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紀元前は「BC」だけど、これは「Before Christ」、すると「AD」はAfter……なんだろう?と思っていたらラテン語の「Anno Domini」(主の年)だった、というのを知ったのは高校の時だったかな。
現在の私の守備範囲だと「AD」は、アトピー性皮膚炎(Atopic Dermatitis)、注意欠陥性障害 (Attention Deficit)(世間では、これに「多動性障害(Hyperactivity Disorder)」がくっついた「ADHD」の方が有名かもしれません)、アルツハイマー病 (Alzheimer's disease)などが思い浮かびます。最近の医学系の新聞などで「AD」とあると、そのほとんどはアルツハイマーですから、現在の世界の医学ではアルツハイマーが「AD」の“主流”なのかも。
そうそう、ある特定の職種では「あんた、奴隷」の略かもしれません。ある分野では「Assistant Director」と呼ばれているようですが。
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最近私が治療を担当することになったΣさんが体を縮めて「先生に怒られなきゃいけません」と言い始めました。何かと思えば「実はお饅頭を3つも食べました」。
Σさんは糖尿病をお持ちで、インスリンを一日4回注射してコントロールをしているところです。で、血糖測定のグラフを見せてもらうと、「お饅頭」のところだけ血糖がふだんの倍以上に、見事に突出しています。
おかだ「いやあ、体は素直ですねえ」
Σさん「はい、ですから観念してます。怒ってください」
怒れと言われたのですから怒っても良いのですが、偏屈の私はそんな反応はしません。というか、こういった場合「怒られた」という事実が「贖罪」になってしまっては困る、と考えてしまいます(実際には「饅頭を食べた(食餌療法が守れなかった)」ことは「罪」ではありませんから「贖罪」というのはたとえである、と理解してください)。そもそも怒られようが怒られまいが、体に入った糖は容赦なく血管を“砂糖漬け”にしています(実際には「砂糖」ではないし「漬け」でもないのですが、これも「たとえ」として理解してください)。
ところで、「怒られた(辛い思いをした)」ことで人生に“リセットがかかってしまう(怒られることで“一件落着”してしまう)”と、根本的な状況は何も変わらず、残るのは「砂糖漬けの血管」だけ、ということになってしまいます。そしてその未来には「同じことの繰り返し」が待っています。
ですから私は怒りません。無関心でも優しいからでもありません。といって、脅したり嘲ったりもしません。単純に、血糖が上がることで血管に何が起きているのか、その結果何が起きやすくなるのか、を説明します。普通の理解力がある人ならそれで、次にお饅頭を4個、5個、あるいはシュークリームを、ジュースを、とやっていったらどんなことが起きるかはわかるはず(理解力がない人にはその無さに合わせてことばを選びます。私のボキャブラリーには、ふつうの小学生くらいまでなら理解できることばが装備されています)。
もちろん「体にいれた余分なカロリー」に見合った量のインスリンを増やせば、見かけ上は血糖は落ち着きます。でもそれは、「右のものを左に」やっているだけ。“余分なカロリー”は脂肪などになって体内のどこかに落ち着いてしまうだけなのです。それは結局自分の首を絞めることになります。
何が起きるかわかった上でそれでも“再犯”をするのでしたら、それはその方の「自分の人生を賭けての決断」ということですから、しかたないです。こちらも医者として“後始末”でやることはやりますが、それでも「自分の寿命が縮むこと」と「食の欲望」とを交換する決断については、必要以上にとやかく言おうとは思いません。
こんなことを平気で言うのは、やっぱり意地悪ですか?
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世の中には「障害者差別」が存在します。
差別をしている人の姿を見て、私は「あなた自身は“障害”を持っていないの?」と言いたくなることがあります。(障害者のコミュニティ内部でも、障害の種類や程度での差別があるのは知っていますが、それはここではちょっと脇に置いておきます)
「健常者」ということばがあります。これはつまりは「障害がない人」という意味でしょうが、さて、「本当の健常者=完全無欠の心身」を持った人って、いましたっけ? 私の観察ではそんな人はいません。何らかの不調や欠陥を抱えて生きている人ばかりです。単に“それ”が社会で生きていく上で実用面での邪魔にならないだけ。(「邪魔になるかならないか」の境界線がつまりは「社会のバリア」ですが、その話もここではちょっと脇に置いておきます)
ともかく、社会の成員は誰もが大なり小なり、なんらかの“障害”を抱えている、が私の見解です。だからこそそういった“障害者”が生きていきやすいように(種の存続がしやすいように)ヒトは「社会」を成立させた、とも言える、と私は考えています。するとその中で「障害者差別」をすることは「社会の前提条件を否定する」ことになります。
あ、「自分は障害が一切無い(完全無欠の心身である)」→「だから“障害者”を差別する“権利”がある」と主張する人もいるでしょう。でも、実際に検査してみる前に断言してはいけないでしょうが、そういった人は「ただの嘘つき」「誇大妄想」「自意識過剰」「自己認識不足」などではないか、と私の予想ではなっています。もちろんこれは私の「早合点(という欠陥)」かもしれませんけれどね、だけど「人を差別して苦しめてやりたい」というのはそれ自体不健康な欲望ではないです?
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私は小学生の時から社会人になるまで、何回も避難訓練を受けてきました。
ところが、実際に学校が火事になったとき、訓練は何の役にも立ちませんでした。非常ベルが鳴ってから一同は整然と押し合わないように決められたルートを退避、ですって? そんな“予定”は、現実の前には無力です。そもそもその時には非常ベルが鳴る前に煙が教室に到達しました。こちらは一瞬呆然。事態を把握した教師の「みんな、逃げろ」で、わっと避難です。ついでですが、避難訓練の時にみなが集合していた校庭は、消火活動の邪魔になるので私たちはさらに遠くに移動させられました。つまりそれまでやっていた「訓練」は「机上の訓練(空論)」でしかなかったのです。
もちろん勤務する病院でも何回も避難訓練は受けています。ただ、そこでも首を傾げることはあります。
たとえば、階上からの脱出装置。ロープで体をつり下げてゆっくり降下する装置です。これ、実際に使ったことのある人、います?(そういえば、修学旅行生が旅館でこの装置で遊ぼうとして安全ベルトをきちんと掛けずに転落して事故、ということが昔ありませんでしたっけ?) 私は自分で体験してみましたが、ベルトの装着に時間がかかるし、「上」と「下」に人を配置しておかないと、より安全に降下することができません。これ、緊急避難には役立ちません(断言します)。肉体的な運動能力に大きな欠陥がない私でも危ない思いをしたのですから、運動能力に制限のある入院患者さんをこれで降ろすのは、ほかに逃げ場がなくてもう最終手段、というときに取っておいた方がよいです。
らせん式の滑り台がある病院もありますね。これで実際に一病棟分の患者さんとスタッフを降ろそうとしたら何が起きるか、試した方、おられます? 残念ながら私は試したことはありませんが、想像することはできます。混乱と事故です。
滑り台はやったことがありませんが、“実戦的”にやろうということで、「病棟丸ごと」の避難訓練をしたことならあります。ちょっとズルをして、寝たきりの人が一人もいない病棟を選択しましたが、それでも大変でした。一番困ったのは、避難後の集合場所で点呼を取ったら、一人行方不明だったこと。訓練は昼間にやりましたが、火災発生の想定は夜間帯ということにして、当直医は私(つまり、当面の責任者(各部署からの連絡を受けてまとめて消防の責任者につなぐ係)は私)という設定にしていたのですが、あせりましたよ。すぐに捜索を始めたら、発煙筒を焚かれたりベルが鳴り続けたり知らない人が病棟を走り回っていることにパニックになりかけたその患者さんは、思いもよらないところに“隠れて”しまっていたのでした。
訓練で良いこともありました。一番良かったのは、消火器を実際に使う経験ができたことです。経験があるのとないのとでは、実際の火事の時にたぶん1〜2秒くらいは反応に差が出るだろうと私は思っています。
ところで「原発」周囲の各地で集団避難の話が出ていますが、これは原発事故に限定した話ではありません。台風・地震・津波・火山の噴火・化学工場やコンビナートの大事故など、住民の集団避難が必要になる状況はいくらでも想定できます。その“避難訓練”は、不必要ですか? つまり「全町」や「全市」の避難が実際にできるかできないか/できるとしてどんなトラブルが生じるか、の“お試し”です。それ(本当に全住民を動かしてみる)をやらないでおいて「机上の訓練(空論)」でお茶を濁すのは、実際に何かが起きたときに混乱を生むだけですし、行政は“怠慢の罪”を問われてしかるべきだと私は思います。
他国の例ですが、巨大ハリケーンにしょっちゅう襲われるキューバの「防災」は「集団避難」だそうです(*1)。アメリカにも大被害が出たハリケーン「ミッチェル」のときには、キューバでは75万人が大被害が予想される地域から避難しました。特筆すべきは、その時に家畜やペットも連れて逃げるようにシステムができていることです。家畜については、福島でも問題になっていましたね。動物倫理の問題もありますし「生活の糧」でもありますから、それを放置することを強制するのは無理があります(実際に、家畜を置いて逃げた人があとから様子を見たり餌をやるために舞い戻って、ハリケーンで死んだ、ということがあったためにキューバでは「連れて逃げろ」になったのだそうです)。
何の準備もなしに、単に「逃げろ」と権力者が口だけ動かしても、数万人〜数十万人の移動がスムーズにできるはずがありません。だからキューバではふだんから「避難訓練」を大規模にやっているそうです。
*1)『「防災大国」キューバに世界が注目するわけ』中村八郎・吉田太郎 著、 築地書館、2011年、2400円(税別)(3月11日に読書感想を書いた本です)
さて、日本で「全市避難」を、と言ったら「できない理由」が山ほど出てくるのは目に見えています。でも、“ぶっつけ本番”で、本当に良いんです? 落ち着いた状況の時に問題を“現実”によって洗い出しておいて、災害による死者だけではなくて「避難によって生じる犠牲者」を少しでも少なくするように工夫しておく、というのは「やらなくてよいこと」です?
ここで大きな問題になるのは「病院」「介護施設」などでしょう。そこの人たちをどうやって丸ごと移動させるか。まずは基本計画を作る必要がありますが、その「計画」がきちんと機能するかどうかをどうやって検証するか。
もちろん「そんな大規模な避難訓練で、弱っている患者さんたちにもし何か起きたらどうするんだ!」という意見が出てくるでしょう。では、避難訓練をしないでおいて、そのために避難が上手く行かずそれで死者が出たら「避難訓練をするべきではない」と主張した人は、どんな責任を取ってくれるんですかね?(「現場がちゃんとしなかったのが悪い」と言ってさっさと逃げる予感がしますが)
もちろん私は「責任を取らせること」に興味があるのではなくて、「本来なら救えたはずの人命を準備不足(あるいは想像力不足、あるいは怠慢)で失いたくない」が主張の主眼なのですが。
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三十年くらい前「将来は聴診器など不必要になる」と言う医者がいました。そのココロは、心音図で客観的に心音が記載できるから、主観的な感覚に頼った検査はしなくてよくなる。
で、今の医療現場を見ると、聴診器が心音図に取って代わられた、という印象はありません。心エコーが進歩して「心音の異常から心臓の機能と構造の異常を診断する」のではなくてダイレクトに「見ただけで心臓の機能と構造の異常が診断できる」ようになったことで、結局心臓に関して聴診器の役割は軽くなってはいますが、肺の呼吸音・頚部での呼吸音・血管雑音なども一連の動作で聴取できる聴診器の価値は相変わらず高いものであると私は思っています。
ただ、ならば心音図には価値がないか、と言ったらそれは別の問題です。私自身加齢で高音域の聴力が落ちてくるのは時間の問題です(まだ毎年の健康診断ではちゃんと高音域は聞えていますけれどね)。“その日”には、ポータブルの心音図(できたら聴診器に組み込んであるもの)があると、自分の「耳のかわり(補助装置)」があるわけで、とても心強いのです(患者さんはもっと心強いでしょう)。ただ、呼吸音や血管雑音についても、同時に判断して欲しいな。呼吸運動に合わせて解析をすれば、心音と呼吸音の分離は簡単にできるはずです。
ついでに画面に「この心雑音から考えられる疾患」がリスト表示されたら嬉しいのですが……って、いくらなんでもそこまで望むのは欲深ですか?
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地下鉄や新幹線などに乗っている時に私はよくノイズキャンセラーつきのヘッドホンで音楽を聴きます。時には音楽は止めてノイズをキャンセルするだけで過ごしていることもあります。ふだんはあまり気になりませんが、やはり電車のあの轟音があるのと少ないのとでは、耳の環境が全然違いますから。
ヘッドホンのスイッチを切って見ると、意外に大きな音が車室内に響いていることに気づきます。だからそういった環境での談笑は、どうしても声を張り上げなければならなくなってしまいます。
ところがこの前、車内でとても静かに会話をしている三人グループがいました。手話です。たまたま私はそれがよく見える位置にいたのですが、ちょっとうらやましく思えました。お互いを見つめ合い、手と表情を素早く変化させ、音を一切立てずに(ノイズに一切邪魔されずに)“会話”を楽しんでいる姿を見て、私はいろいろ考えてしまいました。難聴であることがどうのこうのと傲慢をかますつもりはありません。私はただ純粋に、彼らがこのノイズの中で静かに会話を楽しんでいること自体がうらやましかったのです。
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