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2012.02.11 18:03 |  医療制度 / 行政  |  仕事 / 職場  |  おかだ  | 推薦数 : 3

一夜漬け

 学生時代、私は試験前夜には(にも)きっちり寝る主義でしたが、一夜漬けでなんとかする主義のクラスメイトもたくさんいました。教室で「早く始まってくれ。せっかく詰め込んだのに、記憶が蒸発するぅ」とハイになって言っている人たちの表情を見ると目がどよんとしていて「なるほど、徹夜というのは大変だね」と私は思いましたっけ。で、試験が済んだら本当に彼らの記憶が蒸発しているのが面白かったのは、別のお話です。ただこういった「一夜漬けでなんとかする主義」で生きてきた(まがりなりにも「成功体験」を重ねてきた)人は、他のことでもそれでなんとかなる、と思うようになるのかな、と私は思っています。「いざとなったら、徹夜で馬力をかけてやれば、世の中はなんとかなるものさ」と。

 本日の朝日新聞の天声人語は「当直明けの外科医の手術」について書いてあります。
 「日本外科学会の調査では、外科医の7割が当直明けの手術を経験し、うち8割が手術の質の低下を実感しているという。当直明け手術が「いつもある」が31%、「しばしば」が26%」という“データ”が紹介されていて「心穏やかではいられない」という実に素朴な感想がつけられています。ところで、スペースがないから触れることができなかったのか気づかなかったのかはわかりませんが、この“データ”はあくまで「主観的なもの」であることを見逃してはいけません。徹夜明けで本当に能力が落ちているとただハイになって「自分の能力が落ちていること」さえ判断できなくなっている人もいるのです。したがって「質の低下を実感」していることは重要ですが、その「実感の数字」にはあまりこだわらない方が良いです。こういった話をする場合、本当に必要なのは「客観データ(エビデンスとして使えるもの)」です。主観的なデータは、“ムード”や“印象”ではあっても細かい数字を比較できる明確なエビデンスにはなりません。
 そして最後の段落には「それもこれも、病院の多忙ゆえだという。医師、看護師、そして病院全体の「心技体」が充実してこそ、気の弱りがちな患者も励まされる。負担の軽減は医療界あげての急務だろう。」
 「負担の軽減」には私も賛成ですが……「医療界の急務」ですって?  「医療界の急務」ですって!  だったら「医療界」が「負担を軽減します」と自分たちで決めて良いんですね。マスコミは「文句」を言いませんね。なにしろ「医療界の急務」なんですから。ただしその解決策は「夜勤明けの医者は帰します」ではなくて「夜勤そのものをやめます」かもしれませんよ。実際に「救急指定の返上」をする病院はこの“解決策”をとっているわけです。
 ところで、ふだんから「救急車の“たらい回し”」と盛んに報道しているのは、マスコミでは?
 「すべては医療界の問題」とすることで「おれは悪くないもんね」と言っている姿は、醜いものです(「神話崩壊後の信者たち」に書いた『「僕のお父さんは東電の社員です」 ──小中学生たちの白熱議論! 3・11と働くことの意味』を読んだときと同じ感想です)。片一方では「救急車の“たらい回し”は許さない」と主張することで「医者はもっと熱心に夜勤をしろ」と社会的な圧力をかけ、もう片方では「夜勤明けの手術の質の低下は許さない」と「医者は夜勤明けの手術はするな」と言い、でも(書いていないけれど)「日常的な手術の質量を落とすことは許さない」は“当然の前提”とし、それで生じる矛盾(夜勤明けの医者を帰したら昼の手術チームが成立しなくなる、あるいは病棟が空になる)については「その解決は医療界の急務」と軽くすまして「社会の木鐸」の機能を果たしているつもりなのですから。

 しかし……一昨日書いた「若い頃の話」でも同じことを感じましたが、「社会問題についてマスコミ人が何かを社会に発信する」場合、せめて「データを調べる」か「現場で取材する」か、をして欲しいものです。自分の心の中をのぞきこむだけで手軽にすませるのではなくて。

 「データ」だったらたとえばこんなのがあります。
・18時間連続で起きていた場合、多くの作業における心的・肉体的パフォーマンスは、あたかもアルコールの血中濃度が0.05%である人(=ほろ酔い状態の人)と同程度の影響を受けるとされる。
・作業者が23時間連続で起き続けた後に行なう作業は、アルコールの血中濃度が0.12%ある人(酩酊状態の人)と同程度にひどいものとなる。

 出典『保守事故 ──ヒューマンエラーの未然防止のマネジメント』(ジェームズ・リーズン、アラン・ホッブズ 著、 高野研一 監訳、 佐相邦英・弘津祐子・上野彰 訳、 日科技連、2005年、3200円(税別))
(参考までに、日本酒1〜2合でほろ酔い(アルコール血中濃度が0.05~0.10%)、3合で酩酊初期(あるいは軽度酩酊)(アルコール血中濃度が0.11~0.15%)になれます)

 「取材」だったら、新聞社の記者ならお得意でしょ?  東京なら救急病院はいくらでもあるはず。そのどこかの救急室の隅っこに立っているだけでも「現場の雰囲気」はある程度わかるはずです。ただ「一晩徹夜で取材しました。どうだ、すごいだろう」では意味がありません。最低、朝から次の日の夜まで連続40時間くらい立ち続けてください。これだったら、「当直」と称する「夜勤」を間に挟んで連続勤務をする救急担当医の疲労度の100分の1くらいは実感できるんじゃないかな。ついでですが、この場合の新聞記者の体験は「一夜漬け」ですが、救急医はそれが「日常」だということもお忘れなく。1回や2回やった程度では、ちっともすごくありませんよ。


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2012.02.10 18:26 |  医療制度 / 行政  |  おかだ  | 推薦数 : 2

特級の医者

宮城「民間投資促進」岩手「保健・医療・福祉」復興特区認定」(河北新報)
岩手県の保健・医療・福祉特区は、病院や介護老人福祉施設の医師ら医療従事者の配置基準を緩和し、被災地の医療体制の確保を目指す。
とあります。「医者が足りない」→「配置基準を満たせないから、病院を開けない」→「被災地の医療体制が不十分なまま」、を解決するために真ん中の「基準」の方を変えて病院などを開けるようにする。つまりは「x床の病院にはy人の医者が配置されていなければならない」という規則があるとして、「医者がy/2人しかいないからx床の病院が開設できない(するとしたらx/2床)」というところを特例で「たとえy/2人の医者でもx床の病院を開設して良い」ということにする = 「少ない医者を限度を超えてこき使うことを公認する」ということです?
 私は若い頃に最大30人の入院患者を主治医として担当したことがありますが、これは私の「限界」を越えていました。いや、ふだんの日常業務だったら問題はありません。時間はかかりますが、カルテを参照しながら仕事をすればいい。問題は緊急時です。すべての患者の病状・全身状態・アレルギー歴・既往歴・家族関係・現在の治療方針・最新の検査データ、などが頭に入っているだけではなくて、瞬時にそれらが頭からするする出てきて体を動かしてくれないと最善の緊急時対応になりませんが、30人だとそこに自信がなかったのです。そして、そういう思いを持つことだけでもストレスでした。
 現在は主治医として担当しているのは二十数人ですが、加齢によって私の能力は目減りしていますからぎりぎりの所で毎日勝負している、といった感じです。
 で、上に紹介された「特区」になると、医者一人で何人患者を診ることになるんでしょうねえ。入院だけではなくて外来も検査も(外科だったら手術も)あるんでしょ?  もちろん時間外やら緊急も。私だったら一瞬で燃え尽きるか医療事故を起こして訴訟に巻き込まれるか、になりそうです。もしも私に向かって「きちんと仕事をしろ」と言われるのでしたら、「どの程度までならきちんと仕事ができるか」の“限界”の見極めもしておいた方が良いと思いますよ。もちろん医者のためではなくて患者さんのためにね。「特区の医者」は私よりはるかに優秀で体力抜群な人ばかりで、楽々と仕事をするのかもしれませんが。


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2012.02.06 18:43 |  医療制度 / 行政  |  映画 / 音楽 / 読書  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

非常に役に立たない

 大災害の時に限らず、日常生活でも人間というのはけっこう簡単に頭に血が上るものですが(簡単に頭に血が上る人がいますが)、どんな時でも冷静沈着な人もいます。これは貴重な資質と言えます。ただ、「冷静」なのではなくて「鈍いだけ」だと、結局役には立たないのですが。

 ところで「非常時に役に立たない組織」というものもあります(「時」は取った方が良い組織もあるでしょうが、話が別になるのでここでは触れません)。
 私がすぐに思いだすのは、直近の東北大震災・福島原発事故のときの日本政府の対応(もちろん阪神淡路大震災のときのもセットで)。BSEの時の英国政府の対応(もちろん日本政府のBSE(や口蹄疫など)への対応もセットで)(*1)。エイズが知られるようになってしばらくの間のアメリカ政府の対応(もちろん日本政府の対応もセットで)(*2)。「SARS」や「新型インフルエンザ」の時の日本政府の対応。

 以上の“サンプル”から“一般解”を導くと「官僚組織は非常時には役に立たない」となりそうです。
 どうしてこんなに政府や官僚組織というのは「非常時」には役に立たないのでしょう。それも日本だけではなさそうなので、「官僚組織」に関してグルーバルな視点から何らかの“一般解”がありそうです。
 ここで「どうして官僚(組織)の動きはお粗末なのか」を考えるときに、大まかに二つの着眼点があります。ひとつは「官僚(個人)がアホだからきちんとした対応ができない」と「個人」に注目する。もう一つは「組織そのものが内包する弱点ゆえに、どんなに優秀な人間を集めても、組織としての対応がきちんとできない」という「組織」に注目する考え方。
 そこをもう少し深く、「どうして非常時に組織の動きはお粗末なのか(お粗末な動きしかできない組織があるのか)」を追究した本があります。『エイズ・ディザースター』というタイトルですが、副題が「ニューヨーク市と国の失策」とそのものずばりです(*3)。
 この本では「組織」は「不完全な道具である」と定義されています。そして「組織は多くの時間をかけても、正当な目的を達成することができないが、その目的はかならず明快で合理的な言葉で述べられているので、人はそれにまどわされる。」と辛辣なことばが並んでいます。いや、これはアメリカについて述べた本ですよね。
 ただし「すべての組織」が「不完全な道具」ではありません。「きちんと機能する道具」もあります。では「不完全な道具」の不完全さはどこからくるのでしょう。
 『エイズ・ディザースター』ではいくつかの要素が指摘されています。たとえば「その組織の目標がゆるやかにしか定義されていない」「個人のイデオロギーや信念を無視できない」「みんなが心から同意した目標から組織をそらしてしまうような偶然、事件とか、予期せぬ相互作用がたくさんある」。
 この本によると、「平時だったら、なんとかボロを出さずにやっていけるだけの組織」は最初から「不完全な道具」にすぎない、ということのようです。だけど、平時に「とても上手く機能している行政組織」でさえ、「縦割り行政」であちこちに「すきま」や「溝」があるわけ(みなさん、これはよくご存じですよね)。まして“非常時”には、見慣れた風景は破壊され、要するに廃墟が一面に広がっているわけです。「縦割り行政」が上手く機能できるスペース(日常)は「非常時」には非常に少なくなっているのです。つまり「縦割り行政」そのものが「非常時には役に立たないように制度設計をしてみました」という主張なのでしょう。

*1)『死の病原体プリオン』リチャード・ローズ 著、 桃井健司・網屋慎哉 訳、 草思社、1998年(2001年16刷)、1900円(税別)
 「真犯人はイギリス大蔵省だ」というヒュー・フレイザー博士のことばがこの本にあります。BSEが初めて発見されたときに、適切な補償を出したり流通を禁止した汚染飼料を買い上げたりしておけば大きな問題にならなかったのに、禁止令だけ出して監視も罰則もなしですませたものだから、結局汚染飼料は流通し続け、BSEは拡大した、と。

*2)『そしてエイズは蔓延した(上)』ランディ・シルツ 著、 曽田能宗 訳、 草思社、1991年、2854円(税込み)
 『そしてエイズは蔓延した(下)』ランディ・シルツ 著、 曽田能宗 訳、 草思社、1991年、2854円(税込み)
*3)『エイズ・ディザースター ──ニューヨーク市と国の失策』チャールズ・ペロー 著、 浜谷喜美子 訳、 石川寛俊・松下一成 監訳、 1994年、2548円


 ならばどうすればいいか。まずは「自分たちの組織が不完全である」ことをふだんから前提にすること。つまり「官僚組織は“不完全な道具”でしかない」と明確に認識する。その上で組織の構成員が、学ぶ意欲を持ち実際に行為として学ぶことでしょう。歴史や先人や自分たちとは違って上手く非常事態に対処している組織から、学ぶ(つまり、用心深い医者が「失敗」に備えておくように、官僚組織も「非常時」を想定して準備をしておく……「自分は失敗しない」と信じているお偉いお役人には無理かなあ……)。
 それと「不完全な道具」を使う側の「使い方」も問題となるでしょう。
 「人は間違いを犯す存在である」を前提として、医療安全を私は考えています。すると「官僚組織は不完全な道具である」を前提として、ふだんの行政と非常時の対応とを分けて考える必要がある、ということになりそうです。それは政治家の仕事?  それとも、主権者の仕事?(「お上にお任せ」と言っていたら、駄目ですよねえ)

 そうそう、こんなことばもあります。
・「自分が理解もしていないことでなんらかの決定をしなければならないときには、自分の良心に恥じないようにすべきだ」(アラン・ディッキンソンのことば)(出典は(*1))
・平凡な人間でも、平凡な突き破る道が一つある。それは、自分自身の能力の限界を冷静に見極め、自分一人でなにもかもやろうとせずに他者にまかせることの重要性を認識したときに目の前に開けてくる。(出典は(*4))

*4)『十字軍物語2』塩野七生 著、 新潮社、2011年、2500円(税別)


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 原発の安全神話全盛期、反原発の立場の人たちの中には「原発事故が本当に起きるまで、お前らは『原発は安全だ』という主張を変えない気かよ」とため息をつきながら思っている人がいたのではないか、と私は想像しています。で、安全神話の信奉者で、神話が崩壊したあと、きちんと反省した人は何割くらいいるんでしょうねえ。「東電が悪い」「政府の対応が悪い」「危険性について自分をだました“専門家”が悪い」「危険性を広報しなかったマスコミが悪い」=「自分は悪くない」、と思っている人がけっこう多いのではないか、なんて想像もしてしまいます。

 「医療費亡国論」の信奉者たちについて、「医療が本当に崩壊するまで、お前らは信念を変えない気かよ」と私はため息をつきながら思っています。「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほどとれる」と同じ“政策”で、「とにかく医療費は絞れば良いんだ」と、「どのような医療が必要でそのためにどのくらいのコストが必要か」の医療設計やコスト計算を一切せずに単に「前年度比」でしか医療を考えられない人たちは、医療が崩壊したあときちんと反省するのでしょうか。「きちんと仕事をしない医者が悪い」「儲けすぎた医者が悪い」「医療を崩壊させたのはとにかく医者が悪い」「崩壊しそうだという情報をちゃんと上げない“専門家”が悪い」「コンビニ受診をしたりモンスターとなった患者が悪い」=「自分は悪くない」、「角を矯めただけだ」=「死んだ牛の方が悪い」=「自分はちっとも悪くない」、と主張するのではないか、という予感しかしません。予感というか、確信ですが。


参考(になるかもしれない)図書
「僕のお父さんは東電の社員です」 ──小中学生たちの白熱議論! 3・11と働くことの意味』毎日小学生新聞 編 + 森達也 著、現代書館、2011年、1400円(税別)
 「自分は悪くない」と言い張る人たちに、「ほんとうにみんなは無関係なのか?」というするどい問いかけをした小学生の投稿から始まった本です。多くの小学生が意外に(というと大変失礼かもしれませんが)きちんと議論をしようとしている態度を示しているのが印象的です。今の国会の体たらくよりよほどまとも。もちろん「自分はちっとも悪くない」と主張する人もいますが。

北米大停電 ──現代版南北戦争の視点』山家公雄 著、 社団法人日本電気協会新聞部、2004年、900円(税別)
 2003年8月14日北米で大停電が起きましたが、この本には、17日ニューヨークタイムズに載った投書が紹介されています。
 「俺たちニューヨーク市民の電気が、カナダから送られていたなんて誰が知っていた。五大湖のエリー湖をぐるりと回ってこちらに向かってたって? 誰が想像できた。65年と77年のニューヨーク大停電の後、二度と起こさないように手を打つと言ったのはどこのどいつだ。すっかり整備されたものと信じていたものを。専門家に言わせると、送電システムが脆弱だ、もっと投資すべきだと随分と前から警告していたそうじゃないか。……(中略)…… 政治家も右往左往、わけもわからず批判合戦し責任の擦り付け合いをしている。共和党は、民主党が環境重視を唱えるあまりインフラ整備を妨げてきた、と主張する。民主党は、共和党がエネルギー業界の利益誘導に忙しく停電対策を怠った、と言う。専門家と称する人びとも、意味不明の専門用語を駆使するが、要するに原因がわからずうろたえている……」
 ある種のことについては「国による違い」というのは、ないようです。

『十字軍物語』のシリーズ
絵で見る 十字軍物語』塩野七生 著、 ギュスターヴ・ドレ 絵、新潮社、2010年、2200円(税別)
十字軍物語1』塩野七生 著、 新潮社、2010年、2500円(税別)
十字軍物語2』塩野七生 著、 新潮社、2011年、2500円(税別)
十字軍物語3』塩野七生 著、 新潮社、2011年、3400円(税別)
 十字軍の遠征は宗教戦争であり、当然「聖職者」が大きな役割を果たしていました。「神がそれを望んでおられる」などのことばで「十字軍の必要性」「十字軍の正当性」を人々に強く説き(それに大々的に成功したのはたとえば第二次十字軍の修道士ベルナール、第五次十字軍の法王代理ペラーヨ)、出陣をしぶる王(たとえば神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ)を破門で脅したりしてまで人々を遠い異国の戦場に駆り立てた「聖職者」は、たとえ十字軍がみじめな失敗に終わってもその“責任”を問われませんでした。そもそも中世の聖職者は「権力の側」に立っていますし、「神の代理人である聖職者は無謬である」が大前提であり「聖書に照らしてみたら聖職者のことばは真実である」のは明らかなのですから、十字軍の失敗に関しては「信仰が足りなかった人間の方が悪い」となってしまったのです。実際に現場で苦労し飢え凍え血を流していたのはその(「後出しじゃんけん」で)「信仰が足りないとされた人たち」だったのですが。
 「歴史から学ぶ」ことの意味が、このシリーズからもわかります。(「日本の医療崩壊」で「十字軍における聖職者」に当たるのが「官僚とマスコミ」だと私は思っています)

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2012.02.01 06:41 |  医療制度 / 行政  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

肝心な発想の欠如

 中医協で「回復期リハビリテーション病棟」についての議論がされています。
 議論というか、御前会議というか、単なる手続きというか、はそれこそ「議論」のあるところかもしれませんが。

資料:「個別改定項目について(その2)」(厚生労働省)
47〜49ページ「回復期リハビリテーション病棟入院料の新たな評価」

 で、「回復期リハビリテーション病棟」を現在の2つからあらたに3つにランク分けしよう、というのが今回の“議題”の一つのようです。そのこと自体は別に不思議な話ではありません。腕の良いところと腕の悪いところがあったら、腕の良いところの方への支払いを多くしよう、というだけのことですから。
 問題は「腕の良さ」をどうやって“評価”するか、です。そこで「重症者を多く入院させ、それをより多く改善させるのが、よい病棟(重症者を避けて治療が楽な軽症だけをえり好みする/重症者をきちんと改善させることができない、は悪い病棟)」という「成果主義」が唱えられます。そのこと自体にも私は大きな問題は感じません。
 重要なのは、「重症者」とか「多く」のきちんとした定義です。それが「(医学的に正しい、エビデンスが存在する)まともな定義」であるかどうか。

 「重症」に関して、資料に登場するのは以下の2項目です。(資料の48ページ)
5)新規入院患者のうち3割以上が重症の患者(日常生活機能評価で10点以上の患者)であること。
6)新規入院患者のうち1割5分以上が「一般病棟用の重症度・看護必要度 に係る評価表」のA項目が1点以上の患者であること。

 「日常生活機能評価」は俗に私たちは「看護B」と呼んでいます。その内容についてはかつて「看護Bの怪」で書きました。リハビリテーションの評価に相応しいとはとても言えないシロモノですが、今回もまたそれが使われるようです。

 で「新顔」が「一般病棟用の重症度・看護必要度に係る評価表のA項目」。
 これは入院患者の「重症度」のスケールですが、それを使って「重症者を多く受け入れて、それをせっせと回復させている病棟が“良い病棟”である」としよう、というのです。これも一見ふつうの発想に見えます。「重症の患者を評価するスケールがある。だったらそれを使えばいいだろう」です。たしかにことばとしては整合性がとれています。では、その中身は?
 「一般病棟用の重症度・看護必要度に係る評価表のA項目」の内容は「創傷処置、血圧測定(一日5回以上)、時間尿測定、呼吸ケア、点滴ライン同時3本以上、心電図モニター、シリンジポンプの使用、輸血や輸液製剤の使用、専門的な治療・処置(抗悪性腫瘍剤の使用、麻薬注射薬の使用、放射線治療、免疫抑制剤の使用、昇圧剤(注射)の使用、抗不整脈剤(注射)の使用、ドレナージの管理)」の9項目です。
 ちょっと待ってよ、と私は呟きます。これはどちらかと言えば急性期病棟(あるいはそこから直接患者を受け取る亜急性期病棟)での患者の肉体の状態評価に使うものでしょう。そういった「命にかかわる状態」から離脱できた患者に対しては「回復期リハビリテーション」ができますが、離脱できていない人に対して行なうのは「急性期リハビリテーション」。たとえば、息も絶え絶えでモニターやら点滴ラインやらをつけられている人に、どんな(日常生活あるいは維持期リハビリテーションをゴールとする)「回復期リハビリテーション」を行えると思います?

 突然ですが、これまでの話は一時横に置きます。一見別の話が始まりますが、ついてきてくださいね。

 日本で「医学」の主流は「治療医学」です。疾病が存在していたらその疾病に対して治療をする(その結果患者は治る(治らない))という発想に基づく医学です。わかりやすいですね。
 しかし、その治療医学とは別の視点から世界を眺める医学もあります。たとえば「予防医学」。たとえば「社会医学」。たとえば「緩和医療」。たとえば「リハビリテーション医学」。いずれも「治療」が最優先課題ではなく「治癒」が最終目標ではないものばかりです。
 そういった「治療医学ではない医学」がこの世に存在することが許せない人がいるように私には思えます。「治療医学の論理ですべてを律してやる」と主張しているように見える、たとえば「回復期リハビリテーション病棟の“レベル”を、治療医学の基準で決定する人」。

 「リハビリテーション病棟」の制度を決めるのに、そこに「治療医学」の発想しか持ち込めない、というのには、うら寂しい気分です。リハビリテーション医学はリハビリテーション医学の発想で動くべきではありません?

 「回復期リハビリテーション」と一言で言っても、脳卒中後遺症・整形外科(大腿骨の骨折手術後など)・廃用症候群・心臓・呼吸器など、簡単にまとめることはできません。その中でたとえば、脳卒中後遺症のリハビリテーションに重点を置くなら、「SIAS(Stroke Impairment Assessment Set(脳卒中機能障害評価法))」、あるいは最近評価が高まっていると評判の「HUI3(Health Utilities Index Mark3)」といった“評価基準”を用いる手があります。共通しているのは、どちらも治療医学ではなくて「リハビリテーション医学の視点」を持った評価法であることです。
 もちろん現在広く使われている(もとの疾患にかかわらず「回復期リハビリテーション」全般で用いることができる)「FIM」(機能的自立度評価法(Functional Independence Measure))も使うことができます。
 FIMの場合、リハビリテーション医学の見地から「重症の人」は「FIM点数の低い人」となります(最低(どの項目もすべて全介助)が18点、満点(すべての項目が自立)が126点)。そしてその人がリハビリテーションによって機能が回復していくと「FIM点数が伸びる」という形で表現できます。つまり「重症ほど点数が低い、リハビリの観点からの“症状”が軽快していけば点数は上がる」と、とってもわかりやすいものです(小学校のテストの点数と同じ扱いができるわけですから。「テストの点」だったら小学生でも理解できますよね?)。もちろん歩行やADL(日常生活動作)などの18項目を規定通りにきちんと判定するのは手間ではありますが、FIMの判定さえきちんとできないところが「われわれは、いちりゅうのかいふくきりはびりびょうとうだ」なんて名乗ったら笑止千万でしょう。
 それが今回の中医協の“議論”では、「息も絶え絶えであっぷあっぷしているかどうか」が「リハビリの観点からの重症の定義である」だってさ。こちらも笑止千万。

 「リハビリテーション医学の領域での“重症度”」は「リハビリテーション医学の視点を持った評価法」でないと、正しい「リハビリテーション医学的判断」ができないのではないです?  それとも、「小学校の教師の評価法」で大学の教師を、あるいは「大学教師の評価法」で小学校の教師を評価するのが、皆さん、お好きなんです?  まあ、他人の好みをとやかく言いたくはありませんが、「個人の好み」を主張するのは趣味の領域に留めて置いて欲しいものだ、とも思います。最低限「医学には何種類もある」ことさえ知らない(「治療医学」の発想しか持たない)人間に「医学に関する政策決定」をして欲しくはありません。

 言いたいことはこれで大体言いましたが、オマケを一つ。
 ついでですが、人員配置についてもこの資料では不思議な主張が行なわれています。
 回復期リハビリテーションで重要なスタッフは、もちろんリハビリテーションの療法士ですが、病棟のスタッフ(看護や介護など)もまた「回復期リハビリテーション」では重要な役割を果たしています。回復期リハビリテーションがその回復目標の一つとして「日常生活」を念頭に置いていることを思えば、その役割の大切さが理解できるでしょう。トイレに行ったり食事をしたり着替えたり、日常生活の動作すべてがリハビリとなるのです。ですから「高度なリハビリテーションを行なうリハビリテーション病院」にするために増やすべきはリハビリテーションに関与するすべてのスタッフの質と量です。(たとえば「医者さえ増やせば医療の質が上がる」というのは、治療医学の、それも前世紀の治療医学の発想でしかありません。もちろん「医者さえ配置したらあとはなんとかなる」信者はまだ日本のあちこちに残っていますが、私は「時代遅れ/現実離れ」と呼んでさしあげます。)  その点で、この資料にある人員配置は、「本当にリハビリを本気でやる気があるのか?」と言いたくなる配置基準です。

 もう少し「医学」に詳しい人が、医学に関する案を練った方が良いんじゃないですかねえ。もう少し「リハビリテーション医学」に詳しい人が、リハビリテーション医学に関する案を練った方が良いんじゃないですかねえ。治療医学の発想から抜けられない人は、リハビリなんぞに口を出さないで、治療医学のことだけ論じていてくださいな。

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2012.01.27 12:07 |  医療制度 / 行政  |  おかだ  | 推薦数 : 1

今日は金曜日

厚労省、「金曜入院」などの割合が高い病院が受け取る入院基本料を減額する方針」(FNN)
 「「金曜日」や「土曜日」に入院した患者の平均入院日数は16日を上回り、最も短い水曜日の入院患者より、3日余り長い」ことが問題で「「金曜入院」や「月曜退院」などの割合が高い病院について、病院側が受け取る入院基本料を減額する方針」、ということは、休日の前夜に救急車を多く受ける病院は“罰”をくらう、ということなんですね。おやおや。(ところで、金曜日と土曜日に救急車の出動回数が多いこと、みなさんご存じです?)
 私が勤務する病院では、入院に関しては他の病院と紹介・逆紹介が多いのですが、病院からの入院を受ける場合「金曜入院だとこちらがワルイ病院になるから」と月曜に入院を受けることにしたら、今度は紹介元の病院が「ワルイ病院」とされてしまうんですね。その逆も真。おやおや。

 なんというか、厚労省のお役人というのはお暇なんだなあ、というのが私の素直な感想です。障子の桟をすっと指で撫でて回って埃がつくかどうかを調べてお嫁さんを責める口実を必死に探しているお姑さんではあるまいに、細かい数字をちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこいじくり回して喜んでいる。そんなに暇なら、せめて現場の手伝いをしてくれません?
 この「方針」が「現実」になったら、私の予想では、月曜退院ががくんと減ってそれが火曜にシフトする(つまりさらに入院日数が伸びる)ことになるでしょう。で、厚労省は来年度は「火曜退院」をターゲットにして、そうするとこんどは水曜退院が増えて……あら、最終的にはどの曜日に退院させても入院基本料は減額になっちゃうんですね。なるほど、それが厚労省の真の狙いか。おやおや。
 私が思いつく「解決策」は単純です。人を増やして、土日も現在の平日と同じ診療体制が病院で組めるようにする。そうすれば厚労省が主張する「休日の無駄」なんかあっさり消滅です。どうせ厚労省が思いつくのは「診療の質量を上げて結果として入院日数が短縮される(コストを投入して、あとからその元を取る)」ではなくて「今と同じ人数で、休日にも平日と同じ診療体制を取らない病院は罰する(コストをケチって、罰で人を動かそうとする)」でしょうけれど。おやおや。

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2012.01.09 07:07 |  医療制度 / 行政  |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 3

明細書

 私が子供時代には「たまの日曜に一家でデパートに出かけること」が特別なイベントでした。別に買い物をするわけではありません。当時のデパートの屋上は子供の遊園地となっていて、十円玉を入れるゲーム機(電子ゲームなどではありません。レトロで素朴なアナログ器機)や乗物(メリーゴーラウンドやティーカップ、ミニ列車など)が狭い空間にぎっしりと私たちを待っていてくれました。で、しばらく遊んで、大食堂でお子様ランチとかプリン・ア・ラ・モードか何か“特別なもの”を食べて、最上階のおもちゃ売り場をぐるぐる回って(おもちゃを買ってもらえるのは、クリスマスか誕生日だけ、と心得ていましたから「買って買って〜(じたばた)」モードには入りません)、それから階段を下まで降りていくころには(当時は、エスカレーターは上りしか設置されていませんでした)こちらはそろそろお疲れモード。で、ふつうはそこでバスに乗って帰るのですが、たまに親父が「タクシーで帰ろうか」と言ってくれたら、これはもう「なんて贅沢な!」モードに突入です。
 「神風タクシー」とか「乗車拒否」といったことばをいまふっと思い出しましたが、貧乏サラリーマンの倅にとっては「乗用車に乗ること」自体が特別な行為だったのです。で、料金を支払うとき、親父はお釣りはもらっていましたが、領収書はもらっていませんでした。
 今のタクシーでは「領収書の発行」は普通のことになりましたが、当時は「領収書はない」ことが普通でした。もっともそれはタクシーだけの特殊事情ではなくて、そのへんの商店でも(もちろん開業医でも)「領収書? 何それ?」が普通だったのですが。その分、家計簿をつけるのは真剣でしたね。すべてを記憶しておいて帰宅後に記録し、算盤で最後の1円まできっちり合わせなければいけないのですから(ですから「子供のお使い」でも一円単位で何をどれだけ買ったかを報告していました)。
 現在では、医療機関でも領収書を発行するのは当たり前となっています。これは医療機関だけの特殊事情ではなくて、社会全体が領収書を発行することが当たり前になっていることの反映と私は捉えています。ところで……内容を詳しく書いた明細書は「社会の常識」でしたっけ?  たとえばタクシーに乗って「明細書を」と言ったら「○時○分どこそこで乗車。どこそこ経由。主な地点の通過時間。降車地点と降車時間」が明記された書類がさっと出てくる、ということが“常識”?  もしそんなものが常に必要になるのだったら、それはどんなタクシーが走っている社会なんでしょう?  今の段階だったら、「我が社の運転手は全員常に経路や料金を誤魔化そうとしている」と経営者が考えているタクシー会社かな?

 

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2011.12.29 18:53 |  医療制度 / 行政  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

消費税の優遇税制

 零細医療機関の簡略申告を「優遇されている」と目の敵にする人たちが、零細事業者の消費税益税を問題にしてこなかったのは、不思議です。というか、益税というシステムを作らなければならなかった一番大きな本当の理由は、何なんでしょうねえ。
 ところで、消費税に関して医療機関は損税(問屋に消費税込みで支払うが、健康保険の診療報酬単価には消費税を加算できない)だから、この不自然な税制で「優遇」されているのは、最終“消費”者?

 

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2011.12.28 18:44 |  医療制度 / 行政  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

お手当の使い道

子ども手当 2割が家賃などに」(NHK)

>>「子ども手当」の使いみちについて、厚生労働省が調べたところ、直接、子どもには関わりのない家のローンの返済や家賃の支払いに使ったという回答が全体の2割を占めていたことが分かりました。
>>厚生労働省は「子どもを社会全体で育てるための手当なので、できるだけ子どもに関することに使ってもらいたい」と話しています。


 「厚生労働省」が話すことができる、というのはオドロキでしたが(どこに口があるんだろ?)、まあそれはともかく……
 「“子ども”手当なんだから、子供のためにだけ使え」というのは一見正論ですが、私から見たらただの言葉遊びです。だったらお役人は天下り先にはパラシュートで出勤するの?と。選挙の時の落下傘候補もね。まあそこまで“真顔で反論”せずに、「ローンや家賃も子供のためと言える」と主張する人が多いのではないか、とは思います。用途が厳しく制限される「予算制度」や「ひも付き補助金」に慣れきった人には、せっかく支給してやった金を個人が好きに使う、という状況は理解不能かも知れませんが。

 もしも政治家や官僚が本気で「社会で子供を育てる」気なら、個人に金をばらまくのではなくて、「社会」に対して支出する方が有効でしょう。たとえば、小児の予防接種の公費負担制度の拡充や、保育園や幼稚園の充実、産休や育休を取りやすい企業に何らかの優遇、などにお金をきちんと使ったら良いのではないでしょうか。小児医療(特に小児救急)の崩壊を防ぐために(受診料の無料化などではなくて)医療を供給する側にも視線を向けた制度設計も。そういったことは手間と金がかかるし票は買えませんが、少なくともその分社会は良くなる(少しでも子供が育てやすい社会になっていく)と思いますよ。「お役人に対してもの申す人」なんて存在が念頭にない人の脳にはこういったことばは届かないでしょうけれど。


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2011.12.23 18:15 |  診療  |  医療制度 / 行政  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

無資格医療行為

 20世紀のいつ頃だったかな、「CT恐喝」とでも呼びたくなる事件がありました。夜中に「頭が異常に痛い」とか言って小さめの脳外科病院を受診、CTを緊急で撮ってくれ、と求める人がいます。で、機械のスイッチを、レントゲン技師や医者ではない人間(たとえば看護師)が押したのを確認したら「無資格者に放射線装置を扱わせたな」と言って「黙っていて欲しかったら金を寄こせ」とすごむ手口でした。夜間は放射線技師が不在である確率が高い小さめのところを狙うのが、キモだったようです。でも結局逮捕されちゃいましたが(だから報道されたのです)。
 私自身、技師がいない環境で仕事をしているときには、「レントゲン装置のスイッチを押してくれ」とレントゲン室に案内されたことが何度もあります。私の場合は「国家資格」がありますから法的には何の問題もないので、すべてのセッティングがすんだ状況で、最後のスイッチだけをぐいっと押していました。

救急隊員独断で気管挿管、搬送患者が死亡」(読売新聞)
 まるで「救急隊員が独断で挿管したから患者が死亡した」みたいな見出しのつけ方ですが、「状態がとても悪い(と救急隊員が判断した)患者に、救急隊員が(法で定められている医師の指示なしで)独断で挿管をして、ちゃんとはいっているか確認ができなかったので抜管をしたら、最終的に患者は死亡した」が真相ですよね。なんでこんなに人に誤解を強いるような見出しにするかねえ。読売新聞って、救急隊員にも悪意をもっているの?  ここで問題なのは「独断」と「報告をしなかったこと」ですから私が見出しをつけたら「救急隊員が独断で気管挿管、報告せず」になります。もちろん「挿管で気管に傷がついたりして、それが原因で患者は死亡した」のだったら「救急隊員の気管挿管で搬送患者が死亡」になりますが。さらに言うなら、もしも挿管以前にマスク管理もちゃんとできなかった、だともっと刺激的な見出しにすることが可能です。
 「独断」はまずい、しかし、手をこまねいて「指示待ち」だったら患者が今にも死にそう、という緊急事態は当然これからもあるわけです。だったら、自動挿管装置を開発したらどうでしょう。で、機械のセッティングは誰がやっても良いけれど、最後の「スイッチ」だけは医者が押す、とする。救急車の中だったら、「ハイテク」で遠隔地から医者が状況を見守っていて、頃や良し、となれば医者自身がスイッチをぐいっと。これだったら「医者が挿管をした」ことになりません?


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