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2010.11.30 18:33 |  医療制度 / 行政  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 3

お手伝い

 主婦が望むのは、他の家族が「家事のお手伝い」をすることではなくて「家事の分担」をすることだ、と聞いたことがあります。たしかに「お手伝い」だと、家事労働の主体はあくまで主婦であって他の要員はすべてきちんとした責任を負わない存在になってしまいますから、それは家事労働のマネージャーの立場からは嬉しい状況ではないでしょう。

 病院でチーム医療を推進する立場としてはそれに似た主張をしなければなりません。たとえば看護師法では「看護師は医師の診療補助」という位置づけになっていますが、私は看護師には「補助」ではなくて「診療の一部に関しては責任者」となってもらいたいと思うのです。

 ホンネの部分では家庭では「お手伝いをする立場」の方が気楽だと思っている私が言うと、説得力に欠けます?


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2010.11.30 06:38 |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 0

文字通り(71)想

「冥想」……冥王星の想い
「想像」……像のことを想う
「お愛想」……ていねいな愛を想う
「愛想を尽かす」……愛想の在庫が切れる
「思想」……思いを想うこと、あるいは想いを思うこと
「仮想現実」……現実を仮に想ってみる
「妄想」……みだりに想う
「理想」……ことわりを想う
「夢想家」……夢を想うことを飯の種にする人
「空想」……空の想い
「夜想曲」……夜の想いが曲がっている


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2010.11.29 18:36 |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

大盤振る舞い

 ふるさと創生事業(1988〜89年)
 地域振興券(1999年)
 定額給付金(2009年)
 子ども手当(2010年〜)

 これらの「大盤振る舞い」によって何か未来につながる生産的なものが生まれたのかどうかは私にはわかりませんが、少なくとも巨額の借金(子孫が返す予定)が残ったのは確かなようです。


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2010.11.29 06:53 |  診療  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 3

文書偽造

 「診断書にウソを書いてくれ」という“文書偽造の依頼”は、私の人生でこれまでに何回もありました。一番多いのは「入院診断書の既往歴」の所です。
 要するに告知義務違反です。以前から病気があるのにそれを隠して保険に入った。ところがいざ入院となったら、そのまま放置したら「今回の入院は糖尿病が悪くなってその治療が目的。なお、10年前から糖尿病」なんて書かれることが確実。ところが保険に入ったのは3年前。そのときに「糖尿病があること」は隠していた。このままでは「告知義務違反」で入院保険金がもらえない。
 ということで「糖尿病になったのは2年前からにしてくれ」という話になるわけです。

 これを私がそのまま受け入れて診断書を書くと、有印私文書偽造でこんどは私が犯罪者になっちゃいます。犯罪者になるのはいやですから私はお断りします。

 なお、本人が積極的に告知義務違反をしたのではなくて、勧誘されたときに「そこを書いたら保険に入れなくなるから、書かなくて良いです」とか“甘いことば”をささやかれてそれに従った、という場合もけっこう多いようです。この場合の“罪”は誰にあるんでしょうねえ?

 そういえば、ちゃんと手続きをしたのに保険金が支払われない場合もあります。
 ガン保険に入ったある人が、病気の疑いがあるため検査入院をした結果その腫瘍が悪性のものとわかったので、その入院分を請求したら拒否された。保険会社の言い分は「癌と確定診断がついたのは退院した後。したがって“ガン保険”の対象の入院ではない」というものなんですが、実はそんなことは約款には書いてなかったそうな(※1)。
 検査入院って、癌かどうかわからないからこそ行なうものだと思っていたのですが、日本の一部の保険会社では「癌とわかっている人がそれを確認するために検査するために入院すること」となっているようです。「現在は癌ではない人」が「ガンになるかもしれない」将来に備えて入るのがガン保険だと私は思っていたんですけどね。なお「保険 不払い 生活センター」でネット検索をすると、いろいろ興味深い例が見つかりますよ。保険にはいるとき(保険や会社を選択するとき)には参考になるかもしれません。

※1)『ここまで巧妙ならみんなだまされる! 悪質商法のすごい手口』独立行政法人国民生活センター監修、 徳間書店、2009年、1800円(税別)


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2010.11.28 18:30 |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(一般)  |  おかだ  | 推薦数 : 3

辞書を歩く

 昔、「知識」はそれだけで“武器”でした。過酷な自然環境のなかで“原始人”が生き延びるためには、力だけではなくて自分が生きている環境に関する知識が必須のものであり、そういった知識や知恵を豊富に持っている(そして口先だけではなくて、実践できるあるいは実践の経験を豊富に持っている)人がリーダーや長老として尊敬されました。
 つまり「生き字引」です。
 それと同じようなものを、「ウォーキング・ディクショナリー(歩く辞書)」と英語で言うのを知って、日本よりもダイナミックな発想であることに私は感銘を受けました。辞書が生きているだけではなくて歩いてみせるのですから。ともかく個々で重要なのは「辞書」が乾涸らびた文字の羅列ではなくて、生活にダイナミックに役立っていることです。

 インターネットは「巨大な辞書」として見ることが可能です。ミソもクソも一緒くたですけれどね。これだけ巨大な辞書が手元にあると、少々の「物知り」では対抗できません。ここで重要になるのは「検索能力」ですが、もちろんその能力をフルに発揮するためには「検索のための知識や知恵の蓄積」が必要でしょう。つまり、形は変わっても結局「生き字引」は必要なのです。
 今評価されるのは、単なる「歩く辞書」ではなくて、いかに上手く辞書の中(インターネット)を歩くかだ、と言うことも可能かな。

 でも、一番重要なのは、得られた検索結果をいかに活かすか。当たり前のことですけどね。
 となると、学校のカリキュラムでも、「単なる知識の伝授」だけではなくて、「ネットを活用して自分でどうやって自分を教育するか」のリテラシーをどうやって伝えるかが重要視される必要があるでしょう。つまり、学校は「学び方を学ぶ」所になるのです。これまでにもすぐれた教師はそのことを生徒や学生に“教育”しようとしていましたが、これからはそれがもっとやりやすくなるはずです(教師にそのリテラシーがあれば、ですが)。
(なお、この「学校は学び方を学ぶところ」という言い回しを私は愛していますが、出典は『ゲド戦記』です。その後他の本でも出会ったので、もしかしたら西洋ではけっこう有名なことばなのかもしれません)


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 本書で有名な「死の受容のプロセス」に私が初めて出会ったのは、ミュージカル映画「オール・ザット・ジャズ」でした。この映画の中に登場する映画内映画でスタンダップコメディアンがこの「受容のプロセス」を丸々ネタに使っていて、その場面を主人公が編集しては何度も見直すことでこちらもロスの主張について“学ぶ”ことができる、という凝った仕掛けでした。そもそもこの映画全体の流れ自体が「死の受容のプロセス」である、とも言えるのですが。


※この記事を書いた後になって「オール・ザット・ジャズ」について何か書いた記憶があるぞ、と検索をしたら「The Show Must Go On」が出てきました。まったく同じネタの使い回しでなくて、一安心。


 本書は、私たちは無意識のうちに「自分に限って死ぬことはありえない」という基本認識を持っている、ということばから始まります。だから自分が死ななければならないとしたら、それは他人による外部からの悪意ある干渉のせい(つまり「殺される」)なのだ、と(ここで私は「病院で人が死ぬのは、医者が悪いせいだ」というある種の偏った主張を思い出します)。だからこそ人は「自分の死」に対して「否認」「怒り」「取り引き」「抑うつ」「受容」というプロセスを踏まなければならなくなるのです。
 ここで重要なのは、その「自分に限って死ぬことはありえない」という基本認識を持っているのが、「患者」だけではないことです。患者の家族も同じです。さらには医療者もまた同じ基本認識を持っています。だから、「目の前で死ななければならない家族・患者」に対して「その人の死を受容する」までに、「否認」「怒り」「取り引き」「抑うつ」などのプロセスを、回りも踏んでいくことがあるのです。(私のこれまでの観察や体験では、否認・怒りあたりにとどまる(あるいはそこから受容に行く)人が多いようには思いますが、ときに「取り引き」でとどまる家族がおられて、それが行動化してしまった場合には(いろんなリクエストが連発されるので)対応に振り回されます)
 医療者の中に、「病気」「治療」に集中するあまり患者本人から注意を逸らす人がけっこうな率で存在するのは、治療する側の(「死の恐怖」から目を逸らすための)防衛機制が発動した結果なのかもしれません(単に性格とか能力の問題である場合もあるでしょうが)。
 著者が精神科医および教育者として、医学部および神学校の学生とともに末期患者へのインタビューを始めたのは1965年からだそうですが、当時のアメリカの大問題は「死病であることの告知をするべきか否か」でした。しかし著者は「痛ましい知らせを患者に伝えることは、ひとつの技術である」と断言します。「告知するべきか否か」ではなくて「どう伝えるか」が解決するべき課題である、と。そしてその時「伝える側」が「死の否認」をしていたら、患者にきちんと「死の問題」を伝えることはできない、とも。
 さらに大切なのは「受容」が医療者にとっては本当の意味での“ゴール”ではないことです。本書にもそれは明確に書かれています。「受容を幸福な段階と誤認してはならない。受容とは感情がほとんど欠落した状態である。……(中略)……この時期は、患者自身よりもその家族に、多くの助けと理解と支えが必要になる」と。
 本書では「第一段階:否認と孤立」「第二段階:怒り」「第三段階:取り引き」「第四段階:抑鬱」「第五段階:受容」の直後に「希望」という章が置かれています。目次を見ただけで、はっとします。悲しみの中には怒りがひそんでいる、と著者は言います。おそらく絶望の中にも怒りがひそんでいることでしょう。しかし、パンドラの筺のように、悲しみや絶望が渦巻く中にも、かすかな希望が隠れているかもしれません。当面私は医療者として(そして将来はおそらく患者として)「死」と向き合うとき、そのかすかな希望を見逃さないようにしたいと願っています。そういったささやかな「希望」を見失わないこと、それが人生なのでしょうから。

書誌情報:『死ぬ瞬間 ──死とその過程について』(完全新訳改訂版)E・キューブラー・ロス 著、 鈴木晶 訳、 読売新聞社、1998年、1800円(税別)


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2010.11.27 17:09 |  診療  |  スポーツ  |  映画 / 音楽 / 読書  |  おかだ  | 推薦数 : 4

日本語でカルテを書く

 「カルテは医者の個人的備忘録ではない。チーム医療の時代なんだから、誰にでもわかるように専門用語や略号は廃して、きちんとした日本語で書くべきだ」という主張があります。たしかに一理ある主張です。ですから私もなるべくは日本語で書くように努力はしています。ただし、完璧にはできませんし、最初から不可能な領域もあります。
 たとえば心電図の所見。「ECG」は「心電図」に、「リズムはRegular、sinus」は「脈は整、洞性」と書くことはできます。だけど「V1〜2でST上昇」とか「前壁にQ波」というのはどう“日本語”にしましょうか。どなたか良いアイデアがありません?

 かつての日本で、“敵性語”(*)の「ストライク」を「よし」、「ボール」を「だめ」と言い換えたように、むりやり何か“日本語”を作りましょうか。そうだなあ、たとえば「P波、Q波……」を「甲波、乙波……」と。すると「R on T」は「戊波上の丙波」となります。なんだか「R on T」よりももっと訳がわからないような気もしますが。こんな「言い換え」で、かえってコミュニケーション・エラーから医療事故のもとにならなければいいんですけどね。
 ところで、たとえば「R on T」を「戊波上の丙波」に、「PSVT」を「発作性上室性頻拍症」に言い換えたら、医者以外の人には何かがとっても理解しやすくなります?


*)『野球と戦争 ──日本野球受難小史』(山室寛之 著、 中公新書2062、2010年、820円(税別))
によると、この「敵性語の言い換え」は昭和18年に軍部の(命令ではなくて)「要請」で行なわれたそうです。戦争の勝利にどのくらい貢献したのかは知りませんが。


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 かつて看護婦不足が深刻だった時代、看護婦より短期間で養成できる准看護婦が重宝されました。これは昭和26年の保健婦助産婦看護婦法の改正で生まれた資格です。(それと同時に「乙種看護婦」が廃止されました。乙種看護婦は「急性かつ重傷の傷病者又はじょく婦に対する療養上の世話はできない」という制限が加えられていた看護婦資格です)。
 なんだか不必要に制度が複雑化されているだけのようにも見えますが、日本の行政ではこういう“不必要な複雑さ”が好まれる傾向があります。で、准看護婦は、単に教育期間が短いだけではなくて「お礼奉公」があったことが正看護婦とはちがうと言えるでしょう。「お礼奉公」って何だ?ですが、私の限られた記憶で書くと、准看護婦学校の学生が、開業医の所で日中は仕事(看護の補助)をして夜は学校へ。その間の生活と学費の面倒は開業医が見て、学校を卒業して無事看護婦試験に合格したらその後何年間かは「世話になったお礼」としてその開業医の所で勤務、というものだったはずです(ついでですが、私はその学校で非常勤講師をしていたことがあります。こちらが昼の仕事の後講義に行くと、生徒たちも昼の仕事の後授業を受けに集まっているわけ。で、授業中によく寝るんですよねえ。うらやましかった……もとい、成績が心配でした)。
 最近だったら、EPA(経済連携協定)に基づいて介護福祉士候補にインドネシアとフィリピンから人材を導入して、仕事をさせながら勉強も、国家試験に通ったら……というのを思い出しません?  なんというか……准看護婦にしてもこのEPA絡みの話にしても、人を育てるのに「きちんとした教育」ではなくて「徒弟修行」で、という発想が日本の根底にどっかと座っているように思えます。もちろん人材育成の手段として徒弟修行も良いものですが、その場合でも公的な「品質保証」(どこで修行しても同様の教育効果が得られる)がないと、「公的な資格試験」をしてはいけないとは私には思えます。あ、だから准看護師は県の管轄なのかな?
 で、この「お礼奉公」は、基本的人権(住居や職業選択の自由など)に抵触するのではないか、とか問題になって、今は廃止されているはずです(少なくとも表向きは)。
 ただ、別のところで復活していますね。医学生の地域枠です。奨学金を出してやるから、卒業後は“スポンサー”のところで「お礼奉公」をしろ、と。看護師にしてはいけないことを、医師にしてはよいというのは、どういう論理なのか、私は理解に苦しんでいます。“頭の良い”官僚サンたちはしっかり自己正当化の“理論武装”をしていることでしょうが。


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2010.11.26 17:43 |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

色々

 「陰陽五行」というと少しものを知っている人ですと「迷信」と断言するでしょう。あるいは「陰陽師(おんみょうじ)」という単語が出てくる人もいるかもしれません。
 たしかのこの思想は大変古く、特に陰陽は遡ろうと思ったら紀元前の古代中国「周」にまで戻ることができるそうです。そして、たしかに現代日本でこの思想をきちんと理解あるいは信奉している人はあまりいないでしょう。
 しかし、意外なところに陰陽五行は残っています。たとえば「正午」「午前(午後)」「子午線」「辰巳」「丑寅」といった言葉や干支(えと)。これらはすべて陰陽五行(厳密には陰陽五行から派生した「易」)の産物(概念を示すことば)です。
 また、日本語にも陰陽五行の意外な影響を見ることができます。たとえば「赤」「青」「白」「黒」。これらは日本では基本的な色で下に「い」が付く、という共通点を持っています(赤い・青い・白い・黒い)。他の色は「い」が付きません(紫い、緑いなどとは言いませんね)。実は上記の四色に「黄」を足したものが、五行の基本色なのです。
 五行は「木火土金水」の五つで世界の全てを説明しようとする思想です。五味・五臓・五畜・五穀……季節まで四季+土用(今はウナギの土用しか残っていませんが、本来は各季節の間にすべて土用がはさまっていました)で五つに分けられますし方位も四方+中央で五つです。
 そして、五色。木(青)火(赤)土(黄)金(白)水(黒)と基本色が五行に配当されています。

 どうも「い」が付かないという点で「黄」が仲間はずれなのが気になります。「黄い」とは言いませんから、これは日本では基本的な色ではなかったのでしょうか。しかしそこで私は「黄粉(きなこ)」という単語を思い出します。これは「黄いな粉」または「黄ない粉」の短縮形ではないでしょうか。
 九州北部や名古屋周辺には「黄ない」または「黄いない」という方言があるそうです。全国的に通じる「黄粉」とこれらの方言を合わせると、「昔の日本では黄色い状態のことを「黄ない」または「黄いない」と表現していたのではないか」と私は考えます。これが、五方が四方になり土用もなくなっていくように、「黄」の本来の言い方も日本では失われていった、というのが私の仮説です。この仮説がいくらかでも真実を含んでいるなら、現在私たちが使っている日本語もまだ五行の影響を濃く残している、と言えることになりますが、さて真相はいかに?

 日本人が中国の色の概念をそのまま直輸入したのか、それとも日本人の色に対する意識がちょうど五行の概念とうまくマッチしたのでそのまま取り入れたのか……
 日本人は四色が基本だったが中国は五色、一応妥協して取り入れたけれどやはり無理は利かず黄色は基本色の地位から滑り落ちた……(それでも、全くの異文化で基本色が四色まで一致していたというのは大したものですけど)
 たかが色の言語表現ですが、色々考えると面白いものです。あまりに面白いので、考え続けるために、結論は出したくないと思ってしまいます。


※「黄」に関しては以前「死語(68)黄色い血」でもちょこっと書いていました。


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2010.11.26 06:38 |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 0

文字通り(70)若

「気が若い」……体がついていかない
「若干」……とにかく若い者は干し上げる
「子持ち若布」……ワカメの親
「会津若松」……会津の若い松
「若手」……手は若い
「怒れる若者たち」……しまった、「文字通り(42)怒」ですでに書いてしまった
「若きウェルテルの悩み」……自殺に失敗していたら「中年」「老年」の続編が……
「猿若」……逆立ちをした若猿
「牛若丸」……若牛が逆立ちをしてしかも丸い
「若草物語」……将来立派に育って牛さんに食べてもらうんだ、という若き牧草たちの物語


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