紹介。「広大医学部に「ふるさと枠」。地域枠を設ける医学部は20大学超!
そのもとになった毎日新聞のニュース「広島大医学部:推薦入試に「ふるさと枠」 地域医療推進へ--09年度から /広島

 これまでにも「在学中(6年間)奨学金(月に数万円、だったかな)を支給するから、卒業後は何年間か地元で医師として仕事しろ」という県による奨学金制度はありましたが、私が聞いた範囲ではほとんどは卒業後には金を返してしまって自分が思うところに入局してしまう、ということでした。そもそも卒業したての医者に県が「金を出したのだからどこそこにただちに赴任せよ」と言ってもその前に研修が必要ですからどちらにしても大学にはいるしかなかったのですが。で、そこで働いていたら回りと同じ“人並みの将来”が欲しくなるのも無理はなかったでしょう。それが現在の研修医制度が始まって、マッチングによって卒後は市中病院で研修を始めることでできるようになって相対的に大学の「力」が落ちて県の思うようになったか、と言えば、たぶんそうではないでしょう。市中病院で研修した後「では県の意向通り動きます」という人が都合良くそれほど多く出てくるとは私には思えません。

 そこで「推薦入試に地域枠」となるわけですね。ここでキモは「推薦入試」です。推薦で入学したら、おそらくはそうでない学生よりは“スポンサーの意向”に敏感でしょう。入試の時点で厳重なフィルターがかけられますし、もし変なことをしたら後輩の入学にも影響が出るかもしれないことを考えてしまいます。
 ただ、こんどは「県庁」と「大学」の間で綱引きが行われるのではないかな。金を出すのは県でもそれを教育し鍛えるのは大学です。どちらも“じぶんのもの”として“人事権”を行使したいはず。学生がその間で引き裂かれなければいいのですが。
 ただ、少なくとも別枠で「5人の増員」ができるだけでも、医師不足には(ささやかな)朗報です。しかもその人材が「物理と数学の点が良いから医学部を受けました」ではなくて最初から「(地域で)医療をやりたい」なのですから。


 突然ですが話を変えます。
 「ふるさと枠」に私の心の一部が励起されましたが、みなさんは「ふるさと」と言われたら、どんなものを思い出しますか?

 私は、市街地で育ちましたが、小学校時代までだったら「町内」(自宅とか小学校とかの周囲)です。中学高校だと、自転車で走り回った(合併前の)旧市街一帯。でもそれ以上の範囲(合併後の新市街とかもっと大きな県全域とか)を「自分のふるさと」とは認識しません。
 では、もし田舎に住んでいたら? おそらく、小学までは村とか町。中高だと郡(の一部または大部分)くらいまで広がるかな(あくまで想像ですが)。
 ただし、私が思い浮かべるのは、心に残る昔の風景の旧市街です。私にとっての『ふるさと」は、「ある特定の座標の地点のこと」ではないのです。ですから、古い風景をせっせと破壊する人は「私のふるさと」に対する“敵”です。郡部では街ほどの風景の変化はないでしょうが、それでも開発によって変わっていっているでしょうね。田舎出身の人はそれをどう思っているのでしょう。
 そういえば「郡」って不思議な単位です。町村を幾つか束ねた行政単位ですが、別に「郡長」がいるわけではありません。何の機能を果たしているのだろう、と昔から不思議でしたが、地図を見ていると、この「郡」が自然の境界(山の連なりなど)に素直に区切られていることが多いのに気がつきます(ものすごく不自然(人為的)なものもありますけれど)。もしかしたら「郡」は人が「ここが私のふるさと」と認識できる限界を表現していたものなのかもしれません(確証は示せませんが)。


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 昨日の各紙に載っているニュースです。みごとにどこも横並びの記事です(その中で産経がコールセンターをきちんと取材して、コストが1億1000万円、なんてデータなどを乗せているのは“お手柄”です)が、それら金太郎飴の中から適当に読売の記事。
「裁判員」来た、候補者通知に戸惑いや意欲

 来年度の裁判員候補の通知が始まったそうで、早くもでかい封筒が届けられた人は、わけがわからなかったりわからないけれど意欲を燃やしていたりとにかく逃げたかったり、人によって様々な反応を示しているそうです。
 私の所にはまだ通知が届いていませんが、実はやってみたいとは思っています。裁判所どころか裁判そのものの内側に入れるなんてめったにないチャンスですし、このブログのネタにもできる。もちろん裁判の中身については書けませんが、守秘義務がカバーしていない部分(たとえば、裁判所の掃除が行き届いていたかどうか、とか医療的な観察)については書いてかまわないはずですから、気分的には手ぐすね引いて待っている、といったところです。(特に、インフォームド・コンセントを是とする立場からは、法律用語も徹底的にわかるまで説明してもらいたいものですね。そこも手ぐすね引いて……)
 問題は、職場を不在にする予定がきちんと立つのかどうか、です。外来や病棟でのとりあえずの対応は短期間なら誰かに代理を頼むことも可能ですが、予定が明確でなければ頼みようがありません。さらに私でなければできない仕事がいくらでもあります。それも私“だけ”ではなくて、チームで取り組むべきことが。となると、チームのメンバー全員の予定も私が抜けることで影響を受けるので、あらかじめ何日から何日までときちんと予定ができないと、病院のある部分の業務が止まります。それは困ります。大いに困る。私だけではなくて、たくさんの人が。だって一部が止まれば連鎖反応が起きるのですから。(これが、それでなくても医師が不足して困っている領域の人だったらどうするんでしょう。救急室とか手術室とか診療所を閉鎖して裁判に参加?)
 国民の義務だからもちろんそれは果たしますが、その結果、大げさに言うなら、医療崩壊に手を貸すのは願い下げにしたいなあ。
 逆から見たら、たとえばすでに面談や検査や手術の予定を次々組んでしまったところに突然「明後日から裁判だから出てこい」なんて言われても困ります。その場合には“先着順”にするしかないでしょう。プロなんだから顧客に迷惑はかけられません。ついでですが現時点で私の予定、3週間以上先までもう予約が容赦なく入ってます。

 我が身でなくても身近でおきる可能性もありますね。あなたの主治医が「明日からちょっと裁判に行ってくる。いつ帰れるかわからないけれど、それまでは元気でいてね」と言ったら、あなたは快く送り出せますか? あなたの子どもの学級担任だったらどうでしょう。あなたの仕事場の同僚だったら? バイト君だったら?


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2008.11.29 06:55 |  仕事 / 職場  |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 才能の評価

 11月25日「完全/君子と小人」の補足です。(補足というより蛇足かもしれませんが、せっかく書いたものですから)


 「他人の才能を評価する」ことも実は「人の才能の一つ」です。才能である以上、上手下手がありますが、それが下手くそな人間がやたら多いからこそ「自分には才能があるぞ」と外に形として示すための「資格商法」が世にはびこり、「自分は不当に評価されている」と人事評価で不満が渦巻くことにもなります。それでも「専門家」の場合にはまだ話が楽です。少なくとも使う物差しはその専門領域に関するもの一つですみますから(それでも「お前の判断基準はおかしい」と話がもめることは良くありますが、これはきっと物差しの縮尺が各人で違うのでしょうね)。
 それが「評価するべき要素が複数」の場合には話はややこしくなります。それぞれの要素についてまずは各個に正しく評価した上で、さらにそれぞれのバランスを考えなければなりません。さらに「評価されるべき人」だけではなくて「その人がいる環境との関係」も考慮する必要があります。(戦闘力が優秀な軍人」は「経済市場」ではなくて「戦場」で(それも空軍なら空、海軍なら海で)評価されなければならないでしょ?)。

 ところで日本では、複数の分野で才能を発揮することはあまり好まれません。「器用貧乏」「多芸は無芸」ということばがあるように、マルチタレントは低く評価されるのが日本の“伝統”です。「一芸は道に通じる」は一見最終的な「幅広さ」を高く評価しているかのようですが、そこでも重要なのは「まずは一芸(を極めること)」です。
 ということは、マルチタレントを正しく評価することは、日本の“伝統”に反する行為ということになります。実際にやろうとしても、「他人を評価する才能」を欠いた人間にはそもそも無理ですが。

 ではそういった人が他人の才能、特にマルチタレントを評価するにはどうするか。「完璧」を求めるのです。これなら低才能無能力の人間にも他人の評価が可能です。一点「瑕疵がある」ことのみを抽出すればいいのですから。
 つまり、他人に完璧を求めること・他人のあら探しだけをすることは、そういうことをしている人自身の「自分の能力は低いという告白」でしかないのです。

 ところで、「他人の才能の認知」は個人の才能(の一つ)ですが、「他人が自分より優れていることを素直に認める」のは才能より性格の問題です。嫉妬などに目をくらまされずに冷静に他人を評価できるのは、感情の領域ですから。その上で「現状の把握」をし、適材適所ができることはこれまた才能でしょう。「自分の回りに有能な人間(使える人材)がいない」とお嘆きの向きは、まずは一度自分の才能と性格を厳しくチェックした方がよいかもしれません。


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 「「議員、官僚、大企業、警察等の信頼感」調査」によると、日本では国会議員よりはマスコミの方がまだ信頼感は高いそうですが……それでも医者の習性が働いて、マスコミのことばを信じ込む前にまずは「事実」の確認からです。

 
平成20年第25回経済財政諮問会議議事要旨」から引用します(11ページの部分)。
(麻生議長)67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやた
らにかかっている者がいる。彼らは、学生時代はとても元気だったが、今になると
こちらの方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているか
らである。私の方が税金は払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の
分の金を何で私が払うんだ。だから、努力して健康を保った人には何かしてくれる
とか、そういうインセンティブがないといけない。予防するとごそっと減る。
病院をやっているから言うわけではないが、よく院長が言うのは、「今日ここに
来ている患者は 600人ぐらい座っていると思うが、この人たちはここに来るのにタ
クシーで来ている。あの人はどこどこに住んでいる」と。みんな知っているわけで
ある。あの人は、ここまで歩いて来られるはずである。歩いてくれたら、2週間し
たら病院に来る必要はないというわけである。その話は、最初に医療に関して不思
議に思ったことであった。
それからかれこれ 30年ぐらい経つが、同じ疑問が残ったままなので、何かまじ
めにやっている者は、その分だけ医療費が少なくて済んでいることは確かだが、何
かやる気にさせる方法がないだろうかと思う。

 非常に単純化して言うなら「不養生・不摂生をするから体が弱り病気がちになるんだ。そういった人は生活を改めることで“健康”になれる、あるいは病気が予防できる。自分が良い例だ。それで医療費が抑制できる」となるでしょう。(だったらそう言えばいいのに、同窓会だのよぼよぼだの枝葉をつけて言うからマスコミに適当に刈り込まれて“整形”されてしまうのです。
 ただ、病気の原因は不摂生だけではありません。たとえば、先天的なもの・遺伝・外因の病原(インフルエンザ・ノロウイルスなどの病原体や、森永ヒ素ミルクやサリドマイドや水俣病など)・事故・加齢など、個人としてはどうしようもないものはいくらでもあります。さらに、一見個人の不摂生に見えても社会的な強制(過重労働による過労死など)も。それらを除いた「個人としてなんとかできるもの(生活習慣病)」については個人で(生活習慣を)ナントカできないのか、とことばを惜しまず言えばいいのにそれをしないから、「首相は『病気は個人の責任なのにその金をなんで私が払うんだ』と言った」となってしまう。
 ということで、たまには首相の“弁護”をしてみました。

 私は、中曽根さんの原爆病院での「病は気から」発言を思い出しました。あれも「病気があっても元気を出し て」が真意だったはずですが、言った場所と選んだことばのマッチングが最悪でしたっけ。政治家だったら、「自分が言いたいこと」だけを言う(「真意」を押 しつける)のではなくて、最初から幾つかの異なる立場の人を聴衆として想定してから発言した方が良いんじゃないかしら。もちろん「究極の八方美人」が理想 の政治家かと言えば、必ずしもそうは言えませんが、この場合はわざわざ「敵」を作らなければならない状況ではないでしょう? 「敵」を作るには、作るべき 場所と状況は選ぶべきです。

 た・だ・し、ことばを惜しんだのか事実を知らないのかの区別もつきませんが、もし惜しんだのだとしても、あれでは、政治家としては失敗というか失格と言われても仕方ないとは思います。社会保障の理念(健康保険制度の原則)は、相互扶助であって“投資”(“払った金”の分に見合うだけの“利得”を期待する)ではないのに、上で引用した発言を素直に取ると首相は30年間それを理解せずに政治家を続けている、ということになりますから。公的な場での政治家の発言ではなくて「酒場でTV見ながらの無責任な放言」だったらOKなレベルですけどね。

 そうそう、上記の首相の発言、議事要旨を最初から読んでいるとどうも直前までの流れとつながりが悪いのも気になります。もしかして「言いたい時に言いたいことを言う。他人の発言は無視」のタイプ? それとも、それまで続いた抽象的で観念的でふわふわした議員たちの議論に対して(中には少しでも現実的な話をしようとしている人もいますが)、もうちょっと“現場”に足をつけた話を出したかったのかな。

 もう一歩踏み込んで考えてみます。11月22日に「読書感想『健康不安の社会学』」で書きましたが、「お上」が「個人の健康」に熱心に口をはさむのは結局社会の健康不安を助長させます。そこまで考えてから「政治家として」国民の健康に口を出さないと、良かれと思ってやったことが別の不幸を招くことになりかねません。政党の中のパワーゲームも複雑でしょうけれど、この世はもっと複雑なのです。

 

 ……あらら、弁護するはずが批判になってしまいました。だけど、ポジティブな批判だから、OKですよね?(と自己弁護)


※いつも思うのですが、政府の文書はどうしてやたらとPDFにするのでしょう。上で引用した中央調査社のページはグラフがあるので必要性が理解できますが、議事録のようにグラフやイラストが含まれない文字だけのファイルはふつうのテキストファイルで良いんじゃないかなあ。PDFは重くてかさばって扱いにくいのですが、なにか“事情”があるのかな。


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 お役所から病院に書類が来ていました。読んでみると、「○○を××されたい」「□□を××されたい」といった文章がいくつも並んでいます(「××」のところは「周知」とか「明記」とかです)。大げさに言うと「されたい」のオンパレードです。
 だけどこの文章の真意は「××をしろ」です。
 私の国語力では「される」は「する」の尊敬・受け身形です。で「され+たい」は「される+希望・要求」。尊敬語を用いることで命令形の強さを少しでも和らげようとしているのかもしれませんが、しょせん「尊敬」はことばだけで、真意が「逆らったら怖いぞ」であることが透けて見えるから、読んでいて微妙に気持ち悪くてしかたありません。そもそも、尊敬と命令は相性が良いとは思えません。単なる形式的な敬意はかえって相手に失礼です(慇懃無礼)。あっさり「○○を××すること」「□□を××しなさい」で良いじゃないですか。どうしても「された」を使いたいのなら「○○を××されたし」だったら、“命令”がわりとストレートに感じられるので、私は「されたい」ほど気持ち悪くはありません。結局意味は同じですけれどね。

※もしかしてもしかして、「される」は尊敬じゃなくて受け身? お役所から「病院は役所の思うがままに“され”なさい」とあらためて通達されているのかも。

 そもそも私の日本語感覚で「されたい」を使うとしたら……たとえば「あなたに優しく愛されたい」とか「あなたに優しく介抱されたい」といった用法となります。(しかしなんで「優しく」が並ぶかねえ。もしかして私は優しさに飢えている?)

 ところで相手への希望・要求として「されたい」を使うのは一般社会常識ではごくふつうのことなんですか? たとえばこういった文章を普通に書く人は家に帰っても「晩酌は日本酒二合にされたい」「今夜の風呂のお湯は、摂氏42度にされたい」とか言うのかしら? あるいは「今夜のセックスは1時間はされたい」とか……あ、これはこれで意味が通ってる?


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2008.11.27 18:57 |  医療制度 / 行政  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 4

 政治の問題

 介護保険に関して「来年度から報酬を増やすから頑張れ。人を増やせ、給料も増やせ」という厚労省のありがた〜いお触れに対して、民間業者の動きがとっても鈍いそうです。

 さて、「収入が増える」と聞けば喜ぶのが“ふつう”です。今回なぜ民間業者は“喜”ばないのでしょう? 私と同じようにひねくれ者ばっかり? そんなことはありません。世間には素直な善人があふれているはずです(だからこそ詐欺事件が横行します)。

 日本には「二階に上げてハシゴを外す(あるいは「ハシゴを外された」)という言い回しがあります。実は厚労省は、その前の厚生省の時代から、“その手”が大好きなのです。診療報酬を上げることで“経済誘導”をしておいて、それにつられて医療機関が集まった(施設を改装したり設備を揃えたり人を集めたりした)ところでどんと診療報酬を下げる、を何回やったことか。それどころか、現在の話題のフィールドとなっている介護保険では、介護保険適用の療養病床を(削減どころか)ばっさり廃止としたのは記憶に新しいところです。「設備投資」とか「減価償却」ということばを身をもって味わったことがない人が政府にはいるようです。
 いくら“善人”でも、少しでも記憶力や判断力がある人間が経営者だったら「来年度から報酬アップ? ふーん。で、何年後にダウン?」と思っても不思議ではないでしょう。“恒久的”定率減税でさえあっさり廃止しちゃう政府が、こんどの政策(予定)には「恒久的」もつけていないのですから。選挙前に一時だけぶち上げてちょっとやってさっさとやめる気満々と見られてもしかたありません(ついでですが、ここの「一時」は「いちじ」よりも「いっとき」です)。

 つまり、今回の介護報酬の件は、単なる「金の問題(経済)」だけではなくて「政治の問題」なのです。もうちょっと踏み込んで言うなら、「この国の政治が信用できるかどうかの問題」。で、ここで必要なのは「私を信用してください」と懇願したり「おれが信用できないのか」とすごむことではなくて、「国としてのグランドプラン」を(美辞麗句だけ並べ立てるのではなくて)理念とともに具体的な政策としてそのデータや金銭的な裏付けや人の手当などを明確にしてきちんと明示することです。それなしで行き当たりばったりにソロバンだけ振り回してうろうろするから、信用が落ちるのですよ。(あ、振り回しているのは今は電卓ですか。それは失礼)


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 先日産婦人科の労働条件について「産婦人科勤務医の勤務時間」で書きましたが、小児科医を扱っているサイトを見つけました。「小児科医と労働基準」です。まだざっと見ただけですが、内容は豊富です。
 たとえば小児科医師数の統計。平成14年から16年にかけて小児科医は全国で微減ですが、都道府県によって増減の差があり、たとえば北海道はすごい減少ぶりです。ならばその理由を解明すれば、小児科医の減少/偏在に対する解決の方法が見つかるかもしれません。各都道府県ごとのローカルな理由かもしれませんが、すくなくとも根本的な対策を欠いたままでの強制移住よりはましかも。
 「宿日直許可を受けている医療機関に関する監督結果」(平成18年厚労省労働基準局)で、労働基準法違反をしている病院が80%以上、なんてデータもあります。いやあ、凄い数字ですな。でも、こういった数字は、実はそれだけでは意味がありません。問題意識と数字の解析能力と立案能力と実行力(権限と予算と人事とやる気)を持った人びとが眺めて初めて“数字”は意味が出てきます。一つの数字だけ見つめるのではなくて、他の数字との関連も重要ですから、視野の広さや一見無意味なものの関連づけの発想力も必要です。とりあえずそういったものを持っている人の目にとまる一助になるように、ここに紹介をしておきます。本当はそういった数字が一番身近にある官僚に期待するべきなのでしょうが、上記の要素の何か(あるいはすべて)を欠いている様子ですので。


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 「医師養成には国費が投入されているのだから、医師は国の言いなりになって動くべきだ。診療科の自由選択とか自分勝手な開業なんかもってのほか」と主張する人がいます。「国費が投入されていたらその恩恵を受けた学部生は自分の将来に関して国の言いなりにならなければならない」が“真”だとすると、国立大学の文学部を卒業した人は全員文学者にならなきゃいけないし、経済学部で学んだ人は当然全員経済学者でしょうね。だって“文学”部や“経済学”部なのですから、それ以外は認められない、と。そうそう、落第することも“罪”です。「税金の無駄遣い」になるのですから。国民の皆さん、それでよろしいですね?(ところで新聞記者さんたちは、何学部何学科の卒業なんだろう? アメリカのようなジャーナリズム学科は日本にはそれほどないと思うのですが)
 なんだか「養ってやったのだから、その恩に報いるために就職や結婚で子どもは親の言いなりにならなければならない」と主張している一部の封建的な親を彷彿とするのですが……子どもを養ったり社会に必要な人材を育成するのは、親や国の“義務”ではなかったのかな? 「“義務”を果たしたことで自分には特権が生じた」と声高に主張している姿は、控えめに言って、みっともない。

 ところで今回元次官宅を連続襲撃した小泉容疑者は中退とはいえ国立大学に在籍していたそうです。この場合「国費が投入されているのだから」の文脈を用いたら、彼には一体何を言えばいいのでしょう? 「国立大学で国民の税金を使って学んでいたのに、殺人犯なんかになりやがって」です? なんだかとっても虚しく響く言説なのですが……これはきっと話の前提が大きく間違っているのでしょう。


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 世間では最近あまり聞かれなくなったことばですが、ある種の裁判官とある種の弁護士とある種のマスコミはこのことばの存在自体を認めていません。どんな人でもとにかく救急室に運び込んだら助かるべきで、万が一そこで助からない場合はそれは医者の責任だ、と主張します。
 奇跡を期待してとにかく人間が努力しろ、と言うのでしょう。たしかに天命を待つ前に人事を尽くすことは必要です。手抜きをするのは医者としてあるまじき態度。でも、すでに三途の川を渡ってしまった人に救命処置をするのは「医療」でしょうか? そしてその救命処置を事後に詳細に点検して、手順の一部にでも瑕疵があればあるいは数秒の遅れでもあれば(ひどい場合にはそういったものがなくても)、鬼の首を取ったように訴えます。人の死は全て医師の“手抜き”がその原因であるかのように。

 病気や怪我の治療は、人の手でできます(できないこともあります)。しかし、「死」を治療することは人間にはできません。


 そして、奇跡が起きなかったことへの怒りをそこに居合わせた人間に対してぶちまけるのは、二重に間違っています。奇跡は人間が起こすものではありませんから。(奇跡を人に求めるのはお門違いです。で、願うのではなくて神に奇跡を要求するのは僭越な行為、と私は思っています。だから「二重」)

 ただ……「奇跡が待望される社会」は、社会全体に不幸が満ちあふれていることを示しているのかもしれません。だとすると、私がするべきことは「奇跡を求めるな」と言うことではなくて……


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