| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | |||
| 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
| 26 | 27 | 28 | 29 |
「名高速で逆走ミニバイクとトラック衝突、男性死亡」(中日新聞)
原付バイク走行禁止の名古屋高速都心環状線に原付で入っただけではなくて逆走して、正面衝突を避けようとハンドルを切ったトラックに突っこんでいって衝突、結果として原付の運転者が死亡した“事故(事件?)”です。
ここで不思議なのは、トラックの運転手が逮捕されたことを報じるのに、「自動車運転過失傷害の疑いで、トラックを運転していた××を現行犯逮捕し、容疑を同致死に切り替え調べている。」(××の伏せ字は私による)と実名も年齢も住所も全世界に報じていることです。「本当に逮捕が必要な状況だったのか」という疑問はありますが、私は現場にいないから「現場の判断」を重んじることにしますし、「逮捕」という行為自体は適法でしょう。「自動車運転過失傷害(または致死)の疑いで強制的な取り調べをする必要」はおそらくあるでしょうし、たとえ逮捕されたとしても取り調べの結果「過失(容疑事実)はなかった」となれば、とりあえずはOK(不必要に逮捕された人の不愉快さは別の問題としてありますが)。だけどこういった事件(どう考えても“悪い”のは“被害者”の方)で、“加害者”の個人情報を全世界に垂れ流す必要性がどこにあるのか?が大きな疑問です。匿名で十分ではないです? 昔「少年A」とかでかでかと紙面に書いていたでしょ。あれと同じで「男性A」とか「運転者A(男性)」程度で私には十分です。
極論を言うなら、社会的な不利益がある場合(組織犯罪とか仲間が逃亡中で事件が拡大する可能性がある場合)を除いてこういった報道は原則匿名にしても良いのではないでしょうか。それで生じるデメリットって、何? メリットは大きなものがありますよ。たとえば、マスコミによって作られる「15分間だけの有名人」志望者による犯罪を予防できます。
※前回(10月の「むしゃくしゃ」で)も似たことを書きましたが、こういった感想を書くのに当該記事にリンクを張るのは、私が反対している「実名を無批判に報道すること」に手を貸すことになってしまいますが、記事の存在自体を“証明”するためにリンクをしています。できたら私のことばを丸々信じてもらうか、信じられない場合でも「たしかに個人情報を公開している」ことの確認のためだけにリンクをお使いください。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (54)
運転免許の書き換えを先日すませました。私はこのブログで「医学部を卒業してから、いろいろ変ってついていくのが大変」とよくグチをこぼしていますが、道路交通法も同様で、ちょこちょこ変更があって頭がついていくのが大変です。今回の目玉は「ゴールド免許の人は、全国どこでも(たとえ旅行先でも)免許の更新ができる」と「普通免許と大型免許の間に中型免許が新設された」ことでしょうか。「全国どこでも」は、前回の講習でその予告は受けていましたが、ついに実現したんですね。私には特にメリットはありませんが、長期出張をするような人には“里帰り更新”をしないですむからありがたい制度でしょう。中型の方は、免許証の記載が「普通」から「中型」になった上に、中型は8トンまで、なんて文言が免許証に記載されたので具体的な影響は被っています。トラックやマイクロバスを運転する気はないので(たとえその気になっても技倆がないので)まあどうでもいいことではあるのですが。ただ、私が免許を取った頃には「四輪が普通、二輪が中型」だったのが、今では「四輪が中型、二輪が普通」免許なのが笑えます。
講習では、私の住む県での事故の分析が示されました。1件の死亡事故が起きる間に、人傷事故は135件、物損事故は約600件の割合だそうです。
私は当然「ハインリッヒの法則」を思い出します。「1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する」ですが、交通事故では「ハインリッヒの(災害)三角形(トライアングル)」の“すそ野”がずいぶん広いですね(「1:29:300」ではなくて「1:135:600」ですし、さらに人傷・物損の“下”に数千数万の「ヒヤリ」があるはずですから)。これは交通事故に関しては「人を死なせない」ことに社会が注力してそれに成功している、と解釈すればいいのでしょうか。(もちろん軽微な事故(特に物損))は届出が実際よりは少なくなっているでしょうから数字がどこまで正確かはわかりませんが、もし「約600件」が“氷山の一角”だとしたら、「交通事故に関しては「人を死なせない」ことに社会が注力してそれに成功している」という仮説はその正しさが強化されるだけですから、数字の正確性にはこだわらないことにします。
私自身、先週追突事故にあったばかりですから、「物損」の数字を上げることに“貢献”してしまいました。幸い体には特に異常が出ていませんので、これからもゴールド免許を失わないように運転し続けていこうと思ってます。そうそう、この事故で“良いこと”もありました。代車がハイブリッド、というのはすでに書きましたが、この運転が面白いの。低速トルクが太くなった感じで坂道の上りや発進加速がなかなか楽しいのです。低速域ではガソリンエンジンよりも電気モーターの方がはるかに強力なんですね。ただ難点は、今どんな運転モードかと気になって計器をみることが多くなってしまうこと。脇見運転で事故の加害者にならないように気をつけなくては。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (81)
昨年バイクで転倒して右の鎖骨を折ってから1年とちょっとが経ちました。特に問題はなく経過していたのですが、急に涼しくなった頃右肩がちょっと重たくなったりしたので「これが古傷がうずくというやつか」と思っていました。
ところが先日、またもや交通事故。それも1年前にやったのとすぐそばの地点です。ただしこんどは自動車でした。家内と二人で走っていて、前方の三叉路で二台の車がすれ違おうとしているのでこちらは停止したらうしろから追突……まあ、前から追突されることはないでしょうが、前の車がバックしてきてこちらに衝突、は形式的には“(前から)追突”の形になりますから、一応「うしろから」をつけておきます。強めのブレーキでがくんと止まる程度の衝撃しか感じなかったのですが、降りてみたら後ろのバンパーとバックドアが意外に大きく変形していました。おそらく潰れることで衝撃を吸収してくれたのでしょう。
警察には追突した人に電話してもらって、私は自分の保険会社に一報。ただ、免許証ケースに入れていた保険証カードが古いもので、前の車のナンバーを思わず読み上げてしまって「おっとっと」になってしまいました。情報は常に最新のものにしておきましょうね(>誰にともなく)。新しいカードも入れていたのですが、免許証の下敷きになっていたのです。あ、古いカードはまたもとに戻してしまいました。これを書き終えたら整理しなくちゃ。
近くの派出所から警察官がバイクで現場検証にやってきて、さっさと書類を作ってくれました。物損ですから話は早いのです。
帰宅してから両方の保険会社から電話がかかってきましたが、笑っちゃったのは、それが同一の会社、ということです。つまり同じ会社の担当者が「加害者側」と「被害者側」に分かれて負担割合の交渉をするわけ。追突ですからこちらはゼロになりましたが、会社の支出もトータルでは変らないんですよね?
工場にもすぐに修理を依頼しましたが、そこで「代車をお願いできます?」と言ったら、この場合には追突した側がレンタカーを借りてくれてそれを私が使う、ということになると教えてくれました。別に車種のリクエストはしなかったのですが、今の車を買う時に検討した(そしてあきらめた)ハイブリッドカーが使えることになりました。おや、これは運転が楽しみです。
昨年は痛みのために、町内会の祭での救急担当ボランティアをほかのドクターに替ってもらいましたが、今年はなんとかできそうです……が、問題は天気だな。どうか祭ができるように降っても小雨でありますように。それから、事故がありませんように。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (5) | トラックバック (54)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (97)
固定リンク | コメント (1) | トラックバック (3)
「日本の鉄道が正確である」ことは、世界的に有名です。ヨーロッパでは「10分の遅れ」はOKとされていますが(「定時運転」の「定時」の定義が、イギリスは「10分未満」、フランスは「14分未満」、イタリアは「15分未満」)、日本だと「1分未満」でないと「定時運転」と呼んでもらえないのです。
では、なぜ「日本」でそこまで正確な定時運転が行なわれるのか、が著者の“出発点”でした。その
“旅”で見えてきたのは、「定時運転」を実現しているのは、もちろん鉄道の機材・鉄道員の努力・時刻表の工夫、などですが、もう一つ、「社会」も大きな要素だったのです。
「日本では、鉄道員も乗客も、誰もが、鉄道は正確に運行して当たり前と思っている。行政もマスコミも同じように考えている。誰もが思えば、ものごとはそのように動く」と本書では述べられます。つまり、社会が求めるから鉄道は正確な運行を提供する、提供されたものを当たり前だと社会は思うからそこからの“逸脱(列車の遅延)”を許さない、だから鉄道はますます正確な運行を提供するように努力する、という“サイクル”がそこには存在していたのです。
さらに「社会」の側は、自ら“協力”もします。たとえばラッシュ時のプラットホームでは、客は列を作り、降りる客がすんでから整然と乗り込みます。階段では降りる客と昇る客がきれいにすれ違い、プラットホームを(乗る客が列を作りやすいように)少しでも早く空っぽにしようとします。これがすべての駅で行なわれることによって、正確なダイヤが守られやすくなるのです。
本書では、ではそういった「定時運転を要求しそれを当然とする社会」はどうして成立したのか、と疑問を持ち、その“ルーツ”を江戸時代に求めます。「時鐘」によって「時刻の感覚」を持ち、さらにそれが全国共通であることを認識していた人々。旅行は徒歩が主だったため、宿場町が「人が一日で歩ける距離」で設定されていたため、駅間距離が短いこと。それらによって、すでに大正年間にはラッシュ時には東京では「3分間隔の運転、各駅の停車時間は20秒」というダイヤが組まれ(山手線も当時すでに一周72分だったはずです)、それによって大量輸送が可能となり、だから人口は東京に集中し、それによってますます正確な鉄道運行(大量輸送)が必要となり……今に至るわけです。
ただ、擾乱要素があります。自然現象もありますし人為的なものもあります。後者の代表が「人身事故」(よく思うのですが、いつもこう呼んでいたら、飛込み自殺ではない本当の事故の場合が区別できなくなっちゃいません?)。あるいは、目立ちませんが「駆込み乗車」。前者はわかりやすいのですが、後者もじわじわと正確運行にダメージを与えます。やる人は駆け込んで電車を10秒遅らせることで自分が3分を“損”せずにすむ、という計算なのでしょうが、その「10秒」損をするのは、電車に満員になっている約4000人です。「1×180(人秒)」と「4000×10(人秒)」とどちらが社会的に重いか、ちょっと計算してみてください。そして、一つの列車のわずかな遅れがつぎつぎ後続の列車に波及する効果も。もちろんおおごとにならないように鉄道員が努力をして(運転者ができるところで微妙にスピードアップをしたり、管制員が運行管理の工夫をしたり)その遅れをどこかに吸収させることを日常的に行なっています。だけど「1×180」のために他人にそれだけの努力を強いる権利って、「おれは客だ」の一言で得られるんでしたっけ?
書誌情報:『定刻発車 ──日本社会に刷り込まれた鉄道のリズム』三戸祐子 著、 交通新聞社、2001年、1848円(税別)
で、ここからもちろん話は「医療」へ。
「定時運行」を求めるのと同様、日本社会は「完璧な医療」を求めます。医療者はそのリクエストに応えようと努力し、ある程度のものは提供できていました。で、社会はそれを「当然」のものとして、それからの“逸脱”を許しません。“当然”からの“逸脱”は“怠慢”あるいは“犯罪”なのですから(だから「列車が遅れたら駅員を殴る乗客」が出現するのでしょうね)。だけど、それは本当に「当然」なのでしょうか。現代医療はそこまでのレベル(技術と努力でぎりぎりのところに設定された時刻表を守るレベル)に到達しています? というか「完璧であるべき医療」の現時点での実際のレベルを、皆さん正当に認識・評価でき、「社会」としての共通認識を得ていますか? 思い込みと幻想の中に生きて、「これが当然」と主張する人はいないでしょうか。(私は現代医学を「時刻表を見たらすべて先が予測できるレベルのもの」とは思っていません。医学そのものはまだ不確定要素をたっぷり含んだものです)
さらにそこに“時刻表を乱す要素”が人為的に追加されます。もちろん多くの医療利用者は、技術の発展と医療者の努力をきちんに評価した上で、「もっと完璧に近い医療」を求めるわけでしょうが、中には擾乱要素が出現するのです。代表的なのは、救急車利用のリピーター、軽傷での救急車利用、モンスター患者などでしょう。いわば“飛込み”や“駆込み”をやって、それでさらに「ダイヤを正確に守れ」と要求するユーザーです。
さて、それらに対応するべきは、医療者だけ?
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
学生時代に50ccのスポーツタイプの原付で旅行をしていたとき、有料道路に入る前に「さて、これからぶっ飛ばすぞ」と料金所の手前の広場にマシンを停めてまずは一息入れていたら白バイ隊がやってきて近くに停車。乗るバイクは違ってもバイク乗りが考えることは同じなのかな、と見物に近づきました。別に話しかける話題もないのでしかたなく「これ、ナナハンです?」と尋ねると「いや、650」とにこやかな返答。「へーえ、白バイはみんなナナハンだと思ってました」と言うと彼は笑ってました。バイクの速さはエンジンの大きさだけじゃ決まらないんだよ、と言いたかったのかな?(シャアだったら「モビルスーツの性能の違いが戦力の決定的な差ではないということを、教えてやる!」になるところかも)
ここで言う「ナナハン」は、二輪車のエンジンが750ccであることを意味します(七百と百の半分)。当時は、輸入車や逆輸入車を除くと、日本では最大クラスのバイクでした。(ハーレー・ダビッドソンやBMWでは1200とか1300がふつうに売られています。日本のメーカーも、750超のバイクは製造していたのに、なぜかそれは全部輸出に回していました。「でかすぎるバイクは国内では売るな」という日本政府の規制でもあったのかな?) ちなみに現在はナナハン以上のバイクも「輸出専用」ではなくなったので逆輸入をしなくても国内で入手可能です。たとえばホンダの「ゴールド・ウイング」は1800cc。20年くらい前に乗っている人に話を聞いたら、カーステレオとエアコンがついている、とのことでした。今ではエアバッグもついているそうです。……バイクの話だよね?
だけど世界は広くて、もっとでかいバイクはごろごろしているそうです。たしか自動車用のエンジンを積んだばかでかいバイクもあったはずですが、中にはこんな規格外のモンスターも。乗用車を踏みつぶしちゃうなんて、これでも、バイク? 乗っている人がバイクライダーではなくて象使いに見えます。
「Australia's monster motorbike from hell」
実は病院の中にも「ナナハン」があります。ただしバイクではなくて手袋。手術や処置の時に使う手袋は、手よりも小さすぎると動きが窮屈だし破れやすい。手より大きすぎるとたくれてしまって処置の邪魔です。手よりもほんのちょっとだけ小さめがフィットして具合が良いのですが、その大きさを示すのが「6」とか「7」の数字です。で、「7」より半サイズだけ大きいのが「7.5」でそれを「ナナハン」と私たちは呼んでいました。私の運転免許ではナナハンには乗れませんが、病院内では堂々と「ナナハンを下さい」と言えます。全然自慢にはなりませんが。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (1) | トラックバック (26)
私は自動車が汚れていてもそれほど気にしませんが、それでも塗装面に傷がつくと気になります。「小さな傷から錆が鉄板に拡がっていく」と脅かされたことがあるものですから。傷の表面に塗ったら光が乱反射して傷自体が目立たなくなる、なんてうたい文句のコーティング剤もありますが、試してみたら期待したほどの効果はありませんでした。
そこにこんなものが。
「スクラッチシールド」(日産)
小さな傷・本当に軽い凹みだったら、元の状態に自動的に修復される、という優れものだそうです。さすが「技術の日産」と自称するだけのことはあります。元の状態に戻るという点で「形状記憶塗装」とでも命名したくなります。
もっとも「自動修復」は、生物ではごくふつうの現象です。たとえば皮膚にできた傷は、化膿などの邪魔がなければふつうは自然に治ります。傷の深さや治り方によっては傷跡が残る場合がありますが、上手く治れば傷跡さえ残りません。
「治ること」自体が素晴らしいことですが、「丁度良いところで細胞の増殖がストップすること」も素晴らしい。だって皮膚の細胞に“脳みそ”はついていないでしょ? 誰がどうやって判断しているんでしょうねえ。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)