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1979年スリーマイル島事故のときには、「あれは作業員のミスで、日本では教育レベルが高いし安全装置がきちんと働くからあんなことは起きない」と「専門家」が言っていました。
1986年チェルノブイリ事故のときに、「日本の原発はそもそも黒鉛炉ではないし、安全基準がソ連よりもはるかに厳いからあんな事故は起きない」と「専門家」が言っていました。
「バケツでウラン」や「フクシマ」が“想定外”の時代です。
1989年のサンフランシスコ地震で2階建て高速道路が倒壊しました。そのとき「専門家」は「日本の高速道路は落ちないようにきちんと作ってあるから大丈夫」とテレビで言っていました。
1995年阪神淡路大震災で日本の高速道路や新幹線高架橋で何が起きたか、私は覚えています。「専門家」の皆さんがそのとき何と言ったのか(言わなかったのか)は忘れました。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代(そんな時代もあったのです)、アメリカは不景気でレイオフが盛んに行なわれていました。新聞には「日本は終身雇用制度という優れた制度があるから、従業員が安心して働ける。だからどんどん成長できるのだ。雇用が不安定なアメリカとは大違いだ」と誇らしげに書かれていました。
エイズがアメリカで問題になり始めた頃「あの病気はアメリカの男性同性愛者の病気だから、日本人には関係ない」と言っている人がいました。(アメリカにも「あれは男性同性愛者の病気だから、スクエアには関係ない」と言っている人がいましたけれどね)
BSEがイギリスで問題になり始めた頃「日本の畜産には無関係」と言っている専門家がいました。
2004年のスマトラ島沖地震と津波で大きな被害が出た時「日本では津波警報がすぐ出されるからあんな被害は出ない」と言う「専門家」もいました。
そして、北米大停電。これについても「日本とアメリカでは電力事情が全然違う」「日本の送電網は大丈夫」「だから大停電は起きない」と言っている人がいます。自信たっぷりに言う人には悪いのですが、私は眉に唾をつけさせてもらいます。なにしろ「外国での先例」に対して「いやいや、それは外国の話であって、日本は大丈夫」という主張がしばらく経ったらあっさり覆される(そして主張した人は知らんぷり)、というのをいくつも見てきているものですから。もちろん「自分の感覚の正しさを実証するために大停電が起きることを望む」ほどワルイ人間ではありません。大停電は起きないことを切に願います。でも、起きないようにするには「日本は大丈夫」と言っているのではなくて「起きること」を前提に対策を十分に立てておいて欲しいだけです。
ただし、たまたまの順番、ということかもしれません。日本の企業で時に粉飾決算や株価操作があることを「日本企業の情報公開は遅れている。アメリカではあんなことはあり得ない」と言っている「専門家」もいましたが、結局アメリカでも「エンロン」がありましたからね。もちろん「エンロン」一つをもって、日本の会計制度が優れている、なんて主張はできません、というか、エンロン自体がまるっきり「日本的」とはほど遠い企業ではあったのですが(*1)。
*1)『エンロン内部告発者』ミミ・シュワルツ/シェロン・ワトキンス 著、 酒井泰介 訳、 ダイヤモンド社、
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「確率野球」に対してコメントをくださったビビりの内科医さんに教わった本です。図書館でも人気で予約が多く、やっと私のところにやってきました。
一読、驚きました。「確率野球」で私が書いたのは「単なる感じ(素人の感覚)」でしたが、それがみごとに言語化され高度に理論化されていたのです。やはり欲しきものは“先人”それも優秀な人ですね。
おかげで私は「野球に対する自分の感覚」がそれほどおかしなものではない(プロが実証してくれていた)ということで、妙な自信を持ってしまいました。
もっとも、この本で扱われているアスレチックスのゼネラルマネージャーのビリー・ビーンのやり方はアメリカの野球界ではまだ“異端”のようですので、私は“異端”として「自信」を持っている、という段階なのでしょうが。
どんな世界でも「業界の常識」というものは強く、「常識人」は「自分が見たいものだけ」を見るものですから、ビリー・ビーンが「世界を根っこから変える」日が来るのはもうちょっと先のことかもしれません。
「野球の常識」の手強さ(とその根拠の無さ)が印象的な本でしたが、本書を読んでいて「人の評価の難しさ」も感じました。個人プレイの競技でさえ「個人の能力」だけでは何もわかりません。たとえばテニス。いくら「能力が高い」人でも、その時代を支配する特定の選手あるいは多くの対戦相手のプレイスタイルと相性が悪かったら、タイトル獲得は難しいでしょう。ましてチームプレイの競技だったら、そのプレイヤーが属するチームの他のメンバーとのバランス、それと対戦チームのプレイスタイルとの相性、それらの「チーム環境」の中で、それも実戦(実践)の中でないと「正しい評価」ができないことになります。(本書では「ある特定の人物だけでチームを組んだらどんな結果が出るか」のシミュレーションが紹介されていますが、実際にはたとえば捕手9人でチームを作るわけにはいきませんよね)
もう一つ。私は「EBM」が登場した頃のことを覚えています。私は「20世紀の旧来の医学」で育った口ですから、最初はEBMに懐疑的な目を向けていました(「たしかにリクツは正しそうだ。でも、EBMが有効だ、というエビデンスがあるのか?」と)。それと似た現象が野球の世界でもあるのかな、と感じたのです。ビリー・ビーンたちが主張する「データに基づく野球」(「思い」とか「伝統」とかではなくて、チームの勝利に真に貢献する「数字」を見つけて、それが高い選手を試合で使うことでチームの勝率を高める)に対する“抵抗”があるのは、当然だろう、と。
そうそう、「データ」を重視する野球は無味乾燥なものになるのではないか、という怖れを持つ人がいたら、それは無駄な心配だと言っておきましょう。本書にもありますが、野球には「運」がつきまといますし、運は数値化できません。長期間データをとればそこに数字の片寄りとして出ることはありますが。だからこそ野球は面白いゲームなのです。
そういえば、医療にも「運」はあります。それについては、EBMでも医療裁判でも、確かなことは言えないでしょうね。
書誌情報:『マネー・ボール ──奇跡のチームをつくった男』マイケル・ルイス 著、 中山宥 訳、 ランダムハウス講談社、2004年、1600円(税別)
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音楽には不思議な力があります。人を落ち着かせたり、逆に鼓舞したり、気分や感情や雰囲気にダイレクトに作用する力が。
古代から人類は音楽を様々な目的で使ってきました。たとえば宗教や儀式の場で音楽は重要です。キリスト教教会でのミサ曲とかバリ島のケチャなどのレコードを聴いていると「現場にいたら魂が洗われるんだろうな」と思うことがありますし、仏教の声明でも似たことを感じます。録音を聞くだけで軽いトリップ感覚が味わえますから。
世の中にはいろいろ変った(世間にはあまり知られていない)職業がありますが、「音楽療法士」もその一つと言えるでしょう。音楽の効果を“治療”に使う人たちです。
参考サイト:「音楽療法WEBガイド」
このサイトを読むと、本当に様々な領域で音楽療法が用いられていることがわかります。私は精神科や心理学の領域での芸術療法の一環としての音楽療法は知っていましたが、それ以外にもけっこうあることには驚きました。
音楽療法について述べた本はいろいろありますが、『音楽と感情の心理学』(P・N・ジュスリン&J・A・スロボダ 編、大串健吾・星野悦子・山田真司 監訳、誠信書房、2008年(10年2刷)、5600円(税別))
の第4章「音楽と感情──音楽療法からの展望」はなかなかスリリングなものでした。そもそもこの本はタイトルの通り「感情」と「心理学」を扱ったものですが、「音楽心理学で最も権威ある『音楽の心理学』には感情に関する章がなく、最も広範に感情を扱った『感情のハンドブック』には音楽の章がない」なんて挑発的な文章から始まる刺激的な本なのです。
もうちょっと“穏やか”な入門書、たとえば『音楽療法のすすめ ──実践現場からのヒント』(小坂哲也・立石宏昭 編著、 ミネルヴァ書房、2006年、2200円(税別))なんてのもあります。実践している人の本だからか、わかりやすいものでした。
そうそう、「がん生検時の疼痛緩和に音楽や外部音遮断は有効?」(MTPro)という面白い記事もありました。残念ながら音楽が不安や疼痛を軽減する、とは言えなかったようですが、生検時の収縮期血圧の上昇を抑える作用はあるようです。それと、この記事を読むことで「生検時に患者さんは不安や疼痛を感じている」ということに改めて気がつく医療者もいるかもしれません。だとしたらこの研究で使われた音楽も無駄ではなかった、と言えそうです。
先日、μさんという患者さんと話していたらご自分の音楽体験を教えてくれました。μさんは脳卒中後遺症で重度の右片麻痺になっています。それでもアクティブにいろいろな活動をされているのですが、好きだった楽器演奏は片手では難しくて「私がピアニストだったら、左手一本でも弾ける曲があるのになあ」などと言われていました(たしかに「左手のためのピアノ協奏曲」(ラヴェル)、「ピアノ協奏曲第4番/左手のための」(プロコフィエフ)、「パレルゴン」(リヒャルト・シュトラウス)、「ディヴァージョンズ」(ベンジャミン・ブリテン)、「ピアノ協奏曲」(コルンゴルト)、「左手のための2つの小品(前奏曲、夜想曲)」(スクリャーピン)などがあります。日本では舘野泉というピアニストがその分野では有名だそうです)。それでもμさんは音楽を楽しもうと、ある日好きな交響曲を大音量で聴きながらその総譜を目の前に広げて読んでいたのだそうです。で、譜面をめくろうとしたら、動かないはずの麻痺側の右上肢が音楽に合わせてぴくぴくと動いているのに気づいた。これまで何年も動こうとしていなかったのに。これまでもその曲は何度も聴いていましたが、右腕は動きませんでした。ただ、総譜を集中して見ていたのはその時が初めてだったのだそうです。耳と目を同じ音楽に没入させることで、脳内に何か新しい回路が開通したのかもしれません。
音楽には不思議な力があります。
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原発の安全神話全盛期、反原発の立場の人たちの中には「原発事故が本当に起きるまで、お前らは『原発は安全だ』という主張を変えない気かよ」とため息をつきながら思っている人がいたのではないか、と私は想像しています。で、安全神話の信奉者で、神話が崩壊したあと、きちんと反省した人は何割くらいいるんでしょうねえ。「東電が悪い」「政府の対応が悪い」「危険性について自分をだました“専門家”が悪い」「危険性を広報しなかったマスコミが悪い」=「自分は悪くない」、と思っている人がけっこう多いのではないか、なんて想像もしてしまいます。
「医療費亡国論」の信奉者たちについて、「医療が本当に崩壊するまで、お前らは信念を変えない気かよ」と私はため息をつきながら思っています。「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほどとれる」と同じ“政策”で、「とにかく医療費は絞れば良いんだ」と、「どのような医療が必要でそのためにどのくらいのコストが必要か」の医療設計やコスト計算を一切せずに単に「前年度比」でしか医療を考えられない人たちは、医療が崩壊したあときちんと反省するのでしょうか。「きちんと仕事をしない医者が悪い」「儲けすぎた医者が悪い」「医療を崩壊させたのはとにかく医者が悪い」「崩壊しそうだという情報をちゃんと上げない“専門家”が悪い」「コンビニ受診をしたりモンスターとなった患者が悪い」=「自分は悪くない」、「角を矯めただけだ」=「死んだ牛の方が悪い」=「自分はちっとも悪くない」、と主張するのではないか、という予感しかしません。予感というか、確信ですが。
参考(になるかもしれない)図書
『「僕のお父さんは東電の社員です」 ──小中学生たちの白熱議論! 3・11と働くことの意味』毎日小学生新聞 編 + 森達也 著、現代書館、2011年、1400円(税別)
「自分は悪くない」と言い張る人たちに、「ほんとうにみんなは無関係なのか?」というするどい問いかけをした小学生の投稿から始まった本です。多くの小学生が意外に(というと大変失礼かもしれませんが)きちんと議論をしようとしている態度を示しているのが印象的です。今の国会の体たらくよりよほどまとも。もちろん「自分はちっとも悪くない」と主張する人もいますが。
『北米大停電 ──現代版南北戦争の視点』山家公雄 著、 社団法人日本電気協会新聞部、2004年、900円(税別)
2003年8月14日北米で大停電が起きましたが、この本には、17日ニューヨークタイムズに載った投書が紹介されています。
「俺たちニューヨーク市民の電気が、カナダから送られていたなんて誰が知っていた。五大湖のエリー湖をぐるりと回ってこちらに向かってたって? 誰が想像できた。65年と77年のニューヨーク大停電の後、二度と起こさないように手を打つと言ったのはどこのどいつだ。すっかり整備されたものと信じていたものを。専門家に言わせると、送電システムが脆弱だ、もっと投資すべきだと随分と前から警告していたそうじゃないか。……(中略)…… 政治家も右往左往、わけもわからず批判合戦し責任の擦り付け合いをしている。共和党は、民主党が環境重視を唱えるあまりインフラ整備を妨げてきた、と主張する。民主党は、共和党がエネルギー業界の利益誘導に忙しく停電対策を怠った、と言う。専門家と称する人びとも、意味不明の専門用語を駆使するが、要するに原因がわからずうろたえている……」
ある種のことについては「国による違い」というのは、ないようです。
『十字軍物語』のシリーズ
『絵で見る 十字軍物語』塩野七生 著、 ギュスターヴ・ドレ 絵、新潮社、2010年、2200円(税別)
『十字軍物語1』塩野七生 著、 新潮社、2010年、2500円(税別)
『十字軍物語2』塩野七生 著、 新潮社、2011年、2500円(税別)
『十字軍物語3』塩野七生 著、 新潮社、2011年、3400円(税別)
十字軍の遠征は宗教戦争であり、当然「聖職者」が大きな役割を果たしていました。「神がそれを望んでおられる」などのことばで「十字軍の必要性」「十字軍の正当性」を人々に強く説き(それに大々的に成功したのはたとえば第二次十字軍の修道士ベルナール、第五次十字軍の法王代理ペラーヨ)、出陣をしぶる王(たとえば神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ)を破門で脅したりしてまで人々を遠い異国の戦場に駆り立てた「聖職者」は、たとえ十字軍がみじめな失敗に終わってもその“責任”を問われませんでした。そもそも中世の聖職者は「権力の側」に立っていますし、「神の代理人である聖職者は無謬である」が大前提であり「聖書に照らしてみたら聖職者のことばは真実である」のは明らかなのですから、十字軍の失敗に関しては「信仰が足りなかった人間の方が悪い」となってしまったのです。実際に現場で苦労し飢え凍え血を流していたのはその(「後出しじゃんけん」で)「信仰が足りないとされた人たち」だったのですが。
「歴史から学ぶ」ことの意味が、このシリーズからもわかります。(「日本の医療崩壊」で「十字軍における聖職者」に当たるのが「官僚とマスコミ」だと私は思っています)
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「砂糖と果物」を投稿してから書き残したことがあるのに気づきました。
私が人生で初めてグレープフルーツを食べた頃には、砂糖をかけて食べるのが常識でしたが、それとたしか「グレープフルーツ専用スプーン」というものも使った記憶があります。両脇がぎざぎざで果肉を薄皮から分離するのがとてもやりやすいものでした……って、過去形で書いてはいけませんね。今でも売っているようですから。
ちなみに「イチゴ専用スプーン」というのもあって、こちらは先割れでスプーンの底が逆に窪んでいてイチゴを潰しやすいようになっていました。なんで潰すかと言ったら、コンデンスミルク(あるいは砂糖+ミルク)とイチゴ果汁が良く混ざるように、です。手動イチゴミルク製造器、と言ったところかな。
イチゴに使う砂糖はミルクに溶けやすい上白糖でよかったのですが、グレープフルーツにかける砂糖は、上白糖よりはグラニュー糖の方が“高級”とされていました。理由はよくわかりませんが、カットされたグレープフルーツの上に砂糖がこんもり盛られたとき、きれいに見えるからかもしれません(もしかしたら私の身近での“ローカルルール”だったのかもしれませんが)。
1970年代前半だったかな、「コーヒーシュガー」というのも流行りましたね。結局あれの“意味”はなんだったんだろう? コーヒーとのカラーコーディネート?
そういえば「糖」については以前「○糖」でも書いていました。
砂糖が「薬物」として用いられる文化もあります。アラブ薬膳書には砂糖(スッカル)の効能が「内臓の痛みを和らげる、特に腎臓や膀胱の痛みに効き目がある」とされているのだそうです。ただし副作用として「のどがかわき、黄胆汁が増加する」とあるのが笑えます。(*1)
おまけで砂糖トリビアを。「砂糖には賞味期限がない」「日本では、砂糖に関する公的な品質規格が存在しない(例外は医薬品としての砂糖)」だそうです(*2)。
*1)『砂糖のイスラーム生活史』佐藤次高 著、 岩波書店、2008年、3200円(税別)
*2)『砂糖入門』斉藤祥治・内田豊・佐野寿和(精糖工業会) 著、日本食糧新聞社、2010年、1200円(税別)
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上杉謙信が武田信玄に塩を送った、というエピソードを持ち出すまでもなく、日本では塩は人に必須のものとして扱われていました。日本中に「塩」がついた地名がありますが、海岸沿いのものはともかく山の中のものはおそらく塩の輸送に関連したものではないか、と私は想像しています。たとえば「塩尻」は「塩を大規模輸送する終点」の意味ではないか、とか。
体の中でも塩は輸送されています。たとえば腎臓では、血液から濾された体液をそのまま尿として排出したら大切なものが大量に失われてしまいますから、尿細管で「再吸収」という回収作業が行なわれます。そこで回収される代表的なものが、ブドウ糖や水分、そしてミネラル(つまりは塩分)です。体内環境を維持するために、塩分はせっせと輸送されているのです。
ナトリウムイオンの再吸収に関与するホルモンとしては、副腎皮質から分泌されるアルドステロンが有名です。これは、レニン→アンジオテンシン→アルドステロンの順番でホルモンが連鎖反応をして、尿細管でのナトリウムイオン再吸収が活発になり、最終的に体内にナトリウムを貯留させる方向に動きます。塩分は水を引きますから結果として起きるのが高血圧。そこでその“連鎖反応”をブロックさせる薬として、アンジオテンシン変換酵素阻害剤(ACE阻害剤)やアンジオテンシン受容体ブロッカー(ARB)が高血圧に対して使われています。
さて、「ナトリウムイオンの再吸収」と言いましたが、得るものがあれば失うものもあります。尿細管でナトリウムイオンの再吸収を担当しているのは「ナトリウムチャンネル」ですが、ナトリウムを輸送するときにその“身代わり”として、カリウムイオンを反対方向に輸送しています。ということは、ナトリウムイオンの体内への輸送量が増えれば増えるほど体内のカリウムイオンが減少することになります。細胞内にはカリウムイオンがたっぷり含まれているので、血液中のカリウムイオンが減少しても細胞内から補給することは可能ですが、あまり補給しすぎて細胞内のカリウムが減ってしまうと、簡単に言えば細胞の電気活動が落ちてしまいます(細胞内外のイオンの不均衡が、細胞の電気活動のエネルギー源となっています)。それは困るのである程度で細胞内からの供給が途絶え、血液中のカリウムが減ってしまうことになります。低カリウム血症と呼びますが、その症状としては、不整脈・筋力低下・神経機能の低下・精神症状など。「周期性四肢麻痺」という病気がありますが、これもカリウムイオンが突然低下することによって全身の脱力が起きる病気です(こちらの原因は、アルドステロン系ではなくて甲状腺が多いそうです)。
「偽アルドステロン症」というけったいな名前の病気もあります。これは、いかにもアルドステロンが悪さをしているように見えるのにいくら調べてもアルドステロンの値には異常が見つからない病態です。その原因の代表が「漢方薬」。日本で売られている漢方薬の多くに含まれている「甘草」を大量・長期に摂取を続けると、低カリウム血症が起きます。漢方薬が一種類の単独処方だったらまず心配ありませんが、複数の漢方薬をいっぺんに服用してそのそれぞれに甘草が含まれていたら、容量オーバーになる確率が高くなります。おっと、単独の漢方薬でも「甘草湯」は注意が必要です。激しい喉の痛みには大変よい薬ですが、なにせ「甘草だけ」で構成されている漢方薬ですから、普通では入らない量の甘草が体内に入ってしまいます。名前は「甘」なのに塩分に関与するとは、まったくけったいな生薬ですね。味はちょっと甘くてそれなりに美味しいのですが(ですから甘草は昔は(というか今も)甘味料としても用いられています)。
参考図書、というか、サイドメニューとして……
『塩の事典』橋本壽夫 著、 東京堂出版、2009年、2500円(税別)
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律令制度で、奴婢は「所有物」でした。(官が所有する公奴婢(くぬひ)と私人が所有する私奴婢) 「良民」は日本史の授業で自由農民と習った覚えはありますが、人間を「物」として平気で所有できる社会で「自由」が近代社会と同じ意味で取り扱われていたとは私には思えません。
自由がない状態で人はどのように振舞うでしょう。我慢する・合理化する・満足する・他人の足を引っ張る・抵抗する……などが考えられますが、古代に行なわれた「抵抗」の一つは、逃亡や欠落でした。これは個人的な行動です。それらが組織的に行なわれるようになったのは中世以降のことで「逃散」と呼ばれます。百姓がまとめて逃げ出しちゃうわけ(この「逃散」も、中世の「村の男だけが耕作を拒否して他所に籠る」タイプ(逃げても戻ってくることが前提)と、近世前期の「一家丸ごと他領に逃げる」タイプ(戻ってこないことが前提)に区分されます)。
現在の医療崩壊の状況下で「医師が逃散している」という表現を見ることがありますが、厳密には「医師が逃亡(欠落)している」と言う方が現実に近いように思います。まだ個人的行動ですから。「歴史用語としての正しさ」よりも「意味が伝わればいい」とも思うので、言葉づかいに必要以上に拘泥する必要もないとも思いますが。
さて、江戸時代には「抵抗」の一手段として有名な「百姓一揆」があります。世間一般のイメージでは「竹槍や鎌を持ちむしろ旗をかかげた村の一同が、死を覚悟して代官所に押し寄せる」というものになるかもしれませんが、もともと「一揆」は「一致団結」の意味で(だから毛利元就は「国人一揆」の盟主となっていますし、伊賀は国人領主の国ではなくて「惣国」と呼ばれる一揆体制(地域共同体自治体制)を(天正九年(1581)織田信長による伊賀侵攻(天正伊賀の乱)まで)とっていました(*1))、江戸時代の百姓一揆もその「目的」は「待遇改善(たとえば「年貢をまけてくれ」)のための示威と交渉」。反乱とか革命ではありません。ただ、集団示威行動は容易に“暴発”につながります。だから一揆を主導する者はいかに平和的に行動するかに心を砕きました(*2)。1749年(寛延二年)陸奥国で大規模な百姓一揆が起きましたがその記録「伊信騒動記」には「此度の騒動、天草四郎や由井正雪等の類一揆にハあらで強訴のことに候得ば、手道具を不持ハ勿論のこと」とあります。つまり当時の“常識”では「手道具(武器)を所持していたら一揆」「所持していなければ強訴」です(だから江戸時代の“常識”では「島原の乱」ではなくて「島原天草一揆」でした(*2)(*3))。そして手道具の竹槍で死者が出たのは江戸時代の記録では2件だけだそうです(明治維新後の一揆(騒動)では竹槍による死者が多数出ています)。また、火縄銃も持ち出されましたが、これは「武器」ではなくて「号砲」でした(そもそも村にある火縄銃は「武器」ではなくて「農具」(畑を荒らす獣を殺す・追い払う、ための道具)だからこそ刀狩り後も村に存在を許されていたのです)(*4)(*5)(*6)。で、「暴発してしまった大規模一揆」の代表例が「島原の乱(「島原天草一揆」)」でした。だけど「暴発」は両者に損です。血が流れるし、領主は幕府ににらまれるし、百姓は本来の目的(処遇改善)が果たされませんから。
こうして歴史を眺めてみると、過去の「保険医総辞退」は「強訴」だったのかなあ、と私には思えます。
日本が近代化するにつれ、「百姓」の数は減り「労働者」が増えました。そこでの「抵抗」手段は、ストライキやロックアウト。それに対して警官隊や軍隊が導入され、というのはたとえば『蟹工船』で読むことができます。で、労働組合が作られてかつての「一揆衆」のような役割を平和的に果たすようになった、ということでしょうか。
すると、日本の医者も「労働組合」を作れば良いのかな、と思います。「医者なんかに権利はない」と断言する人も「労働者には権利はない」とは言わないでしょうから。それとも医者は労働者ではなくて公奴婢でしたっけ?
参考図書
*1)『黒田悪党たちの中世史』新井孝重著、日本放送出版協会、2005年、1120円(税別)
*2)『百姓一揆とその作法』保坂智 著、 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー137)、2002年、1700円(税別)
*3)『検証 島原天草一揆』大橋幸泰 著、 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー259)、2008年、1700円(税別)
*4)『刀狩り ──武器を封印した民衆』藤木久志 著、 岩波新書、2005年、780円(税別)
*5)『鉄砲を手放さなかった百姓たち ──刀狩りから幕末まで』武井弘一 著、 朝日新聞出版、2010年、1300円(税別)
*6)『生類をめぐる政治 ──元禄のフォークロア』塚本学 著、 平凡社選書80、1983年、1700円
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