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今日もニュースネタです。
「道路建設計画作りの中心データを下方修正 国交省」
これで思い出すのは、20世紀の厚生省の「出生率大はずれ連続」(予測で出される数字は常に高めで、現実によって連続下方修正をさせられ、そのうち出生率予測自体をやらなくなった)です。分析と予測能力不足なのか、それとも無責任に「これくらいにしておこう」の数字合わせでしかなかったのかは私にはわかりませんが、お役所と予測はどうも相性が悪いようですね。そういえば日本各地での空港新設の場合の旅客需要予測も大はずれの連続ではありませんでしたっけ?
『ローマ人の物語』(塩野七生)では、ローマ人がいかにインフラ(ローマ街道、水道など)を重要視していたかがしつこくしつこく語られます(第X巻「すべての道はローマに通ず」では特に熱心に)。なにしろ重要な公共事業を達成したら、重要な会戦に勝ったのと同じ「凱旋将軍」の扱いを受けることができた、というのですから、古代ローマでインフラがいかに重要視されていたかがわかります。街道と言っても、日本人が思うものとは違って、ちょうど日本の城の石垣を幅10メートルにざっくり切って地面に横にして建設するようなものです。表面は巨石をがっちり組み合わせ、もちろんその下の基礎や水はけ工事も万全でした。それを幹線だけで8万キロも作っていたのですからそのスケールはちょっと想像できません。
ローマで道路が重視されたのはそれが軍事道路だったからです。当時の政治の最大目標は、蛮族からの安全確保と食糧確保でした。だからその両方の目的のためにしっかりした道路網が必要だったのです。当然、建設だけではなくてメインテナンスにも公費が投入されます。逆に言えば、巨額の公費を投入して建設・維持する価値に相当するものでなければ、ローマ街道は作ってはいけなかったのです(無駄遣いは国が傾きます)。街道が通らないが道が必要なところへは、もっと簡便な砂利舗装の支線が街道から分岐して出ます。それは総計7万キロだったそうです。
道の建設は派手ですが、実は維持の方が肝心です。道は作るためではなくて使うために作るのですから。そして作って使えば(あるいは使わなくても)道路は傷みます。だから(本当に必要なものだったら)使い続けるためにはメインテナンスが重要なのです。それはある意味人間の「健康の維持」に通じるものがあるでしょう。地味で目立たず長期間だらだらと続けなければなりません。そしてこの場合の『健康」は「国の健康」です。
さて、日本の政治家や官僚は、まるで甘やかされた子どものように常に新しい玩具、じゃなくて、新しい道路やトンネルや橋や新幹線の駅や空港やリニアを欲しがりますが(現在完了進行形)、これはどんな「日本国の将来を見据えての基本方針」に基づく態度なんでしょう? 「必要なもの」ではなくて「誰かがほしがるもの」を作るのは「ポピュリズム」です。さらにこの場合の「誰か」が「住民」ではなくて「政治家」「官僚」になっていたら、それはポピュリズムでさえありません。政治の私物化です。
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書誌情報:『健康不安の社会学 ──健康社会のパラドックス〔改訂版〕』上杉正幸 著、 世界思想社、2008年、2000円(税別)
「健康」に対するWHOの有名な定義は「健康とは身体的精神的社会的に良好な状態であり、それは単に疾病がない虚弱でない、というだけではない」です。ここで「健康」は「身体」だけのものではなくて「精神」と「社会」のものでもあることが高らかに宣言されていますが、定義の前半が快調だったのに後半は否定形(それも二重否定)で物語ることによって記述が腰砕けになっています。
「健康」は新しい言葉です。日本での初出は「漢洋内景説」(高野長英、1836(天保七)年)「遠西原病約論」(緒方洪庵、1837年)。それまでの「丈夫」「健やか」といった主観的な言葉に対して「健康」は西洋医学的・客観的な視点からの言葉でした。したがって江戸時代には「健康増進運動」などはありませんでした。それに一番近いのは貝原益軒の「養生訓」でしょうが、そこで重要視されたのは「自然な生」で、否定されたのは「天寿より早い死」です。すなわち「天寿」も「死」もそこでは否定されるべき存在ではありませんでした。
明治政府は、富国強兵のために「健康」を推進しました。それは衛生行政が内務省管轄であったことに現れています(したがって「取り締まり」の発想が持ち込まれています。疫病が発生した場合派遣される“主力部隊”は医者と警官です)。教育では「学制」「小学校令」「中学校令」などで学校の衛生環境・健康教育・身体育成などが定められ、産業では「工場法」によって殖産興業のために生産効率を上昇させるための環境整備が行われました。つまり明治政府にとっての「健康」は「個人の健康」ではなくて「社会が求める健康」だったのです。著者は「個人が求める健康」を「ミクロな健康」、「社会(国家)が求める健康」を「マクロな健康」と定義し、その関係を論じています。
ミクロの健康はシンプルです。「自分が健康だと思う」のなら「健康」です。しかしマクロの健康はそのような個人の主観を排したところに成立します。したがってミクロの健康とマクロの健康にはズレがあります。たとえば「自分は健康だと思っている(ミクロな健康)」人でも、人間ドックにはいったらなにか異常を指摘されるかもしれません。それは社会的には(マクロな健康の観点からは)「健康ではない」とされる状態です。すると個人は自分の主観的判断が信用できず不安になりその結果「健康への強迫」が生まれます。この場合重要なのは「マクロの健康」が「ミクロの健康」に対して優位性を持っている点です。「健康」には「お墨付き」(たとえば、健康診断書)が必要になるのです。
ミクロとマクロの関係は下記の4つに分類されます。
1)ミクロが健康/マクロが健康
2)ミクロが健康/マクロが不健康
3)ミクロが不健康/マクロが健康
4)ミクロが不健康/マクロが不健康
1)においては前出の「健康への強迫」が生まれます。2)の例として精神障害者(あるいはドックでの異常の指摘)が挙げられます。3)としては登校拒否。4)では1)の裏返しとしての「病気への強迫」が生まれますが、そこでは「もしかしたら自分は病気なのではないか」という不安が解消される、つまり、「病気」が「安心」として機能します。それもちょっと変な話なのですが。
明治政府の目標「富国強兵」は単純でわかりやすく、さらに当時の病気の主力は感染症であったためその対策もシンプルでした。ミクロとマクロにズレがあるにしても、それはマクロの健康を推進することの“正当性”によって隠蔽されやすかったのです。しかし戦後になり、政府は「目標」を見失います。「国民の健康」行政を一体何のために行えばいいのかわからなくなったのです。さらに昭和20年代後半に、感染症中心から慢性病中心に日本の疾病構造が変化しました。健康を脅かす病気は(ある意味わかりやすい)「他からもたらされる災い」から(見ることが難しい)「自分の内側に発生するもの」になったのです。
慢性病は、近代医学にとって対応が難しいものです。原因の確定は多くは困難です。そして研究が進めば進むほど「原因」の数は増え、「原因」の数が増えれば増えるほど、その「関連性」の解明は困難になっていきます(多角形の角の数が増えるにつれてどんどん対角線が増えていくようなものです)。つまり「対策」も立てにくくなったのです。できるとしたら「原因の排除」ですが、その多くは生活に深く入り込んでいるもの(たとえばアルコールや喫煙)で単純な排除は困難です。
国民の意識も変化します。1961年国民健康保険法が完全実施され、皆保険が始まりました。それによって人びとは病院を手軽に使うことができるようになりましたが、同時に自分の体(健康)への無関心も始まります。それまで日本人は生活の知恵として様々な医療を家庭生活の中で実践していました。それが医療の専門家へ依存するようになったのです。(言葉尻を捉えるようですが、病気の治療に“健康”保険を使うのは、なにか言葉がねじれていませんか? それでは健康増進には何を使うのでしょう?)
目標が不明確で対策が困難でも国は「健康」を増進し続けます。まるで終わりのないマラソンのように。まずは「早期発見・早期治療」の施策が次々施行されました。1970年代には「健康づくり」が推進されます。さらに厚生白書では、1986年に「自覚と責任」、88年には「健康づくりと生きがいづくり」が謳われ、1996年には「成人病」が「生活習慣病」に改められ、「国民生活への干渉」が順調に強化されていきました。そして2003年の「健康増進法」で、「健康の増進」は国民の法律上の責務となりました。ところがここで重要なのは「健康」の定義が法律ではされていないことです。国民は正体が明記されない「健康」を目標として追い求め続けなければならないのです。
面白いのは、1970年代に「紅茶キノコ」と「ジョギング」が大ブームとなったことでしょう。産業界はそれを見逃しません。健康産業が成立します。そこでは「健康不安」は「飯のタネ」であり、人びとの健康不安は商売のためにかき立てられ続けることになります。
「健康を求める方法」として、健康食品や健康器具だけではなくて「異常の排除」が用いられました。「健康に悪いこと」をこの世から追放しよう、という運動です。怖がる対象が明確なのが恐怖で不明確なのが不安ですから、不安に対する「対策」として「排除」が採用されるのは当然です。かつてらい病は非常にわかりやすく社会から排除されました。ところが疾病の原因などが科学的に明確になった現代社会でも、人は似たことをします。本書では堺市でのO157感染のときに「感染児童が退院してから差別された」「堺市の児童が他県のキャンプに参加を断られた」「堺市のスポーツ少年団が全国大会に出場辞退をした」例が紹介されています。
「排除の輪」は容易に広がります。「社会の不潔なゴミ」としてのホームレス襲撃や障害者差別、さらにはデブ・ハゲ・体臭などに対する排除も行われます。著者は、1970年代からの「異常の排除による健康追求」と1980年代からの「学校での細かい差違によるいじめ」とが同じ構造(キレイナモノを追い求めるためにキタナイモノを排除する)を持っていることに注目をしています。
現代日本では、人は医学に「健康増進」の機能を求めます。しかし医学の本来の機能は「疾病治療」です(でした)。そこで人は失望します。「絶対的な健康(すなわち不老不死)を現代医学はもたらしてくれない」と。そのかわりをしてくれそうなのが、TVなどで自信たっぷりに「これを食べたら健康になれる」などと語る“健康伝道者”たちなのでしょう。
それでも医者はいろんなことを言います。「これは危険だ」「これも危険だ」。しかし、医者の言うことを丸呑みしてあれもこれも自分の生活から排除するのではなくて、「自分がどう生きたいのか」のグランドデザインに従ってリスクを取捨選択するのは、各個人の“責務”ではないでしょうか。誰かに選択を丸投げするのではなくて。でないと「自分の人生を生きている」ことにならないような気が私にはします。
私の「健康」の定義をここに書いておきます。元気に生きる、そして安らかに死ぬ。「一病息災」という良い言葉がありますが、たとえ五体満足でなくてもたとえ病気持ちでも「健康な人生」を送ることは可能です。そう思わないと、宇宙の中ではあまりに弱いアシである人間なんてやってられません。
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先日『日本人とさかなの出会い』という本を読んでいたら、その冒頭に「文化」の定義として、広辞苑(初版)からの引用が載っていました。
「民族・種族など一定の人間共同体が自然または野蛮の状態のままにとどまることなく、それ自身の特定の生活理想の実現を目指して徐々に形成し来った生活の仕方とその諸表現」
『日本人とさかなの出会い』の著者の河井智康さんはこの説明、特に「生活理想の実現を目指す」という文言がお好きだそうです。ちょっとどきっとします。今の私の生活は、他人が作ってくれたものへの“ただ乗り”ではないか、自分は果たして「文化」の名前にふさわしい生き方をしているのだろうか、と自問してしまいます。
自分に自信がないから、他の人に疑問として投げかけてみましょう。
「自分の生活理想」……持ってます?
「(その理想の)実現を目指す努力とその表現」……しています?
「文化」「生活」「理想」「努力」「表現」といった言葉がせっせとお仕事をしている洗濯機の水流のようにぐるぐるぐるぐる頭の中を回り続けます。平穏な生活だったらそういったことはそのまま流してもいいのでしょうが、医療崩壊に代表される今の日本の惨状を思うと、だからこそ「文化」について意識しなくちゃいけないのではないか、と私には思えます。未来を見据えて生きていくためにはしゃんと背筋を伸ばしておく必要がありますが、そのための“背骨”として文化は有効に機能するはずです。未来は過去と現在を結んだ延長線上に位置しているはずですから。
「平成の日本文化」は、どんな文化の香りを後世に残すのでしょうねえ。「判断は後世の歴史家にまかせる」のではなくて、今ここで生きている私たちも考えなきゃいけないことのように思います。
……さて、現実に戻って、祝日ですが今日は仕事です。今から朝飯食ったら、元気に行ってきま〜す。
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最近TVの「エンタの神様」によく出てくるスリムクラブは「フランチェン」というネタをやって笑わせてくれます。お笑いコンビのはずなのに、画面に出てくるのは一人だけ、という不思議なネタですが、これはおそらく、藤子不二雄の漫画「怪物くん」に出てくる「フランケン」のもじりでしょう。顔色が悪く怪力の大男でとぼけたキャラが共通しています。
で、その原典はもちろんメアリー・シェリーの『フランケンシュタインの怪物、あるいは現代のプロメテウス』です。「フランケンシュタインは怪物の名前ではなくて、その怪物を作った博士の名前」は有名なトリビアですが、それでも怪物のことを「フランケンシュタイン」と呼ぶ人は多く、世間ではほとんどそれが通称になってしまっています。これはメアリー・シェリーがその怪物にきちんと名前を与えなかったのが悪いのですが、実はこれもまた怪物が置かれた境遇をみごとに描写しています。感情的に高ぶるとすぐに気絶したり熱を出して何日も寝込んでしまう、マッド・サイエンティストとしてはきわめて線の細いフランケンシュタイン博士は、理性と科学によって生命(それも知性を持つ生命体)を創造したのに、覚醒した「彼」に命名さえせずに世界に放り出してしまいました。きわめて残酷で無責任な行為です。そして、フランケンシュタイン博士の残酷さや無責任さと、世間の荒波(醜い外見だから虐められた)によって怪物は無慈悲な「怪物」に育っていきました。
そのへんは、原作を読めばすぐにわかりますし、だから私は「怪物」をフランケンシュタインとは呼びませんが(というか「怪物」と言うことにもためらいを感じます)、「オリジナル(あるいはその翻訳)を読む」よりも、二次作品やパロディを見て原作がわかった気になる行為の方が、世間では人気が高いようです。(ちなみに、すぐ手に入る「フランケンシュタイン」は、『フランケンシュタイン 痛快世界の冒険文学 (3)』『フランケンシュタイン (子どものための世界文学の森)』……どちらも子ども向けですが。英語だと『Frankenstein―フランケンシュタイン (洋販ラダーシリーズ)』。洋書なら各種あります。以前は文庫本が各社あったのですが、今は絶版中のようなのが残念です)
フランケンシュタインに限らず、「オリジナルを読む」は、医者にとって(に限定できません。あらゆる「学」の徒にとって)重要な行為です。ニュートンの言葉を借りてくるなら「我々は巨人の肩に立っているからより遠くが見渡せる」(巨人の肩(=前人の業績の集積)から出発するからこそ、自分はそこよりさらに上へと進歩することができる)はず。したがって、何かを為そうとする人間は、自分が何者であるかを語るためには自分が実際に「何」の上に立っているのかをきちんと確認しなければなりません(「自分の仕事は隅から隅まですべて自分のオリジナル」と主張する人はそういった確認作業は不必要ですが、まったくなにも先人の業績に負わない人はまず存在しないはずです。「車輪や歯車は自分が再発明した。火も自分が再発見した」と言うのなら話は別ですが)。したがってまっとうな「学の徒」は、孫引き文献だけではなくてその出発点である「オリジナルの論文」を読むことを求められます。孫引き論文が「伝言ゲーム」で歪められていないことを確認するためにもその作業は必要です。
私が研修医になって数ヶ月後に担当した患者さんは、持病の他に不思議な不整脈を抱えていました。いろいろ調べて、これはどうも昔ParkinsonとPappが報告したヘンテコな不整脈らしい、とわかったのですが、それを聞いた指導医は、褒めてくれると同時に初めてその不整脈が報告されたオリジナル文献を読んでおくこと、と私に命じました。英語は苦手なのですが、当時は素直だった私は早速文献を探して読みました。たしか第二次世界大戦ころのもので、載っている心電図も古風な感じでしたっけ。
それからさらに数ヶ月後、他の科のカンファランスに参加していたら若い医師が「自分の患者で、癌が心臓周囲に浸潤することでParkinson & Papp syndromeを起した」と報告しました。で、なぜか私に向かって「ParkinsonとPapp、知ってるか?」との質問が。「ええ、でも彼らのオリジナルには、心臓には器質的変化は認められない、とあったと記憶していますが」と私(つまり、癌によっておきた不整脈は例外になるのではないか、という指摘です)。一瞬妙な雰囲気があたりを包んだような気がしましたが、きっとそれは私の気のせいでしょう。
何も知らないぺーぺーをだしにして、勉強の大切さを説こうと思ったらアテが外れてしまって「生意気な奴め」と思われたか、それとも「おかだは意外に勉強家だ」と感心されたか、私としてはできたら後者であって欲しいとは思いますが……あ、それはそれで困りますね。だって勉強家だから「そのこと」を知っていたわけではなくて、たまたま偶然読んでいただけ、だったのですから単なる「誤解」ですもの。
そうそう、「文献はオリジナルさえ読んでいれば安心」ではありません。診断基準などはデータが集積されることでどんどん変化します。だから「Parkinson & Papp syndrome」という言葉自体が現在でも存在するのか、あるとしてもその定義がどうなっているのか、は定期的に学会などの報告を追跡していないとわからなくなります。もちろん私はこの病気が現在どうなっているのかは知りません。
ほら、勉強家じゃないでしょ。
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書誌情報『最強ウイルス ──新型インフルエンザの恐怖』NHK「最強ウイルス」プロジェクト、NHK出版、2008年、1000円(税別)
2008年1月にドラマとドキュメンタリーの構成で2夜連続放送された番組の、ドキュメンタリー部分の取材記録を本にしたものです。
2006年4月、インドネシアでのちに「インデックス・ケース(第一症例)」と呼ばれることになる患者が発生しました。一人の女性が呼吸困難から急死したのですが、その直後彼女の家族から6人のウイルス性肺炎患者が発生したのです。検査の結果H5N1の鳥インフルエンザウイルスが検出されました。ただちに村の鶏はすべて殺されますが、一羽もH5N1を持っていませんでした。「トリ→ヒト」ではなくて「ヒト→ヒト」の感染が疑われます。もしそれが本当なら、パンデミックになる可能性が大です。WHOは緊張します。インドネシアのパンデミックのフェーズを「3」から「4」に引き上げるべきかどうか決断を迫られたのです。「ヒト→ヒト」の感染が認められる「フェーズ4」では、ウイルス封じ込め対策(交通の遮断、抗ウイルス薬の大量予防投与など)が必要となります。しかしそれはインドネシア経済の崩壊と全世界への影響の波及も意味します。(ついでですが、WHOは勧告しかできません。政府がその採否を決定します) 幸いなことにこのときは人への感染はここで終息しました。ただし「次」はどうなるかはわかりません。
アメリカにとってパンデミックは国防あるいは国の安全保障の問題です。そういえばアメリカのCDC(疾病予防管理センター)は准軍事組織、と聞いたことがあります。
本書には米本土でのシミュレーションが紹介されています。米国に同時多発的に新型インフルエンザが持ち込まれた場合どのように被害が拡大するか……ピークは85日目ですが、そのとき全北米は患者発生を示す赤色に覆われています。ではどのような対策を採ればパンデミックを予防できるのでしょう。まずここで重要なのは「パンデミックの予防」が「新型インフルエンザ患者発生をゼロにする」ではないことです。「発生患者を人口の10%以下(=ふだんのインフルエンザと同程度)に押さえる」ことなのです。きわめて現実的です。日本だったら「患者をゼロにしなきゃ、やだやだ」と地団駄を踏む人が絶対登場しそうですけれど。そしてその目標を達成するための対策は4つ考えられています。ウイルス薬・ワクチン接種(パンデミックワクチンまたはプレパンデミックワクチン)・学校閉鎖・隔離と旅行制限。ただ、最後の「隔離と旅行制限」はこれ単独ではあまり有効ではありません。感染拡大のスピードをほんの少し鈍らせるだけです。もっとも有効なのはワクチンですが、時間と金と技術と卵が必要です。米政府はパンデミック対策に71億ドルの予算を組み、パンデミック開始から半年以内に全国民3億人にワクチンを供給、という目標を上げています。実際に可能かどうかは私にはわかりませんが、ここまで立ち向かう姿勢を明確に示す米政府の態度には感服します。
ワクチン接種はスピード勝負で、かつ、感染をきちんと予防することが重要ですから、隔離された環境でのドライブスルー接種の予行演習が行われています。さらに、マジソン・スクエア・ガーデンをまるごと医療基地(設備の整った巨大野戦病院のような感じ)にする計画もあります。それも医療者の30〜40%がインフルエンザで動けなくなることを前提とした計画です。(それにひきかえ、どこぞの政府は、その国の医療者は一人も倒れないことを前提としている様子です) この番組を1月に見た時に、病院の責任者がいざというときの協力を求めに歯科医の所に行くシーンが印象的でした。「使える武器」は何でも有効に使おうという態度ですが、歯科医の方もまたそれに柔軟に対応しようとする態度を示していたのがすばらしいと思いました。「自分の専門性」にこだわるのではなくて「自分の専門性を専門外の領域でもなにか役に立てることができるか」を考える人と、専門バカとの違いがよくわかるシーンでした。
ファンドマネージャーは、パンデミックのおそれがある場合、どの株を売りどれを売らないか、方針をきちんと決めています。インドネシアに進出している米企業は、パンデミックが始まったらインドネシアから退去する計画を持っています。ちなみに日本企業はそんな具体的な計画を持っていない、と本書にあります。おそらくそうでしょうね。日本人は決断の先送り(嫌なことは「縁起でもない」と考えたくない。実際にことが目前に迫ってから(あるいは起きてから)一夜漬けで考える)が好きですから。
アメリカ金融界のシミュレーションも紹介されます。パンデミックが起り社会が混乱、インターネットもアクセス急増で麻痺状態、企業の欠勤率は49%、という条件です。すると問題点が続出です。たとえばATMは稼働しなくなります。現金の引き出しが増えますが、紙幣のATMへの輸送がストップしているのです。生命保険会社にも大きな影響が出ます。支払いが増えるのに証券価格は下落するのですから。つまり、企業が業務を継続するためにはパンデミックに特化した計画を持っていなければならないのです。国が主導してこういった問題点を洗い出しているのが、アメリカです。さて、日本は?
トリアージの問題も取り上げられています。たとえば数に限りのある人工呼吸器、誰に使って誰に使わないのか、使っている人の誰から外すのか。「命の選別の基準」が必要です。この場合、インフルエンザとインフルエンザではない難病の人の扱いを区別するのかしないのか、について議論する必要があります。患者のことだけではなくて、需要と供給(人工呼吸器の数、それを扱えるスタッフの数)についても目配りが必要です。誰が「つける」という決定をするのか。誰が「外す」という決定をするのか。そして誰が実際に外すのか。医者の立場から言うと、本当は「外さない」方が楽です。だけどそれは「助かる可能性が低い人に人工呼吸器をつけたまま死ぬのを待っていたため、人工呼吸器をつけたら助かる可能性が高い人を死にゆくままに(見殺しに)した」ことになりかねません。そのとき、「選択の責任」は治療に当たっている医師だけが負うべきなのでしょうか? 社会も(つまりはあなたも私も)負うべきではありませんか? それも、現場がてんてこまいになってから議論を始めるのではなくて、まだパンデミックが起きていない落ち着いた状態の時に議論をしておくべきでしょう。(「今議論は必要ない」と主張する人は、パンデミックが起きて、あるいは事態が収束してから、正義の味方面をしてごちゃごちゃ言い出さないで欲しいと希望します)
「世代」の問題もあります。アメリカ政府は2005年に「ワクチンは高齢者優先」の方針を発表しました。「高齢者の方が死にやすいから」が理由でしょう。それに対して反論の論文が発表され、高齢者からも「孫の方を助けて欲しい」という声が多く寄せられました。その結果2007年には乳幼児や若者優先に方針が改められ、さらにパブリックコメントやアンケートが引き続き行われています。日本だったら「人体実験がすんでからまず政治家や官僚を助け、あとは“公平”を旗印に適当に」でしょうね。簡単に言ったら「自分は助かりたい」「シビアな政治責任からは逃れたい」の両立です。まあ、わかりやすいと言ったらきわめてわかりやすいのですが、現場の大混乱は必至です。
日本ももちろん対策は立てています。ただ、細かい対策はいくつもあるのですが、「戦略」を欠いています。零戦と大和があるからあとは大和魂で何とかなる、と言っているみたいです。本書にはありませんが、さらに足りないのは「損害を具体的にとことん予測しそれをどこまで許容するかの覚悟」でしょう。このままでは輸送船団が損害を受けない前提(輸送計画)で戦争に突入したどこかの誰かさんと同じことになりそうです。
さらに、国は行動計画を立て実際の対策は地方自治体、ということになっていますが、「ワクチンは国が準備する」とか「医療費については心配するな」といった国の“保証”がない状態では、地方自治体の動きは鈍ってしまいます。
本書には品川区のシミュレーションが載っています。患者発生から6日で、0〜15歳の感染者は400人を越えますが、小児科医は10人。区内最大の病院、昭和大学病院の小児科は45ベッド。流行のピーク時には1日に6400人の入院患者が発生すると予想されていますが、空きベッドはほとんどありません。病院に現在入院している人を追い出してインフルエンザを優先しますか? その場合、追い出す論理的・法的および倫理的根拠は? 人工呼吸器は明らかに不足します。ではどの人を優先しますか? その根拠は? ここで用いるべきは「医学」ではありません(医学では、人工呼吸器が必要・不必要は判定できますが、「この人にはつける」「この人にはつけない」「つけたけど外す」は判定できないのです)。それはあらかじめ社会の中で議論をするべき事項です。こういう重大な問題を医者にだけ押しつけるべきではありません。無責任な人間は、人に押しつけてあとで文句だけ言えばいい、と高をくくっているのかもしれませんが。
本書には、スイスやオーストラリアのパンデミック対策も紹介されていますが、それらと比較しても日本の対策はずいぶん見劣りします。まったく残念です。
欧米ではパンデミックは「近い将来必ず起きること」として扱われ対策が検討されているようです。それに対して日本ではパンデミックは「起きるかもしれないこと」なのかもしれません。だから「戦略」が欠如するのでしょう。ちなみに2008年4月15日のWHOのまとめでは、2003年以降H5N1型鳥インフルエンザの人への感染は、世界14ヶ国で380人、死亡率は60%超(インドネシアでは80%)です。さらに、H5N1以外の型によるパンデミックが起きる可能性もあります。
日本政府の想定は、致死率2%です。
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