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原発の安全神話全盛期、反原発の立場の人たちの中には「原発事故が本当に起きるまで、お前らは『原発は安全だ』という主張を変えない気かよ」とため息をつきながら思っている人がいたのではないか、と私は想像しています。で、安全神話の信奉者で、神話が崩壊したあと、きちんと反省した人は何割くらいいるんでしょうねえ。「東電が悪い」「政府の対応が悪い」「危険性について自分をだました“専門家”が悪い」「危険性を広報しなかったマスコミが悪い」=「自分は悪くない」、と思っている人がけっこう多いのではないか、なんて想像もしてしまいます。
「医療費亡国論」の信奉者たちについて、「医療が本当に崩壊するまで、お前らは信念を変えない気かよ」と私はため息をつきながら思っています。「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほどとれる」と同じ“政策”で、「とにかく医療費は絞れば良いんだ」と、「どのような医療が必要でそのためにどのくらいのコストが必要か」の医療設計やコスト計算を一切せずに単に「前年度比」でしか医療を考えられない人たちは、医療が崩壊したあときちんと反省するのでしょうか。「きちんと仕事をしない医者が悪い」「儲けすぎた医者が悪い」「医療を崩壊させたのはとにかく医者が悪い」「崩壊しそうだという情報をちゃんと上げない“専門家”が悪い」「コンビニ受診をしたりモンスターとなった患者が悪い」=「自分は悪くない」、「角を矯めただけだ」=「死んだ牛の方が悪い」=「自分はちっとも悪くない」、と主張するのではないか、という予感しかしません。予感というか、確信ですが。
参考(になるかもしれない)図書
『「僕のお父さんは東電の社員です」 ──小中学生たちの白熱議論! 3・11と働くことの意味』毎日小学生新聞 編 + 森達也 著、現代書館、2011年、1400円(税別)
「自分は悪くない」と言い張る人たちに、「ほんとうにみんなは無関係なのか?」というするどい問いかけをした小学生の投稿から始まった本です。多くの小学生が意外に(というと大変失礼かもしれませんが)きちんと議論をしようとしている態度を示しているのが印象的です。今の国会の体たらくよりよほどまとも。もちろん「自分はちっとも悪くない」と主張する人もいますが。
『北米大停電 ──現代版南北戦争の視点』山家公雄 著、 社団法人日本電気協会新聞部、2004年、900円(税別)
2003年8月14日北米で大停電が起きましたが、この本には、17日ニューヨークタイムズに載った投書が紹介されています。
「俺たちニューヨーク市民の電気が、カナダから送られていたなんて誰が知っていた。五大湖のエリー湖をぐるりと回ってこちらに向かってたって? 誰が想像できた。65年と77年のニューヨーク大停電の後、二度と起こさないように手を打つと言ったのはどこのどいつだ。すっかり整備されたものと信じていたものを。専門家に言わせると、送電システムが脆弱だ、もっと投資すべきだと随分と前から警告していたそうじゃないか。……(中略)…… 政治家も右往左往、わけもわからず批判合戦し責任の擦り付け合いをしている。共和党は、民主党が環境重視を唱えるあまりインフラ整備を妨げてきた、と主張する。民主党は、共和党がエネルギー業界の利益誘導に忙しく停電対策を怠った、と言う。専門家と称する人びとも、意味不明の専門用語を駆使するが、要するに原因がわからずうろたえている……」
ある種のことについては「国による違い」というのは、ないようです。
『十字軍物語』のシリーズ
『絵で見る 十字軍物語』塩野七生 著、 ギュスターヴ・ドレ 絵、新潮社、2010年、2200円(税別)
『十字軍物語1』塩野七生 著、 新潮社、2010年、2500円(税別)
『十字軍物語2』塩野七生 著、 新潮社、2011年、2500円(税別)
『十字軍物語3』塩野七生 著、 新潮社、2011年、3400円(税別)
十字軍の遠征は宗教戦争であり、当然「聖職者」が大きな役割を果たしていました。「神がそれを望んでおられる」などのことばで「十字軍の必要性」「十字軍の正当性」を人々に強く説き(それに大々的に成功したのはたとえば第二次十字軍の修道士ベルナール、第五次十字軍の法王代理ペラーヨ)、出陣をしぶる王(たとえば神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ)を破門で脅したりしてまで人々を遠い異国の戦場に駆り立てた「聖職者」は、たとえ十字軍がみじめな失敗に終わってもその“責任”を問われませんでした。そもそも中世の聖職者は「権力の側」に立っていますし、「神の代理人である聖職者は無謬である」が大前提であり「聖書に照らしてみたら聖職者のことばは真実である」のは明らかなのですから、十字軍の失敗に関しては「信仰が足りなかった人間の方が悪い」となってしまったのです。実際に現場で苦労し飢え凍え血を流していたのはその(「後出しじゃんけん」で)「信仰が足りないとされた人たち」だったのですが。
「歴史から学ぶ」ことの意味が、このシリーズからもわかります。(「日本の医療崩壊」で「十字軍における聖職者」に当たるのが「官僚とマスコミ」だと私は思っています)
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中医協で「回復期リハビリテーション病棟」についての議論がされています。
議論というか、御前会議というか、単なる手続きというか、はそれこそ「議論」のあるところかもしれませんが。
資料:「個別改定項目について(その2)」(厚生労働省)
47〜49ページ「回復期リハビリテーション病棟入院料の新たな評価」
で、「回復期リハビリテーション病棟」を現在の2つからあらたに3つにランク分けしよう、というのが今回の“議題”の一つのようです。そのこと自体は別に不思議な話ではありません。腕の良いところと腕の悪いところがあったら、腕の良いところの方への支払いを多くしよう、というだけのことですから。
問題は「腕の良さ」をどうやって“評価”するか、です。そこで「重症者を多く入院させ、それをより多く改善させるのが、よい病棟(重症者を避けて治療が楽な軽症だけをえり好みする/重症者をきちんと改善させることができない、は悪い病棟)」という「成果主義」が唱えられます。そのこと自体にも私は大きな問題は感じません。
重要なのは、「重症者」とか「多く」のきちんとした定義です。それが「(医学的に正しい、エビデンスが存在する)まともな定義」であるかどうか。
「重症」に関して、資料に登場するのは以下の2項目です。(資料の48ページ)
5)新規入院患者のうち3割以上が重症の患者(日常生活機能評価で10点以上の患者)であること。
6)新規入院患者のうち1割5分以上が「一般病棟用の重症度・看護必要度 に係る評価表」のA項目が1点以上の患者であること。
「日常生活機能評価」は俗に私たちは「看護B」と呼んでいます。その内容についてはかつて「看護Bの怪」で書きました。リハビリテーションの評価に相応しいとはとても言えないシロモノですが、今回もまたそれが使われるようです。
で「新顔」が「一般病棟用の重症度・看護必要度に係る評価表のA項目」。
これは入院患者の「重症度」のスケールですが、それを使って「重症者を多く受け入れて、それをせっせと回復させている病棟が“良い病棟”である」としよう、というのです。これも一見ふつうの発想に見えます。「重症の患者を評価するスケールがある。だったらそれを使えばいいだろう」です。たしかにことばとしては整合性がとれています。では、その中身は?
「一般病棟用の重症度・看護必要度に係る評価表のA項目」の内容は「創傷処置、血圧測定(一日5回以上)、時間尿測定、呼吸ケア、点滴ライン同時3本以上、心電図モニター、シリンジポンプの使用、輸血や輸液製剤の使用、専門的な治療・処置(抗悪性腫瘍剤の使用、麻薬注射薬の使用、放射線治療、免疫抑制剤の使用、昇圧剤(注射)の使用、抗不整脈剤(注射)の使用、ドレナージの管理)」の9項目です。
ちょっと待ってよ、と私は呟きます。これはどちらかと言えば急性期病棟(あるいはそこから直接患者を受け取る亜急性期病棟)での患者の肉体の状態評価に使うものでしょう。そういった「命にかかわる状態」から離脱できた患者に対しては「回復期リハビリテーション」ができますが、離脱できていない人に対して行なうのは「急性期リハビリテーション」。たとえば、息も絶え絶えでモニターやら点滴ラインやらをつけられている人に、どんな(日常生活あるいは維持期リハビリテーションをゴールとする)「回復期リハビリテーション」を行えると思います?
突然ですが、これまでの話は一時横に置きます。一見別の話が始まりますが、ついてきてくださいね。
日本で「医学」の主流は「治療医学」です。疾病が存在していたらその疾病に対して治療をする(その結果患者は治る(治らない))という発想に基づく医学です。わかりやすいですね。
しかし、その治療医学とは別の視点から世界を眺める医学もあります。たとえば「予防医学」。たとえば「社会医学」。たとえば「緩和医療」。たとえば「リハビリテーション医学」。いずれも「治療」が最優先課題ではなく「治癒」が最終目標ではないものばかりです。
そういった「治療医学ではない医学」がこの世に存在することが許せない人がいるように私には思えます。「治療医学の論理ですべてを律してやる」と主張しているように見える、たとえば「回復期リハビリテーション病棟の“レベル”を、治療医学の基準で決定する人」。
「リハビリテーション病棟」の制度を決めるのに、そこに「治療医学」の発想しか持ち込めない、というのには、うら寂しい気分です。リハビリテーション医学はリハビリテーション医学の発想で動くべきではありません?
「回復期リハビリテーション」と一言で言っても、脳卒中後遺症・整形外科(大腿骨の骨折手術後など)・廃用症候群・心臓・呼吸器など、簡単にまとめることはできません。その中でたとえば、脳卒中後遺症のリハビリテーションに重点を置くなら、「SIAS(Stroke Impairment Assessment Set(脳卒中機能障害評価法))」、あるいは最近評価が高まっていると評判の「HUI3(Health Utilities Index Mark3)」といった“評価基準”を用いる手があります。共通しているのは、どちらも治療医学ではなくて「リハビリテーション医学の視点」を持った評価法であることです。
もちろん現在広く使われている(もとの疾患にかかわらず「回復期リハビリテーション」全般で用いることができる)「FIM」(機能的自立度評価法(Functional Independence Measure))も使うことができます。
FIMの場合、リハビリテーション医学の見地から「重症の人」は「FIM点数の低い人」となります(最低(どの項目もすべて全介助)が18点、満点(すべての項目が自立)が126点)。そしてその人がリハビリテーションによって機能が回復していくと「FIM点数が伸びる」という形で表現できます。つまり「重症ほど点数が低い、リハビリの観点からの“症状”が軽快していけば点数は上がる」と、とってもわかりやすいものです(小学校のテストの点数と同じ扱いができるわけですから。「テストの点」だったら小学生でも理解できますよね?)。もちろん歩行やADL(日常生活動作)などの18項目を規定通りにきちんと判定するのは手間ではありますが、FIMの判定さえきちんとできないところが「われわれは、いちりゅうのかいふくきりはびりびょうとうだ」なんて名乗ったら笑止千万でしょう。
それが今回の中医協の“議論”では、「息も絶え絶えであっぷあっぷしているかどうか」が「リハビリの観点からの重症の定義である」だってさ。こちらも笑止千万。
「リハビリテーション医学の領域での“重症度”」は「リハビリテーション医学の視点を持った評価法」でないと、正しい「リハビリテーション医学的判断」ができないのではないです? それとも、「小学校の教師の評価法」で大学の教師を、あるいは「大学教師の評価法」で小学校の教師を評価するのが、皆さん、お好きなんです? まあ、他人の好みをとやかく言いたくはありませんが、「個人の好み」を主張するのは趣味の領域に留めて置いて欲しいものだ、とも思います。最低限「医学には何種類もある」ことさえ知らない(「治療医学」の発想しか持たない)人間に「医学に関する政策決定」をして欲しくはありません。
言いたいことはこれで大体言いましたが、オマケを一つ。
ついでですが、人員配置についてもこの資料では不思議な主張が行なわれています。
回復期リハビリテーションで重要なスタッフは、もちろんリハビリテーションの療法士ですが、病棟のスタッフ(看護や介護など)もまた「回復期リハビリテーション」では重要な役割を果たしています。回復期リハビリテーションがその回復目標の一つとして「日常生活」を念頭に置いていることを思えば、その役割の大切さが理解できるでしょう。トイレに行ったり食事をしたり着替えたり、日常生活の動作すべてがリハビリとなるのです。ですから「高度なリハビリテーションを行なうリハビリテーション病院」にするために増やすべきはリハビリテーションに関与するすべてのスタッフの質と量です。(たとえば「医者さえ増やせば医療の質が上がる」というのは、治療医学の、それも前世紀の治療医学の発想でしかありません。もちろん「医者さえ配置したらあとはなんとかなる」信者はまだ日本のあちこちに残っていますが、私は「時代遅れ/現実離れ」と呼んでさしあげます。) その点で、この資料にある人員配置は、「本当にリハビリを本気でやる気があるのか?」と言いたくなる配置基準です。
もう少し「医学」に詳しい人が、医学に関する案を練った方が良いんじゃないですかねえ。もう少し「リハビリテーション医学」に詳しい人が、リハビリテーション医学に関する案を練った方が良いんじゃないですかねえ。治療医学の発想から抜けられない人は、リハビリなんぞに口を出さないで、治療医学のことだけ論じていてくださいな。
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「厚労省、「金曜入院」などの割合が高い病院が受け取る入院基本料を減額する方針」(FNN)
「「金曜日」や「土曜日」に入院した患者の平均入院日数は16日を上回り、最も短い水曜日の入院患者より、3日余り長い」ことが問題で「「金曜入院」や「月曜退院」などの割合が高い病院について、病院側が受け取る入院基本料を減額する方針」、ということは、休日の前夜に救急車を多く受ける病院は“罰”をくらう、ということなんですね。おやおや。(ところで、金曜日と土曜日に救急車の出動回数が多いこと、みなさんご存じです?)
私が勤務する病院では、入院に関しては他の病院と紹介・逆紹介が多いのですが、病院からの入院を受ける場合「金曜入院だとこちらがワルイ病院になるから」と月曜に入院を受けることにしたら、今度は紹介元の病院が「ワルイ病院」とされてしまうんですね。その逆も真。おやおや。
なんというか、厚労省のお役人というのはお暇なんだなあ、というのが私の素直な感想です。障子の桟をすっと指で撫でて回って埃がつくかどうかを調べてお嫁さんを責める口実を必死に探しているお姑さんではあるまいに、細かい数字をちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこいじくり回して喜んでいる。そんなに暇なら、せめて現場の手伝いをしてくれません?
この「方針」が「現実」になったら、私の予想では、月曜退院ががくんと減ってそれが火曜にシフトする(つまりさらに入院日数が伸びる)ことになるでしょう。で、厚労省は来年度は「火曜退院」をターゲットにして、そうするとこんどは水曜退院が増えて……あら、最終的にはどの曜日に退院させても入院基本料は減額になっちゃうんですね。なるほど、それが厚労省の真の狙いか。おやおや。
私が思いつく「解決策」は単純です。人を増やして、土日も現在の平日と同じ診療体制が病院で組めるようにする。そうすれば厚労省が主張する「休日の無駄」なんかあっさり消滅です。どうせ厚労省が思いつくのは「診療の質量を上げて結果として入院日数が短縮される(コストを投入して、あとからその元を取る)」ではなくて「今と同じ人数で、休日にも平日と同じ診療体制を取らない病院は罰する(コストをケチって、罰で人を動かそうとする)」でしょうけれど。おやおや。
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私が子供時代には「たまの日曜に一家でデパートに出かけること」が特別なイベントでした。別に買い物をするわけではありません。当時のデパートの屋上は子供の遊園地となっていて、十円玉を入れるゲーム機(電子ゲームなどではありません。レトロで素朴なアナログ器機)や乗物(メリーゴーラウンドやティーカップ、ミニ列車など)が狭い空間にぎっしりと私たちを待っていてくれました。で、しばらく遊んで、大食堂でお子様ランチとかプリン・ア・ラ・モードか何か“特別なもの”を食べて、最上階のおもちゃ売り場をぐるぐる回って(おもちゃを買ってもらえるのは、クリスマスか誕生日だけ、と心得ていましたから「買って買って〜(じたばた)」モードには入りません)、それから階段を下まで降りていくころには(当時は、エスカレーターは上りしか設置されていませんでした)こちらはそろそろお疲れモード。で、ふつうはそこでバスに乗って帰るのですが、たまに親父が「タクシーで帰ろうか」と言ってくれたら、これはもう「なんて贅沢な!」モードに突入です。
「神風タクシー」とか「乗車拒否」といったことばをいまふっと思い出しましたが、貧乏サラリーマンの倅にとっては「乗用車に乗ること」自体が特別な行為だったのです。で、料金を支払うとき、親父はお釣りはもらっていましたが、領収書はもらっていませんでした。
今のタクシーでは「領収書の発行」は普通のことになりましたが、当時は「領収書はない」ことが普通でした。もっともそれはタクシーだけの特殊事情ではなくて、そのへんの商店でも(もちろん開業医でも)「領収書? 何それ?」が普通だったのですが。その分、家計簿をつけるのは真剣でしたね。すべてを記憶しておいて帰宅後に記録し、算盤で最後の1円まできっちり合わせなければいけないのですから(ですから「子供のお使い」でも一円単位で何をどれだけ買ったかを報告していました)。
現在では、医療機関でも領収書を発行するのは当たり前となっています。これは医療機関だけの特殊事情ではなくて、社会全体が領収書を発行することが当たり前になっていることの反映と私は捉えています。ところで……内容を詳しく書いた明細書は「社会の常識」でしたっけ? たとえばタクシーに乗って「明細書を」と言ったら「○時○分どこそこで乗車。どこそこ経由。主な地点の通過時間。降車地点と降車時間」が明記された書類がさっと出てくる、ということが“常識”? もしそんなものが常に必要になるのだったら、それはどんなタクシーが走っている社会なんでしょう? 今の段階だったら、「我が社の運転手は全員常に経路や料金を誤魔化そうとしている」と経営者が考えているタクシー会社かな?
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零細医療機関の簡略申告を「優遇されている」と目の敵にする人たちが、零細事業者の消費税益税を問題にしてこなかったのは、不思議です。というか、益税というシステムを作らなければならなかった一番大きな本当の理由は、何なんでしょうねえ。
ところで、消費税に関して医療機関は損税(問屋に消費税込みで支払うが、健康保険の診療報酬単価には消費税を加算できない)だから、この不自然な税制で「優遇」されているのは、最終“消費”者?
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