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小泉改革で杜撰な態度で主張されていた「社会的入院はNG」「老人は家へ」を私は少し精細に検討したことがあります。「家に帰せ」ではなくて「どうやったら帰れるか」と設問は変えましたが。
基本的に元気な人なら独居が可能でしょう。少々元気が無くても日中は一人で留守番できる程度の人だったら、仕事を持った人との同居でもなんとかなりそうです。問題は、一人で留守番ができない状態であまり長時間目を離していられない、あるいは、介助がしょっちゅう必要な人の場合です。この場合、家族がその介助を専属で行なうとなると、その家族は稼げなくなります。「家族が面倒を見ろ」と命令したことが自動的に「面倒を見る人は失職しろ」という命令につながる場合、その命令を出した政府が介助手当を出してくれます? それとも命令を出したいだけで金は出さない?
介助者に必要なものは何か、も考えてみました。
まずは「意欲」でしょう。意欲がなければ介助行動はおざなりなものとなり不幸が拡大再生産されます。
意欲があっても物理的・技術的に可能かどうかも重要です。介助者がたとえばぎっくり腰を抱えていたら、他人の全介助は無理です(少なくとも私はやらせたくないしやりたくありません)。移動するのに車椅子や歩行器が必要な人を段差が多い家に放り込んで「幸せに暮らせ」と言っても、それもまた無理です。人と環境の整備が必要です。
さらに「持続可能」かどうか。人間は短時間ならけっこう無理が利きます。マラソン中継で、選手の脇の歩道を「テレビに映っている」と喜んで走っている人たちが時々いますが、そういった人も数十秒ならトップランナーと同等のスピードを維持できます。だけどそれ以上は無理。同じように、介助や介護も「24時間の“それ”を何年持続できるか」を想定しておかなければなりません。「テレビ中継に写っているとりあえずの数十秒」だけでは何の解決にもならないからです。となると、マラソンランナーの基礎トレーニングやレースの経験に相当するものを、介助者の方にも求めなければなりません。事前のトレーニングや経験です。それはどこで積めばいいでしょうか。
小泉政権下の厚労省は「老人の面倒を見ない人」を“ワルモノ”扱いすれば済むと言わんばかりでしたが、それは「家に帰せ」「どうして家が受け取らないんだ」が“問題文”だったからでしょう。そうではなくて“問題文”を「どうやったら帰れるか」にしたら私は“ワルモノ”のレッテルは政府の方につけたくなりました。最初の立問って、大切ですねえ(*)。
*)デヴィッド・リンドリーによると、ウィトゲンシュタイン(ヴィトゲンシュタイン)の有名な「語り得ないものについては沈黙するほかない」(『論理哲学論考』)の意味はこうなるそうです。ウィトゲンシュタインは、いわゆる哲学的な問いの多くは、実は言語と定義をめぐる混乱の結果であり、語が整合的に定義されれば、問いは曖昧なところなく解けるか、空虚あるいは自己矛盾であることがわかるか、いずれかになる、と主張したのだそうです。つまり「最初の(正確な)立問が、大切」。
出典:『ボルツマンの原子 ──理論物理学の夜明け』デヴィッド・リンドリー 著、 松浦俊輔 訳、 靑土社、2003年、2600円(税別)(ウィトゲンシュタインのもっと前「マッハ主義」の時代に、いかに「原子」の存在が人々に認知されていったかを述べた、知的に刺激的な本です)
(ちなみに、私はウィトゲンシュタインのこのことばを、哲学と宗教の“役割分担”の観点から見ていますが、話が完全に逸れてしまうので、ここでは省略)
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