| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | ||||
| 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
| 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
| 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (141)
「小学校で、学級委員に立候補する子がいなくなってきた」と聞いたのは、今から15年くらい前だったでしょうか。私が小学生の時には自薦他薦で優等生とか勉強は苦手でもクラスのリーダー格とかが常に数人候補になって選挙をしていましたが、事情は変ったものだ、と思いましたっけ。子供に事情を聞くといろいろ言っていましたが、つまりは「面倒、責任を負わされる、自分の時間が減る、メリットがない」。
ただ、子供のことだけは言えません。当時のPTAでもやりたくない人ばかりになって役員選びが大変でしたから(こちらは20年以上前からその傾向が顕著でした)。大人も結局同じことを言っていたのです。もしかしたら子供は「親の背中を見て育」っていただけかもしれません。
私は今も(小学校ではありませんが)まだPTAと縁がありますが、学級委員にしてもPTA役員にしても、事情は悪くはなっても良くはなっていないようです。
PTA役員はボランティアですが、考えてみたら、学級委員はたしかに「損な役目」ではありますよね。昔はそれでも「名誉」というものが“対価”として存在していましたが、今は学級委員だからと言って特に何の実績になるわけでもないし尊敬されるわけでもなくて、責任だけ負わされることになりかねないのですから。
この前民主党の党首選を見ていて、「候補者が複数いるだけ、学級委員よりはマシか」と思いました。ただ「党首候補」よりも「オザワさん」とか「マスコミ」の方がよほど偉そうにしているのが不可解でしたが。「院政」とか「外戚」という“日本の伝統”に乗って、「エライ人」を選択する決定権を持つ人が一番エライ、ということなのかもしれませんが。
ただ、そうやって「責任ある地位」に誰かを祭り上げて、そのメリットは自分が享受し、ことが上手く行かないようなら公然と足を引っ張って喜ぶ、という政治家やマスコミの態度は、小学校の教室以下と言えます。おっと、そういった人たちの「背中を見て育つ」子供たちはこれから教室でそれとそっくりの行動をし始めるのかもしれません。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (49)
固定リンク | コメント (1) | トラックバック (3)
「青春」……ブルーな春
「青信号」……青ペンキで塗りたくられた信号
「青二才」……この青は二才になったばかりです
「青は藍より出でて藍より青し」……単なる化学反応
「青菜に塩」……青白くなるかもしれない
「青息吐息」……呼吸器の奇病
「青葉」……ブルーになっている葉っぱ
「青首大根」……胴体や手足の色は?
「青写真」……青いものの写真
「青物市場」……端から端まで真っ青なマーケット
「万年青」……常緑樹の主張
「青函トンネル」……青函連絡船の敵
「小青竜湯」……小さな青竜がつかったことのある温泉
「青鬼」……赤鬼を泣かせる悪いやつ
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
固定リンク | コメント (3) | トラックバック (13)
薬局から「現在○○さんに処方中の柴苓湯の在庫が切れました」と連絡がありました。問屋に頼むにしても、すぐの分がない、とのこと。
頭の中で何かがひっかかるのでじっくり思い出してみたら、出てきたのは20年くらい前に講演会で聞いた話でした。「柴苓湯がない場合には小柴胡湯と五苓散を合わせて飲めば、ほとんど同じになる」と講師が言っていたのです。そこでツムラからもらった手帳をめくってみたら、たしかにほとんど同じになりますね。
ツムラの製剤の場合、「柴苓湯」なら1回に3グラム飲めばいいのが、「小柴胡湯と五苓散」だったら2.5グラムが二つなので5グラムになってしまうのが難点ですが、非常時には使える知識……って、一生でそんなに使うことはないでしょう。なんでこんな知識を後生大事に持ち続けていたのでしょうねえ。我が身ながら、自分の脳みその働きが本当に不思議です。まあ今回は役に立ったので、ヨシとしますか。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
固定リンク | コメント (2) | トラックバック (12)
汗腺はほぼ全身の皮膚に分布しています。汗の目的は、体温調節。それから「手に汗握る」という表現があるとおり、掌やそれから足底にも汗腺がありますが、こちらの目的はおそらく転落防止。私の遠い祖先が樹上生活をしていた頃に、グリップが滑って落っこちないように枝を掴む掌と足の裏に適度な湿り気を与えていたのではないでしょうか。
人体の汗腺には二種類ある、と私は学校で習いました。一つは、液だけを分泌するエクリン腺。もう一つは、汗腺の細胞が自分の一部をちぎって分泌するアポクリン腺。全身に分布しているのはエクリン腺で、ものすごく単純に言うと、エクリン腺からの汗は、血液の液体成分を濾過して成分を調整したもの、と言えます。アポクリン腺は脇の下など分布が限られています(ついでですが、細胞成分が混じっているから“栄養”が豊かなので細菌が喜ぶんですよね。それで発生するのが腋臭です)。
新聞に「足の裏にぺたんと貼ると、“悪いもの”を汗と一緒に排出することで人を健康にする」という“健康アイテム”の広告がありました。その証拠として、足の裏に一晩貼っていたシートがどす黒く汚れている写真が載せられていて「ほら、こんなにキタナイモノが出てきている」と。
有史以来人類は「体内の有害なものを排出することで病気を治す」発想とともに生きてきました(他に「悪いものをやっつける」「良いものを補う」という発想による医療もあります)。吐剤・下剤・発汗・瀉血が排出するための主な手段ですが(吐剤・下剤は厳密には「消化管の中身」を出すのでまだ“体外”のものです(消化管の内側はまだ“体外”扱いできます)が、発汗・瀉血は間違いなく“体内”のものを体外に排出させています)、面白いことに、これ、洋の東西を問わないんです。医学史を見ると、古代ローマでも古代中国でも似たことをやっています。ただ、漢方医学に瀉血はありません。古代中国では瀉血はやってみたもののすぐに廃れてしまい、そのためのメスがとても細くなって鍼になった、ということらしいです(だから江戸の長崎屋でオランダ人医師が瀉血をしてみせたら日本人は皆感銘を受けています(『蘭方事始』)。ただ、昔の“毒物”は重金属やダイオキシンなどではなくて、昔のギリシアあるいはローマ医学では「悪い体液(あるいは体液のバランスの失調)」、昔の中国で「悪い気」だったはずですが。
「そもそも「汗の排出」は有効な治療法なのか?」はとりあえず脇に置いておいておきましょう。汗腺細胞を説得して「人体に有害な成分だけ分泌させる」ことができるかどうか、私には説得力の点で自信がありませんが、それは私の個人的な問題でしょうから。
私がこの“健康アイテム”で疑問に思ったことは以下の3つです。
(1)私は黒い汗をかいたことがあったっけ?
(2)「排出されているモノ」の正体は一体何?
(3)コントロール・スタディは?
私がこれまでの人生で何リットル(キロリットル……あるいはもっと?)汗をかいたか測定をしてはいませんが、相当量の汗をかいていることは間違いありません。しかしこれまでに「黒い汗」をかいた覚えはありません(私が経験した一番過酷な環境での発汗だと、大学時代の真夏に2時間以上全力で走って体重が数kg減少した、というのがありますが、その時もシャツや靴下は黒くはなりませんでした)。もちろん、肌が埃や垢で汚れている時にそれが汗に混じってタオルが真っ黒、ということは経験がありますが、それは皮膚の汚れのせいで基本的に汗はほぼ無色透明のはずです(それともこれは私だけの特殊事情なのかなあ。下着や靴下の内側、シーツが毎日どす黒くなっている、と言う人は、どのくらいおられます? あ、取り替えないから汚れる、はダメです)。つまり私は「黒色」は「体内」ではなくて「体外」由来(皮膚の窪みや毛根部、汗腺・皮脂腺の微小な窪みに存在する汚れ)ではないか、という疑いを持っているのです。
「いや、だからこそ体内から“黒い汗”をかかせることに意義があるのだ」という主張に出会いそうなので、それに対する素朴な疑問が(2)です。その場合、その「どす黒いモノ」は、汗に混じって体内から分泌されているわけです。足裏の汗腺はたしかエクリン腺ですから、その汗は血液由来。すると「それ」はもともとは血液の中を流れていたはず。で、それは、何?(そもそも「人体内の有害物質」は「黒い」んですか?)
そこまで科学的に追究しなくても、「そのどす黒いモノが体内由来か体外のものか」は(3)のデータである程度のことはわかりそうです。たとえばこんなやり方です。「まず足の片方だけを徹底的にきれいに洗って、件のシートを両足に貼り付けてから左右の汚れ具合を確認する(「汚れ」が体内由来なら左右差はありませんが、体外(汗腺の窪みや毛根部)のものであれば洗わない足の方が汚れがひどいはず)」「毎日貼り付ける体の部位を変更してその汚れ具合の変化を観察する(「体内」が浄化されたのだったら、毎回貼る部位を変更してもその汚れはどんどん薄くなっていくはず。で、最後にまた(こんどは洗っていない)足裏に貼ってみたいですね)」
それで「やはり体内からだ」ということになれば、そこでまた話を(2)に戻しましょう。
どなたか、自腹で(3)の実験をやってみてその結果を報告してくださる方、おられません?
※昼休みに追加です。
「薬を飲んだら汗(や尿や唾液)が黒くなる」現象があったのを書き忘れていました。パーキンソンに使うドパミン前駆物質の薬剤でたまに起きることがあります。ただ、本日のお題とは無関係の話ですけれど……「薬は基本的に毒だ」とすればつながるかな?
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (2)
医学に絶対的な正解はありません。「どれが最善の治療法か」以前に、そもそも「治療するかしないか」でさえもが選択肢として議論の対象になってしまいます(たとえば、医療者や家族から見たら「当然治療するべき」であっても、本人の価値観から「治療はしない」がベスト、ということがあります)。
「治療をする」で全員が合意しても、そこでこんどは「どの治療法を選択するか」でもめることがあります。まあ「もめること」自体は(それに使える時間がある限り)大きな問題ではありません。合意形成の過程に時間をかけたとしても、それで関係者全員にきちんと合意ができればあとはスムーズに進みますから。そこを省略してぱぱっと方針を決定してしまうと、合意がない状態で物事が動き始めるわけで、結局まっすぐには進みません。行ったり来たりぎくしゃくぎくしゃくして、最初の話し合いを省略して節約したはずの時間以上に結局時間がかかることになります。しかも関係者全員の気分が悪くなる。
では最初に合意形成をしたらそれですべてが上手く行くか、と言えばもちろんそうではありません。医学は不確実で想定外のことは常に起きます。また、合意を反古にする人や最初の話し合いの時には知らんぷりをしておいて話が進み始めてからそれをひっくり返そうとする人が、必ず登場します。で、そういった人たちの多くはなぜか医者をターゲットにします。「今の治療方針は気に入らない。だから変えろ。方針を変えることに関して、患者本人と他の家族の説得はお前がやれ」と。
ここで、「被災地の松を燃やすな」「福島の花火を上げるな」という主張をぶつけられた主催者のことを私は思います。「やめろ」「やめるな」で板挟みになった彼らは本当はこう言いたいのではないでしょうか。「反対の意見をそれぞれ自分にぶつけてくるのではなくて、まず違う意見の持ち主同士で話し合いをしてくれないか」と。民主主義って、ふつうはそうするものでしょ?
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (6)