講演会場などで坐る席を探しているとき、私は空席ばかりを見つめています。そのとき塞がった席はあくまで塞がった「座席」であって、そこに坐っている「人」のことは見つめません。ですから無事空席を見つけて坐ってからすぐ近くに知人がいることを発見する、ということはけっこうあります。
単にこれは私の注意力が不足していることを意味しているだけかもしれません。ただ、それだとちょっと悔しいので話題を一般化してみましょう。
「ルビンの壺」というものがあります。ご存じない方はグーグルで画像検索をかけてみて下さい。
この「壺」では、輪郭線が「壺」と「横顔」の二重の意味を持っています。しかしそのどちらかに注目してしまうともう一つの“意味”を人は見失ってしまいます。「両方見える」と言うことはもちろん可能ですが、それはおそらく「感覚による認識」ではなくて「記憶力の駆使」の結果のはずです。
医者が行う診断にも、同様の「地と図」現象があるように私には思えます。患者を診察していて何かの病気を思いついたとき、ついついそちらの方にだけ注目してしまうと「壺」ばかり見つめてしまって、実はそれが「横顔」である可能性を忘れてしまう、といった感じで。ネガティブな見地からは「もっと気をつけろ」と言うことができますが、ポジティブな見地からはここに「チーム医療」の利点が持ち出せます。同じものを見ても、見る人が違えばそこには違うものが見える場合があります。「違うものが見える人と一緒に見ること」と「コミュニケーション」、それがチーム医療には不可欠だと私は感じるのです。それは私の不注意を補ってもらうためだけではありません(もちろんそれをやってもらったら助かりますが)。「一つの輪郭線」が持つ「二重(もしかしたらそれ以上)の意味」を見逃さないために、なるべく“異質分子”がたくさん混じった構成のチームであることが望ましいのです。
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「万里の長城は、宇宙から肉眼で見える地球で唯一の建造物」なんて言い方があります。その真偽は今だったらたとえばスペースシャトル乗員の証言を聞くとか、“自力”でやるのならグーグルアースで簡単に確認できますが、ともかく巨大な構造物であることは間違いありません。古くは紀元前の戦国時代にすでにその工事は中国各国(特に秦・趙・燕の三国)で始まり、統一王朝としてそれをまとめたのが秦の始皇帝だそうです。
ただ、重厚長大な城壁さえあればそれで安心かと言えば、もちろんそうではありません。見張りの兵隊を置く必要がありますし、メンテナンスも日常的に必要です。さらに、「敵接近!」の報せが烽火などでもたらされたとき、即座に反応して出撃する守備隊も配備しておく必要があります。もしも王が「長城(の城壁)」だけ見て安心していたとしたら、それは暗愚の証拠です。
古代ローマ帝国での「対異民族用防壁」はまさに「システム」で、川(*)や濠や城壁だけに頼るのではなくて、要所要所に砦を築いて少数の兵隊を配置し、その背後に軍用道路を整備して、さらにその背後に置いた軍事基地からどこへでも即座に部隊を出撃できるようにしていました。「立派な防壁があるから、もう安心」ではなくて、「防壁で防げるものは防ぐ。もし破られて、少数が侵入した場合にはこうする、多数が侵入した場合にはこうする」と次の手段さらに次の手段を想定して準備していたのです。
*)たとえば「ライン川」は、ゲルマン族がガリア(現在のフランス)へ侵入することを防ぐための古代ローマ帝国の「北西部の防壁」として重要でした(帝国北東側でそれと同じ機能を持ったのがドナウ川です)。ところが20世紀になって、こんどはライン川は逆方向に「防壁」として機能することになりました。第二次世界大戦末期、西から迫り来る連合国軍に対してドイツ軍はライン川の橋を次々爆破して機甲師団の侵攻を止めようとしたのです。ただ、レマーゲン鉄橋が目立たないところに残っていてその爆破が間に合わなかったために連合国軍はそこから一挙にドイツ領内になだれ込んでいきました。ユリウス・カエサルがこの戦いを見たら何と言ったかな、と思うことはあります。
参考図書:
『万里の長城 攻防三千年史』来村多加史 著、 講談社現代新書1674、2003年、720円(税別)
『ローマ人の物語』塩野七生 著、 新潮社
『ガリア戦記』カエサル 著、 國原吉之助 訳、 講談社学術文庫、1994年(2002年16刷)、1313円(税込み)
『最後の100日 ──ヨーロッパ戦線の終幕──』(上下巻)ジョン・トーランド 著、 永井淳 訳、 早川書房、1966年
「セーフティ・ネット」についても、私は「長城」と同じような見方をしています。社会で最も困っている層の人たちを救うための制度ですが、はたして「城壁(制度)」だけを作って安心していて良いのか、と。人を配置し、その人たちの待遇を良くし(長城で見張りの兵隊を虐待したら、防衛機能ががくんと落ちます)、日常的なメンテナンスを熱心に行ない、そしてその“城壁”が破られたときのことも考えて背後にきちんと準備をしておく。ここまでやったら「セーフティ・ネット」は“機能”するでしょう。逆に、以上に書いたことのどれかの手を抜いたら、機能しないでしょう。
厚生労働省は、ちゃんと考えてやってますよね?
さらに“贅沢”を言うなら、“長城”は二段構えだともっと安全性が高まるように思います。最終的なセーフティ・ネットに落ちる前の“予防”としての“ネット”を置いておきたいのです。穴の底に落ちてしまった人を穴の外に出すよりは、穴の底に落ちる前に助ける方が、重力に逆らう必要がないから、物理的なエネルギーは相当節約できるでしょ? 厚生労働省のお役人たちでも、そういった計算はできますよね?
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病院にはよく泥棒が出没します。なにしろ病院は外部に向かって“開かれて”いますから、外来患者・入院患者・付き添い・職員・業者・見舞い、などに混じって“そうではない人”がいてもすぐにはチェックが難しいのです。しかも、貴重品をしまう場所は限られています。ですから泥棒にとっては「入りやすい」「見つかりにくい」「探しやすい」という非常にありがたい場所なのです。ただし、一攫千金は望みにくいのですが(給料が現金支給の病院の金庫を給料日に破れれば、話は別です)。
ですから、「お見舞いに金一封」はなるべくやめた方が良いです。渡された方に心理的負担を強いることになりますから。最近は病院によっては鍵がかかる引き出しやロッカーが準備されているところもありますが、優秀な泥棒にはそういった鍵はちゃちなものにしか見えていないはずです。
ところで、どうして「泥棒」「泥坊」なんでしょうねえ。昔の盗人は泥まみれだったのかな? 歩いたあとに泥の足あとがついてくれるのだったら、発見が容易になって有難いんですけどねえ。
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最後には大失敗に終わったとはいえ、途中までナチスは“大成功”でした。ヨーロッパのほぼ全土と北アフリカまで支配していたのですから。最盛期の古代ローマ帝国よりその版図は広かったと言えるでしょう。実際に会った人の証言を読むと、ヒトラーのカリスマ性というのは半端ではなかったようですが、「敵」の設定も巧妙でした。国外には共産主義者(の親玉としてのソ連)、国内にはユダヤ人に代表されるアーリア人種“以外”の人間。それらを激しく(はじめは口で、のちには武力で)攻撃することで「ドイツ人」を結束させ、国としてのエネルギーを著しく高めることに成功したのです。特に、共産革命に怯える西欧諸国に「ソ連に対する防波堤」としてのドイツを売り込む手管は、華麗と言っても良いでしょう。
では現在、国内をまとめるために日本の政治家がヒトラーのその手口を真似しようと思ったら、どうしたら良いでしょう。国外には「テロリスト」でしょうね。これだったら数が足りなくて困ることはありません。では国内は? 安心して迫害できる少数派で、でも「多数派」に対して脅威を感じさせるくらいの大きさの人間の集団ってどんなのがありましたっけ? 今だったら原発推進派?
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「自由と平等」を書いて約3年が経ちましたが、しつこく私はこのことを考え続けています。
今日は「教育での平等」について。
「いわゆる『よい学校』に行けるのは、親が高所得の子供に偏っている」という話があります。こういった話題は大体は「それには反対(貧乏人も東大に行かせろ)」という論調で取り上げられることが多いのではないかと思いますが、その理由はおそらく「親の経済格差が教育に持ち込まれるのは、不平等だ」でしょう。言い換えれば「教育は機会平等であるべきだ」となるでしょうか。
ところで、なぜ教育は平等でなければならないのでしょうか。
この前面白い本を読みました。
『ドイツにおける通信簿の歴史 ──システム論的機能分析』卜部匡司 著、 渓水社、2009年、3600円(税別)
この本によると、「教育システムの社会的機能」は「不平等を生みだすこと」です(「なるほど」と私は肯きます)。社会的地位というものは“限りある資源”です。そこで、そこに人材を配するためには、生徒・学生に序列をつける(あるいは差異を見出す)必要があります。「全員平等(たとえばアトランダム)」であっては「適材適所」ができませんから。身分制社会ならそのような配慮やシステムは不要ですが、近代社会は能力主義ですから、そういった成績による選抜や資格配分が「公平」なのです。
逆説的ですが、だからこそ教育システム内では「平等」が重んじられます。育成・選抜の過程が最初から最後まで不平等であっては公正で効率的なシステムとは言えません。教育システム内での人の扱いや手続きが平等であるからこそ、最後に生みだされる不平等に社会的な価値が生じるのです。
日本ではその点があいまいになっているようです。「人は平等であるべきだ」というタテマエと「社会は不平等だ」のホンネとが入り交じり、学校にはその両者を同時に満足することが求められます。そしてタテマエに満足できない人たちはそのホンネの部分を私立学校や塾で満足させようとしてきました。それには余分な(金銭的、時間的)コストがかかり、結果として「金持ちの子弟の方が成績で有利」ということになります。しかしそれは「平等の結果としての不平等」ではなくて「不平等の結果としての不平等」を生みだしていることになります。
簡単な“解決方法”はありませんが、「なぜ教育は平等でなければならないのか」の問いかけをもう一度することから始めたいと私は思います。そしてその次に、「学校」に「ホンネとタテマエの両方を満足させろ」という過剰な要求をすることをやめることを提案したいな。ただしそのためには「最後に生みだされるのは“不平等”」を是認する必要がありますが。
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医師会報などでよく「地域への貢献」という文言を見ます。非常に素晴らしいことばですが、さて、「地域」って、なんでしょう?
診療所だと話はわりと簡単に思えます。つまりは自分の守備範囲というか、日常的にお客さんが来る範囲でしょう。だけど病院だとちょっと難しいですね。市立病院だったら「市」、県立病院は「県」とすると話は楽ですが、だったら国立病院は「国」になってしまう……わけはないでしょう。私立病院でもその事情は似ています。「地元に密着した医療機関だったら、その“地元”に」と書こうと思ったのですが、その「地元」がどこなのか(どこまでの範囲なのか)、が問題なのです。
私が勤務する病院では(以前にも書いた記憶がありますが)、入院患者はいくつもの市町村から、あるいはいくつかの県からやって来られます。だったら私が「地域」に貢献しようと思ったら、どの範囲の地方自治体を想定したらいいのでしょう? 嗚呼、ややこしや。
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「石巻の壁新聞、米博物館へ 被災後に手書きで発行」(産経4月15日)
「震災翌日、油性ペンで号外 米で展示へ 石巻日日新聞」(朝日4月16日)
「社屋被災で手書き、壁新聞を米で永久保存」(讀賣4月17日)
紙はあるじゃないか、輪転機が動かなければ手書きで発行するんだ、という新聞屋魂の発露です。記者自身が被災者なんでしょ? それなのにこのプロ根性はすごい、と、このニュースで扱われている壁新聞自体(とそれを実現させた人の行為)に私はただ感心するばかりです。ただ、疑問に思ったのは、このニュースが「ワシントン経由」だったこと。
日本の全国紙としては、地方新聞の動きなんか眼中になかったのか、それとも被災地での丁寧な取材をサボっていたのか、見たけれどその価値には気がつかなかったのか、どれなんでしょう。で、「壁新聞の価値」を報道するのではなくて「ワシントンポストで高く評価され、ニュージアムに収載されたこと」を報道している、という、日本の報道としてはちょっと恥ずかしい記事です。日本のことなのに、アメリカ様が高く評価してから後追いをするわけですから。
新聞の世界では、東京よりもワシントンの方が被災地に近かった、ということだったんですかねえ。
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梅毒で鼻が落ちた結城秀康が「これではあまりにみっともない」と付け鼻をつけて父親の徳川家康に対面したところ、「武門の心得とは見た目にあらず」と家康に叱りとばされた、なんてお話があるそうです。
ところで「鼻」の機能はなんでしょう。顔の目立つところにあるし「目鼻立ちの整った顔」と言うくらいで、美容上の効果はもちろんあるでしょう(結城秀康さんもこれを気にしたわけです)。それから、匂いを嗅いだり鼻水を垂らすのも重要な機能です。そうそう、鼻毛で大きなゴミをトラップする、というのも、重要と言えば重要な機能ですね。だけど、毎日鼻が行なっている重要な機能で、多くの人に無視されているのが、加湿・加温という働きです。
鼻が詰まったときなど、口で息をするとすぐにのどが渇いて痛くなりませんか? 肺の中の空気は、ガス交換をするために水蒸気が飽和状態(これ以上水蒸気を含めない、という限界)になっています。そこで重要なのが鼻の粘膜。鼻を空気が通過するときに粘膜から水分(と温度)が加えられているのです。もちろんこれだけでは不十分なので、のどや気管の粘膜でも加湿・加温は行なわれますが、ともかく入り口の鼻が非常に重要。
ところが、気管切開でのどに管が植わっていて、そこで呼吸をしている状態では、空気は鼻を通りません。そこで「人工鼻」の登場です。これは要するに、鼻が持つ「加湿機能」「加温機能」をかわりにやろう、という器具です(細菌に対する「フィルター機能」を持つものもあります)。それほど大きいものではありません。拳の中ににぎり込めるくらい。具体的にどんなものかは「人工鼻ガイド」などをご覧下さい(「人口」は「人工」に読み替えてあげてください)。
で、このサイトにも書いてありますが、注意するべきはフィルターの目詰まりです。痰がどんどん出てくる人の場合、その痰がフィルターの内側にべったり張り付いて窒息の原因となります。外側から水分を与えた場合(たとえば加湿器を使用)、こんどは水分が過剰となってフィルターが詰まります。ですから人工鼻は「つければよい」というものではありません。もちろん逆に「つけなければよい」というものでもありません。よくよくきちんと考えて行動することが必要です。
結城秀康さんも、自分の父親がどんな性格か、ちゃんと考えて鼻をつけるかどうかを決定すれば良かったのにね。鼻が利かなかったのかな?
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二重の借金を背負ってでも復興を目指す企業への「手当」を配ったらどうでしょう? 被災地の産業の復興は「日本の将来(=子供たちの未来)」に役立ちますから、「最終的には子供のためになる」と強引に理屈をつけることも可能です。「私企業じゃないか。手当を配るのではなくて貸すべきだ」と主張する人もいるでしょうから「お気持ちだけを、ある時払いの催促なしで」という条件で、どうです?
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「人体への放射線の影響」に関連して、医療でのレントゲン撮影やCTが引き合いに良く出されるようになりました。それとともに良く登場していたのが、パイロットなどの乗務員や宇宙飛行士です。“職場”のせいで彼らも地上の一般人よりは多くの放射線を日常的に浴びていますから。
メディカル・トリビューンにこんな記事がありました。「一般人口に比べて心血管疾患危険因子少ない/パイロットは健康的」
放射線だけではなくて、不規則な勤務シフト・長時間の座業、という“不健康な職場環境”にもかかわらず、英国のパイロットたちは心血管疾患に関しては一般人よりは「健康的」なのだそうです。そこで重要な要素が「肥満」と「喫煙」。
もちろんこれは「少量の放射線は心血管疾患の危険因子ではなさそうだ」ということを意味するだけで、発癌率とか平均余命とかを見ないとその他の病気については何も言えないわけです。ただ、肥満している喫煙者は、少量の放射線を恐れるよりは自分の体型とライフスタイルを見直した方が「健康」になれる可能性がある、とは言えそうです。……で、肥満していない非喫煙者は、どうしたらいいのかな?
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