「ごく平均的な人びとが、システム事故は、通常、長期にわたってミスと不幸な出来事が積み重なった結果として生じるものだ(青天の霹靂のようなものではない)ということを理解し、さらには、人間のミスはいくつかの大きなカテゴリに分類できること、初期段階で行動を起こせば事故原因の連鎖は断ち切れることを理解すれば、トラブルが発生しそうな状況をいっそうよく見抜けるようになるはずだ。」
(『最悪の事故が起きるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ 著、 高橋健次 訳、 草思社、2006年(07年5刷)、2300円(税別))
1月2日に「自由と平等(3)」を投稿してから、また少し書くことがあるのに気がつきました。
臨床医学は、集積した個別の例を「一般化」することによって、それぞれ違う個別の患者への対応に一定の水準を確保します。それぞれの患者で一々ゼロから始める必要がないわけ。
事故(ここでは医療事故に限らず、すべての事故について一般化して考えることにします)に関しても同じことが言えるでしょう。
個別の事故例にだけ着目して、「これをしなければ(したから)事故が起きた」と「後出しじゃんけん」をしたり「他罰だけを目的とする」だけでは事故予防はできません。「後出しじゃんけん」が有効なのは「事故“後”」だけですし、「他罰目的」だったら「“犯人”を罰したら一件落着」になってしまい、また新しい事故が起きる度、ゼロから考えてその場にいる人間が必死で対応する必要があります(つまり「他罰の人」は、本来罰しなくてもよい人を罰して苦痛を与え、本来予防できた事故を誘発してさらに多くの人を苦しめることを目的に行動している、と言えます)。しかし、事故を洗いざらい集積してそれを「一般化」することができれば、100%の対応は無理ですが、少なくともそれまでに得た教訓を生かすことができるし、何より「意外なこんなことで事故が起きることがある」という「知識」を多くの人が持つことだけで予防効果が生まれます。(講演会で聞いたエピソードですが、航空機のインシデントで、原因は操縦士がミスをしたのですがさらにその原因が「地上の花火大会に見とれて」だった、というのがあるのだそうです。たしかに高空から打ち上げ花火大会を見下ろしたら、思わず目を奪われてしまいそうです(少なくとも私はそうです)。そこでどうしたか。「集中しろ」とか「気をつけろ」ではありませんでした。全国の花火大会のスケジュールを調べ、当該空域をその時間に飛ぶ機にはあらかじめ警告が行くことになったのです。これが「生きた事故予防」でしょう)
『最悪の事故が起きるまで人は何をしていたのか』には、全体を理解しづらい巨大システムの中で起きる事故がいかにして起きるか、それに個人がどう対応するべきか、が様々な実例をもとに(一般化して)述べられています。そういえば「スリーマイル島事故」も登場するのですが、そこでは「裁判が長期化したために、重要な情報がまだ公表されていない」と苦々しく書かれています。おやおや、「真実を知るため」には裁判がかえって有害なこともあるんですね。一例だけでそれを一般化してはいけないのでしょうが。
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「JR福知山線事故 前社長に無罪」(NHK)
「システムによっておきた事故」をきちんと評価するためには「個人を追及」するのは(犯罪や明らかに犯罪的なミスの場合を除いて)不適切である、というのは医療事故関連で私はこれまでにも述べてきていますが、この事故も同じ視点から見ています。
報道を見る限り、「カーブが急カーブに改修された」「ATSが設置されていなかった」ことが裁判では問題とされていて、「もしもATSが設置されていたら事故は起きなかった」という主張に対して「当時の状況を見る限り、絶対にATSを設置するべきだった、とまでは言えない」というのが裁判官の判断、ということのようです。
だけどシステム面から見た問題は、そういった(ソフトウエアで事故が回避されていただけの)ハードウエアの問題に、会社としての「ダイヤグラムを厳守、という従業員への圧力(たとえば、ダイヤの厳守ができない従業員への、日勤教育という名前の“懲罰”)」という“ソフトウエアの問題”がずしりと加味されることで、事故が発生しやすくなったことにあるわけです。それぞれが“独立”していたら事故には結びつきにくいものが、“合わせ技”になることで“事故の温床”となったわけ。ですから、福知山線の“その急カーブ”に“ATS”を設置しさえすればそれですべてが解決、というものではないでしょう(システム自体がエラーを内包しているわけですから、“そこ”に蓋をしたとしても別の時間別の場所に必ず何かが噴き出ることになります)。
もしもこの裁判で裁かれるのが「JR西日本というシステム」だったら、結論はおそらく「有罪」だったでしょう。裁判官も「組織として求められる安全対策という点からみれば、JR西日本の当時のATSの設置の在り方などは期待される水準に及ばず、問題があったといわざるをえない」と問題点を指摘しているそうです。(しかし……「指摘」したら裁判官は満足かもしれませんが、その「指摘」を社会を良くすることに使ってもらえないかなあ。司法というのはそれだけの“権限”を持っていません?)
「会社組織の長は社長なんだから、社長を罰したら組織を罰したことになる」というのもひとつの見識ではありますが、社長なんて取り替え可能なんですから、次々社長を処刑しても、その組織に安全文化が根付くとは私には思えないんですよねえ。
このあとはもうこれまでの繰り返しになりますから、キーワードだけ。
情報収集・罰することを目的としない・情報公開・教訓を生かす・新たな事故の予防・組織として動く。
もちろんこの態度は、フクシマ原発事故でも、私は保つ予定です。
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「津波想定に不備・冷却作業で不手際 原発事故調報告」(朝日新聞)
まだ中間報告ですが、私がこの報告で高く評価したいのは「個人を責めてオシマイ」にしようとしない態度です。他罰感情を満足させるための文章はマスゴミなどにまかせておきましょう。必要なのは、原因の(糾明ではなくて)究明、何が起きたかに対する深い理解、そして再発予防のための提言です。「誰かが悪いはずだ」という思い込みに基づく「犯人捜し」と「処罰による大団円」ではなくて。
もちろんこの「究明」過程で犯罪または犯罪的行為が見つかればそれは糾明する必要がありますが、私から見たらそれは“本線”ではありません。地震や津波に限らず、大災害は必ずまた起きますが、その時に被害を拡大しないために生かせるノウハウを周知して欲しいのです。それが私の思う“本線”です。
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「福島3号機:現場独断で冷却停止…3月13日、高圧注水系」(毎日新聞)
医療事故での「人が死んだ以上、誰かが犯人だ。犯人は誰だ。こいつか? こいつだ!」と“個人”にすべての責任を押っつけようとするのと同じような論調の記事に感じられるのですが、私の勘(感)違い?
別に私は“弁護士”を買って出る気はありませんが、たとえば私がその場にいた作業員だったり所長だったりして、その時とまったく同じデータを与えられたときに彼らがやったのとは別の行動ができたかどうかの検証くらいはして欲しいとは思います(後出しじゃんけんでの判断(「こんな判断と行動をしたのだから事故が起きた。だから別の判断と行動をするべきだった」)ではなくてね)。それと、そういった過酷事故(異常事態)が起きたときにどのように行動するべきかをきちんと訓練されていたか、の確認も(「マニュアルがあるかどうか」ではありません)。
でないと、また似たような“事故”が起きたとき、スーパー名医、じゃなかった、スーパー技術者がそこにいない限り、また同じような結果が導き出されてしまうのではないか、という嫌な予感がするのです。
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一日幸せでいたいなら床屋に行きなさい/一週間幸せでいたいなら結婚しなさい/一ヶ月幸せでいたいなら馬を買いなさい/一年幸せになりたいなら家を建てなさい/一生幸せでいたいのなら正直に生きなさい。
こんな格言(?)があるそうです(もとは、アラビアとか英国とかイタリアとか、諸説があるようで、私には確定ができませんでした)。至言だなあ、と思いながらぼんやり眺めていて、医療事故の“対処”にも似たことが言えそうだと思いつきました。もっとも文の構造は大きく変ってしまいますが。
医療事故を処理することで「一日だけの満足」をしたかったら、“犯人”を罰すればいいでしょう。しかし「再発予防」をしたかったら、調査とシステム改善をする必要があります。でもこれでは「一日」どころか「満足そのもの」が得られません。自分の決定が正しかったのかどうか、その効果をじっと見つづけなければならないのですから。何年もそれで無事故が続いたとしても、次の日には事故が起きるかもしれません。だから「満足」してオシマイにすることはできないのです。
それだったら「一日だけの満足」を事故のたびに毎回繰り返す方が楽だ、と思う人が出てきても仕方ないかな。感心はしませんが。
事故を報道する側にも同様のことが言えます。ただし、新聞は「半日だけの満足」ですが、テレビは「15秒間の満足」。メディアの特性で仕方ないのでしょう。やっぱり感心はしませんが。
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AIU保険が香川大学を相手取って、多額の保険金を支払わされたのは病院の医療ミスのせいだから金を払え、という訴訟を起こしたそうです。
ネットでは有料の朝日デジタルでなら読めるそうです(「「保険金、病院も負担を」医療ミス、損保が提訴」)……あ、毎日が後追いをしました。「AIU保険:女性患者巡り、香川大を提訴」(毎日)……って、この記事はまるっきり朝日の劣化コピーだなあ。で、その後読売も「AIU保険、香川大を提訴」ですが、こちらの方は毎日よりは電話一本分だけでも取材をしている様子です。
女性が知人の車に同乗していて交通事故で重大な障害が残ったので知人相手に賠償請求をして、その知人は「無制限の保険」に加入していたから保険会社が賠償金と治療費で3億円以上を払ったのだが、「障害が残った責任は付属病院にあるから半額を払え」とAIU保険が訴えを起こした、ということだそうです。
記事で気になったのが、訴状で「女性の救急搬送後、付属病院が速やかに首を固定しなかったため、脊髄の損傷が広がった」と“指摘”されている、ということです(これは朝日の記事からの引用)。これが私にはとっても疑問。だって、脊髄損傷の疑いのある人の首の固定は救急搬送“前”に行なうべきことでしょ? ストレッチャーに乗せようとして首ががくんとなったり救急車で運ぶ道中で頭をがたがた揺する“前”に。
もちろん保険会社は「症状が出た瞬間には病院に体があるから病院の責任だ。金があるのも病院の方だ」という判断で訴訟を起こしたのでしょうし、JBMでも同様の判断が示される可能性があります。しかし、医学的には「入院後に出現した症状の“原因”が入院前に存在していることがある(骨による圧迫・進行する浮腫・血行障害などで、受傷直後ではなくてしばらく経ってから症状が出ることがある)」ということは“指摘”しておきます。(もし私が訴えられた側だったら、裁判では「〜ことがある」ではなくて「〜である」と強く主張することになるでしょうけどね。でもこれは“医学の真実”からは遠ざかってしまうんですよねえ。だけど裁判で明らかになるのは「真実」ではなくて「どちらが上手に相手を言い負かしたか」ですから、仕方ないでしょう)
あ、もう一つ気になることがありました。億を超える訴訟ですが、訴状提出するのに収入印紙はどのくらいの額が必要だったのでしょうねえ。貧乏人としては、気になりま〜す。
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日航ジャンボ機墜落事故の記憶は、私の中ではまだ色あせていません。アナウンサーが興奮した口調で「生存者が見つかったようです」と言ったときには、本当に驚きましたっけ。ただ、その直後のヘリコプターでの釣り上げは、いかにも不慣れで装具も専用のものではなさそうで、「ヘリでホバリングしながらの救出」を日本ではこれまで想定していなかったんだな、と思いましたっけ(あの複雑な気流が起きそうな危険な地形でエンジンに負担がかかるホバリングをやっていたヘリパイロットの腕には感服しますが)。
あのとき、現場(御巣鷹の尾根)は本当に悲惨な状況だったそうですが、遺体や散乱した部品などが山から降ろされたところも、悲惨だったそうです(*1)。
事故原因は、尻もち事故での修理が不十分だったために後部隔壁が破壊されて機体尾部と垂直尾翼が破壊され、さらに4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたために操縦不能になったため、と事故報告書にはまとめられました。
ただ、操縦不能のために123便はダッチロールをしていましたが、実は、油圧装置が効かなくても左右エンジンの推力を変えて機体を安定させることは理論的にはできたのだそうです。ただし、そのことを、当該機のパイロットは知らなかった……というか、日航の誰もそのようなことは訓練されていませんでした(*2)。そもそも「“複線化”してあるすべての系統の油圧制御装置が破壊される」ということ自体が“想定外”ですから、その原因とそのことへの対応法が即座に頭に浮かぶことを期待するのは、人に「神の視点」を期待するのと同じことでしょう。
で、医療裁判で医療者に無茶な要求や判断をする人たちの同類が、もしもこの「油圧装置が効かなくても左右エンジンの推力を変えて機体を安定させることはできた」ことを墜落事故直後に知っていたら、「飛行機の挙動や全油圧装置の破壊という“症状”から、後部隔壁が破壊されたという“診断”を即座につけるべきだった」「たとえ現存する一番強烈なジェットコースターをしのぐ上下左右への揺さぶりがあったにしても、エンジンの推力を調節すれば飛行機の微妙なコントロールは可能だったはずなのだから、安全な着陸または着水も可能だったはずだ」と平気で主張するんじゃないか、と思いました。少なくともリクツは通っているでしょ?
私の反応にも、医療事故や医療裁判と同じスジを通しておきます。「机上の空論を弄んで喜んでいるのではなくて、現実的に可能かどうかをきちんと判断してよね」「できるのだったら、シミュレーターでやってみせて。ただし、後出しできないようにパラメーターはあらかじめいくつか変えておくけど、即座にきちんと判断してね」。
*1)『墜落遺体 ──御巣鷹山の日航機123便』飯塚 訓 著、講談社、1998年、1500円(税別)
*2)『ブラック・ボックス ──航空機事故はなぜ起きるのか』ニコラス・フェイス 著、 小路浩史 訳、 原書房、1998年、1800円(税別)
※蛇足
「左右エンジンの推力を変えて機体を安定させることは理論的にはできた」で私が思い出すのは、戦艦ビスマルクです。大西洋の通商路破壊のために出撃したドイツ海軍の最新鋭艦ですが、英海軍の巡洋戦艦フッドを撃沈したものの英空母アーク・ロイヤルから発進したソードフィッシュ雷撃機の魚雷に舵を破壊されて進路変更ができなくなってしまいました。そこでも「理論的」には、左右のエンジンの出力を変えることで進路変更はできるはずでしたが、破壊されてねじくれた状態で固着した舵が抵抗となって結局思うようにいきませんでした。ビスマルク艦上では様々なアイデアが検討されましたが(潜水夫を使って舵を取り除く、艦上から爆薬を落として舵を爆破する、など)、当時は荒天、しかも英海軍の艦艇や飛行機と戦闘をしながらの状況で、さらにフッドとの交戦で損傷を受けて前部燃料タンクが使えない状態、という“悪条件”がいくつも重なったために、結局何もできませんでした。「理論的には可能」でも「現実」が“邪魔”をすることはよくあるのです。
蛇足の参考図書
『巨大戦艦ビスマルク ──独・英艦隊、最後の大海戦』ブルカント・フォン・ミュレンハイム=レッヒベルク 著、 佐和誠 訳、早川書房、1994年、2200円(税別)
『戦艦ビスマルク発見』ロバート・D・バラード 著、 高橋健次 訳、 文藝春秋、1993年、5825円(税別)
『孤独の海』アリステア・マクリーン 著、 高津幸枝・高岬沙世・戸塚洋子 訳、 早川書房、1987年、1500円
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「高齢者、ベッド転落防止…「危険状態」無線で通報」(ヨミドクター)
ベッド上に寝ている人の姿勢をリアルタイムで赤外線センサーで監視して、ベッドから落ちそうになったらアラームを鳴らすと同時にベッドのサイドにたたんで収納してある衝撃吸収マットを展開して体を受けとめる、というシステムだそうです。
転落事故そのものはなくせませんが(いくらアラームが鳴っても、対応する人が瞬間移動できない限り「間に合わなかった」は生じます)、転落してから1時間気づかれなかったのが1分で発見される、という“効能”は期待できるでしょう。そういった点で、良いものができたと感じます。常に見張りがついている、という安心感も介護者には大きいでしょう。
ただ……いまから難癖をつけます。
「これをつけたから、もう安心」とは思わない方がよいです。
落ち方によってはこの装置は無力です(私がこれまでに経験した中では「ベッド上に起立して、そこから床に向かってダイブしようとした」なんてのがあります。これをやられたら、どんな監視装置も予防装置も、その効果を発揮することはできないでしょう)。
もちろん、故障することもあるでしょう。
さらにあり得るのが、「人間がスイッチをオフにしていた」。たとえば、ベッドの中で(着替えとか排泄関係とか)何かの処置をしようとします。すると本人は静かに真ん中に寝ていてもベッドの脇の方には介護者の動きが生じます。それをセンサーがキャッチしてしまうと、ぴーぴーうるさい。うるさいから作業の間はスイッチを切る人もいるでしょう。そして、作業が済んだとき、またスイッチを入れれば良いのですが、忘れてそのまま立ち去ることもあります(うっかりさん、という場合だけではなくて、手が汚れてしまったからそれでスイッチをいじれないからまず洗いに行こう、とか、よそで緊急事態が起きて呼ばれた、とか、で結局取り紛れてしまって、ということはよくあることだと私は想像します)。すると装置はスイッチを切られて寝たままです。これを予防するためには……そのための監視装置も必要です?
※どうでもいいことですが、「ヨミ」という文字列を見ていて私がすぐ連想するのは『バビル二世』です。あの、律儀で健気な悪役さん。「ヨミ」を「黄泉」と文字変換する人もいるかもしれませんが、私の場合は「ヨミドクター」を「ヨミ(様起きてください)ドクター」と読んでしまいます。
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書誌情報:『群衆安全工学』岡田光正 著、 鹿島出版会、2011年、3400円(税別)
明石の花火大会で大きな事故が起きたのは、もう10年前のことです。平成13年(2001)7月21日に駅から会場に向かう歩道橋の上で群衆雪崩が起き、死者11名負傷者247名という大事故になりました。事故の大きさだけではなくて、この事故でもう一つ印象に残っているのは、検察審査会が当時の警察副署長を何度も起訴妥当と議決して結局強制起訴に持ち込むことに成功したことです。
本書を読む限り、たしかに当時の警察の対応には問題があります。ただ、署長や副署長を罰することでどんな「良いこと」が社会にもたらされるのだろう、と私には当時思えていました(今も思っています)。たとえば世界最大の群衆事故として本書に掲載されている江戸時代の「永代橋崩落事故」(深川八幡宮の大祭で群衆が異常に詰めかけ、その重みで橋が崩落、両側から人が押し寄せ続けて落下が続き、死者行方不明者1500名以上)で、「上に乗った人の重み程度で落ちるような橋を造った大工」を罰したらそれで“一件落着”、とは私には思えないんですよねえ。それと同じ視線で「明石花火大会歩道橋事故」も(そして多くの医療事故も)見ている、というわけです。
群衆事故にはいろいろなパターンがあります。スポーツだと、フーリガンが暴れることで競技場内にパニックが起きて、という暴動のタイプ。宗教だと、たとえばメッカでの群衆事故(異教徒は立ち入ることができないので詳細は不明ですが、何年かに1回必ず繰り返されているようです。特に大きかったのは1990年の歩行者専用トンネルでの事故で圧死者1462名)。日本で多いのは、祭礼とかイベントなどでの事故で、これは“準備”ができるはずです(だからこそ、警察の責任者はきちんと準備をしておくべきだった、ということになるのでしょうが)。
明石の場合には、ハードとソフト、その両方に問題がありました。
・ハード面の問題
歩道橋の有効幅は6m、しかし階段は幅が3.2mでした。つまり、電車を降りてどっと歩道橋に上がった人はその出口で流れが絞られる設計だったのです。しかも、花火から早く帰ろうと階段を上る人もいます。両方向からの群衆が押し合いへし合いすることになり、その分、上での滞留はひどくなります。階段は絶好の花火鑑賞ポイントでした。立ち止まる人が多く流れが悪くなります。さらに夜店が階段を下りたところから並んでいました。そこには人が密集して、ますます人の流れを妨げます。
・ソフト面の問題
警察官は多く配備されていました。しかしそれは主に暴走族対策で、歩道橋はノーマークでした。
警備員も配置されていました。しかし警備員は警察官とは違って法的強制力を持っていません。当時警備をしていた人の中には、混乱の中で「警備員だから何とかしろ」と突き飛ばされた人もいれば殴られて負傷した人もいます。また、入場規制をしようとしたら「夜店が閉まる」などと罵声を浴びせられて結局規制ができなかったということです。(「権限」を持った警察官によっての流入規制を行なえば、歩道橋上の過密は解消あるいは軽減されていたでしょう。ただ、いくら権限があっても情報がなければその権限を適切に使うことは難しいでしょうね)
実はその約半年前、大晦日のカウントダウンで、同じ歩道橋の上に3000人が密集して倒れ込みが発生する寸前の状況となっていました。しかし大事故にならなかったため、警察・警備会社・市はそれを「事故予防のための教訓」ではなくて「成功体験」として捉えたのではないか、と著者は推測をしています。「前は大丈夫だったのだから、今回も大丈夫だろう」と。だからカウントダウンの時とおなじ対策で臨みました。ところが花火大会ではカウントダウンをはるかに上回る人が密集。その中で誰かが倒れたことによる「過密の中の空隙」がきっかけとなって倒れ込み事故(「将棋倒し」ではなくて空隙周囲の異常な圧力によって生じる「陥凹型の倒れ込み」)が発生してしまいました。著者は言います。「問題は、なぜ危険な過密状態がつくり出されたかであって、なぜ空隙がつくり出されたかではない」。
明石の事故で子供を亡くした親の気持ちは複雑だろうと私は想像します。まずは「事故で子供を失った」という“被害者”の立場でしょうが、「そんな危ないところに子供を連れていった」という自責の念もあるはず。さらに、その子供を押しつぶした「圧力」の一部に「自分自身」も含まれている、となると自分は“加害者”でもあることになってしまいます。これはたまらないでしょうね。
そして、私にとってもこれは“他人事”ではありません。スポーツやイベントで観衆の一員になることはありますし、災害時に逃げまどう避難民(あるいは帰宅難民)の一員になることもあり得ます。だから、「システムとしての予防」を求めます。自分が圧死しないために。自分が誰かを圧死させないために。
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馬鹿にしているのかそれとも理解する気がないのか、医者の言うことなんかてんで聞かない人がよくいます。臨床の場では患者さんでそんな人がたまにいますが、それは自分の健康で“代償”を支払うことで結局自分の決定に“責任”を取ることになります。私がここで問題にしたいのは、医療政策決定の場にもそんな人がはびこっていることです。すぐ思いつくのは、厚労省とか中医協ですね。「医者の言うことなんか、鼻であしらうぞ」と固く決意した人たちが日本の医療の未来を決めているというのには、忸怩たる思いがあります。
似たような思いをしている人が、海の向こうにもいました。航空機事故の調査官たちです。彼らは「現場の人間」で「事故を減らす(再発させない)」ために調査をし、勧告をします。ところがそれはあくまで「勧告」であって、その勧告を現実のものにするには、政治・行政・経済のフィルターを何枚も通過する(政府が強制力を持った命令を出し、それに航空機会社が従う)必要があります。ところが調査官たちのボスは、政治的に任命された“素人”(ほとんどは、弁護士や政治家、官僚)で、「航空機の安全性」よりも「政治」「経済」などの(自分を政治的に任命してくれた人への)影響を重要視する傾向があるのだそうです。
アメリカのあるベテラン調査官はこう言います。
「政治的プロセスを通じて任命された委員と一緒に仕事をするのは、相手に技術的な専門知識が欠如しているので難しいです。そこでたいへん複雑な問題を説明するときは、内容を損なわずにどの辺まで噛み砕けるかという駆け引きになります。彼らにも要点が分かるように、いかに簡単に説明できるか、と言っていいですね」
イギリスの調査官はこう言います。
「残念ながら安全を考える側には、勧告適用を決定する権力を持った人間がいません。……(中略)……この仕事を24年間やって来ましたが、この点において徐々に空回りが増えてきているみたいですね。大事故の結果として出された勧告が適用されるのは、20件に1件あるかないかです」
参考図書:『ブラック・ボックス ──航空機事故はなぜ起きるのか』ニコラス・フェイス 著、 小路浩史 訳、 原書房、1998年、1800円(税別)
航空機の墜落事故というきわめて分かりやすい事柄(この本の表現を借りるなら「大量殺戮」)に対してさえ、このように「技術屋が専門家面してごちゃごちゃ言うな。大所高所に立った俺の言うことに従えばいいんだ」という“権力者(の手先)”が“活躍”するわけです。まして日本の医療ではそういったわかりやすい一瞬の大量殺戮ではないわけで、自分は権力者(の手先)だという意識を振り回したい人が、たかが医者の言うことなんかに耳を貸すわけはありません。
ただ、航空機の事故で最大の被害をこうむるのは、乗客です。そしてそれと同様に、医療が崩壊して最大の被害をこうむるのは、患者です。それなら、乗客や患者の利益を考えない「システムの権威」をありがたがるのは、もうヤメにしませんか? 民主国家で一番大事にされるべきなのは、誰でしたっけ?
※本書には、行きすぎたコンピューター化によって、パイロットが「コンピューターを操作すること」に力を注ぎ込むことが要求され、肝心の「飛行機の操縦」から注意力や判断力を奪われてしまった結果の事故も列挙されています(その代表例としてあげられているのが1994年名古屋空港での中華航空エアバス墜落事故)。「過つは人の常、許すは神の業」をもじった「過つは人の常、許すは設計の業」ということばがその章の末尾に置かれています。
医療でも現場はコンピューター化が進んでいますが、同じようなことが起きないか、私は心配です。「コンピューターに合わせて診療をする(診療の主人公はコンピューター)」のではなくて「診療にどんなコンピューター化が一番補助として適しているか(診療の主人公は人間)」を考えて(“現場の声”が反映された)コンピューターの導入がされていますか?
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