「鳥インフル研究意義 リスク上回る」(NHK)
アメリカ政府は「テロに悪用されるおそれ」があるから「毒性の強い鳥インフルエンザウイルスの研究」に関して詳しい論文の発表を止めるように求めていて、それに対して日本の河岡教授が“反論”を発表したそうです。
だけどこれはおそらく議論がかみ合わないでしょう。片方は「科学」(情報公開とプライオリティが当たり前)ですが、片方は「軍事」(軍事機密が当たり前)ですから。
で、「科学者」と「軍人」がまともに喧嘩をしたらふつう軍人が勝ちます。政治が絡む場合には、政治を巻き込めた方が勝ちますが、この場合には最初から政治は軍の側に立っているようですね(というか、アメリカの政治はどんな場合でも「軍」フィルターを通して見たらわかりやすい、と思うこともあります)。
ただしアメリカ軍には不本意でしょうが、「科学」は「アメリカの科学」だけではないので、この場合にはどこまでアメリカのコントロールが可能なのでしょう。アメリカの本音が「詳しい情報はすべて『アメリカの軍事機密』にしたい」だったら、最初からそれは無理な気もしますが。
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今世紀はじめに『解體新書』をネタに論文を書こうとしたとき、私はまず古書を探しました。インターネット上に古書店をまとめたサイトがあったのでそこで検索をかけて目的の本を手に入れようと思ったのです。ところがふと思いついて、大学などの図書館を集めたサイトで検索をしてみると、ごく少数の大学ではありましたが、古典をデジタル化し、ネットからそれを“読む”ことができるようにしていてくれるところがすでに当時からありました。
これはとても嬉しかったなあ。解像度の関係で図版の細かいところがよくわからず、結局古書も必要ではありましたが、とりあえずの役には立ちますから。何より“ページ”をめくっても本を傷める心配がないのが助かります。
書誌情報:『医学の古典をインターネットで読もう』諏訪邦夫 著、 内外医学社、2011年、3800円(税別)
「プロジェクト・グーテンベルク」という「著作権の切れた文献をネットで無料で読めるようにしよう」という非常にありがたいプロジェクトがありますが、本書ではそれだけではなくて、様々なネットやサイトで読める「医学の古典」を実際にたくさん読んだ上で、その内容紹介と感想が書かれています。
どれも面白いのですが、私が特に楽しんだのは「フォルスマンの心臓カテーテルの論文」です。ヴェルナー・フォルスマンが史上初めて人間の心臓に血管カテーテルを到達させたときの逸話は、大学の授業で聞いて静かな興奮を覚えました(自分で自分の静脈にカテーテルを入れてその先端を心臓に到達させ、そのまま歩いてレントゲンを撮りに行った、という話の衝撃だけではなくて、それをとても楽しそうに話してくれた教師の語り口もまた印象に残っています(教師の顔や名前は忘れてしまったが語り口だけは残っている、と言ったらまるでチェシャ猫ですね))。改めて本書で原論文の翻訳を読んで、その“生”の迫力に打たれました。
ときは1929年。心疾患による急性虚脱や麻酔事故などでの急変時に、薬物を急いで心臓に投与したい場合があります。当時は胸壁を通して心内投与(つまり長い注射針を胸の上から心臓にぶすり)がありましたが、冠動脈の損傷・心タンポナーデ・気胸などのリスクが大でした。フォルスマン(25歳、医師国家試験に通ったばかりの研修医)は、静脈にカテーテルを挿入して心臓に直接薬物を投与する手があるのではないか、と思いつきます。ただし、当時の“常識”では、心臓に異物を入れるのはとんでもないことでした。たしかにうっかり刺激伝導系をさわってしまったら不整脈、最悪、心臓が止まってしまうことも考えられます。しかしフォルスマンはやっちゃうんですねえ。まずは人間の死体を使って本当にカテーテル(使ったのは尿管カテーテルでした)が腕の静脈から右心房まで届くかどうかを確認します。次が自分自身での人体実験です。自分で自分の静脈切開をしてカテーテルを挿入、65cm入ったところで塩化カルシウムを注入して「温かい感じ」を味わい、レントゲンで透視をして先端を確認、証拠を残すために一階上のレントゲン室に移動して写真を撮っています(その写真が論文に添付されています。)。いや、確かにカテーテルの先端が右心房に入っていますわ。すごいすごい。(なおレントゲン室には、ウィキペディアには「階段を降りて行き」とありますが、本書には「階段を登って移動」とあります)
ところがこの論文が、外科教授ザウエルブルッフ(開胸手術を初めて成功させた人)の逆鱗に触れたらしく、フォルスマンのベルリン大学での外科修行はそこで終了、結局泌尿器科医になって開業、地味な町医者をやっていましたが、1956年にノーベル賞です。開業医がノーベル賞、というのは相当珍しいことではありませんか? でも、授業ではここまでは習いませんでした。
論文はドイツ語で、冒頭部分が載せられていますが、タイトルの「DIE SOUNDIERUNG DES RECHTEN HERTZENS」のあとは私のドイツ語の力では歯が立ちませんでした。これをしっかり読んだ著者には脱帽です。
全35編、中には「これは医学ではなくて科学だろう」と言いたくなる論文もありますが(「フックのマイクログラフィア」とか「クラークのpH」とか「テスラの業績」とか)、これらもまたかつての医学が哲学と結合していた時代から「科学の領域」へ移行した歴史を示す、と考えたら「医学の古典」と言ってもあながち間違いではない、と思えます。こういった「古典」がネット環境さえあればふつうに読めるとは、良い時代になりました。入力してくれる人たちに、感謝。
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「ひざの半月板、再生治療法を開発 東京医科歯科大」(朝日新聞)
素晴らしいニュースだと思います。ただ朝日新聞は医学に関しては、「革新的な治療法」「画期的な新薬が登場」などと一面で大騒ぎで持ち上げられるだけ持ち上げておいて、記事の中身をよくよく読んだら「研究が始まった」「日本での発売はまだ」だった、などということがこれまでに何回もあったので眉に唾をつけるべきですが……今回の記事でも「来年4月にも始まる臨床研究」(紙面)「同大で3年間で20人ほどの患者を対象に臨床研究を行ったあと、他の病院にも広げて臨床試験(治験)を行う」(画面)ですから、「全国2500万人の患者」のみなさんは東京医科歯科大学や近くの整形外科に駆けつけたり電話をするのはまだまだ待った方がよいです。
ところで記事には「全国2500万人の患者に朗報」と無邪気に書いてありますが、「医療費亡国論」の人たちにとってこの「朗報」は「凶報」ですね。これでまた医療費が増えますから。それも下手したら2500万人分、ドン、と。どうします? 「これ以上新しい治療法を開発するべきではない」とネガティブキャンペーンを始めますか?
「診療報酬=医者の報酬」論者には朗報でも凶報でもないですね。だけどこの治療法が健康保険に入ったら「凶報」になってしまいます。健康保険の支出総額が増えますから。「全国の患者2500万人に朗報の新治療法は、健康保険ではなくて自費でやるべきだ」キャンペーンでも今から準備しますか?
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三歳児のときまでの食生活が、その後のIQに影響を与える、という研究結果があるそうです。(「幼児期の加工食品摂取がその後のIQに影響」(MTPro))
特にIQに悪い影響を与えるのが「加工食品過多」で、「果物,野菜,米,パスタを中心とした「健康的食生活」」は子供のIQに良い影響を与える、という、自然食品の信奉者や業者には泣いて喜ばれるかもしれないデータとなっています。
ただ、この研究で気をつけなければならないのは子供のIQを判定した「(三歳までの食生活の)その後」が「8歳半」であることです。ここのデータで“確定”としてよいのかなあ。だって日本には「十で神童、十五で天才、二十歳過ぎたらただの人」ということばもあるでしょ?
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「「胃ろう」 生活の質低下も」(NHK)
「全国の特別養護老人ホームなどおよそ1100の施設で、入所中に「胃ろう」を付けたおよそ4000人について、栄養状態は「よくなった」が、ベットを離れて活動している時間は「減った」・「会話などのコミュニケーション能力」も「悪くなった」、と生活の質は低下しているケースが目立ちました。」だそうです。
胃瘻(PEG)がある人はベッドに引きこもりがちになる、だから栄養補給はうまくいっても活動性などは落ちる、という主張のニュースなのでしょう。
だから「生活の質を低下させないために、施設(に限らず介護保険)での維持期リハビリテーションがもっと必要」というだったらわかります。あるいはこの結果を論拠に「何が何でも胃ろう、で良いのか?(決して本人のためになっていない)」と主張する人が登場するのもまたあり得ることだと思います(実際に私も「何が何でも、で本当によいのか?」という疑問は抱えていますので)。
ただ、このニュース、大事な前提を無視していません?
“その人”に「胃ろう」が必要だったということは、その人は「胃ろうをつけなければ食事が入らなくて死んでしまう」、つまりこのニュースで問われている「生活の質」以前に「生命の質」の問題があったわけです。「胃ろうをつけたからQOL(生活の質)が低下した」の前に、まず「QOL(生命の質)が低下したから胃ろうをつけた」わけ。そして、生命の質が低下した人は、当然生活の質も低下しません? で、そういった人が胃ろうをつけた後に生活の質が低下する“主犯”は、「胃ろう」でしょうか?
同じ程度の嚥下障害を持つ老人の集団を3つ設定して、一つは「胃ろう」、一つは「経鼻経管栄養」、もう一つは「何も特別な処置をしない」でそれぞれの集団の生命予後と生活の質がどうなるか、を比較検討しないと、こういった研究は意味がないのではないか、と私には思えます。最低限、ランダム化と比較対照は必要でしょ? 上記のニュースでは、母集団には明らかに偏りがあり、さらに結果がどこの何とも比較されていません。これでは、印象論で何かを適当に語ることは可能ですが、EBM的には何らかの真っ当な判断は困難です。
ちなみに上記の集団の3つめは、餓死するか誤嚥で窒息するか誤嚥性肺炎を起こすか、が考えられますので、倫理的にこのような研究が許されるかどうか、はわかりません。ただ、全員が死んでしまったり肺炎の治療で研究からドロップアウトしてしまったら、「その集団で生活の質が低下した人はゼロ」にはなりますね。
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「死語(93)盲腸を散らす」で取り上げた話題ですが、「本当に急性虫垂炎は内服薬で治療できないのか」という研究結果が発表されたそうです。
「急性虫垂炎に対する抗菌薬治療 手術に対する非劣性示されず」(MTPro)
合併症のない急性虫垂炎患者を二つのグループに分けて、一つのグループが抗菌薬を8〜15日投与される「抗菌薬群」、もう一つが緊急虫垂切除を受ける「手術群」として、1ヶ月以内に腹膜炎が起きるかどうか、でその有効性を比較検討、というものです。結果としては、腹膜炎が起きる率が、抗菌薬群で8%/手術群で2%、抗菌薬群の12%が30日以内に・29%が1ヶ月後〜1年以内に結局手術を受けることになった、ということで、結論としては、「合併症のない急性虫垂炎に対しては、手術がゴールドスタンダードである」となっています。
ただ、逆からの「患者の半数以上は手術なしで治療できた」という見方も紹介されています。つまり、「本来は手術なしで治った(薬で“散らす”ことができた)はずの人にまで、手術をしている」と言うことも可能なわけです。また、手術群でも2%が腹膜炎を起こしたことや、術前にCTまで撮っているのにそれでも手術を開始したら腹膜炎を発見したのが18%もあった、ということからは、将来の腹膜炎どころか現在の腹膜炎についてももっと精密な検査が必要だ、と言えそうです(現在の医療技術でそれが可能かどうかはわかりませんが。とりあえず私が思いつくのは術前腹腔鏡ですが、腹腔鏡を入れたらそのまま虫垂を摘出したくなりますね。肉眼で見て「大丈夫だろう」で薬を飲んでいて結局腹膜炎になったら悔しいもの)。
あまりにポピュラーな「盲腸(急性虫垂炎)」ですが、まだまだ研究の余地はありそうです。
※学生の時「虫垂炎の死亡率は0.5〜1.0%」と習って私は吃驚しました(数字は前後しているかもしれませんが、桁は合っているはずです)。今ではそれより下がっているはずですが、それでも急性虫垂炎で死ぬことがある、というのは、知識として覚えておいて損はないでしょう。
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医学生の時、授業で「人工膵臓」の研究について聞いた覚えがあります。スライドで紹介されたのは、患者さんの枕元におかれた大型冷蔵庫くらいの装置でした。そこから血管に細いチューブが入っていて、常時血糖をモニターし、もし血糖が上昇したらその値に合わせてインスリンを注入する、という原理です。で、血糖が落ち着いたらインスリンは中止してスタンバイ。
こう書くと極めて当たり前のことで、要するに「自前の膵臓」がやっていることを機械でそのまま再現しようとしただけです。ところが、「自前の膵臓」はタラコ程度の形と大きさなのに、「機械の膵臓」は大型冷蔵庫。これではトイレにも行けなければ風呂にも入れません。
以後、マイクロチップとセンサー技術の進歩で機械はたぶん小型化できているでしょう。ただ、ネックはインスリンのタンクと電源でしょうね。たとえば生体電流が使えればいいのですが。
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冬の空気は乾燥している、とよく言います。感覚的にもたしかにお肌やのどがひどく乾く感じがします。しかしそれはあくまで感覚の話。実証的に確認してみることにしました。
でっかい鼻くそが取れたので、それをしばらく室内に放置してみました。するとみごとにぱりぱりに。同じものが鼻の穴の中にあったらねとねとなのですから、この実験からは「冬の室内の空気が乾燥していること」「鼻の穴の中は湿潤環境であること」がわかりました。それと「鼻くそは乾きやすい」ことも。
本当は夏にもやって、夏冬の比較検討をする必要がありますが、定量的に夏冬の比較ができるのかどうか、そもそも同じレベルの鼻くそが得られるかどうか、自信はありません。
なお「鼻くその乾きやすさに可逆性があるかどうか」の実験は行なっておりません。鼻の穴に戻す気にはなれなかったもので。
※このレベルの「理科実験」で楽しい本があるので、紹介しておきましょう。
『女子中学生の小さな大発見』清邦彦 編著、 新潮文庫、2002年、400円(税別)
・万歩計をつけて寝たら、朝までに12歩歩いていた。
・水温とアサリの活動を調べた。摂氏3度から動き始め、15度で活発に動き、20度で少し活動が鈍くなり、73度でパカッと音を立てて開いた。
・プールで息を吐くとどんどん沈んでいく。
・一緒に寝るとイヌも寝言を言った。
・アユの解剖をしたら、美味しかった。
こんな楽しい「実験」が本の最初から最後までぎっしり満載ですので、科学実験を素直に楽しみたい方には強く強くお勧めします。
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ヴィクトリア時代と言えば、私がまず思い出すのは「シャーロック・ホームズ」です。アーサー・コナン・ドイルが生みだした名探偵が活躍したのはまさに19世紀ヴィクトリア時代全盛期でした。この作品群では、謎解きももちろん面白いのですが、その作品中に活写される「時代」もまた、大変面白いものとなっていますし、ホームズの大ファン(シャーロキアン)の中には、探偵の方ではなくてヴィクトリア時代の描写のファンがけっこう多く混じっているそうです。
ホームズの“相棒”ワトソン博士は軍医として(第2次)アフガン戦争への従軍経験がありますが、この時代でもっと医学的に“意味”のあるのはクリミア戦争でしょう(もちろん「ナイチンゲール」です)。もっとこの時代ならではの医学的なことを言うなら、「全身麻酔」の進歩があげられます。エーテルやクロロホルムの使用によって、手術の苦痛と危険性はずいぶん減少させることができました。
当時のロンドンでは、上流階級の居住区と貧民街が密着していました。表通りから路地一本入ったところが貧民街だったのです。そして医者もまた、上流階級の家に往診に行ったかと思うとその足で救貧院に寄って診察をする、といった感じで、「上」と「下」を自由に往来していました。ただ、医師自体の“身分”には変化が兆していました。それまでの時代では、大学出身の内科(と少数の外科)>床屋外科(薬剤師兼任)という階級制度があり、王室などでのポストを得るためには出自や縁故が重要だったのが、知識の蓄積や技術の進歩によって「実力主義」が始まっていたのです。
医学研究には、イギリスではまだプロは登場していませんでした。「医学の研究」は医者が診療の合間に「趣味」として行うものでした。イギリスでは伝統的に科学研究はアマチュア(多くは貴族)の「趣味」として行なわれましたが、それと似た感じだったのでしょうか。そして当時は顕微鏡での観察それ自体が立派な医学研究でした。
医学教育で解剖に使われる死体は公的には絞首刑となった罪人のものに限定されていましたがそれでは不足だったため、死体泥棒(墓から盗んでくる“専門職”)から買い入れられました。しかしヴィクトリア時代半ばから、救貧院の葬儀屋が主な“仕入れ先”となります(1832年制定の「解剖法」でそのことが法的に保証されました。このことがまた、貧乏人が救貧院にはいることを非常に嫌がる動機づけの一つとなります)。ただし、相変わらず死体の搬入は目立たないように作られた裏口から、でした。
こういったヴィクトリア時代に、のちに西洋で「世界で一番有名な医学書」と呼ばれる『グレイ解剖学』が誕生しました。著者はヘンリー・グレイ。しかし「実はもう一人のヘンリー(ヘンリー・ヴァンダイク・カーター)がこの本の成立には重要だった」と書かれているのが『グレイ解剖学の誕生 ──二人のヘンリーの1858年』(ルース・リチャードソン)です。
グレイは文章を書きました。そして、解剖学書の重要な部分である「画」を描いたのがカーターでした。カーターはただの画家ではなくて、医者で学生に解剖を教える講師でもありました。そして、学生がそこから何を学ぶべきかを一目見たらわかるように画にすることができる優秀な画才を有する人だったのです。優れた文章と優れた画、その両者が揃うことで、19世紀から21世紀までのロングセラーが生まれました。ただ、そこにはどろどろした人間ドラマもありました。グレイはカーターの“功績”を過小評価し「あくまで“グレイ”の解剖学書」として世に出そうとしたのです。踏みつけにされたと感じたカーターは、失意のままインドに去ります。本来なら引っ張りだこの医学画家となることも可能だったはずなのに。グレイ自身も不幸な人生となります。応募した懸賞論文は次々受賞し、有力なポストも得、素晴らしい教科書も出版し、順風満帆の人生に思えていました。しかし「グレイの解剖学」は、絶賛と同時に、とんでもなく悪い書評(オリジナリティの欠如の指摘、出典を明記しないことへの倫理的非難)も得てしまいます。そして病気がグレイを襲います。
「解剖書」はただの医学書ではありません。そこには「解剖」「医学教育」「社会」「医者」などをめぐるさまざまな「物語」が付随しています。本書はその「物語」をすくい取って読者に「ヴィクトリア時代の医学(教育)」がどのようなものだったのかを、詳しく見せてくれます。
「解剖書」に「物語」がある、という意見に賛成できない人がいるかもしれませんね。教科書は教科書だ、と。でもそういった方でも、日本の『解體新書』に『蘭学事始』という「大きな物語」が付随していることはご存じでしょう。「グレイ解剖学」でも事情は同じようなものだった、ということです。
書誌情報:『グレイ解剖学の誕生 ──二人のヘンリーの1858年』ルース・リチャードソン 著、 矢野真千子 訳、 東洋書林、2010年、3200円(税別)
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戦場では大量の死者が出ますが、実はその非常に多くの部分は、銃弾ではなくて病気や戦傷の悪化によるものです。日露戦争で日本陸軍で脚気死亡者が大量に出たことやクリミア戦争でのナイチンゲールの活動による死亡率の著明な低下がそれを如実に現していますが、戦争を起こす政府としても戦闘行為そのものによらない死者を減らすための対策は戦闘効率の面から重要でした(戦闘以外で兵隊が減るのは、予定が狂うのです)。だからこそ「軍陣医学」(*)ということばが生まれます。
*)日本の「軍陣医学」については「読書感想『感染症の中国史』」で触れています。
「チャーチルがペニシリンという薬で、肺炎で死ぬところを助かった」というニュースは日本でも報道されました(昭和19年1月27日朝日新聞)。ただしこれは“誤報”で、チャーチルは実は別の薬(ズルホン剤(英語だとサルファ剤))を使われたのですが、ともかく「あらゆる細菌に魔法のように効く薬」としてのペニシリンは戦時中の日本でも認知されました。ただし、それが実際にはどのようなものかを知ることは、海外の論文を自由に読める環境ではなかったため、日本では大変困難なことでした。
昭和18年陸軍軍医学校研究部が新設されました。そのリーダー稲垣は挨拶に行った文部省で「ドイツからの潜水艦が運んできたばかりの医学雑誌だ」と「Krinische Wochenschrift(臨床週報)」を手渡されました。その中にペニシリンについての記事があったのを読んで日本でも実用化のための研究をしようと決心した、という証言を昭和51年に聞き、著者は調査を開始します。しかし資料は散逸、関係者ですでに物故した人も多く、作業は大変だったようです。
ともかく、戦争中にドイツの雑誌が日本に到着するルートがたしかにあったことがわかります。一つは潜水艦。戦争中にヒトラーの命令でドイツから日本を目指した潜水艦が2隻ありその内の1隻は無事呉に入港していたこと、さらに日本からドイツに派遣された潜水艦が5隻あった(その内ドイツ領に到着できたのは3隻、そこから日本に帰投できたのは1隻だけ)という興味深い事実がわかります。ただし、ドイツの医学雑誌が日本にやってくるルートはまだ別にありました。(シベリア鉄道などを使う)外交官が自分の手で運ぶルートと、中立国スイス経由での郵便物です。著者は粘り強く調査し、「臨床週報」が日本の伊八潜(唯一日独を往復できた潜水艦)で運ばれたことをついに明らかにします。ただしこれは“プロローグ”でしかありません。
「ペニシリンは日本に絶対に必要だ」と強い信念をもった稲垣は軍部に働きかけますが、「それは敵の謀略にちがいない」と軍に拒絶されます。しかしそこに「チャーチルがペニシリンで……」というブエノスアイレス発の朝日の記事が。陸軍は豹変し「早く作れ。どうなっているんだ」となります。稲垣は自身が持つ広い人脈を活かし、「軍の命令」ではなくて「軍と民間の研究者が協力してペニシリン製造を実現する」ことにします。そこで「軍」とは陸海軍のことです。当時陸軍と海軍は犬猿の仲(ほとんど仮想敵扱い)でしたが、ペニシリンに関しては(おそらく稲垣の力量でしょう)協力することになります。医・薬・農・理、各分野のトップクラスの研究者が集められてテーマを決め、各研究室が競争をするように研究開発を進めました。軍医学校はコーディネート役に徹します。そのためか研究は、戦局の悪化に伴う物資不足・栄養失調・人材不足(研究者や助手が次々召集されます)・空襲などにもかかわらず超スピードで進展し、半年後にはペニシリンを産生する菌株の特定と培養条件の決定ができ、動物実験が開始されました(ここでの実験用マウスを入手するための苦労話には、涙を誘われます)。
間奏曲のように語られる、軍医学校での第一高等学校生の勤労奉仕の挿話が印象的です。自治と自由を校風とする一高生は、上の世代への反発と明らかな戦局の悪さへの苛立ちと自分自身の死の予感(召集が間近です)とに振り回されていました。稲垣は彼らに、肉体労働ではなくて外国文献の翻訳とその発表というテーマを与えます。そのために彼らは、文科理科無差別に、英・独・仏・伊・スペイン・露などのことばを学ばされました。医学文献だけではなくて、マルクス・レーニン・クレマンソー・ヒトラーなどの伝記も“文献”として翻訳の対象に選ばれています。稲垣は「敗戦後の日本」のための“種まき(世界を視野に入れることができる人材育成)”もやっていたのです。なお、この一高生たちが、実験材料であるブドウ糖や水飴などを盗み食いしていた話や、その内の一人がのちに国産ペニシリンの和名(「碧素」)の名付け親となり賞品として(当時としてはとんでもない貴重品の)羊羹一棹をもらった、という“(甘い)後日談”もあります。
多くの人間が苦労した上でやっと完成した「国産ペニシリン」は、当時の世界の水準からみて、恥ずかしくない出来でした。アメリカのように戦前から研究を始めていて、しかも大規模な工業力を持っているところには純度や製造量やパッケージのきれいさでは負けていましたが、ともかく患者に使ったらちゃんと“効く”薬剤だったのです(当時は、米英に次ぐ世界第三の生産量です)。たかが「化膿」で人があっけなく死ぬ時代が、それによって終わったのでした。
戦争中に蒔かれた“種”によって、敗戦後に日本ではペニシリンだけではなくて抗生物質研究が盛んに行なわれました。ただ、ペニシリンの時のような学界横断的なビッグプロジェクトはなかなか行なわれません。あれは稲垣の個人的力量によるものだったのでしょう。そして、そういった大切なプロジェクトが「個人」の力に頼らなければ実現できないところが、「日本というシステム」が抱える巨大な弱点だと私には思えます。
書誌情報:『碧素・日本ペニシリン物語』角田房子 著、 新潮社、1978年(81年5刷)
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