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私の時代とは医学部の入試もいろいろと変わってきています。学士入学とかAO入試のことは聞いていましたが、最近は推薦入学で地域枠とかふるさと枠が設けられるようになったんですね。先週、某所の忘年会でその話を聞き、ちょっと書いてみる気になりました。
まず、あるブログの記事の紹介。「広大医学部に「ふるさと枠」。地域枠を設ける医学部は20大学超!」
そのもとになった毎日新聞のニュース「広島大医学部:推薦入試に「ふるさと枠」 地域医療推進へ--09年度から /広島」
これまでにも「在学中(6年間)奨学金(月に数万円、だったかな)を支給するから、卒業後は何年間か地元で医師として仕事しろ」という県による奨学金制度はありましたが、私が聞いた範囲ではほとんどは卒業後には金を返してしまって自分が思うところに入局してしまう、ということでした。そもそも卒業したての医者に県が「金を出したのだからどこそこにただちに赴任せよ」と言ってもその前に研修が必要ですからどちらにしても大学にはいるしかなかったのですが。で、そこで働いていたら回りと同じ“人並みの将来”が欲しくなるのも無理はなかったでしょう。それが現在の研修医制度が始まって、マッチングによって卒後は市中病院で研修を始めることでできるようになって相対的に大学の「力」が落ちて県の思うようになったか、と言えば、たぶんそうではないでしょう。市中病院で研修した後「では県の意向通り動きます」という人が都合良くそれほど多く出てくるとは私には思えません。
そこで「推薦入試に地域枠」となるわけですね。ここでキモは「推薦入試」です。推薦で入学したら、おそらくはそうでない学生よりは“スポンサーの意向”に敏感でしょう。入試の時点で厳重なフィルターがかけられますし、もし変なことをしたら後輩の入学にも影響が出るかもしれないことを考えてしまいます。
ただ、こんどは「県庁」と「大学」の間で綱引きが行われるのではないかな。金を出すのは県でもそれを教育し鍛えるのは大学です。どちらも“じぶんのもの”として“人事権”を行使したいはず。学生がその間で引き裂かれなければいいのですが。
ただ、少なくとも別枠で「5人の増員」ができるだけでも、医師不足には(ささやかな)朗報です。しかもその人材が「物理と数学の点が良いから医学部を受けました」ではなくて最初から「(地域で)医療をやりたい」なのですから。
突然ですが話を変えます。
「ふるさと枠」に私の心の一部が励起されましたが、みなさんは「ふるさと」と言われたら、どんなものを思い出しますか?
私は、市街地で育ちましたが、小学校時代までだったら「町内」(自宅とか小学校とかの周囲)です。中学高校だと、自転車で走り回った(合併前の)旧市街一帯。でもそれ以上の範囲(合併後の新市街とかもっと大きな県全域とか)を「自分のふるさと」とは認識しません。
では、もし田舎に住んでいたら? おそらく、小学までは村とか町。中高だと郡(の一部または大部分)くらいまで広がるかな(あくまで想像ですが)。
ただし、私が思い浮かべるのは、心に残る昔の風景の旧市街です。私にとっての『ふるさと」は、「ある特定の座標の地点のこと」ではないのです。ですから、古い風景をせっせと破壊する人は「私のふるさと」に対する“敵”です。郡部では街ほどの風景の変化はないでしょうが、それでも開発によって変わっていっているでしょうね。田舎出身の人はそれをどう思っているのでしょう。
そういえば「郡」って不思議な単位です。町村を幾つか束ねた行政単位ですが、別に「郡長」がいるわけではありません。何の機能を果たしているのだろう、と昔から不思議でしたが、地図を見ていると、この「郡」が自然の境界(山の連なりなど)に素直に区切られていることが多いのに気がつきます(ものすごく不自然(人為的)なものもありますけれど)。もしかしたら「郡」は人が「ここが私のふるさと」と認識できる限界を表現していたものなのかもしれません(確証は示せませんが)。
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「「議員、官僚、大企業、警察等の信頼感」調査」によると、日本では国会議員よりはマスコミの方がまだ信頼感は高いそうですが……それでも医者の習性が働いて、マスコミのことばを信じ込む前にまずは「事実」の確認からです。
「平成20年第25回経済財政諮問会議議事要旨」から引用します(11ページの部分)。
(麻生議長)67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやた
らにかかっている者がいる。彼らは、学生時代はとても元気だったが、今になると
こちらの方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているか
らである。私の方が税金は払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の
分の金を何で私が払うんだ。だから、努力して健康を保った人には何かしてくれる
とか、そういうインセンティブがないといけない。予防するとごそっと減る。
病院をやっているから言うわけではないが、よく院長が言うのは、「今日ここに
来ている患者は 600人ぐらい座っていると思うが、この人たちはここに来るのにタ
クシーで来ている。あの人はどこどこに住んでいる」と。みんな知っているわけで
ある。あの人は、ここまで歩いて来られるはずである。歩いてくれたら、2週間し
たら病院に来る必要はないというわけである。その話は、最初に医療に関して不思
議に思ったことであった。
それからかれこれ 30年ぐらい経つが、同じ疑問が残ったままなので、何かまじ
めにやっている者は、その分だけ医療費が少なくて済んでいることは確かだが、何
かやる気にさせる方法がないだろうかと思う。
非常に単純化して言うなら「不養生・不摂生をするから体が弱り病気がちになるんだ。そういった人は生活を改めることで“健康”になれる、あるいは病気が予防できる。自分が良い例だ。それで医療費が抑制できる」となるでしょう。(だったらそう言えばいいのに、同窓会だのよぼよぼだの枝葉をつけて言うからマスコミに適当に刈り込まれて“整形”されてしまうのです。
ただ、病気の原因は不摂生だけではありません。たとえば、先天的なもの・遺伝・外因の病原(インフルエンザ・ノロウイルスなどの病原体や、森永ヒ素ミルクやサリドマイドや水俣病など)・事故・加齢など、個人としてはどうしようもないものはいくらでもあります。さらに、一見個人の不摂生に見えても社会的な強制(過重労働による過労死など)も。それらを除いた「個人としてなんとかできるもの(生活習慣病)」については個人で(生活習慣を)ナントカできないのか、とことばを惜しまず言えばいいのにそれをしないから、「首相は『病気は個人の責任なのにその金をなんで私が払うんだ』と言った」となってしまう。
ということで、たまには首相の“弁護”をしてみました。
私は、中曽根さんの原爆病院での「病は気から」発言を思い出しました。あれも「病気があっても元気を出し て」が真意だったはずですが、言った場所と選んだことばのマッチングが最悪でしたっけ。政治家だったら、「自分が言いたいこと」だけを言う(「真意」を押 しつける)のではなくて、最初から幾つかの異なる立場の人を聴衆として想定してから発言した方が良いんじゃないかしら。もちろん「究極の八方美人」が理想 の政治家かと言えば、必ずしもそうは言えませんが、この場合はわざわざ「敵」を作らなければならない状況ではないでしょう? 「敵」を作るには、作るべき 場所と状況は選ぶべきです。
た・だ・し、ことばを惜しんだのか事実を知らないのかの区別もつきませんが、もし惜しんだのだとしても、あれでは、政治家としては失敗というか失格と言われても仕方ないとは思います。社会保障の理念(健康保険制度の原則)は、相互扶助であって“投資”(“払った金”の分に見合うだけの“利得”を期待する)ではないのに、上で引用した発言を素直に取ると首相は30年間それを理解せずに政治家を続けている、ということになりますから。公的な場での政治家の発言ではなくて「酒場でTV見ながらの無責任な放言」だったらOKなレベルですけどね。
そうそう、上記の首相の発言、議事要旨を最初から読んでいるとどうも直前までの流れとつながりが悪いのも気になります。もしかして「言いたい時に言いたいことを言う。他人の発言は無視」のタイプ? それとも、それまで続いた抽象的で観念的でふわふわした議員たちの議論に対して(中には少しでも現実的な話をしようとしている人もいますが)、もうちょっと“現場”に足をつけた話を出したかったのかな。
もう一歩踏み込んで考えてみます。11月22日に「読書感想『健康不安の社会学』」で書きましたが、「お上」が「個人の健康」に熱心に口をはさむのは結局社会の健康不安を助長させます。そこまで考えてから「政治家として」国民の健康に口を出さないと、良かれと思ってやったことが別の不幸を招くことになりかねません。政党の中のパワーゲームも複雑でしょうけれど、この世はもっと複雑なのです。
……あらら、弁護するはずが批判になってしまいました。だけど、ポジティブな批判だから、OKですよね?(と自己弁護)
※いつも思うのですが、政府の文書はどうしてやたらとPDFにするのでしょう。上で引用した中央調査社のページはグラフがあるので必要性が理解できますが、議事録のようにグラフやイラストが含まれない文字だけのファイルはふつうのテキストファイルで良いんじゃないかなあ。PDFは重くてかさばって扱いにくいのですが、なにか“事情”があるのかな。
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サクシゾンは副腎皮質ステロイド、サクシンは筋弛緩剤ですから、普通に考えたら「それを間違えるか?」と言いたくなりますが、普通では起きないはずのことが起きてしまうのが「事故」です。(もし意図的な行為ならそれは事故ではなくて事件または犯罪です)
亡くなった方やご遺族の方には同情しますが、同時に事故の関係者にも私は同情を感じます。「事故の関係者に同情するとは、やっぱり医者は“仲間”をかばおうとするんだ」と感じる人がいるかもしれませんが、「割り箸を咥えて走り回る行為には同情しないけれど、その結果子どもが死んでしまったことには同情する」のと同じスジで、私としては首尾一貫しています。
西暦2000年にも同じタイプの事故が起きていて、それが繰り返されたということは、これまでの“対策”は表面的なもので根本的な原因対策が取られていなかった/したがってこれからもまた条件がそろえば同じタイプの事故が繰り返される、ということを暗示しています。で、そのときたまたまその「そろった条件」のところに居合わせた人を夢中になって責めるだけでは、結局また根本的な対策が取られないまま、になってしまうでしょう。根本的な対策を冷静に考えるべき時に、誰かを夢中になって責める声はただのノイズです。静けさが要求される環境ではできたらノイズは押さえて欲しい。
こう聞くとびっくりする人がいるでしょうが、ここで重要なのは実は「サクシゾンとサクシンの取り違えを防ぐ」ことではありません。それでは「サクシゾンとサクシン」は対策の「目的」になってしまいます。しかし本当に重要なのは「根本的な対策を取ったことによって、『サクシゾンとサクシン』を含む同種の『似た名前の薬物取り違え事故』が激減する」ことです。「サクシゾンとサクシン」は、対策の「目的」ではなくて「結果」であるべきなのです(それが私の考える“根本的”対策です。「どうやってもサクシゾンとサクシンの取り違えが起きないようにする」ことではなくて)。
しかし、日本の多くの病院で取られたのは「サクシゾンとサクシン」のどちらかを採用しない、という手法でした。これだったらたしかに「サクシゾンを出すつもりで入力(または処方箋に記載)したのに、現物はサクシンが出てきた」は予防できます。でも、現実を見たらわかるように、それでは十分ではありませんでした。今回の病院でも片一方しか病院には存在しなかったのですから。結局これは「その病院だけ見たら解決」の「部分最適」の一例です。といって「全体最適」のために日本中で一斉にサクシンかサクシゾンのどちらかを消滅させる、は非現実的でしょう。
さらに、人は病院から病院へ動きます。「サクシゾンはあるけれどサクシンはない」病院から「サクシゾンはないけれどサクシンはある」病院へ、あるいはその逆へ、医師も看護師も薬剤師も異動をします。異動したら当然新しいものを覚えなければなりませんが、パソコンのように古いファイルは削除して新しいファイルだけを以後使う、とはスッキリできません。習慣と記憶は人間に深く根付いているものですから。特にあわてた時など、表面のものよりは深くのものが吹き出てきやすいのです。
※記憶の混乱を防止するために「異動の禁止」というのを思いつきました。「医師の田舎への強制移住」を主張している人は、強制移住のあと自由に動かれては困るから当然「自分勝手な異動の禁止」もセットにするでしょうから、この考え方に別に抵抗はないでしょう。で、足りないのは医師だけではない、と言うことになれば、当然その後に続くのは「看護師の田舎への強制移住」「薬剤師も」「放射線技師や検査技師も」の流れです。そのうち「過疎地の解消のために、都会で余っている人の田舎への強制移住」も政策として打ち出されたりして。それで政策のスジは一本通っていますよね。「政治的目的のためには国民の強制移住をさせる」というスジが。
コンピューター画面で「サクシン」と打ったら「筋弛緩剤!」(あるいは「サクシゾン」と打ったら「ステロイド!」)と赤字で表示されるのも一つの手でしょう。ただしこれも万能とは思いません。人間は機械的に作業している時には画面に出てくる重要な情報も無視します(連続して「イエス」「イエス」とクリックしていて、ついうっかり肝心なところも読まずに「イエス」を押して次の画面が出てしまい「あんぎゃあ」と叫んだ経験を持っていませんか?)。また、まだ完全にコンピューター化されていない病院もありますし、コンピューター化されていても、たとえば(昨日、私が遭遇したような)緊急事態で医者がコンピューターなんかいじくっている場合ではないこともあります(目の前で患者が死にかけている時に「医者は急変患者を診るよりもコンピューターに向かってそれを正確に操作しているべきだ」と主張する人は、医療について論じる資格を持っていないと私は感じます。少なくともそういった人は医者にはならないでください)。実際にそういった場合には口答指示の連発となります。私が勤務する病院では、看護師は必ず復唱をし(復唱した看護師がその指示を実行する)、注射の場合には瓶やアンプルのラベル面を医師に見せます(ダブルチェックです)。だけど、緊急事態で注意力が分散している状況で思いこみが強いと、見ているつもりで違うものを見てしまうこともあります。(1歳と3歳の兄弟を育てている家庭で、下の子が下痢便をあたりにばらまいてしまって大急ぎでその始末をしているところに上の子が「ねえねえお母さん、カブトムシがいた」と見せに来たら、手に握っている黒い虫がゴキブリでもカブトムシに見えてしまう、なんてことはないでしょうか?)
「人の記憶に頼る」のも一つの手です(「ちゃんと覚えておけ。間違えないように気をつけろ」が“対策”ですから言う方も楽ですし)。しかし、似た名前の薬はいくらでもあります。先発品だけでもすぐに私が思いつくのは……アマリール/アルマール、ムコスタ/ムコダイン、グリチロン/グリミクロン、ノイロビタン/ノイロトロピン、エクセラーゼ/エクセグラン、デパス/デパケン、塩化カリウム/塩化カルシウム、アルサルミン/アルケラン、ノルバスク/ノルバデックス……これに後発品を含めたら……もう勘弁してください(泣)。緊急事態には「患者のこの状態をどうするか」に集中したいのに、コンピューターでチェックしろだのこの薬には似た名前の別の薬がないかを全部思い出せだの、目の前の急変患者の治療に貢献する気がない人間がこちらに余分な負担をかけて治療の足を熱心に引っ張るのはやめて欲しいのです。
少しでもゆとりがある場面での技術的な解決としては、入力画面で「似た名前の薬のセット」を表示する、というのがとりあえず考えられます。思いこみがあって打ち間違いがあったら、その「間違った薬」だけ表示されてOKされてしまう可能性がありますが、「セット」が出てその中から選択だと、そこで思いこみが訂正される可能性があります。ただし、一手間余分にかかりますから、緊急事態ではイライラがつのるかもしれませんが、事故が起きるよりはマシ。
もうちょっと根本に迫った対策としては、私が見るところでは要するに「似た名前の薬があること」が問題なのですから、「これまでのと似た名前の薬は厚労省が認可しない」という手が考えられます。言葉尻にこだわることが得意な人が官僚やマスコミには多そうですから(私の偏見かな? 不愉快に思われたらいけませんから「ことばには詳しく厳しい人」と言い直します)、そういった人が集まって「事故防止のための薬剤名審議会」で検討すればいいでしょう。薬剤名に関する事故例やニアミス例は集積されているはずですから、それをたたき台に、書いた文字や発声で混同しやすい薬剤名を洗い出して訂正を勧告。さらに使われる状況や人間心理も加味してこれからの薬品名についての基本方針を打ち立てることができれば、同種の事故が発生する確率はぐんと減るはずです。(ただし、それでも間違い事故が起きたら、その審議委員に“責任”は取っていただきましょう)
私自身はこういった事故の“加害者”だけではなくて“被害者”にもなる可能性がありますから、ついマジに考えてしまいますが、真剣に考えようとしない人は「しょせん他人事」とでも思っているのかな?
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書誌情報:『健康不安の社会学 ──健康社会のパラドックス〔改訂版〕』上杉正幸 著、 世界思想社、2008年、2000円(税別)
「健康」に対するWHOの有名な定義は「健康とは身体的精神的社会的に良好な状態であり、それは単に疾病がない虚弱でない、というだけではない」です。ここで「健康」は「身体」だけのものではなくて「精神」と「社会」のものでもあることが高らかに宣言されていますが、定義の前半が快調だったのに後半は否定形(それも二重否定)で物語ることによって記述が腰砕けになっています。
「健康」は新しい言葉です。日本での初出は「漢洋内景説」(高野長英、1836(天保七)年)「遠西原病約論」(緒方洪庵、1837年)。それまでの「丈夫」「健やか」といった主観的な言葉に対して「健康」は西洋医学的・客観的な視点からの言葉でした。したがって江戸時代には「健康増進運動」などはありませんでした。それに一番近いのは貝原益軒の「養生訓」でしょうが、そこで重要視されたのは「自然な生」で、否定されたのは「天寿より早い死」です。すなわち「天寿」も「死」もそこでは否定されるべき存在ではありませんでした。
明治政府は、富国強兵のために「健康」を推進しました。それは衛生行政が内務省管轄であったことに現れています(したがって「取り締まり」の発想が持ち込まれています。疫病が発生した場合派遣される“主力部隊”は医者と警官です)。教育では「学制」「小学校令」「中学校令」などで学校の衛生環境・健康教育・身体育成などが定められ、産業では「工場法」によって殖産興業のために生産効率を上昇させるための環境整備が行われました。つまり明治政府にとっての「健康」は「個人の健康」ではなくて「社会が求める健康」だったのです。著者は「個人が求める健康」を「ミクロな健康」、「社会(国家)が求める健康」を「マクロな健康」と定義し、その関係を論じています。
ミクロの健康はシンプルです。「自分が健康だと思う」のなら「健康」です。しかしマクロの健康はそのような個人の主観を排したところに成立します。したがってミクロの健康とマクロの健康にはズレがあります。たとえば「自分は健康だと思っている(ミクロな健康)」人でも、人間ドックにはいったらなにか異常を指摘されるかもしれません。それは社会的には(マクロな健康の観点からは)「健康ではない」とされる状態です。すると個人は自分の主観的判断が信用できず不安になりその結果「健康への強迫」が生まれます。この場合重要なのは「マクロの健康」が「ミクロの健康」に対して優位性を持っている点です。「健康」には「お墨付き」(たとえば、健康診断書)が必要になるのです。
ミクロとマクロの関係は下記の4つに分類されます。
1)ミクロが健康/マクロが健康
2)ミクロが健康/マクロが不健康
3)ミクロが不健康/マクロが健康
4)ミクロが不健康/マクロが不健康
1)においては前出の「健康への強迫」が生まれます。2)の例として精神障害者(あるいはドックでの異常の指摘)が挙げられます。3)としては登校拒否。4)では1)の裏返しとしての「病気への強迫」が生まれますが、そこでは「もしかしたら自分は病気なのではないか」という不安が解消される、つまり、「病気」が「安心」として機能します。それもちょっと変な話なのですが。
明治政府の目標「富国強兵」は単純でわかりやすく、さらに当時の病気の主力は感染症であったためその対策もシンプルでした。ミクロとマクロにズレがあるにしても、それはマクロの健康を推進することの“正当性”によって隠蔽されやすかったのです。しかし戦後になり、政府は「目標」を見失います。「国民の健康」行政を一体何のために行えばいいのかわからなくなったのです。さらに昭和20年代後半に、感染症中心から慢性病中心に日本の疾病構造が変化しました。健康を脅かす病気は(ある意味わかりやすい)「他からもたらされる災い」から(見ることが難しい)「自分の内側に発生するもの」になったのです。
慢性病は、近代医学にとって対応が難しいものです。原因の確定は多くは困難です。そして研究が進めば進むほど「原因」の数は増え、「原因」の数が増えれば増えるほど、その「関連性」の解明は困難になっていきます(多角形の角の数が増えるにつれてどんどん対角線が増えていくようなものです)。つまり「対策」も立てにくくなったのです。できるとしたら「原因の排除」ですが、その多くは生活に深く入り込んでいるもの(たとえばアルコールや喫煙)で単純な排除は困難です。
国民の意識も変化します。1961年国民健康保険法が完全実施され、皆保険が始まりました。それによって人びとは病院を手軽に使うことができるようになりましたが、同時に自分の体(健康)への無関心も始まります。それまで日本人は生活の知恵として様々な医療を家庭生活の中で実践していました。それが医療の専門家へ依存するようになったのです。(言葉尻を捉えるようですが、病気の治療に“健康”保険を使うのは、なにか言葉がねじれていませんか? それでは健康増進には何を使うのでしょう?)
目標が不明確で対策が困難でも国は「健康」を増進し続けます。まるで終わりのないマラソンのように。まずは「早期発見・早期治療」の施策が次々施行されました。1970年代には「健康づくり」が推進されます。さらに厚生白書では、1986年に「自覚と責任」、88年には「健康づくりと生きがいづくり」が謳われ、1996年には「成人病」が「生活習慣病」に改められ、「国民生活への干渉」が順調に強化されていきました。そして2003年の「健康増進法」で、「健康の増進」は国民の法律上の責務となりました。ところがここで重要なのは「健康」の定義が法律ではされていないことです。国民は正体が明記されない「健康」を目標として追い求め続けなければならないのです。
面白いのは、1970年代に「紅茶キノコ」と「ジョギング」が大ブームとなったことでしょう。産業界はそれを見逃しません。健康産業が成立します。そこでは「健康不安」は「飯のタネ」であり、人びとの健康不安は商売のためにかき立てられ続けることになります。
「健康を求める方法」として、健康食品や健康器具だけではなくて「異常の排除」が用いられました。「健康に悪いこと」をこの世から追放しよう、という運動です。怖がる対象が明確なのが恐怖で不明確なのが不安ですから、不安に対する「対策」として「排除」が採用されるのは当然です。かつてらい病は非常にわかりやすく社会から排除されました。ところが疾病の原因などが科学的に明確になった現代社会でも、人は似たことをします。本書では堺市でのO157感染のときに「感染児童が退院してから差別された」「堺市の児童が他県のキャンプに参加を断られた」「堺市のスポーツ少年団が全国大会に出場辞退をした」例が紹介されています。
「排除の輪」は容易に広がります。「社会の不潔なゴミ」としてのホームレス襲撃や障害者差別、さらにはデブ・ハゲ・体臭などに対する排除も行われます。著者は、1970年代からの「異常の排除による健康追求」と1980年代からの「学校での細かい差違によるいじめ」とが同じ構造(キレイナモノを追い求めるためにキタナイモノを排除する)を持っていることに注目をしています。
現代日本では、人は医学に「健康増進」の機能を求めます。しかし医学の本来の機能は「疾病治療」です(でした)。そこで人は失望します。「絶対的な健康(すなわち不老不死)を現代医学はもたらしてくれない」と。そのかわりをしてくれそうなのが、TVなどで自信たっぷりに「これを食べたら健康になれる」などと語る“健康伝道者”たちなのでしょう。
それでも医者はいろんなことを言います。「これは危険だ」「これも危険だ」。しかし、医者の言うことを丸呑みしてあれもこれも自分の生活から排除するのではなくて、「自分がどう生きたいのか」のグランドデザインに従ってリスクを取捨選択するのは、各個人の“責務”ではないでしょうか。誰かに選択を丸投げするのではなくて。でないと「自分の人生を生きている」ことにならないような気が私にはします。
私の「健康」の定義をここに書いておきます。元気に生きる、そして安らかに死ぬ。「一病息災」という良い言葉がありますが、たとえ五体満足でなくてもたとえ病気持ちでも「健康な人生」を送ることは可能です。そう思わないと、宇宙の中ではあまりに弱いアシである人間なんてやってられません。
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学生などがつぎつぎマリファナを吸ったり栽培したとして逮捕されているようです。
讀賣の記事で「大学生の大麻摘発、03年度以降10校で43人…読売調査」というのもあります。
そういえば学生時代に、東京から近県の大麻畑に車で出かけて大麻を“収穫”しようとして逮捕された若者のニュースを見たことがありましたっけ。(ついでですが、日本の“大麻”畑で栽培されているのは、幻覚成分を含まない改良種じゃなかったっけ?)
突然ですが、クイズです。
Q 「日本ではマリファナ吸引は『麻薬取締法』で禁止されている」
これは正しいか間違っているか?
すぐに答えを見ずに、2秒くらいは考えて下さいね。
A もちろん、間違い。
「麻薬取締法」ではなくて正しい法律名は「麻薬及び向精神薬取締法」であるから不正解、という揚げ足取り的“正解”ではなくて、マリファナは日本では「大麻取締法」で禁止されているから不正解です。さらについでに言うと、この法律で禁止されているのは(大麻取扱者以外の)「大麻の所持・栽培・譲り受け・譲り渡し・研究のための使用」であって、「マリファナを吸ってはいけない」とは法律には書いてありません。まあ『所持」に引っかかっているから吸引者の逮捕自体は違法ではありませんが、「知らずに副流煙」だったらもしかして法的には無罪?
ネットでちょっと検索すると「マリファナ関連サイト(やブログ)」は一杯見つかります。ただ、そこで気になるのが、「煙草(やアルコール)に比較してマリファナは安全」とか「マリファナは無害」との断言がやたらと目立つこと。
ちょっと私の記憶も検索してみます。
たしか、動物実験では発ガン性があるが人間では不明と言われていました。
多発性硬化症やクローン病に有効性がある、と言われたり、マリファナの中に発ガン性を押さえる成分が含まれている、という研究もありました。
2006年にはアメリカ胸部疾患学会で「マリファナ吸引者の発ガン率は、非吸引者と差がない」との発表があったそうで、マリファナ解禁論者は大いに勢いづきました。
ところが2008年には、ニュージーランドで「人間の肺ガンのリスクは、マリファナ1本が煙草20本分に相当」という研究が発表されたそうです。
http://www.microbes.jp/aimai/kurashi/fl495.htm
ニュージーランドはマリファナの使用量が多く、煙草とマリファナの両刀遣いが少なくてきちんと分離して評価することができた、という環境的な“利点”が、これまで困難だった「ヒトに対するマリファナの発ガン性評価」を可能にしたのでしょう。自分の体を張って人体実験をしてくれたわけで、とりあえずはありがとう、ですね。
ただ「国が自分に『お前はガンになってはならない』なんて命令する筋合いはない」というのも、それはそれで頷ける主張ではあります。ただ、もしもそこまで自己主張を貫くのだったら「自分がそのリスクを選択したのだから、その結果肺ガンになっても健康保険は使わない(治療する場合、全部(あるいは自然発生率とそのリスクとの差額分は)自費でまかなう)」とも主張しておいて欲しいな、とは思いますが。
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