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サクシゾンは副腎皮質ステロイド、サクシンは筋弛緩剤ですから、普通に考えたら「それを間違えるか?」と言いたくなりますが、普通では起きないはずのことが起きてしまうのが「事故」です。(もし意図的な行為ならそれは事故ではなくて事件または犯罪です)
亡くなった方やご遺族の方には同情しますが、同時に事故の関係者にも私は同情を感じます。「事故の関係者に同情するとは、やっぱり医者は“仲間”をかばおうとするんだ」と感じる人がいるかもしれませんが、「割り箸を咥えて走り回る行為には同情しないけれど、その結果子どもが死んでしまったことには同情する」のと同じスジで、私としては首尾一貫しています。
西暦2000年にも同じタイプの事故が起きていて、それが繰り返されたということは、これまでの“対策”は表面的なもので根本的な原因対策が取られていなかった/したがってこれからもまた条件がそろえば同じタイプの事故が繰り返される、ということを暗示しています。で、そのときたまたまその「そろった条件」のところに居合わせた人を夢中になって責めるだけでは、結局また根本的な対策が取られないまま、になってしまうでしょう。根本的な対策を冷静に考えるべき時に、誰かを夢中になって責める声はただのノイズです。静けさが要求される環境ではできたらノイズは押さえて欲しい。
こう聞くとびっくりする人がいるでしょうが、ここで重要なのは実は「サクシゾンとサクシンの取り違えを防ぐ」ことではありません。それでは「サクシゾンとサクシン」は対策の「目的」になってしまいます。しかし本当に重要なのは「根本的な対策を取ったことによって、『サクシゾンとサクシン』を含む同種の『似た名前の薬物取り違え事故』が激減する」ことです。「サクシゾンとサクシン」は、対策の「目的」ではなくて「結果」であるべきなのです(それが私の考える“根本的”対策です。「どうやってもサクシゾンとサクシンの取り違えが起きないようにする」ことではなくて)。
しかし、日本の多くの病院で取られたのは「サクシゾンとサクシン」のどちらかを採用しない、という手法でした。これだったらたしかに「サクシゾンを出すつもりで入力(または処方箋に記載)したのに、現物はサクシンが出てきた」は予防できます。でも、現実を見たらわかるように、それでは十分ではありませんでした。今回の病院でも片一方しか病院には存在しなかったのですから。結局これは「その病院だけ見たら解決」の「部分最適」の一例です。といって「全体最適」のために日本中で一斉にサクシンかサクシゾンのどちらかを消滅させる、は非現実的でしょう。
さらに、人は病院から病院へ動きます。「サクシゾンはあるけれどサクシンはない」病院から「サクシゾンはないけれどサクシンはある」病院へ、あるいはその逆へ、医師も看護師も薬剤師も異動をします。異動したら当然新しいものを覚えなければなりませんが、パソコンのように古いファイルは削除して新しいファイルだけを以後使う、とはスッキリできません。習慣と記憶は人間に深く根付いているものですから。特にあわてた時など、表面のものよりは深くのものが吹き出てきやすいのです。
※記憶の混乱を防止するために「異動の禁止」というのを思いつきました。「医師の田舎への強制移住」を主張している人は、強制移住のあと自由に動かれては困るから当然「自分勝手な異動の禁止」もセットにするでしょうから、この考え方に別に抵抗はないでしょう。で、足りないのは医師だけではない、と言うことになれば、当然その後に続くのは「看護師の田舎への強制移住」「薬剤師も」「放射線技師や検査技師も」の流れです。そのうち「過疎地の解消のために、都会で余っている人の田舎への強制移住」も政策として打ち出されたりして。それで政策のスジは一本通っていますよね。「政治的目的のためには国民の強制移住をさせる」というスジが。
コンピューター画面で「サクシン」と打ったら「筋弛緩剤!」(あるいは「サクシゾン」と打ったら「ステロイド!」)と赤字で表示されるのも一つの手でしょう。ただしこれも万能とは思いません。人間は機械的に作業している時には画面に出てくる重要な情報も無視します(連続して「イエス」「イエス」とクリックしていて、ついうっかり肝心なところも読まずに「イエス」を押して次の画面が出てしまい「あんぎゃあ」と叫んだ経験を持っていませんか?)。また、まだ完全にコンピューター化されていない病院もありますし、コンピューター化されていても、たとえば(昨日、私が遭遇したような)緊急事態で医者がコンピューターなんかいじくっている場合ではないこともあります(目の前で患者が死にかけている時に「医者は急変患者を診るよりもコンピューターに向かってそれを正確に操作しているべきだ」と主張する人は、医療について論じる資格を持っていないと私は感じます。少なくともそういった人は医者にはならないでください)。実際にそういった場合には口答指示の連発となります。私が勤務する病院では、看護師は必ず復唱をし(復唱した看護師がその指示を実行する)、注射の場合には瓶やアンプルのラベル面を医師に見せます(ダブルチェックです)。だけど、緊急事態で注意力が分散している状況で思いこみが強いと、見ているつもりで違うものを見てしまうこともあります。(1歳と3歳の兄弟を育てている家庭で、下の子が下痢便をあたりにばらまいてしまって大急ぎでその始末をしているところに上の子が「ねえねえお母さん、カブトムシがいた」と見せに来たら、手に握っている黒い虫がゴキブリでもカブトムシに見えてしまう、なんてことはないでしょうか?)
「人の記憶に頼る」のも一つの手です(「ちゃんと覚えておけ。間違えないように気をつけろ」が“対策”ですから言う方も楽ですし)。しかし、似た名前の薬はいくらでもあります。先発品だけでもすぐに私が思いつくのは……アマリール/アルマール、ムコスタ/ムコダイン、グリチロン/グリミクロン、ノイロビタン/ノイロトロピン、エクセラーゼ/エクセグラン、デパス/デパケン、塩化カリウム/塩化カルシウム、アルサルミン/アルケラン、ノルバスク/ノルバデックス……これに後発品を含めたら……もう勘弁してください(泣)。緊急事態には「患者のこの状態をどうするか」に集中したいのに、コンピューターでチェックしろだのこの薬には似た名前の別の薬がないかを全部思い出せだの、目の前の急変患者の治療に貢献する気がない人間がこちらに余分な負担をかけて治療の足を熱心に引っ張るのはやめて欲しいのです。
少しでもゆとりがある場面での技術的な解決としては、入力画面で「似た名前の薬のセット」を表示する、というのがとりあえず考えられます。思いこみがあって打ち間違いがあったら、その「間違った薬」だけ表示されてOKされてしまう可能性がありますが、「セット」が出てその中から選択だと、そこで思いこみが訂正される可能性があります。ただし、一手間余分にかかりますから、緊急事態ではイライラがつのるかもしれませんが、事故が起きるよりはマシ。
もうちょっと根本に迫った対策としては、私が見るところでは要するに「似た名前の薬があること」が問題なのですから、「これまでのと似た名前の薬は厚労省が認可しない」という手が考えられます。言葉尻にこだわることが得意な人が官僚やマスコミには多そうですから(私の偏見かな? 不愉快に思われたらいけませんから「ことばには詳しく厳しい人」と言い直します)、そういった人が集まって「事故防止のための薬剤名審議会」で検討すればいいでしょう。薬剤名に関する事故例やニアミス例は集積されているはずですから、それをたたき台に、書いた文字や発声で混同しやすい薬剤名を洗い出して訂正を勧告。さらに使われる状況や人間心理も加味してこれからの薬品名についての基本方針を打ち立てることができれば、同種の事故が発生する確率はぐんと減るはずです。(ただし、それでも間違い事故が起きたら、その審議委員に“責任”は取っていただきましょう)
私自身はこういった事故の“加害者”だけではなくて“被害者”にもなる可能性がありますから、ついマジに考えてしまいますが、真剣に考えようとしない人は「しょせん他人事」とでも思っているのかな?
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割り箸事件の判決が出ました。
で、この記事を素直に読む(印象操作される)と、まるで「病院や医者は一言も謝らなかった」と言わんばかりの遺族の主張ですが、それは真実なのでしょうか? もし本当にそうだったのなら、ものすごく傲慢な医療者ということになります。原因に医療過誤があるかどうかは別として、残念な結果に終わったことに対しては当然一言あるべきだと私は思いますが、しょせん私は「社会的常識に欠ける医者@首相のお墨付き」ですから、この思いが社会的に通用するのかどうかはわかりません。でも、本当に一言も言わないかなあ。少なくとも、命を救えなかったことへの力不足を詫びることや哀悼の意を表することはあったと思うのですが(ネット版では書いてありませんが、紙面には医師の哀悼の意は載っています)。
あくまで可能性ですが、ことばはあっても遺族の側に聞く耳がなかったのかもしれません(「否認」という心理メカニズムが働くことが考えられます)し、ことばの質や量に不満があるのかもしれません(でもその場合には「足りなかった」という表現になるでしょうね)。もしかしたらそもそも「謝罪」の定義が違っているのかもしれません。(定義については遺族の方に詳しくインタビューしないとわかりませんが)
たとえば「裁判で有罪判決」「記者会見を開いて土下座」のセットが遺族の心の中での「謝罪」の定義だったとしたら、たしかに病院も医者も「謝罪していない」ことにはなります。有罪判決はなかったし、公開の場(マスコミの前)での土下座もなかったのですから(なかったですよね?)。
ところで、「無罪の人間に“謝罪”を求める」のはつまり「裁判の結果がどうであれ、まずは自分が“有罪”であることを認め、そのことを詫びろ」という要求になります。あら、裁判は何のためにあったのでしょう。「お前は有罪だ」と「私は無罪だ」の意見の対立があるからこそ裁判になったと私は解釈しているのですが。
「何があったか知りたい」もこういった場合に遺族によって良く語られることばです。しかし、それは、実は医者の方も言いたいことばです。特に救急の現場で。見たらわかることは見たらわかるので、見てもわからないこと、倒れた状況や関係する物的証拠・持病・アレルギーなどの情報があればあるほど医者の判断や対応は“正解”に近づきます(もちろん医者の力量も関係するし状況もあるから、必ず正解に到達できる保証はありませんが(そして“正解”が得られても必ず打つ手があるとは限りませんが)、ともかく(正確な)情報はないよりはある方が絶対的にマシです)。
医学は「黙って座ればぴたりと当たる」ものではありません。山勘で決断するバクチでもありません。警察の科学捜査と似ていて、物的証拠・状況証拠などを積み重ねた上で論理を使い根拠を持って判断をしていく地道な作業の連続です(それでも埋めきれない部分がある場合には覚悟を決めて決断することもありますが)。この事件の場合も、たとえば割り箸を捨てずにちゃんと持ち込んでいれば、その長さなり折れ口なりで、何が起きたかが判断できた可能性が高いでしょう。(ついでですが、救急の現場にいた頃、私はそういったことで何回悲鳴を上げたことか。「瓶から何か飲んでいた」「その瓶は?」「危ないから、洗って捨てた」「参考になるからすぐ持ってきてください」「いや、もうわからない」なんて会話はしょっちゅうでしたから。情報を医者に与えずに「診断しろ」というのは、姓名判断で姓名を教えずに「顔を見たらわかるだろ、早く姓名判断しろ」と要求するのにほぼ等しいと私は思います)
私の子どもは今でも恨めしそうに「お父さんはピーナッツを割って食べさせた」と言います。気管につめての窒息死防止のために、幼稚園までピーナッツは禁止、幼稚園に入ってからもしばらくは食べる時に豆を二つに割ってから、としていたことを今でも覚えているようで。だけど私はそのことを子どもに謝罪する気はありません。子どもの事故防止のために親がするべきことは限りなくありますが、そのすべては無理にしても、自分でできることはやっておきたかっただけです。だから自分がやったことは「罪」だとは思っていません。「我慢させたことと、他の子とちがうことになって、悪かったな」とそのことについては謝りますけどね。
参考までに「乳幼児の誤飲と窒息事故」
www.geocities.jp/kids_first_aid/pdf/goinyobou.pdf
※本日は記事を3つも上げてしまいました。たくさん読ませて申し訳ない。貯めると“在庫”が増えてしまうのでそのまま放出してしまいましたが、今日は本当は、4つ書いていたのです。4つめは長いので、明日に回します。
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毎日新聞北九州版のニュースです。「医療過誤損賠訴訟:請求棄却求めて病院側、争う構え 地裁小倉で初弁論 /福岡」
タイトルが妙に無駄に長いように感じますが、それはともかく……記事で見る限り、「人が病院で死んだらそれはすべて病院の責任。金を払え」訴訟に見えます。「死ぬ可能性のある患者はきちんと監視しろ。死にかけたら絶対救命しろ」というのが原告の主張のようですが……もちろん医者は命は救いたいと思って仕事をしていますが、それでも、できることとできないことがあります。
まずは「死の予見性」ですが……薬の副作用でげーげー嘔吐しているのを放置していたら吐物がのどに詰まって窒息死した、というのだったらそれはもちろん病院の責任ですが、新聞で見る限りどうも状況はそうではないようです。記事では死因は「不整脈」となってますが(剖検で確認できてるんですよね?)、それが真実ならその人が死ぬかどうかの予見はきわめて困難です。(もちろん、現場で「このまま放置したら危ないぞ」という徴候があらかじめ認められていたのだったら、話は全然違ってきますが)
もしかしたら薬の副作用で心臓が、という可能性もあるでしょう。統合失調症に対して使う薬には心臓に対する副作用を持つものもありますから。しかし、その場合には「選択」が必要です。入院するなり「鍵のかかる個室」(普通は保護室と言いますが、つまりは独房)に入らなきゃいけない(しかもそこから2週間出られない)若い統合失調症の患者といえば、相当派手な精神症状があったはずです(幻覚妄想状態、行為としてはおそらく自傷か他害。だからこそ、彼は精神病院に連れてこられ、そのまま保護室に入院となったのでしょう)。で、選択肢は三つ。入院をさせないか、入院はしても薬は使わず自然経過にまかせるか、薬を使って精神症状を押さえ込むか。それぞれの選択肢にはそれぞれにメリットとデメリットがあります。メリットだけのバラ色の選択肢は残念ながらありません。
つぎは「監視」。もしも24時間監視を両親が病院に求めているのだったら、それは無理です。すべての突然死する可能性がある人間(つまりはすべての入院患者)に職員を24時間張りつけることは人的に困難という労働条件の問題もありますが、そもそも「24時間監視は人権問題」ですから弁護士に知れたら訴えられて病院はあっさり敗訴します。最近の精神病院(のすべてではありませんが、ススんでいるところ)では、保護室にもプライバシー保護のためのカーテンが設置されている、というのはみなさんご存じ? 遅れた病院は遅れっぱなしかも知れませんが、ともかく時代は変化しているのです。で、「24時間監視をしなかったら訴えられ、24時間監視をしたらやはり訴えられる」状況で、病院は何をどうすればいいでしょう? この病院が裁判所で問いただしている「どの程度の監視を求めているのか」はそこについてのことのはず。もっとも、病院が求めているのは記事に書いてある「釈明」ではなくて「(納得のいく)説明」でしょうけれどね。(「納得のいく説明」が欲しいのは、決して患者側だけではありません)
ところでこのご両親、「息子が病院で死んだから」と病院を訴えるのでしたら、もしも彼が自宅で亡くなっていたら誰を訴えていたのでしょう? おそらく119番をするでしょうが、その場合には、病院に運んだ救急車の運転手、それとも運び込まれた救急病院が訴えられる? で、その場合の「監視」の責任を問われるのは、誰?
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