世の中にはいろいろ面白いことを主張する人がおられます。最近知ったのに「女性の膣は男性のペニスの形を“記憶”できる」というのがありました。
その主張の真偽以前に私が興味を持ったのは、「どのような方法でそれを確認したのか」「どのくらいのサンプル数で検証したのか」という技術的でしかも些細な部分です。もちろん「どのようにして膣が形状を記憶できるのか」という生理的メカニズムにも興味を惹かれますが。
ちょっと尾籠な話になりますが、そういった「形状記憶膣」を本気で主張する人の直腸は、きっと「これまでで一番硬かったうんこ」の記憶をその粘膜にしっかり刻みつけているのでしょうね。粘膜ではなくて括約筋が記憶しているのだとしても、「骨盤底筋」という分類では、尿道も膣も肛門もどれかを特別視する必要はないでしょうから、私の主張は変らないことになります。
もう一つの可能性があります。「形を記憶する」のが、肉体ではなくて魂だ、という考え方です。昔の日本には「三瀬川伝承」というものがありました。「三瀬川(三つ瀬川)」とは「三途の川」のことです。日本では人が死んだら三途の川を渡る必要があります。平安時代の“常識”では、男はざぶざぶと自力で三途の川を渡りますが、女は初体験の相手に負ぶってもらって渡らなければいけないものでした。それが決まり。だから『源氏物語』「葵」の巻で、六条御息所の生霊に取り憑かれて息も絶え絶えの葵の上に対して光源氏は「いかなりともかならず逢う瀬あなれば、対面はありなむ」と囁くのです。葵の上の初体験の相手は光源氏ですから、三途の川のほとりで待っていてくれたら(というか、渡れないから待っていなければならないのですが)あとから必ず自分が行って再会がかなう、ということです(*1)。
三途の川のほとりにたたずんでいるのは、生身ではなくて魂でしょうから、魂のどこかに初体験の男の“ペニスの記憶”が刻み込まれていて、そのペニスを持った男の魂がやってきたら、きっとどこかがぴぴぴっと反応するのでしょう。
*1)『男が女を盗む話 ──紫の上は「幸せ」だったのか』立石和弘 著、 中公新書1965、2008年、840円(税別)
ただし、光源氏の言葉を聞いていたのは葵の上に取り憑いた六条御息所の生霊でした。そして、六条御息所は光源氏と出会う前に他の男と結婚・出産を経験していますから、せっかくの感動的なことばも、六条御息所に対しては残酷なものでしかなかったのでした。ちゃんちゃん。
もうちょっと心理学的な議論にした方がよいかな?
もしかしたらそういった「形状記憶膣」を主張したい男は、「ぐふふふ、おれのペニスを忘れられない身体にしてやる」という男としてはあまり高級とは言えない欲望をだだ漏れさせているだけかもしれません。「膣がペニスの形状を記憶する」というのはつまりは「俺のペニスの形をお前の膣に刻み込んでやる」という主張の言い換えですから。ただ、「記憶の上書き」はないのかな、なんてことも私は思ってしまいますが。
そういえば「男はその女の最初の男になりたいと思い、女はその男の最後の女になりたいと願う」なんていう言葉があります。もしかしたら上記のような主張を本気でする人は「その女の最後の男になりたいと願う男」だったのかもしれません。
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「子供を作るのは簡単だが、親になるのは大変だ」ということばを聞いたことがあります。たしかに、生物学的に親になるためには生物学的行為をすればいいのですが、社会的な「親」になるためには社会的な訓練が必要ですから。
……ところで、親になるための社会的な訓練って、どこでやってるんでしたっけ?
医者にも同様のことが言えそうです。「医者になる」のは実は簡単です。医学部に行ってきちんと卒業して医師国家試験に合格したら、誰でもとりあえず「医者」です。ただそれはあくまで「医者のヒヨコ」。研修医制度をくぐり抜けたら「医者(の若鶏)」にはなれます。だけど、「社会の中できちんと機能する医者」になる(あり続ける)ためには、その後の訓練が重要です。
……ところで、そのための社会的な訓練制度って、どんなのとどんなのがありましたっけ?
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20世紀の思い出話です。
「残念ですが、ご臨終です」と宣告した瞬間、「ちょっと待ってくれ。長男が今新幹線に乗ってこちらに向かっているから、せめて死に目にあわせてやってくれ」と言われたことがある、で、到着は数時間後、は以前書いたことがあるかもしれません。
当時私が勤務していた病院では「臨終場面」というと、点滴・強心剤・酸素吸入・人工呼吸(気管内挿管)・心臓マッサージ・カウンターショックがまるで「セット」の様に登場していました。患者の家族から見たら、それらが“動いている”かぎり患者本人は“生きて”いて、医者が「ご臨終です」といってそれらの装置を片付けたらそこで初めて“死亡”ということだったのかもしれません。
このあたりは、医療者と非医療者のギャップを一番感じるところかもしれません。医者から見たら「患者が死亡した(生き返る可能性がない)ことを確認したから死亡宣告をする」のに対して、家族からは「医者が宣告をしたから死亡した(死亡宣告がない限りまだ死んではいない)」と捉えられているということで。
「死に目にあう」ことも重要でしょうが、それよりも生きているうちに何度も会っておくことの方がもっと重要なのではないかな……も以前書きましたっけ?
そういえば、当時は癌の末期での死亡でも、「それでも蘇生するかもしれない」と心臓マッサージをするのが慣例でした(今でも大きな病院ではそうなのでしょうか?)。しばらくやっていても一度止まった心臓は動こうとせず「これはもう」ということで手を休めて心臓モニターを確認すると家族から「まだ1時間しかやってないじゃないか。せめてもう1時間は心臓をマッサージするべきだ」とリクエストされたことがあります。癌の末期で、しかもおそらく脳はもう無酸素脳症となっているであろう状態でもしも心臓が動き出したとしても、それは誰にとって“良い”ことなのか、と、今の私は思います。
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入院後快方に向かっているのに「全然良くならない」と滅入っている患者さんがいます。「健康な時に比べたら今の状態はずいぶん落ちている。なにもかも上手くできない」と。
病気で一時ひどく弱っていた人がやっと快方に向かったとき、身体は明らかにまだ弱っているのに「倒れた時よりとっても楽になった」と健康だった時と同じように動こうとされる患者さんもいます。こちらは「もうちょっとペースダウンを」とブレーキをかけようとするのですが、ご本人はそれが不満そう。
たとえば、健康状態を100、ひどく弱っていた状態を40、現在を70、とします。すると、前者の患者さんは「100と比較したらマイナス30もある状態」なのですが、後者の患者さんは「40と比較したらプラス30」ということなのかもしれません。プラスマイナスで単純化したら、前者はマイナス思考、後者はプラス思考ということになるでしょう。
しかし……マイナス思考でもプラス思考でも、他人からこうやってケチをつけられたら、患者さんはたまりませんね。
ただ、「現時点の評価」はあちこちと比較するのではなくていわば「絶対評価」として。未来に向かっては「プラス思考」。これだと、余分な不幸を生産することは予防できそうな気がします。
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私が大学時代の6年間を過ごしたのは、シングルベッドと机だけで一杯になる程度の狭い部屋でした。本当に狭苦しかったけれど、部屋でやりたいのは、勉強と読書と音楽と睡眠だけ。別に部屋で宴会をするのでなければそれで充分な広さ(狭さ?)だと私は思っていました。「未来」が広々としている時には「現在」の狭さはそれほどの問題ではなかったのです。
最近ちょっと必要がありそうなので、老人用の介護つきマンションを見て歩いて、その狭さにはため息が出ました。さすがに我が青春の部屋よりは広いのですが、ベッドとテレビ台と整理ダンスで簡単に占領できる程度の広さ(狭さ)です。もちろん食事は1階の食堂に行けば食べられますし、あとは部屋で息をしているだけならそれで充分でしょう。だけど、ものなんか無くても平気で生きていける若者ならいざ知らず、思い出を一生分持っている人が住むには、あれではあまりに厳しい。アメリカのビジネスマンだったら「オフィスの机を飾る程度のものだけで“自宅”で生きていけと言うのか」と言うかもしれません。「友人を見たらその人がどんな人かわかる」「食べてきたものを聞けばその人がどんな人かわかる」なんてことばがありますが、それと同様に「その人の持ち物」もまた「その人の人生の履歴そのもの」です。たとえそれが他人から見たらただのがらくたでもね。
もちろんその人の生存に必要な最小の空間が確保されていることはわかります。でも、「最低限の空間」では「最低限の幸福」さえ得られないのではないか、と私には思えるのです。「食って出して息をしているだけが人生」なのだったら話は別ですけれど。
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医者が患者の「現在」を見ればいいのだったら、24時間監視をしなくてはいけなくなります。「未来」が次から次へと押し寄せてきて「現在」になるのですから。
医者が患者の「未来」を見ればいいのだったら、現在“も”見た上でこれからのことも常に考えなければいけないことになって、上の段落の「現在を見る」よりも忙しくなりそうに思えます。ただ「何が起きるか分からない状態で24時間監視」でひたすら時間に追われるよりは、「何が起きるか大体予想できる状態で24時間監視」の方が、ミスする確率は減少するでしょう。
それが、医者が患者を“診る”ということだと、私は思います。
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「薬師(くすし)」は昔は医者のことでした。奈良時代には典薬寮という医学組織がありましたが、その名前にも「薬」が入っています。つまり、古来から日本では「医者」とはすなわち「薬をあやつる人」だったのです。だから江戸時代の文書でも「医師」と書いて「くすし」と読ませているものがあります。そもそも江戸時代にはまだ「薬剤師」は存在しませんから、薬の調合もまた医師の仕事の一つでした。患者の状態によって、生薬の配合を微妙に調整する「さじ加減」を行なうためには、このやり方がぴったりマッチしていたと言えるでしょう。
西洋では早くから「医師」と「薬種商」の分離が行なわれています。おっと、「分離」と書くとまるでその前には一体だったみたいですね。少なくとも私が知る限りでは、ずっと昔(少なくとも古代ローマ時代)から「別の職業」だったようです。だから歴史と文化の帰結として西洋では「医薬分業」が当然のことです。
しかし日本では「医師=くすし」ですから、明治以降も開業医が自分の所で薬を出すのは当然のことでした。そして「医者にかかるまでもない状態」の時に使われたのが「売薬」です。越中富山の置き薬がその代表ですが、都会では薬屋もあり、そこで各種の薬を手に入れることができました。つまり日本での「医薬分業」は「医者が出す薬」と「患者が自分の判断で買う薬」の「分業」だったのです。
この伝統は実は今でもしっかり生きています。西洋かぶれの「医薬分業」によって「医者が出す薬」は「薬局で薬剤師が出す薬」になりましたが、かつての「自分で買う薬」は「いわゆる市販薬」「特保」「健康食品」などがその地位を継承しています。ただ、そういった「医者が出したのではない薬(あるいは、薬のようなもの)」に関しても、責任ある判断ができる「くすし」がいた方が良いのではないか、と私は思います。あ、「医者」はその任ではありません。自分が出したのでもない薬(あるいは薬のようなもの)について責任のある判断をするのは難しいし、そもそも今は「医師」は「くすし」ではなくて「いし」ですから。
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酸化と還元を習ったのは、中学校の時でしたか(pHを習ったのが中学校だったと記憶しています)。単純に言ったら「電子の授受を伴う化学反応で、酸化される物質は電子を放出し、還元される物質は電子を受け取る」と言えます。だから「酸」には「水素イオン(H+)」がたくさん含まれるわけ。
NATROMさんのブログ「NATROMの日記」の「[トンデモ]武田鉄矢氏がラジオでソマチットに言及した」のコメント欄で、記事の本題とはまったく違う「還元水素水」の話題を持ちだした人がいました。かつてNATROMさんがこっぴどくこの商品を叩いたらしいのですが、それがお気に召さないご様子です。
で、私はまず「還元水素水」のところで引っかかってしまいます。
「水素水」ならまだわかる気がします。「溶存水素がリッチな水」でしょう。で、そこに「還元」がつくと意味ががらりと変わってしまいます。
「還元水素水」を“日本語”にしたらどうなるか、と考えて、「水分子の水素原子が還元されている」「水に溶けている水素分子が還元されている」の二つの可能性が私には見えました。だけど、「水素を還元」するためには水素原子に電子を受け取らせなければなりません。
私は化学に弱いので(あるいはオツムが弱いので)、水素を還元するのにどうやったらいいのか、上手い手を思いつかないのです。
もう一つ引っかかっていることがあります。「マイナスイオン」について考えた時に「同時に発生するプラスイオンはどこ?」と思いましたが(「イオンの数」)、それと同じ。酸化と還元はペアです。酸化があれば必ずそこには還元があります(電子の授受なのですから)。すると「還元水素水」で「酸化」はどこに対して行なわれているのでしょう?
あ、「一度水素イオンに(つまり「酸化」)しておいてから、また水素原子に戻す」という手がありました。わざわざこんなことをする必要がある意味はわかりませんが、少なくともこれだったら「酸化」と「還元」はちゃんと行なわれ、しかも「水素」が「還元」されそうです。
なお、電気分解した水の「酸性水」と「アルカリ水」を「酸化水」「還元水」と呼んでいるのでしたら、その電解過程で水素は「酸化」されているのか「還元」されているのか……は、なんだかあほらしくなってきたので考えるのはここでやめます。
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たまには変わったものも、と思いついたので書いてみました(書いていて興が乗ってしまったのでふだんより長くなりました。お時間の許す方だけ、どうぞ)。いつものフィクションは「実話をベースとしたフィクション」ですが、今回は「完全なフィクション」、というか、これのベースに実話があったら、ちょっとコワイかも。
美しい透明人間
私は真っ当な科学者だ。しかも、すこぶるつきの優秀さを誇っている科学者である。ところが、人を見る目を持たない奴、たとえば私の助手は、あろうことか私のことを「真っ当な科学者」ではなくて「マッド・サイエンティスト」と呼んでいる。もちろん面と向かってはちゃんと口では「松戸博士」と言うが心の中では「マッド博士」と呼んでいることは間違いない。
しかし、どう呼ばれようとかまわない。私が作り出す驚異の科学の結晶、それこそがすべてなのだ。さあ、助手を呼んで驚かせよう。わはははははは。
「マッド博士、あんまり無意味に大笑いしているとご近所の評判になりますからやめてください」
「無意味な笑いではないぞ、助手君」
「その『助手君』もやめてもらえませんか、マッド博士」
「助手君こそマッドはやめてもらえんかな。私はマッドサイエンティストではない。松戸だ」
「だからマッド博士と呼んでるでしょ」
「……まあいい。君を呼んだのは他でもない、世紀の大発表をするためだ」
「またですかぁ」
「なんだ、その不服そうな目は。良く聞きたまえ。私は遺伝子操作に成功した」
「ショウジョウバエだったらもうとっくに過去の遺物ですよ。哺乳動物でも、ネズミもウサギも牛も狸ももう先人がいます」
「何を言う。そんな単純なことを私が見落とすと思っているのかね。ヒトだ、ヒト」
「ヒト? 一体何をやらかしたんです?」
「これを見たまえ。私は自分の腕に特殊光線を照射し続けることにより、細胞を変化させることに成功したのだ」
「…………マッド博士、医者に行った方がいいですよ」
「助手君、いくら私のことをマッドサイエンティストと評価しているからと言って、面とむかって言って良いことと悪いことがあるぞ。精神病院に行けとは何事だ」
「違いますよ、マッド博士。精神病院ではありません」
「じゃあ、医者というのは何事だ?」
「皮膚科ですよ。私は医者じゃないから断言できませんけれど、マッド博士の腕にできているのはおそらく放射線による皮膚炎か、もしかしたら皮膚ガンです。早く行って処置してもらった方が身のためですよ」
私は優秀だから、医者になんか行かなくても皮膚の処置くらい簡単なのだ。ちょっと血が出て傷痕が残ってしまっただけだ。ううむ、いくら優秀な科学者でもこんな傷痕があっては美しくない。ならば何とかしよう。
そうだ、傷を透明にすればいいのだ。いや、いっそ体全体を透明にしたら、傷痕なんか見えなくなるだろう。なんとすばらしい解決方法だ。わははははは。
「マッド博士、あんまり無意味に大笑いしていると、口から風邪を引きますよ」
「ば、ばかせとは何だ! 私ははかせだ」
「はい、はかせ。で、今度は何です?」
「聞いて驚くな。透明人間だ」
「しっかり見えますけど?」
「私が試すのは最後だ。まず動物実験をしてからだよ」
「不必要な動物実験反対と街頭でデモしてる人がいましたっけ」
「なら、可哀想なネズミのかわりに助手君が志願するか? 私はそれでもかまわんぞ」
「私は必要な動物実験には賛成します」
ということでそのへんでつかまえてきたネズミに薬を飲ませることにした。実験室の床をちょろちょろ這っているネズミはたくさんいるから実験材料には事欠かない。なかなか捕まらないのが難点だが、それは助手君が多大な努力をしてくれた。さて、幸運にもつかまったネズミに対して、水に薬を混ぜて口元に突きつけると生意気にそっぽを向くから、先を丸めた長い注射針を口から胃まで差し込んで直接胃に流し込んでやった。私に対して無意味な抵抗は無意味だ。
薬はちゃんと効いた。私は優秀だと言っただろう? ただ、生意気なネズミは生意気なことに完全には透明にならない。
「なんだか……部分的に妙にぼやけてはいますが、透明とはほど遠いですね」
助手までもが生意気な口を利く。
「ふん、予想された結果だ。時間が経てばもう少し透明度は増すはずだが……」
「負け惜しみは聞き苦しいし、自己弁護はみっともないです」生意気な助手はますます生意気だ。
「ちゃんと聞きたまえ。薬は経口投与された。その薬は生きた細胞に届くとそれを透明化する。ということは、薬が効くのは血液や体液が到達できる範囲に限定される。すでに成長や細胞分裂を終了したいわば死んだ組織は血流がないから薬が届かない、したがって透明にならない。だが、少しずつ細胞が入れ替わる組織はこれから少しずつ透明な細胞に入れ替わるから透明度が増すはずだ。私の言葉の意味がわかったかね」
「なんか説得されてしまいそうです。博士は詐欺師の才能もあるんじゃないですか?」
「ただ単に論理的科学的に話しているだけだ」
「ということは、たとえば髪の毛は透明にはならない?」
「毛の中のメラニン色素に体内の薬は到達できないからな。きわめて論理的に明快だ。なんなら剃ればいい。一度体が透明になってから生えてくる毛は透明になるだろうから問題はない」
「あとは、どんなものが透明にならないんでしょう?」
「少しは頭を使え。たくさんあるだろう。爪、皮膚にこびりついた垢、骨、胆汁……」
「胃の中の食物、腸の中の大便、膀胱の中の尿……」
「何か、わざと選んで言ってないか?」
「いえ、科学的論理的に考えています」
助手が言った言葉で、もしこの薬を私が服用したらどのような姿になるのかイメージが湧いてしまった。頭髪や眉毛睫毛目くそ鼻くそが宙に浮いている。風邪をひいていたら鼻水もふわふわ浮いているだろう。骨もカルシウム部分は見えるはずだ。そして……お腹には便と尿の塊がふわふわと……いかん、美しくない。こんな美しくない透明人間は却下だ却下。そもそも、美しい美しくないと論じることができるものは透明人間の名に値しない。
そこで、天才たる私はおつむをフル回転させた。生物学的な手段に限界があるのなら、物理学的あるいは化学的な方法論に解決を求めればいい。きわめて論理的科学的な論理展開だ。
できた。
「もうできたんですか。早すぎません?」
「できないことに文句を言われるのなら我慢もするが、できて文句を言われるのは心外だ。簡単なことだよワトソン君」
「私はワトソンでは……」
「なら、助手君」
「助手君……それもげんなり」
「正確には『できないことに文句を言うのではなくて、できたことに心外な文句を言う助手君」だな。これからずっとそう言ってやろう』
「……ワトソンでも良いです」
「……『でも』? そういえばネズミが足りなくなっていたようだな」
「いえ、ワトソン、好きです。ぜひそう呼んでください」
「そうか、そこまで言うのなら呼んであげよう。さて、気を取り直してやり直しだ。
簡単なことだよワトソン君。たとえば熱は、放射・対流・伝導で伝わるが、この場合には薬物もその放射にあたる伝わり方をさせればいいのだ」
「理屈はわかりますが……わかったような気がしますが……そんなことが可能なんですか?」
「できるから言っているのだよ。ただ、凡人には思いつかないだろうな。これを見たまえ、ワトソン君」
「はい……とほほ」
「透明化薬の構造式だ。この側鎖を手前にこう曲げる。すると全体にストレスがかかって、ほら、薬の分子が量子ジャンプをするのだ。これで、血液など体液が届かない部分にも薬物の効果が及ぶようになる。すばらしい大発明だぞ」
「はかせ……」
「何かね?」
「すると……その透明人間のそばにいたら透明が伝染するんですか?」
「そこまでの距離の量子ジャンプはできないだろうな。ただ、透明人間と肉体的接触をしたらその部分が透明になることはあり得る」
「すると、透明人間と握手したら手のひらが透明に……セックスをしたら……うげ」
「何を真剣に考えている? ……うーむ、世界中の人間に透明が伝染するのはたしかに迷惑だろうな。ならば量子ジャンプの方向を体外には向かないように設計しておこう」
「……なんと、きわめて真っ当な解決法だ! すごいすごい」
「論理的科学的に当たり前のことに、なぜ感動する? では、改良もできたし試してみよう。ごっくん」
「はやっ! で、いきなり飲んじゃうんですか? 動物実験は?」
「ネズミが足りない、とさっき言っただろう。君は記憶力を持っていないようだな」
「博士、私は記憶力は持っています。その証拠に大変なことを思い出しました」
「何かね?」
「目です。目まで透明になったら、何も見えなくなります。目のレンズは屈折しないし網膜が表からも裏からも光を浴びてきちんとした像が見えません」
「私がそんな単純なことを忘れているとでも思っているのかね。まずレンズだが、レンズはそもそも透明な臓器だから問題はない。光はちゃんと屈折する。次に網膜だが、これはハーフミラーの原理を使っている。透明化薬が網膜にだけ特殊な作用をするようにしてあって、レンズを通った光は網膜に到達するが、それ以外の光は反射するようになっているのだよ」
「まるで今思いついたばかりのような、ものすごく都合が良い理屈ですが……すると、目玉だけは完全に透明にはできない、ということなんですね」
「しかたあるまい。外から見えない透明人間が、自分の外を見ることができない、なんてのは洒落にならないからな。目玉くらいは勘弁してもらおう」
「半透明の目玉がふわふわ浮くんですか?」
「大便が浮いているよりマシだろう」
助手君(別名ワトソン君……しかし、いつ改名したのだ?)と罪のない会話をしているうちに薬が効いてきた。体がどんどん透明になっていく。上手くいくという確信はあったが、実際にそれを自分の目で確認するのはやはり快感だ。手がすっとほぼ透明になり、残っていた爪と毛(私は毛深いのだ)が少し遅れて色を失っていくのを見るのはやはり嬉しい。
他の部分はどうだろう。服を脱ぎ始めると助手君、もとい、ワトソン君が頓狂な声を出した。
「何を騒ぐ?」
「だって、急に裸になるからびっくりしました」
「透明人間が裸になるのは常識だろう」
「私には社会人としての良識がまだ残っているんです」
こんどはそういった良識を一時的に透明にする薬を開発してやろう、と秘かに決心した。いやまて。「まだ残っている」とは何かの原因で良識が減っていった、ということか。危ない奴だな。今後はワトソン君の行動に気をつけなければ。勝手に名前を変える奴はやはり信用ならない。
完全に薬が効く時間になったが、どうも完全に透明になった気がしない。薬が不完全だった? 天才たる私がそんなミスをするわけはない。なら、なぜ自分の体が見えるような気がするのだろうか。身体感覚が邪魔をしているのかもしれない。自分の体がある、という意識が本来見えないものを自分に見せているのかもしれない。
「ワトソン君、どうだ、消えたか?」
「はい、透明にはなりました。なりましたけど……」
どうもワトソン君の歯切れが悪い。
「どこかに色が残っているのか?」
「いえ、無色です」
「無色で透明なんだな?」
「はい……いえ、それが……」
「ええい、はっきりしない奴だな。何が言いたいんだ」
「無色で透明なんですけど、見えるんです」
文法的には正しいが意味を成していない言葉を聞かされた思いだ。たとえば「丸い三角」とか「悪い善人」とか。
「でかい姿見を持ってきます。見てください」
透明人間だから見えないだろうに。
鏡が来た。見た。見えた。
「……さっき博士が言われましたよね、レンズは透明で屈折する。それでしょう。博士の体は無色透明になったけれど、光の屈折と反射でそこに体があることはわかるんです」
「そうか、クリスタルの人形は透明だが『見える』な。それと同じか」
「水を入れたビーカーも見えます」
「透明なダイヤモンド」
「水を入れたガラスコップも」
「……喉が渇いているのか?」
しかし、せっかくの透明人間が「見える」とは困った。これは成功か失敗か?
「でも、きれいです」
だから、きれいとかきれいでないとか表現できてしまう透明人間は……
ワトソン君が外をうかがっている。美人でも通ったのか? 何に得心したのか大きく頷き、窓にかかったカーテンを開ける。沈む直前の夕日が部屋に射し込み私の体を直撃した。姿見の中で私の体が輝く。クリスタルの人形にカクテル光線を浴びせるよりもっと柔らかくしかも華やかな色合いで、様々な色の光が人の形に結晶している。よく見れば体内の透明な内蔵(+透明な便)も複雑な屈折を与えているようで光のハーモニーに豊かさを加えている。さらに体の動きに連れて色合いは変わる。立体的で流動的な虹だ。透明な髪の毛のあたりはきわめて複雑なモアレ模様を描いて本当に美しい。私の人生で心から自分が美しいと思えたことは生まれて初めてだ。
うん、こんなに美しい透明人間は、成功と決めよう。
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「越中富山の薬屋さん、鼻くそ丸めて萬金丹」というはやしことばがあります。おそらく「薬九層倍」を揶揄したものでしょうが、鼻くそを丸める指の動作が丸薬を指で丸める動作とよく似ていることがこのことばの発想にあるかもしれません。(ちなみに、西洋の医者は鼻くそを丸める指の動作を「Pill Rolling」なんて言います(そんな不随意運動があるのです))
ただ、丸薬を大量生産するときには一つ一つ指で丸めていたら間に合いません。何らかの器具(たとえばこんなもの→「扇形製丸器 −丸薬作りの道具−」(内藤記念くすり博物館))を用いていたはずです。だから、いくら熱心にナニカを指で丸めても、それは万金丹ではなくて「丸められたナニカ」になるだけでしょう。
※「薬九層倍」に興味を持たれた方は、09年11月26日の「薬九層倍」でもどうぞ。
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