前世紀の思い出です。
今はよく知られているある病気××が、まだ世間では医者にもあまり詳しくは知られていない時代。なぜか私の外来に「大学病院で××と言われたんだけど、あそこは混むから、普段はこちらで診てくれ。あっちに行くのは数ヶ月に1回にしたい」という患者さんが初診で来られました。「私は専門家じゃないから、大学病院の“リモコン”で動く(検査データなどを大学に知らせて、状態に応じて薬などは細かく指示してもらう)、だったらできますが」と言うとそれでいい、と。で、大学と診療情報のやり取りをして、時々大学病院を受診するが普段はこちらで外来受診、と分担して外来診療をすることにしました。
ただ、それだけではつまらないものですから文献を集めてみたのですが、当時はまだ英語のものがメインで、私のイシ頭ではどうもついていけません。そこで文献のコピーを患者さんに示して「読んでみます?」。すると幸い英語が得意な方で、しかも「自分のことだから勉強したい」ということで、そこから二人三脚が始まりました。実際には、患者さんが読んでわからないところをこちらに質問、それをこちらが説明……説明できない時には“宿題”として私が持ち帰って調べて次の外来で、と、二人三脚というよりも私の方がおんぶされているような感じでした。
あのときつくづく思いました。医者は「一般的な体」や「病気全般」については“専門家”です。しかし患者は「自分の体」と「自分の病気」については誰よりも詳しい“専門家”になれるんだ、と。
私の診療スタイルがちょっと変わったのは、あの時の経験による、と私は考え、彼には感謝しています。
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子どもの頃の小説で時々「すでに死相があらわれていた」なんて表現があり、そんなものが本当にあるのかと思っていましたが、医者になってしばらくして“経験”を積んでくると“それ”がたしかに存在することに気づきました(といっても、街を歩く人の顔を見て「あ」と言うわけではなくて、病院のベッドに寝ている人で認めるだけです。また、全員に出るわけではありません。単に私が見逃しているだけかもしれませんが)。医学的には、顔面の局所的な循環不全、などと表現できるのかもしれませんが、やはり死相は死相です。(漫画で、落ち込んだ顔の一部に平行線をたくさん引いて影のような効果を出す手法がありますね。強いて言うならあれに似ています)
ただ、私としては、できるだけそういったものを見たくはありません。そのことについて誰かと話し合ってもしかたありませんから「あ、死相が出てる」なんてことも言いません。日常的には「そんなの、知らないもんね」といった感じで振る舞っています。ただ、そういったものに気づいてしまったり日常的に身近な人がこの世にいる、ということだけは「医者と話すと波長が合わない。医者が他の人間とは違うのはおかしい。もっと普通であるべきだ」なんて言う(見たいものしか見ない)人たちに知っておいてもらいたいと願います。
もちろん死相に気づくのは医者限定ではないでしょうが。
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「誤って筋弛緩剤投与、患者死亡 徳島・鳴門の病院」
サクシゾンは副腎皮質ステロイド、サクシンは筋弛緩剤ですから、普通に考えたら「それを間違えるか?」と言いたくなりますが、普通では起きないはずのことが起きてしまうのが「事故」です。(もし意図的な行為ならそれは事故ではなくて事件または犯罪です)
亡くなった方やご遺族の方には同情しますが、同時に事故の関係者にも私は同情を感じます。「事故の関係者に同情するとは、やっぱり医者は“仲間”をかばおうとするんだ」と感じる人がいるかもしれませんが、「割り箸を咥えて走り回る行為には同情しないけれど、その結果子どもが死んでしまったことには同情する」のと同じスジで、私としては首尾一貫しています。
西暦2000年にも同じタイプの事故が起きていて、それが繰り返されたということは、これまでの“対策”は表面的なもので根本的な原因対策が取られていなかった/したがってこれからもまた条件がそろえば同じタイプの事故が繰り返される、ということを暗示しています。で、そのときたまたまその「そろった条件」のところに居合わせた人を夢中になって責めるだけでは、結局また根本的な対策が取られないまま、になってしまうでしょう。根本的な対策を冷静に考えるべき時に、誰かを夢中になって責める声はただのノイズです。静けさが要求される環境ではできたらノイズは押さえて欲しい。
こう聞くとびっくりする人がいるでしょうが、ここで重要なのは実は「サクシゾンとサクシンの取り違えを防ぐ」ことではありません。それでは「サクシゾンとサクシン」は対策の「目的」になってしまいます。しかし本当に重要なのは「根本的な対策を取ったことによって、『サクシゾンとサクシン』を含む同種の『似た名前の薬物取り違え事故』が激減する」ことです。「サクシゾンとサクシン」は、対策の「目的」ではなくて「結果」であるべきなのです(それが私の考える“根本的”対策です。「どうやってもサクシゾンとサクシンの取り違えが起きないようにする」ことではなくて)。
しかし、日本の多くの病院で取られたのは「サクシゾンとサクシン」のどちらかを採用しない、という手法でした。これだったらたしかに「サクシゾンを出すつもりで入力(または処方箋に記載)したのに、現物はサクシンが出てきた」は予防できます。でも、現実を見たらわかるように、それでは十分ではありませんでした。今回の病院でも片一方しか病院には存在しなかったのですから。結局これは「その病院だけ見たら解決」の「部分最適」の一例です。といって「全体最適」のために日本中で一斉にサクシンかサクシゾンのどちらかを消滅させる、は非現実的でしょう。
さらに、人は病院から病院へ動きます。「サクシゾンはあるけれどサクシンはない」病院から「サクシゾンはないけれどサクシンはある」病院へ、あるいはその逆へ、医師も看護師も薬剤師も異動をします。異動したら当然新しいものを覚えなければなりませんが、パソコンのように古いファイルは削除して新しいファイルだけを以後使う、とはスッキリできません。習慣と記憶は人間に深く根付いているものですから。特にあわてた時など、表面のものよりは深くのものが吹き出てきやすいのです。
※記憶の混乱を防止するために「異動の禁止」というのを思いつきました。「医師の田舎への強制移住」を主張している人は、強制移住のあと自由に動かれては困るから当然「自分勝手な異動の禁止」もセットにするでしょうから、この考え方に別に抵抗はないでしょう。で、足りないのは医師だけではない、と言うことになれば、当然その後に続くのは「看護師の田舎への強制移住」「薬剤師も」「放射線技師や検査技師も」の流れです。そのうち「過疎地の解消のために、都会で余っている人の田舎への強制移住」も政策として打ち出されたりして。それで政策のスジは一本通っていますよね。「政治的目的のためには国民の強制移住をさせる」というスジが。
コンピューター画面で「サクシン」と打ったら「筋弛緩剤!」(あるいは「サクシゾン」と打ったら「ステロイド!」)と赤字で表示されるのも一つの手でしょう。ただしこれも万能とは思いません。人間は機械的に作業している時には画面に出てくる重要な情報も無視します(連続して「イエス」「イエス」とクリックしていて、ついうっかり肝心なところも読まずに「イエス」を押して次の画面が出てしまい「あんぎゃあ」と叫んだ経験を持っていませんか?)。また、まだ完全にコンピューター化されていない病院もありますし、コンピューター化されていても、たとえば(昨日、私が遭遇したような)緊急事態で医者がコンピューターなんかいじくっている場合ではないこともあります(目の前で患者が死にかけている時に「医者は急変患者を診るよりもコンピューターに向かってそれを正確に操作しているべきだ」と主張する人は、医療について論じる資格を持っていないと私は感じます。少なくともそういった人は医者にはならないでください)。実際にそういった場合には口答指示の連発となります。私が勤務する病院では、看護師は必ず復唱をし(復唱した看護師がその指示を実行する)、注射の場合には瓶やアンプルのラベル面を医師に見せます(ダブルチェックです)。だけど、緊急事態で注意力が分散している状況で思いこみが強いと、見ているつもりで違うものを見てしまうこともあります。(1歳と3歳の兄弟を育てている家庭で、下の子が下痢便をあたりにばらまいてしまって大急ぎでその始末をしているところに上の子が「ねえねえお母さん、カブトムシがいた」と見せに来たら、手に握っている黒い虫がゴキブリでもカブトムシに見えてしまう、なんてことはないでしょうか?)
「人の記憶に頼る」のも一つの手です(「ちゃんと覚えておけ。間違えないように気をつけろ」が“対策”ですから言う方も楽ですし)。しかし、似た名前の薬はいくらでもあります。先発品だけでもすぐに私が思いつくのは……アマリール/アルマール、ムコスタ/ムコダイン、グリチロン/グリミクロン、ノイロビタン/ノイロトロピン、エクセラーゼ/エクセグラン、デパス/デパケン、塩化カリウム/塩化カルシウム、アルサルミン/アルケラン、ノルバスク/ノルバデックス……これに後発品を含めたら……もう勘弁してください(泣)。緊急事態には「患者のこの状態をどうするか」に集中したいのに、コンピューターでチェックしろだのこの薬には似た名前の別の薬がないかを全部思い出せだの、目の前の急変患者の治療に貢献する気がない人間がこちらに余分な負担をかけて治療の足を熱心に引っ張るのはやめて欲しいのです。
少しでもゆとりがある場面での技術的な解決としては、入力画面で「似た名前の薬のセット」を表示する、というのがとりあえず考えられます。思いこみがあって打ち間違いがあったら、その「間違った薬」だけ表示されてOKされてしまう可能性がありますが、「セット」が出てその中から選択だと、そこで思いこみが訂正される可能性があります。ただし、一手間余分にかかりますから、緊急事態ではイライラがつのるかもしれませんが、事故が起きるよりはマシ。
もうちょっと根本に迫った対策としては、私が見るところでは要するに「似た名前の薬があること」が問題なのですから、「これまでのと似た名前の薬は厚労省が認可しない」という手が考えられます。言葉尻にこだわることが得意な人が官僚やマスコミには多そうですから(私の偏見かな? 不愉快に思われたらいけませんから「ことばには詳しく厳しい人」と言い直します)、そういった人が集まって「事故防止のための薬剤名審議会」で検討すればいいでしょう。薬剤名に関する事故例やニアミス例は集積されているはずですから、それをたたき台に、書いた文字や発声で混同しやすい薬剤名を洗い出して訂正を勧告。さらに使われる状況や人間心理も加味してこれからの薬品名についての基本方針を打ち立てることができれば、同種の事故が発生する確率はぐんと減るはずです。(ただし、それでも間違い事故が起きたら、その審議委員に“責任”は取っていただきましょう)
私自身はこういった事故の“加害者”だけではなくて“被害者”にもなる可能性がありますから、ついマジに考えてしまいますが、真剣に考えようとしない人は「しょせん他人事」とでも思っているのかな?
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世間では三連休だそうですね。
私は今朝一番で、窒息死しかけた患者さんを救命して救急車で運ぶ付き添いをしてきました。事情があって口から食べてはいない人なので食物誤嚥の心配だけはしなくてよいのですが、それでもばたばたしました。
急変してから、吸引して気管内挿管して、状態の安定を確認して病院を手配して救急車を呼ぶまで結局約30分かかりましたが、どこかの医療裁判では転送に○分かかったのはかかりすぎ、で医療側の敗訴、というのがありましたね。○の中の数字はいくつでしたっけ? 正直言って、30分で「遅い!」と怒られたら非常につらいのです。自分としてはほとんど無駄な時間はかけていないつもりなので。
幸い呼吸も意識も急変前に戻ってくれて、とりあえずはほっとしましたが、受けてくれた病院の外来はずいぶんの人で、病棟もほとんど一杯の状態であるらしく、「この三連休でどんどん救急車がきたら、どうなるんだろう」という危機感がこちらにまで伝わってきました。「心配」を誰かに渡せてホッとする人がいれば、逆にその「心配」を受け取ってしんどい思いを始める人もいます。この三連休でも、日本中の救急現場で、この「ホッ」と「しんどい」の交錯のドラマが展開し続けていくのでしょう。
あ、だからといって、三連休を楽しむ人に「お前らは楽しむんじゃない。苦労している人のことも考えろ」なんてお説教をするつもりはありません。嫉妬心や邪念を働かせても、日本の医療は良くはなりませんから。もちろんお説教でも良くはなりません。だから楽しめる人は楽しめる間に楽しんでください。私も明日はのんびりする予定です。あくまで予定ですが。
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割り箸事件の判決が出ました。
「「謝罪して欲しい」両親ら痛切 男児割りばし死亡事件」
で、この記事を素直に読む(印象操作される)と、まるで「病院や医者は一言も謝らなかった」と言わんばかりの遺族の主張ですが、それは真実なのでしょうか? もし本当にそうだったのなら、ものすごく傲慢な医療者ということになります。原因に医療過誤があるかどうかは別として、残念な結果に終わったことに対しては当然一言あるべきだと私は思いますが、しょせん私は「社会的常識に欠ける医者@首相のお墨付き」ですから、この思いが社会的に通用するのかどうかはわかりません。でも、本当に一言も言わないかなあ。少なくとも、命を救えなかったことへの力不足を詫びることや哀悼の意を表することはあったと思うのですが(ネット版では書いてありませんが、紙面には医師の哀悼の意は載っています)。
あくまで可能性ですが、ことばはあっても遺族の側に聞く耳がなかったのかもしれません(「否認」という心理メカニズムが働くことが考えられます)し、ことばの質や量に不満があるのかもしれません(でもその場合には「足りなかった」という表現になるでしょうね)。もしかしたらそもそも「謝罪」の定義が違っているのかもしれません。(定義については遺族の方に詳しくインタビューしないとわかりませんが)
たとえば「裁判で有罪判決」「記者会見を開いて土下座」のセットが遺族の心の中での「謝罪」の定義だったとしたら、たしかに病院も医者も「謝罪していない」ことにはなります。有罪判決はなかったし、公開の場(マスコミの前)での土下座もなかったのですから(なかったですよね?)。
ところで、「無罪の人間に“謝罪”を求める」のはつまり「裁判の結果がどうであれ、まずは自分が“有罪”であることを認め、そのことを詫びろ」という要求になります。あら、裁判は何のためにあったのでしょう。「お前は有罪だ」と「私は無罪だ」の意見の対立があるからこそ裁判になったと私は解釈しているのですが。
「何があったか知りたい」もこういった場合に遺族によって良く語られることばです。しかし、それは、実は医者の方も言いたいことばです。特に救急の現場で。見たらわかることは見たらわかるので、見てもわからないこと、倒れた状況や関係する物的証拠・持病・アレルギーなどの情報があればあるほど医者の判断や対応は“正解”に近づきます(もちろん医者の力量も関係するし状況もあるから、必ず正解に到達できる保証はありませんが(そして“正解”が得られても必ず打つ手があるとは限りませんが)、ともかく(正確な)情報はないよりはある方が絶対的にマシです)。
医学は「黙って座ればぴたりと当たる」ものではありません。山勘で決断するバクチでもありません。警察の科学捜査と似ていて、物的証拠・状況証拠などを積み重ねた上で論理を使い根拠を持って判断をしていく地道な作業の連続です(それでも埋めきれない部分がある場合には覚悟を決めて決断することもありますが)。この事件の場合も、たとえば割り箸を捨てずにちゃんと持ち込んでいれば、その長さなり折れ口なりで、何が起きたかが判断できた可能性が高いでしょう。(ついでですが、救急の現場にいた頃、私はそういったことで何回悲鳴を上げたことか。「瓶から何か飲んでいた」「その瓶は?」「危ないから、洗って捨てた」「参考になるからすぐ持ってきてください」「いや、もうわからない」なんて会話はしょっちゅうでしたから。情報を医者に与えずに「診断しろ」というのは、姓名判断で姓名を教えずに「顔を見たらわかるだろ、早く姓名判断しろ」と要求するのにほぼ等しいと私は思います)
私の子どもは今でも恨めしそうに「お父さんはピーナッツを割って食べさせた」と言います。気管につめての窒息死防止のために、幼稚園までピーナッツは禁止、幼稚園に入ってからもしばらくは食べる時に豆を二つに割ってから、としていたことを今でも覚えているようで。だけど私はそのことを子どもに謝罪する気はありません。子どもの事故防止のために親がするべきことは限りなくありますが、そのすべては無理にしても、自分でできることはやっておきたかっただけです。だから自分がやったことは「罪」だとは思っていません。「我慢させたことと、他の子とちがうことになって、悪かったな」とそのことについては謝りますけどね。
参考までに「乳幼児の誤飲と窒息事故」
www.geocities.jp/kids_first_aid/pdf/goinyobou.pdf
※本日は記事を3つも上げてしまいました。たくさん読ませて申し訳ない。貯めると“在庫”が増えてしまうのでそのまま放出してしまいましたが、今日は本当は、4つ書いていたのです。4つめは長いので、明日に回します。
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9月末に発表された「産婦人科勤務医・在院時間調査 第1回中間集計結果 報告と解説」(日本産科婦人科学会)を今頃になって見つけたので読んでみました。
在院時間の月平均は295時間、オンコール(自宅待機)は月間平均139時間です。当直回数は月に4.1回、休日日直は1.3回。つまり、病院での“残業”は月に117時間(在院時間から標準的な定時の勤務時間を引いたもの)、週に1回当直をし3週に1回は休日日直、約3日に1回は自宅待機、を繰り返し続けるのが産婦人科医の平均像です(20代から40代後半まで数字にほとんど差がありません)。ただし、緊急呼び出しの回数は今回の集計には含まれていません。あくまで病院が“管理”できる数字としての勤務実態です。
で、こういった調査があると「俺だって、会社に申告はしないけれど、月に100時間は残業しているぞ」「俺なんか130時間もやった月がある」などと嬉しそうに“自慢”して、「だから医者が“その程度”でがたがた言うな」と言わんばかりの人があちこちで見つかります。でもねえ、そういった人に私は二つ質問をしたいのです。
1)そんな生活をしているへろへろの医者にあなたは自分や家族の体を託したいと思いますか?
2)あなたはそんな多忙な生活で幸せで満足ですか?(一生それを続けたいですか?)
そうそう、「オンコールなんて、自宅で待機しているだけだろ」なんて気楽に言う人もいます。そんな人にオンコールの緊張感をどうやって味わってもらえるかしら。そうですねえ、例えば、の思考実験ですが……その人が好きな動物(犬とか猫とか)を集めておいて、その人に突然電話をして難しいクイズや計算をしてもらって、電話に出なかったり答えを間違えたらその動物が一匹ずつ殺される、というのはどうでしょう。もちろんオンコールですから、電話がかかるのは真夜中かもしれませんし、早朝かもしれません。かからないかもしれませんし、一晩に何回もかかるかもしれません。
これを想像してもらったら、一般の人でも少しはオンコールの緊張感がわかってもらえるかな?
……あ、これを読んで「おれは動物愛護団体の者だ」と殴り込みには来ないでね。動物殺しは実際にはやりませんから。
※参考までに。厚労省が平成13年に発表した「過労死認定新基準」には、その別添に「労働時間」に関してこんな記述があります。
[2] 発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月
間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認め
られる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できること
を踏まえて判断すること。
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ずいぶん前、20世紀の最後の四半期の話です。知人から電話があって「子どもが水銀を飲んじゃった」とパニックでした。話を聞くと水銀体温計をがりっとやって口の中にこぼれた水銀をごっくんと。
体温計の中の水銀は金属水銀ですから、そんなに簡単に消化吸収はできません。しかも体温計の中のものだから量はしれています。だから基本的には早く体外に排出させてしまえばいいわけで、便秘にならないようにしてやれば問題はないはず、と答えました。胃洗浄をしてもころころ逃げる金属をすべて取り切れるとも思えませんしね。それよりも、口の中にガラスの破片が残っていないのかどうかが気になりましたっけ。
水銀には金属水銀・無機水銀・有機水銀の3種類があって、それぞれの毒性は異なります。
金属水銀はこの3種の中では一番“安全”な方ですが、それでも毒性はあります。特に蒸気を吸うと気管支粘膜がやられてしまいます(腐食性気管支炎)。さらに慢性的に水銀蒸気を吸い続けると、脳に障害が出ます。昔の水銀鉱山の鉱夫にこの病気が多く出たそうです。また、金と容易にアマルガムを作りますのでそのアマルガムを焼いて金を残すやりかたで金を採掘精錬したりメッキを行っていた人びとにも、金属水銀中毒は多発していたそうです。
無機水銀は腎臓がやられます。急性の消化器症状もあります。
有機水銀は「水俣病」が有名です。この病気が広く報道された時には、「こんな病気があったのか」という驚きと同時に行政の不手際(残酷さ)が印象的でした。脳(特に後頭葉と小脳)がやられますが、同時に末梢神経や腎臓も障害を受けます。イラクでは水銀を含んだ殺虫剤を撒いて汚染された麦による「毒パン事件」があるそうです。
かつては医療機関にも水銀は普通に存在していました。体温計や血圧測定器の中に。そうそう
イレウス・チューブ(腸閉塞の時に腸の中にまで入れて腸に貯まったガスなどを体外に出すための長いチューブ)にも先に重さを出すために水銀を入れていましたっけ。だけど今はデジタルの時代、最近私は院内で水銀を見ていません。
ただ、今回このエントリーを書こうとして内科の教科書を久しぶりに開いてみて、衝撃を受けました。「水銀は常温で気化しやすい」と書いてあるではありませんか(知らなかったのか、忘れていたのか……)。すぐに思い出したのは、小学校だったか中学校の理科の実験で水銀を扱った時、机の上にこぼして玉になってころころ転がるのをつついて遊んだ記憶です。気化した蒸気を喫ったにしてもごく微量で健康に障害が出る程度ではないでしょうが、知らないとはいえ我ながら平気で恐ろしいことをやっていたものです。そういえば当時は、アルコールランプとビーカーの間に「石綿」を塗った金網をはさんで使っていましたっけ。学校の実験室には実は危険が一杯だったのね。
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二階経産相は11月10日、舛添要一厚生労働相と会談した際、「政治の立場で申し上げるなら、何よりも医者のモラルの問題だと思います。忙しいだの、人が足りないだの言うのは言い訳に過ぎない」と言ったそうですね。で、その反響に「今までは医者を悪者にしたらみんな『そうだそうだ、医者が悪い』でそのままスルーだったのに」と驚いて、とまどいながらもこんな反応を。
「医師のモラル」発言を撤回し謝罪 ──二階経産相
http://www.cabrain.net/news/article/newsId/19162.html;jsessionid=D824DFD195D05649A3AE91D7EB4FF02C
とまどっているから、言っていることばが明らかによれています。この人、攻撃力はそこそこ強いけれど防御力はひどく弱いタイプですね。まあ、よくあるタイプですが。だけどこの「よくあるタイプ」では立派な政治家にはなれません。もしも立派な政治家になりたいのなら、立派な謝罪もできる人になった方が良いんじゃないかなあ。
「今回の発言が医療関係の皆さんに不愉快な思いをさせたとすれば、お詫び申し上げる」と述べていますが、これはつまり「不愉快な思いをした人間には詫びる」=「不愉快な思いをしない人間には詫びない」、つまり詫びているのは「聞いた(一部の)人間の感情」に対してであって、自分が行なった「行為(主張の内容)」に対してではありません。つまりは「自分が述べた言葉の内容に間違いがあるとは思わない」と重ねて主張していることになります。ところが……
さらに「私の発言が医療に携わる皆様に誤解を与えたことをお詫び申し上げ、発言を撤回いたします」ですが……つまりは「誤解されたから撤回する」です。間違いがないと主張してから、撤回?
まあ、あまり言うことはありませんね。「誤解を与えたことをお詫び」ということは「誤解をした人間にも問題がある」という意味をダブらせています。だって「誤解」なんでしょ? わざわざこの単語を選択した意味を考えたら、そのダブルミーニングは明らかです。
ついでですが、私は誤解なんかしませんでした。今の政治家には、国語能力が足りない人が多いことがまずきちんと理解できました。それから、今の政治家には日本の厚生行政をまかせるには現状分析や対策を立てる能力も覚悟も足りない、ということもきちんと理解できましたよ。
なお、上記の私のこの文章で「誤解」したり「不愉快な思い」をする人がいるでしょうが、だからと言ってただちに謝罪する気はありません。私の書いた内容に大きな間違いがあるのなら、話は別で、ただちに「内容の訂正あるいはバージョンアップ」に努めます。でも、正しいことを言われて不愉快になるのは、不愉快になる人になにか問題があるのではないか、と私は思うのです。もちろん、誤解するのは誤解する人間の問題です。
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老人が転倒した時、股関節の骨折が問題となります。多くは手術(それも人工骨頭や人工股関節などの大きな手術)が必要となり、そのあとのリハビリテーションが上手くいけばいいのですが、痛みや意欲低下などでそれが上手くいかないと寝たきりになってしまうことが大問題です。寝たきりは、褥瘡発生や体力低下や廃用症候群や意識レベルの低下をきたすことでQOL(生活(または生命)の質)を落とし、寿命を縮め、家族の負担を増やします。銭が気になる人は「どうせ寝たきりになるのだったら、金をかけて手術をするべきではなかった」と言うでしょうが、その銭を気にする人がリハビリテーションを削ろうとしていた(今でも機会があれば削ろうとしている)ことを私はいつまでも忘れません。
骨折の場所も重要です。私が学生の時には、頚部骨折でも大腿骨の頭の部分に近いところが折れると、頭の部分が壊死しやすいからそれは人工骨頭に置換しなければならない、その折れ方を「内側骨折」と表現する、と教わりました。同じ大腿骨頚部骨折でも、すこし外側だと「外側骨折」です。ことばだけではわかりにくいですね。「八王子整形外科」のサイトの図がわかりやすそうです。
ここには「関節包の内側の骨折を大腿骨頚部内側骨折、関節包の外側の骨折を大腿骨頚部外側骨折としていました。しかし、最近欧米の分類に従い、関節包の内側の骨折を大腿骨頚部骨折とし、関節包の外側の骨折を大腿骨転子部骨折/大腿骨転子下骨折と分類する様になりました。」とあります。
せっかく苦労して覚えた「内側」「外側」のことばは、今は使われなくなってしまったのです。
たしかに「内側」か「外側」を区別するよりも、「(解剖学的に)どこが骨折したか」「その治療でなにが行われたか」の方が臨床的には重要です。今の医学生は、私たちの時よりは覚えるべきことが一つ減って、それは良かったですね、としか言いようがありません。(それ以外のことはどんどん増える一方でお気の毒ですが) しかし整形外科のドクターと話をする時、うっかり「内側骨折」と口走ったら「今はそうは言わないんですよ」と言われて恥をかかなければいけないのは、ちょっとイヤです。ちゃんと覚えておかなきゃ。
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何の因果かインフォームド・コンセントに関して真面目な文章を作らなければならなくなりました。
そこで、あらためて世界医師会のリスボン宣言や前世紀の日本医師会の文章を読んでみましたが、さすがに20〜30年前の文章は古いと感じます。たとえば「医師と患者」「説明と同意」といった文言が。
「医師と患者」で私が感じるのは閉鎖性です。現代はチーム医療の時代ですから、「医師と患者」だけが納得していれば良い医療になる、というものではないでしょう。医療チームのメンバーが全員「自分は患者さんときちんとコミュニケートする」と思っていなければ、きちんとした治療はできないはずです。たとえば栄養士や薬剤師が「自分は栄養指導をした(服薬指導をした)。患者がちゃんと理解できたかどうかの確認は医者がやれ」と言ったとしたらそれは一種の職務放棄に私は感じます。また、医師は患者だけ相手にすればいいのではなくてその背景(患者の家族や近隣社会や職場など)も意識していなければならないでしょう。つまり「医師と患者」では“取りこぼし”が多すぎるのです。
「説明と同意」も、一見まっとうなことばに見えますが、私が感じるのは「不同意は存在しないのか?」です。患者は、医者(を含む医療チーム)から聞いた説明に「同意する義務」は負いません(だからこそ、セカンドオピニオンが成立します)。ところが「説明と同意」と書くとそそっかしい人には一見「不同意が不在」と見えます。しかし患者には「治療を受けない権利」もあるのです。
「説明と同意」を(そそっかしい)医療者の側から見ると、「同意」を得るためにきちんと説明しろ、という努力目標のようにも見えます。「患者が説明に同意しないのは、お前の説明が下手くそだからだ。ちゃんと説得しろ」と言われているかのような。そうではなくて、「常に相手には拒否する権利がある」ことを忘れてはいけません。「説得」は、少なくともインフォームド・コンセントにおいては、「自分の意見を相手の口から言わせる」ための作業でもなければ、相手にいかに「うん」と言わせるかの技術論でもないのです。
※この「ノーと平気で言えるかどうか(言う方が「ノー」と言うだけではなくて、言われた方がその「ノー」をすぱっと受け入れて次の段階に両者が進めるかどうか)」が「その人間関係が対等かどうか」の一つの試金石だと私は考えています。友達にだったら「その日は都合が悪い」とか「そんなのいやだ」と言えますが、会社の社長に向かっては同じことが言いづらいのは、人間関係が平等か不平等かのちがいによるところが大きいはず。(もちろん“友達”でも全然ノーと言えない関係もありますが、それはもしかしたら「あまりに遠慮が勝ちすぎている」のか「不平等な友人関係」なのか、あるいは「最初からそもそも友達じゃない」可能性もあります)
インフォームド・コンセントは「患者と医者は知識の量が違いすぎる」と「患者と医者は人間としては対等」を両立させるための方法として始まりました。ならば両者ともに(あるいは医療に関係する人全員が)相手に「ノー」と平気で言える関係でなければ「それはそもそもまっとうなインフォームド・コンセントではない」疑いが濃くなるでしょう。
「ノー」と言うのにはそれなりの勇気が要りますが、「ノー」と言われることを平然と受け入れるのにはそれなりの覚悟が要ります。そういった「勇気」と「覚悟」、日本の医療現場では明らかに不足しているように私には見えますが……それらが不足しているのは医療現場だけかな?
結局私は「主治医(を代表とする多職種から成る医療チームのメンバー)と患者(と家族)」をインフォームド・コンセントの参加メンバーとし、そのプロセスは「説明・理解・納得・選択」と並べることにしました。なんだか不器用な文面ですが、現時点ではこれが私の最善の表現です。
それともきれいに着飾ったもっともらしくてごてごてした文章にしなくてはいけないかな?
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