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 世間では最近あまり聞かれなくなったことばですが、ある種の裁判官とある種の弁護士とある種のマスコミはこのことばの存在自体を認めていません。どんな人でもとにかく救急室に運び込んだら助かるべきで、万が一そこで助からない場合はそれは医者の責任だ、と主張します。
 奇跡を期待してとにかく人間が努力しろ、と言うのでしょう。たしかに天命を待つ前に人事を尽くすことは必要です。手抜きをするのは医者としてあるまじき態度。でも、すでに三途の川を渡ってしまった人に救命処置をするのは「医療」でしょうか? そしてその救命処置を事後に詳細に点検して、手順の一部にでも瑕疵があればあるいは数秒の遅れでもあれば(ひどい場合にはそういったものがなくても)、鬼の首を取ったように訴えます。人の死は全て医師の“手抜き”がその原因であるかのように。

 病気や怪我の治療は、人の手でできます(できないこともあります)。しかし、「死」を治療することは人間にはできません。


 そして、奇跡が起きなかったことへの怒りをそこに居合わせた人間に対してぶちまけるのは、二重に間違っています。奇跡は人間が起こすものではありませんから。(奇跡を人に求めるのはお門違いです。で、願うのではなくて神に奇跡を要求するのは僭越な行為、と私は思っています。だから「二重」)

 ただ……「奇跡が待望される社会」は、社会全体に不幸が満ちあふれていることを示しているのかもしれません。だとすると、私がするべきことは「奇跡を求めるな」と言うことではなくて……


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2008.11.23 18:30 |  診療  |  医療制度 / 行政  |  医療事故  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 4

 サクシゾンとサクシン

 「誤って筋弛緩剤投与、患者死亡 徳島・鳴門の病院

 サクシゾンは副腎皮質ステロイド、サクシンは筋弛緩剤ですから、普通に考えたら「それを間違えるか?」と言いたくなりますが、普通では起きないはずのことが起きてしまうのが「事故」です。(もし意図的な行為ならそれは事故ではなくて事件または犯罪です)
 亡くなった方やご遺族の方には同情しますが、同時に事故の関係者にも私は同情を感じます。「事故の関係者に同情するとは、やっぱり医者は“仲間”をかばおうとするんだ」と感じる人がいるかもしれませんが、「割り箸を咥えて走り回る行為には同情しないけれど、その結果子どもが死んでしまったことには同情する」のと同じスジで、私としては首尾一貫しています。
 西暦2000年にも同じタイプの事故が起きていて、それが繰り返されたということは、これまでの“対策”は表面的なもので根本的な原因対策が取られていなかった/したがってこれからもまた条件がそろえば同じタイプの事故が繰り返される、ということを暗示しています。で、そのときたまたまその「そろった条件」のところに居合わせた人を夢中になって責めるだけでは、結局また根本的な対策が取られないまま、になってしまうでしょう。根本的な対策を冷静に考えるべき時に、誰かを夢中になって責める声はただのノイズです。静けさが要求される環境ではできたらノイズは押さえて欲しい。

 こう聞くとびっくりする人がいるでしょうが、ここで重要なのは実は「サクシゾンとサクシンの取り違えを防ぐ」ことではありません。それでは「サクシゾンとサクシン」は対策の「目的」になってしまいます。しかし本当に重要なのは「根本的な対策を取ったことによって、『サクシゾンとサクシン』を含む同種の『似た名前の薬物取り違え事故』が激減する」ことです。「サクシゾンとサクシン」は、対策の「目的」ではなくて「結果」であるべきなのです(それが私の考える“根本的”対策です。「どうやってもサクシゾンとサクシンの取り違えが起きないようにする」ことではなくて)。

 しかし、日本の多くの病院で取られたのは「サクシゾンとサクシン」のどちらかを採用しない、という手法でした。これだったらたしかに「サクシゾンを出すつもりで入力(または処方箋に記載)したのに、現物はサクシンが出てきた」は予防できます。でも、現実を見たらわかるように、それでは十分ではありませんでした。今回の病院でも片一方しか病院には存在しなかったのですから。結局これは「その病院だけ見たら解決」の「部分最適」の一例です。といって「全体最適」のために日本中で一斉にサクシンかサクシゾンのどちらかを消滅させる、は非現実的でしょう。
 さらに、人は病院から病院へ動きます。「サクシゾンはあるけれどサクシンはない」病院から「サクシゾンはないけれどサクシンはある」病院へ、あるいはその逆へ、医師も看護師も薬剤師も異動をします。異動したら当然新しいものを覚えなければなりませんが、パソコンのように古いファイルは削除して新しいファイルだけを以後使う、とはスッキリできません。習慣と記憶は人間に深く根付いているものですから。特にあわてた時など、表面のものよりは深くのものが吹き出てきやすいのです。


※記憶の混乱を防止するために「異動の禁止」というのを思いつきました。「医師の田舎への強制移住」を主張している人は、強制移住のあと自由に動かれては困るから当然「自分勝手な異動の禁止」もセットにするでしょうから、この考え方に別に抵抗はないでしょう。で、足りないのは医師だけではない、と言うことになれば、当然その後に続くのは「看護師の田舎への強制移住」「薬剤師も」「放射線技師や検査技師も」の流れです。そのうち「過疎地の解消のために、都会で余っている人の田舎への強制移住」も政策として打ち出されたりして。それで政策のスジは一本通っていますよね。「政治的目的のためには国民の強制移住をさせる」というスジが。


 コンピューター画面で「サクシン」と打ったら「筋弛緩剤!」(あるいは「サクシゾン」と打ったら「ステロイド!」)と赤字で表示されるのも一つの手でしょう。ただしこれも万能とは思いません。人間は機械的に作業している時には画面に出てくる重要な情報も無視します(連続して「イエス」「イエス」とクリックしていて、ついうっかり肝心なところも読まずに「イエス」を押して次の画面が出てしまい「あんぎゃあ」と叫んだ経験を持っていませんか?)。また、まだ完全にコンピューター化されていない病院もありますし、コンピューター化されていても、たとえば(昨日、私が遭遇したような)緊急事態で医者がコンピューターなんかいじくっている場合ではないこともあります(目の前で患者が死にかけている時に「医者は急変患者を診るよりもコンピューターに向かってそれを正確に操作しているべきだ」と主張する人は、医療について論じる資格を持っていないと私は感じます。少なくともそういった人は医者にはならないでください)。実際にそういった場合には口答指示の連発となります。私が勤務する病院では、看護師は必ず復唱をし(復唱した看護師がその指示を実行する)、注射の場合には瓶やアンプルのラベル面を医師に見せます(ダブルチェックです)。だけど、緊急事態で注意力が分散している状況で思いこみが強いと、見ているつもりで違うものを見てしまうこともあります。(1歳と3歳の兄弟を育てている家庭で、下の子が下痢便をあたりにばらまいてしまって大急ぎでその始末をしているところに上の子が「ねえねえお母さん、カブトムシがいた」と見せに来たら、手に握っている黒い虫がゴキブリでもカブトムシに見えてしまう、なんてことはないでしょうか?)

 「人の記憶に頼る」のも一つの手です(「ちゃんと覚えておけ。間違えないように気をつけろ」が“対策”ですから言う方も楽ですし)。しかし、似た名前の薬はいくらでもあります。先発品だけでもすぐに私が思いつくのは……アマリール/アルマール、ムコスタ/ムコダイン、グリチロン/グリミクロン、ノイロビタン/ノイロトロピン、エクセラーゼ/エクセグラン、デパス/デパケン、塩化カリウム/塩化カルシウム、アルサルミン/アルケラン、ノルバスク/ノルバデックス……これに後発品を含めたら……もう勘弁してください(泣)。緊急事態には「患者のこの状態をどうするか」に集中したいのに、コンピューターでチェックしろだのこの薬には似た名前の別の薬がないかを全部思い出せだの、目の前の急変患者の治療に貢献する気がない人間がこちらに余分な負担をかけて治療の足を熱心に引っ張るのはやめて欲しいのです。

 少しでもゆとりがある場面での技術的な解決としては、入力画面で「似た名前の薬のセット」を表示する、というのがとりあえず考えられます。思いこみがあって打ち間違いがあったら、その「間違った薬」だけ表示されてOKされてしまう可能性がありますが、「セット」が出てその中から選択だと、そこで思いこみが訂正される可能性があります。ただし、一手間余分にかかりますから、緊急事態ではイライラがつのるかもしれませんが、事故が起きるよりはマシ。
 もうちょっと根本に迫った対策としては、私が見るところでは要するに「似た名前の薬があること」が問題なのですから、「これまでのと似た名前の薬は厚労省が認可しない」という手が考えられます。言葉尻にこだわることが得意な人が官僚やマスコミには多そうですから(私の偏見かな? 不愉快に思われたらいけませんから「ことばには詳しく厳しい人」と言い直します)、そういった人が集まって「事故防止のための薬剤名審議会」で検討すればいいでしょう。薬剤名に関する事故例やニアミス例は集積されているはずですから、それをたたき台に、書いた文字や発声で混同しやすい薬剤名を洗い出して訂正を勧告。さらに使われる状況や人間心理も加味してこれからの薬品名についての基本方針を打ち立てることができれば、同種の事故が発生する確率はぐんと減るはずです。(ただし、それでも間違い事故が起きたら、その審議委員に“責任”は取っていただきましょう)

 私自身はこういった事故の“加害者”だけではなくて“被害者”にもなる可能性がありますから、ついマジに考えてしまいますが、真剣に考えようとしない人は「しょせん他人事」とでも思っているのかな?


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 割り箸事件の判決が出ました。

「謝罪して欲しい」両親ら痛切 男児割りばし死亡事件

 で、この記事を素直に読む(印象操作される)と、まるで「病院や医者は一言も謝らなかった」と言わんばかりの遺族の主張ですが、それは真実なのでしょうか? もし本当にそうだったのなら、ものすごく傲慢な医療者ということになります。原因に医療過誤があるかどうかは別として、残念な結果に終わったことに対しては当然一言あるべきだと私は思いますが、しょせん私は「社会的常識に欠ける医者@首相のお墨付き」ですから、この思いが社会的に通用するのかどうかはわかりません。でも、本当に一言も言わないかなあ。少なくとも、命を救えなかったことへの力不足を詫びることや哀悼の意を表することはあったと思うのですが(ネット版では書いてありませんが、紙面には医師の哀悼の意は載っています)。

 あくまで可能性ですが、ことばはあっても遺族の側に聞く耳がなかったのかもしれません(「否認」という心理メカニズムが働くことが考えられます)し、ことばの質や量に不満があるのかもしれません(でもその場合には「足りなかった」という表現になるでしょうね)。もしかしたらそもそも「謝罪」の定義が違っているのかもしれません。(定義については遺族の方に詳しくインタビューしないとわかりませんが)
 たとえば「裁判で有罪判決」「記者会見を開いて土下座」のセットが遺族の心の中での「謝罪」の定義だったとしたら、たしかに病院も医者も「謝罪していない」ことにはなります。有罪判決はなかったし、公開の場(マスコミの前)での土下座もなかったのですから(なかったですよね?)。
 ところで、「無罪の人間に“謝罪”を求める」のはつまり「裁判の結果がどうであれ、まずは自分が“有罪”であることを認め、そのことを詫びろ」という要求になります。あら、裁判は何のためにあったのでしょう。「お前は有罪だ」と「私は無罪だ」の意見の対立があるからこそ裁判になったと私は解釈しているのですが。

 「何があったか知りたい」もこういった場合に遺族によって良く語られることばです。しかし、それは、実は医者の方も言いたいことばです。特に救急の現場で。見たらわかることは見たらわかるので、見てもわからないこと、倒れた状況や関係する物的証拠・持病・アレルギーなどの情報があればあるほど医者の判断や対応は“正解”に近づきます(もちろん医者の力量も関係するし状況もあるから、必ず正解に到達できる保証はありませんが(そして“正解”が得られても必ず打つ手があるとは限りませんが)、ともかく(正確な)情報はないよりはある方が絶対的にマシです)。
 医学は「黙って座ればぴたりと当たる」ものではありません。山勘で決断するバクチでもありません。警察の科学捜査と似ていて、物的証拠・状況証拠などを積み重ねた上で論理を使い根拠を持って判断をしていく地道な作業の連続です(それでも埋めきれない部分がある場合には覚悟を決めて決断することもありますが)。この事件の場合も、たとえば割り箸を捨てずにちゃんと持ち込んでいれば、その長さなり折れ口なりで、何が起きたかが判断できた可能性が高いでしょう。(ついでですが、救急の現場にいた頃、私はそういったことで何回悲鳴を上げたことか。「瓶から何か飲んでいた」「その瓶は?」「危ないから、洗って捨てた」「参考になるからすぐ持ってきてください」「いや、もうわからない」なんて会話はしょっちゅうでしたから。情報を医者に与えずに「診断しろ」というのは、姓名判断で姓名を教えずに「顔を見たらわかるだろ、早く姓名判断しろ」と要求するのにほぼ等しいと私は思います)


 私の子どもは今でも恨めしそうに「お父さんはピーナッツを割って食べさせた」と言います。気管につめての窒息死防止のために、幼稚園までピーナッツは禁止、幼稚園に入ってからもしばらくは食べる時に豆を二つに割ってから、としていたことを今でも覚えているようで。だけど私はそのことを子どもに謝罪する気はありません。子どもの事故防止のために親がするべきことは限りなくありますが、そのすべては無理にしても、自分でできることはやっておきたかっただけです。だから自分がやったことは「罪」だとは思っていません。「我慢させたことと、他の子とちがうことになって、悪かったな」とそのことについては謝りますけどね。

参考までに「乳幼児の誤飲と窒息事故」
www.geocities.jp/kids_first_aid/pdf/goinyobou.pdf


※本日は記事を3つも上げてしまいました。たくさん読ませて申し訳ない。貯めると“在庫”が増えてしまうのでそのまま放出してしまいましたが、今日は本当は、4つ書いていたのです。4つめは長いので、明日に回します。


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2008.11.09 07:56 |  医療事故  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 4

 結果責任

 昔勤務していた病院で、同僚がある日首にポリネックを巻いて出勤してきました。事情を聞くと交通事故。前日の夜、仕事から帰る途中赤信号で止まっていたら後ろから盛大にどん、と追突されてむち打ちに。ショックで呆然としていたら後ろのドライバーが車から出るなり一目散に(自分の足で)走って逃げたそうな。夜だし、人相なんかわかりません。警察が調べて追突してきた車の所有者を割り出して連絡したら「自分は運転していない。車がどこにあるか知らない。きっと盗まれたんだ」の一点張り。人相もわからないから結局犯人の特定はできず事件はうやむやに……って、それは警察の科学捜査がだらしないと思うんですけどね。なんでもその車の所有者は評判のワルだそうで、殺人以外はほとんどやってる、というのをあとで噂として聞きました。そんなのが野放しになっているとは怖いものだ、と思いましたが、もっと怖いのは「“それ”がわかっていて野放しにされていること」の方かもしれません。

 医者は、真っ当な医療処置をやってそれでも結果が思わしくなかったら民事訴訟を起こされ逮捕さえされることがあります。結果責任です。逮捕があれば当然、たとえ逮捕がなくても、マスコミは「思わしくない結果」を盛大に報道してはしゃぎながら「社会的制裁」を加えます。
 ところで、今回大阪での「無免許・酒酔い・3キロ引きずり回してひき逃げ殺人」の犯人が、前回逮捕された時に、その人に「執行猶予」処分を下して社会に野放しにした行為はどう見ればいいのでしょう。少なくとも弁護士と裁判官は「彼を罰する(社会から隔離する)必要はない」と判断したわけですが、そのために一人の人間が殺されました。さて、殺人を犯す予定の人を野放し(執行猶予に)してよいと誰かが判断した結果殺人が起きたことの責任は、その誰かに問われるのでしょうか。社会的制裁はあるのかな。それともあの犯人と同じくこれからも野放しでやりたい放題?
 真っ当な医療行為をやった医者は結果が悪いと熱心に罰するが、殺人を犯す人間を野放しにするべきと判断した人はまったくお咎めなしって、なんだかとっても不平等な世界に見えます。



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 一昨日の「讀賣の真っ赤な「医療改革」」で触れた読売新聞の提言とそれに対する政府の反応を見ていると、田舎芝居のようなデキレースでの仲間内での褒めあいを見せられる気持ち悪さは別として、彼らは、医療を理解していない/自分たちが医療を知らないことを知らない/恥知らず/強い思いこみに凝り固まっている/ただの無能、のどれかあるいはその複合ではないか、と私には思えます。

 医療はシステムで動きます。「若手医師一人」をぽんと放り込んだらそこで自動的に「○○科」が芽吹いて定着して末長く機能するようなお気楽なものではありません。(まるで「砂漠に苗を放り込んであとは水と肥料をばらまいておけば、自然に稲がたわわに実る」とでも言わんばかりの「提言」ですが、苗を一本植えるにしても、荒起し・代掻き・あぜの保全・水の管理・草取りなどの地道で根気強い作業が必要ですよね。医療でも、若手医師なら指導者が必要ですし、たとえベテランの医師でも非医師のチームと病院内または地域内でのバックアップ体制(その医師が不在の時のささえ)がないと「システムとしての医療」は機能しません。それは医者一人が“頑張”ればなんとかなるような脳天気な代物ではないのです。それが嘘だと思う新聞記者は、自分一人だけで新聞が毎日発行できるか、と想像してみてください。ガンバってみます?)

 医療のことを知らないから変な提言ができたりそれをありがたがってみせたりするわけで、その場合にふさわしい言葉は「無知」です。あるいは「『自分の無知』に対する無知」(ソクラテスが聞いたら「2500年経ってもまだまだなのか」と嘆くかも)。単なる無知でも心が柔軟なら想像力で無知を補完することができる場合がありますが、「『自分の無知』に対する無知」の人のほとんどは、その想像力も枯渇していることが多いのが問題です。
 可能性としてタチが悪いのは、自分が何を言っているかその結果何が起きるかをちゃんと理解していて、それでも変な主張をしている場合ですが、それは「無恥」か「思いこみが激しすぎる(全体のことよりも自分の価値観を大声で主張することの方が大切)」となります。善意(と無知)に基づく確信犯(最近の誤用の意味ではなくて、本来の意味)という可能性もありますが。
 最後の「無能」は説明不要ですね? せいぜい好意的に表現するとしたら「彼らは『部分最適』しか知らない」ですが……やはり「無能」は言葉がきつすぎる? ならば「低能」にしてもよいです。

 さらに「医療僻地の住民は、若手医師一人を配置したらそれをありがたがれば良い」という「傲慢」の匂いもぷんぷんします。医療僻地だろうと都会だろうと、必要なのは「十分な(必要最低以上の)医療(制度)」ではありませんか? それを「医療僻地の人間には“この程度”で十分だ」と高をくくって判断をしているのだとすると、「無神経」を追加しなくちゃいけません。

 こういったマスコミと官僚がタッグを組んでいるのですから、日本の医療が崩壊するのも無理はないでしょう。
 ……いや、逆かもしれません。こんなひどい仕打ちを受け続けていながら、なぜ今まで日本の医療はなんとか(どころか、かつては世界最高水準で)機能することができたのか、を私は不思議に思うべきなのかもしれません。普通だったらもっと早く崩壊していてもおかしくないですよね。


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2008.10.15 06:55 |  診療  |  医療事故  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 3

 病院は24時間監視をしろ?

 毎日新聞北九州版のニュースです。「医療過誤損賠訴訟:請求棄却求めて病院側、争う構え 地裁小倉で初弁論 /福岡
 タイトルが妙に無駄に長いように感じますが、それはともかく……記事で見る限り、「人が病院で死んだらそれはすべて病院の責任。金を払え」訴訟に見えます。「死ぬ可能性のある患者はきちんと監視しろ。死にかけたら絶対救命しろ」というのが原告の主張のようですが……もちろん医者は命は救いたいと思って仕事をしていますが、それでも、できることとできないことがあります。

 まずは「死の予見性」ですが……薬の副作用でげーげー嘔吐しているのを放置していたら吐物がのどに詰まって窒息死した、というのだったらそれはもちろん病院の責任ですが、新聞で見る限りどうも状況はそうではないようです。記事では死因は「不整脈」となってますが(剖検で確認できてるんですよね?)、それが真実ならその人が死ぬかどうかの予見はきわめて困難です。(もちろん、現場で「このまま放置したら危ないぞ」という徴候があらかじめ認められていたのだったら、話は全然違ってきますが)
 もしかしたら薬の副作用で心臓が、という可能性もあるでしょう。統合失調症に対して使う薬には心臓に対する副作用を持つものもありますから。しかし、その場合には「選択」が必要です。入院するなり「鍵のかかる個室」(普通は保護室と言いますが、つまりは独房)に入らなきゃいけない(しかもそこから2週間出られない)若い統合失調症の患者といえば、相当派手な精神症状があったはずです(幻覚妄想状態、行為としてはおそらく自傷か他害。だからこそ、彼は精神病院に連れてこられ、そのまま保護室に入院となったのでしょう)。で、選択肢は三つ。入院をさせないか、入院はしても薬は使わず自然経過にまかせるか、薬を使って精神症状を押さえ込むか。それぞれの選択肢にはそれぞれにメリットとデメリットがあります。メリットだけのバラ色の選択肢は残念ながらありません。

 つぎは「監視」。もしも24時間監視を両親が病院に求めているのだったら、それは無理です。すべての突然死する可能性がある人間(つまりはすべての入院患者)に職員を24時間張りつけることは人的に困難という労働条件の問題もありますが、そもそも「24時間監視は人権問題」ですから弁護士に知れたら訴えられて病院はあっさり敗訴します。最近の精神病院(のすべてではありませんが、ススんでいるところ)では、保護室にもプライバシー保護のためのカーテンが設置されている、というのはみなさんご存じ? 遅れた病院は遅れっぱなしかも知れませんが、ともかく時代は変化しているのです。で、「24時間監視をしなかったら訴えられ、24時間監視をしたらやはり訴えられる」状況で、病院は何をどうすればいいでしょう? この病院が裁判所で問いただしている「どの程度の監視を求めているのか」はそこについてのことのはず。もっとも、病院が求めているのは記事に書いてある「釈明」ではなくて「(納得のいく)説明」でしょうけれどね。(「納得のいく説明」が欲しいのは、決して患者側だけではありません)

 ところでこのご両親、「息子が病院で死んだから」と病院を訴えるのでしたら、もしも彼が自宅で亡くなっていたら誰を訴えていたのでしょう? おそらく119番をするでしょうが、その場合には、病院に運んだ救急車の運転手、それとも運び込まれた救急病院が訴えられる? で、その場合の「監視」の責任を問われるのは、誰?


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 「医療安全調査委員会」(仮称)の創設に向けて再開された厚生労働省の検討会について報じたキャリアブレインのニュース「「大野事件判決は、判例とは言わない」—前田座長」です。
 大野病院事件の地裁判決で、「正しいことが正しいと法曹の場で認められた」と医療界にはホッとした空気が流れましたが、それは法曹界ではしょせん地裁判決。最高裁判決ではないから「大野病院事件の判決は、法律家の間では重視されない。一審判決でしかない。地裁の判断でしかない。法律の世界はそこが非常に厳しくて、原則として最高裁(の判決)でなければ判例とは言わない」だそうです。要するに、あの判決は大して価値がないもの?

 で、議論の過程で「重大な過失」と「標準的な医療から著しく逸脱」が同じなのか違うのかに関する「言葉遊び」が延々と続いたそうですが……
 結局「とにかく医者には厳罰で対処したい」人が医者にかもねぎでやってこさせた上で罰してやるために言葉の罠を仕掛けようと必死に工夫している、ということなんでしょうね。私には「犯罪行為は罰する」「意図的な過失も罰する」「それ以外は聴取した結果を医療の改善に役立てることを以って、罰しない(情報は公開する)」とすれば簡明だと思いますが(同じミスを繰り返す医者にはまた別の処分を考えます)。この委員会の目的が医療事故を減らすことなら(航空事故調査の先例を見る限り)、それで十分効果が出るはずです。ただし「医療安全調査委員会」(仮称)が文字通り「調査」だけを目的としていて(隠された目的として「とにかく処罰」も持っていて)、「医療事故の減少」は全然目的としていないのなら調査結果は事故の減少には全然いかされないことにはなります。事故予防のための医療環境の改善にこの調査委員会はどのくらいの権限と予算を持てるのか、そちらにも私の興味は向いていますが、どなたかそんなデータをご存じです? もしかしてこの委員会、本当に「言葉遊びだけの場」なのかな?


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2008.09.25 06:58 |  診療  |  仕事 / 職場  |  医療事故  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 システムと個人

 私は病院で医療安全の係もやっています。で、何か医療事故があった場合の原因解析の場で何回もスタッフに言うのが「個人を責めない」「ネガティブなことを言わない」「主語と述語を明確に」「否定文ではなくて肯定文で叙述」「推測ではなくて事実を具体的に(推測は推測と明記)」「原因は対応が可能なモノを指摘(「不幸な生い立ちに問題がある」「みんな社会が悪いんじゃあ」は無し)」「改善や対応はシステム的に」などです。
 これをやっていると、大体の場合、最初にぼんやり想定していたのとは全く違う「根本原因」が一同の前に登場してくれて、皆が一瞬呆然とする、という面白い瞬間が味わえます。

 ただ、「システムで対応する」ということは、現場にいるスタッフは「個人」としては「取り替え可能な部品」扱いになっちゃうような気がして、最近ちょっと欲求不満を感じるようになってきました。患者さんという「個人」を病院という「システム」が扱うのは、その場その場の出たとこ勝負ではなくなるから少なくとも「安全」の面からは好ましいことでしょう。だけど、そのどこかに「個人と個人」のつながりも残しておきたいように思うのです。これは私が「古い人間」ゆえの感傷にすぎないのでしょうか。といって、あまりに特定個人の能力に頼る病院システムはつまりは「個人病院」になってしまうので、システムを管理する立場からするとちょっと困るのではありますが(今は上手くいっているにしても、その人が急に抜けたら全てがストップしますから)。

 さらにこのまま“マニュアル全盛”の動きが進行すると「患者とは、マニュアル通りに扱われるべき存在である」という働きがどんどん強くなりそうですが(つまり、患者もシステムの中の「部品」扱い)、それで本当に良いのかな?


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2008.08.30 16:42 |  医療事故  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 4

 反省と後悔

 通り魔事件などで腹の立つ主張を犯人がよくやります。「むしゃくしゃしたからやった。殺すのは誰でもよかった。反省も後悔もしていない」てな感じのもの。
 ……いや、ほんまに腹が立ちます。「そんなに人を殺したいんだったら、自分を殺せ」と言いたくなる。言っても仕方ありませんが。
 まあ、逮捕されてもう二度と娑婆に出てこなければ、少なくとも無辜の民を殺して回ることはこれ以上はない(そいつに関しては再発が予防できる)ことがせめてもの慰めではありますが。


 大野病院事件で検察は控訴を断念しましたが、その理由は「自分たちは正しいんだけど、裁判所の頭が固いからあきらめた」(記事の原文中の発言「裁判所の判断を覆すのは困難と判断した」をおかだが翻訳しました)。
http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008082901000451.html
つまり、検察は反省も後悔もしていないわけで、“次の機会”があれば“誰でもよい”から同じことをする可能性が残っているわけです。
 ……こちらの再発防止のためには、なにか良い知恵はありませんか?


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2008.08.27 06:42 |  医療事故  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 4

 納得できない

 「あなたの病気は命にかかわります」と宣告されたらショックです。頭の中が真っ白になってしまうでしょう。「あなたは重大な病気かもしれません。検査しましょう」と言われただけでパニックになったり検査する前から絶望的な気分になる人も珍しくないでしょう。(なまじっか知識がある分、悪いことを考えてしまって「悪い患者」になる医療者は多そうな気がします)
 自分の家族が急に死んでしまった、これもショックです。「なぜ?」と呆然とするでしょう。それがたとえば交通事故だったら、加害者に「なんで殺した」と詰め寄りたくなるはずです。そこで加害者が「いや、急に目の前に飛び出されて」と言っても「弁解するのか」と怒りは増すばかりです。“加害者”が責任転嫁をすることで自分の“罪”から逃げようとしている、としか見えないのですから。その事故が本当に子どもによくある飛び出し事故で、“加害者”は単にそこを普通に運転していただけ、だとしても同じことです。その状況を説明する人間はすべて“加害者寄り(=敵)”として認識されてしまうでしょう。
 では“加害者”はその被害者の家族の怒りをすべて受け止めるべきでしょうか。たとえば墓前で土下座? 飛び出し事故の場合“加害者”も実は“被害者”の一種です。ごく普通に落ち度なく道路を走行していて突然「人殺し」にされてしまったのですから。ふだん車を運転する人は、自分がその立場になった時どう思うかをちょっと考えてみてください。常にそうなる可能性は存在しているのですから。
 この場合必要なのは“罪人”を作ることではない、と私は考えます。必要なのは時間と心のケア(癒し)です。周りの人間が、自分一人では受容できない悲しみと苦しみの中にいる人に、どのような援助ができるか、が大切だと思うのです。

 キューブラー・ロスの「死の受容のプロセス」を持ち出すまでもなく、自分が耐えきれないもの(たとえば自分の死や家族の死)に直面した時人は、まずは拒絶を、あるいは怒りを抱きます。普通の人間があんな喪失体験を従容と受け入れられるわけがありません。
 しかし、そこで裁判などを起こして“罪人”を作ることに集中することになると、“被害者”の家族は「怒り」の段階に長期間とどめおかれることになります。そして裁判で“加害者”が無罪あるいは予想外に軽い刑となると、そこで家族はこう呟くしかありません。「納得できない」。
 それはその家族のせいではなくて、受容や癒しの段階に進むことを妨害した周囲の人びとの“罪”だと私は考えます。


*1)そもそも、犯罪ではない「事故」の場合にすべてを「被害者/加害者」と単純に二分するのは、適当なのでしょうか?
*2)感情で解決するべき場面を、論理を押し立てて「納得」することでなんとかしようというのは、実は「否認」の一プロセスである可能性がある、と私は感じます。もしそうなら、そのプロセスを“強化”するのは本人には有害な結果がもたらされるでしょう。


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