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「冥想」……冥王星の想い
「想像」……像のことを想う
「お愛想」……ていねいな愛を想う
「愛想を尽かす」……愛想の在庫が切れる
「思想」……思いを想うこと、あるいは想いを思うこと
「仮想現実」……現実を仮に想ってみる
「妄想」……みだりに想う
「理想」……ことわりを想う
「夢想家」……夢を想うことを飯の種にする人
「空想」……空の想い
「夜想曲」……夜の想いが曲がっている
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「診断書にウソを書いてくれ」という“文書偽造の依頼”は、私の人生でこれまでに何回もありました。一番多いのは「入院診断書の既往歴」の所です。
要するに告知義務違反です。以前から病気があるのにそれを隠して保険に入った。ところがいざ入院となったら、そのまま放置したら「今回の入院は糖尿病が悪くなってその治療が目的。なお、10年前から糖尿病」なんて書かれることが確実。ところが保険に入ったのは3年前。そのときに「糖尿病があること」は隠していた。このままでは「告知義務違反」で入院保険金がもらえない。
ということで「糖尿病になったのは2年前からにしてくれ」という話になるわけです。
これを私がそのまま受け入れて診断書を書くと、有印私文書偽造でこんどは私が犯罪者になっちゃいます。犯罪者になるのはいやですから私はお断りします。
なお、本人が積極的に告知義務違反をしたのではなくて、勧誘されたときに「そこを書いたら保険に入れなくなるから、書かなくて良いです」とか“甘いことば”をささやかれてそれに従った、という場合もけっこう多いようです。この場合の“罪”は誰にあるんでしょうねえ?
そういえば、ちゃんと手続きをしたのに保険金が支払われない場合もあります。
ガン保険に入ったある人が、病気の疑いがあるため検査入院をした結果その腫瘍が悪性のものとわかったので、その入院分を請求したら拒否された。保険会社の言い分は「癌と確定診断がついたのは退院した後。したがって“ガン保険”の対象の入院ではない」というものなんですが、実はそんなことは約款には書いてなかったそうな(※1)。
検査入院って、癌かどうかわからないからこそ行なうものだと思っていたのですが、日本の一部の保険会社では「癌とわかっている人がそれを確認するために検査するために入院すること」となっているようです。「現在は癌ではない人」が「ガンになるかもしれない」将来に備えて入るのがガン保険だと私は思っていたんですけどね。なお「保険 不払い 生活センター」でネット検索をすると、いろいろ興味深い例が見つかりますよ。保険にはいるとき(保険や会社を選択するとき)には参考になるかもしれません。
※1)『ここまで巧妙ならみんなだまされる! 悪質商法のすごい手口』独立行政法人国民生活センター監修、 徳間書店、2009年、1800円(税別)
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本書で有名な「死の受容のプロセス」に私が初めて出会ったのは、ミュージカル映画「オール・ザット・ジャズ」でした。この映画の中に登場する映画内映画でスタンダップコメディアンがこの「受容のプロセス」を丸々ネタに使っていて、その場面を主人公が編集しては何度も見直すことでこちらもロスの主張について“学ぶ”ことができる、という凝った仕掛けでした。そもそもこの映画全体の流れ自体が「死の受容のプロセス」である、とも言えるのですが。
※この記事を書いた後になって「オール・ザット・ジャズ」について何か書いた記憶があるぞ、と検索をしたら「The Show Must Go On」が出てきました。まったく同じネタの使い回しでなくて、一安心。
本書は、私たちは無意識のうちに「自分に限って死ぬことはありえない」という基本認識を持っている、ということばから始まります。だから自分が死ななければならないとしたら、それは他人による外部からの悪意ある干渉のせい(つまり「殺される」)なのだ、と(ここで私は「病院で人が死ぬのは、医者が悪いせいだ」というある種の偏った主張を思い出します)。だからこそ人は「自分の死」に対して「否認」「怒り」「取り引き」「抑うつ」「受容」というプロセスを踏まなければならなくなるのです。
ここで重要なのは、その「自分に限って死ぬことはありえない」という基本認識を持っているのが、「患者」だけではないことです。患者の家族も同じです。さらには医療者もまた同じ基本認識を持っています。だから、「目の前で死ななければならない家族・患者」に対して「その人の死を受容する」までに、「否認」「怒り」「取り引き」「抑うつ」などのプロセスを、回りも踏んでいくことがあるのです。(私のこれまでの観察や体験では、否認・怒りあたりにとどまる(あるいはそこから受容に行く)人が多いようには思いますが、ときに「取り引き」でとどまる家族がおられて、それが行動化してしまった場合には(いろんなリクエストが連発されるので)対応に振り回されます)
医療者の中に、「病気」「治療」に集中するあまり患者本人から注意を逸らす人がけっこうな率で存在するのは、治療する側の(「死の恐怖」から目を逸らすための)防衛機制が発動した結果なのかもしれません(単に性格とか能力の問題である場合もあるでしょうが)。
著者が精神科医および教育者として、医学部および神学校の学生とともに末期患者へのインタビューを始めたのは1965年からだそうですが、当時のアメリカの大問題は「死病であることの告知をするべきか否か」でした。しかし著者は「痛ましい知らせを患者に伝えることは、ひとつの技術である」と断言します。「告知するべきか否か」ではなくて「どう伝えるか」が解決するべき課題である、と。そしてその時「伝える側」が「死の否認」をしていたら、患者にきちんと「死の問題」を伝えることはできない、とも。
さらに大切なのは「受容」が医療者にとっては本当の意味での“ゴール”ではないことです。本書にもそれは明確に書かれています。「受容を幸福な段階と誤認してはならない。受容とは感情がほとんど欠落した状態である。……(中略)……この時期は、患者自身よりもその家族に、多くの助けと理解と支えが必要になる」と。
本書では「第一段階:否認と孤立」「第二段階:怒り」「第三段階:取り引き」「第四段階:抑鬱」「第五段階:受容」の直後に「希望」という章が置かれています。目次を見ただけで、はっとします。悲しみの中には怒りがひそんでいる、と著者は言います。おそらく絶望の中にも怒りがひそんでいることでしょう。しかし、パンドラの筺のように、悲しみや絶望が渦巻く中にも、かすかな希望が隠れているかもしれません。当面私は医療者として(そして将来はおそらく患者として)「死」と向き合うとき、そのかすかな希望を見逃さないようにしたいと願っています。そういったささやかな「希望」を見失わないこと、それが人生なのでしょうから。
書誌情報:『死ぬ瞬間 ──死とその過程について』(完全新訳改訂版)E・キューブラー・ロス 著、 鈴木晶 訳、 読売新聞社、1998年、1800円(税別)
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かつて看護婦不足が深刻だった時代、看護婦より短期間で養成できる准看護婦が重宝されました。これは昭和26年の保健婦助産婦看護婦法の改正で生まれた資格です。(それと同時に「乙種看護婦」が廃止されました。乙種看護婦は「急性かつ重傷の傷病者又はじょく婦に対する療養上の世話はできない」という制限が加えられていた看護婦資格です)。
なんだか不必要に制度が複雑化されているだけのようにも見えますが、日本の行政ではこういう“不必要な複雑さ”が好まれる傾向があります。で、准看護婦は、単に教育期間が短いだけではなくて「お礼奉公」があったことが正看護婦とはちがうと言えるでしょう。「お礼奉公」って何だ?ですが、私の限られた記憶で書くと、准看護婦学校の学生が、開業医の所で日中は仕事(看護の補助)をして夜は学校へ。その間の生活と学費の面倒は開業医が見て、学校を卒業して無事看護婦試験に合格したらその後何年間かは「世話になったお礼」としてその開業医の所で勤務、というものだったはずです(ついでですが、私はその学校で非常勤講師をしていたことがあります。こちらが昼の仕事の後講義に行くと、生徒たちも昼の仕事の後授業を受けに集まっているわけ。で、授業中によく寝るんですよねえ。うらやましかった……もとい、成績が心配でした)。
最近だったら、EPA(経済連携協定)に基づいて介護福祉士候補にインドネシアとフィリピンから人材を導入して、仕事をさせながら勉強も、国家試験に通ったら……というのを思い出しません? なんというか……准看護婦にしてもこのEPA絡みの話にしても、人を育てるのに「きちんとした教育」ではなくて「徒弟修行」で、という発想が日本の根底にどっかと座っているように思えます。もちろん人材育成の手段として徒弟修行も良いものですが、その場合でも公的な「品質保証」(どこで修行しても同様の教育効果が得られる)がないと、「公的な資格試験」をしてはいけないとは私には思えます。あ、だから准看護師は県の管轄なのかな?
で、この「お礼奉公」は、基本的人権(住居や職業選択の自由など)に抵触するのではないか、とか問題になって、今は廃止されているはずです(少なくとも表向きは)。
ただ、別のところで復活していますね。医学生の地域枠です。奨学金を出してやるから、卒業後は“スポンサー”のところで「お礼奉公」をしろ、と。看護師にしてはいけないことを、医師にしてはよいというのは、どういう論理なのか、私は理解に苦しんでいます。“頭の良い”官僚サンたちはしっかり自己正当化の“理論武装”をしていることでしょうが。
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「気が若い」……体がついていかない
「若干」……とにかく若い者は干し上げる
「子持ち若布」……ワカメの親
「会津若松」……会津の若い松
「若手」……手は若い
「怒れる若者たち」……しまった、「文字通り(42)怒」ですでに書いてしまった
「若きウェルテルの悩み」……自殺に失敗していたら「中年」「老年」の続編が……
「猿若」……逆立ちをした若猿
「牛若丸」……若牛が逆立ちをしてしかも丸い
「若草物語」……将来立派に育って牛さんに食べてもらうんだ、という若き牧草たちの物語
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