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「夏の大三角」とは、こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブの3つの星を結んで描かれる直角三角形に近い三角のことです。「冬の大三角」は、こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウス、オリオン座のベテルギウスの3つの星を結ぶ正三角形に近い三角。春や秋にもそれぞれ大三角がありますが、夏と冬に比較したらちょっとネームバリューが落ちるように私には思えます。
で、医学にも「三角」があります。三角筋(肩関節にかぶさっている筋肉)や皮膚科の「湿疹三角」がその代表でしょう。
「湿疹三角」は湿疹の見た目の経過を図示したものですが、なぜか三角形になるのです。(興味のある方は「湿疹三角}でグーグルの画像検索をしてみて下さい)
私が一番しっくりくるのは「ボルタレンテープ 使用上の注意解説」(ノバルティスファーマ株式会社)のページ中の図ですが、素人衆には「アトピー性皮膚炎とは」(内山九段クリニック)の図の方がわかりやすいかもしれません。
ちょっとずるいとは思います。天空の「大三角」は三つの星で構成されますが、こちらのほうは7つの要素で三角形を作り、さらにその右に「治癒」だの「繰り返した場合」だのがくっついているのですから。ただ「湿疹」というものが「一つの状態」ではなくて「様々な状態」を示すこと、その間を移行していくこと、を示している点でけっこうインパクトはあります(だから授業から30年以上経っても私は覚えているのです)。
たかが「湿疹」ですけど、実はきちんと診断をつけるのは大変なんです。だから私は皮膚科にはなりませんでした。同じ病名なのにいろんな姿を示し、しかも違う姿にどんどん移行するなんてものを相手にするのは大変ですから。
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子供時代に遊んでいて、誰かが犬の糞を踏んづけたりしたら、まわりから「バイキン」とか「エンガチョ」なんて声があがるものでした。で、そいつが近づいてきたらみなが逃げ回る、というわけ。
まあ、遊びなんですけどね、でも、「バイキン」扱いされる側はけっこう不愉快な思いもしましたっけ。
ところがそれは子供だけではなくて大人の世界にもあります。
古くは新約聖書でのらい病患者の扱いを持ち出したくなりますが、思いっきり新しくしてここ数十年のことに絞っても……B型肝炎・C型肝炎・HIV・SARS……そうそう、昨年の新型インフルエンザも、罹患した人は露骨に「バイキン」扱いでしたね(覚えていますか?)。確たる法的根拠も無しに空港から隔離施設に拉致監禁されてしまったのですから、少なくとも「基本的人権を持った人間」への扱いではありませんでした。
しかし、「人をバイキン扱いする」のは、古くは聖書を持ち出せば“歴史的にはよくある態度”なのでしょうが、結局どんなメリットがあるのでしょう? 強いて言うなら「黴菌の蔓延を防止して社会を防衛する」という大目的が上げられそうです。しかしそのために必要なのはまず「その“黴菌”の感染経路がいかなるものか」の特定です。一律に「人をバイキン扱い」することではなくて。
つまり、「空気感染」「飛沫感染」「経口感染」「接触感染」「性行為による感染」など、感染経路ごとに“対策”を立てる必要があるのです。
そういえば私はこれまでに、「MRSA保菌者」や「肝炎ウイルス感染者」が、家族によってバイキン扱いされて、孫を抱くことさえできなくなって悲しんでいた、という事例をいくつか経験しています。これがたとえば「肺結核で排菌陽性でこんこん咳をしている人」が「孫を抱いてはいけない」と言われるのはわかります。「抱いている孫」に「結核菌」を浴びせることになるのですから。MRSA保菌者でも咳やくしゃみを盛大にしているのだったら他人にその飛沫を浴びせるのは避けた方が良いでしょう。だけど「触るだけでは他人に感染させる危険がない人」をバイキン扱いして「孫を抱かせない」などと決定する人の頭の中は、一体どうなっているんでしょうねえ。
それ以前に、そういった「他人をバイキン扱いする人」自身が、たとえばMRSA保菌者である可能性も高いのですが(データは持っていませんが、(院内感染ではない)市中感染としてのトビヒの過半数がMRSAによる、という小児科領域の報告からの類推です)。もしも「自分は保菌者だけど、それには知らんぷり。だけど他人の保菌者はばりばりにバイキン扱いするぞ」という人がこの世に蔓延しているのだったら、それは、冗談のような悪夢かな?悪夢のような冗談かな?
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例によって、実話を元にしたフィクションです。
20世紀のある大学医学部で、教授選が行なわれました。前教授が定年退官したのでその後任選びです。前教授の専門は循環器内科。そこの助教授(当時の呼び名)はまだ器ではなかったため、全国に公募をすることになりました。集まった候補から事前審査で二人まで絞られ、教授会で決戦投票、という運びだったのですが……最終候補の一人は循環器内科、もう一人は神経内科だったのです。
私はその大学とは直接の関係はないので、内部の本当の話は得ていませんが、いろいろ漏れ聞くところでは、臨床医学系と基礎医学系の仲が悪くてそれぞれが推している候補が食い違ったりしたり、臨床系の中でも勢力争いがあって足の引っ張り合いがやったために、ややこしいことになったのだそうです。
部外者の私は不思議でした。「その大学」および「その地域」で“次に欲しい科”が「循環器内科か神経内科か」でまず議論を行なう、だったらわかります。でもその議論をせずに、「どちらの教授(候補)が選挙に勝つかで“次の科”を決めよう」って、どこか話がずれていません? まず「大学の全体像」から「どんな科が必要か」が決定され、その次に「その科の運営を託するにふさわしい人は誰か」を決定する、だったらわかるのですが。
教授選に通った人やそれを推した人たちはもちろん幸福でしょうが、大学全体や地域医療の幸福度はそれで上がる(最大化される)のでしょうか。それだとまるで「大学医学部は、教授選で勝ったグループのために存在する」になってしまいそうです。それと「次の教授が選ばれるまで、何科の教授を選んでいるのか(何科の教室ができるのか)がわからない」というのは、大学の運営上、予定が立たなくて困りません? 診察室とか診療や研究の設備とか、日本では年間予算制度なんですが、どうするんでしょう。
そういえば、かつての自民党の総裁選も似た匂いがしますね。猿山の序列争いよろしく「誰がボスか(おれの方がお前よりエライ)」を競っているだけで、ともかく「誰が勝つか(誰に皆がつくか)」でその後の日本全体の政策が決定されるという、ちょっと不思議な“民主主義”でした(私はある政治的志を同じくする人が集まったのが政党で、政党が政策を提示してそれに対して国民が投票することで国の進路が決まる、細かいやり方については政府(政治家と官僚)が決める、が民主主義的な政策の決め方だと思っているのです)。
結局「グランドプラン」の検討が後回しにされて、まず「船頭」を決めてからその「船」がどこに行くのかが決められる……なんだか背中が妙にこそばゆい気がします。
で、現在進行中の民主党の代表選挙。これも「日本の行き先」についての国民的議論、って、ありましたっけ? すべてはまずトップを決めてから? それも、ころころ変えられてしまう“トップ”を。
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「(自分が)自然に生きてるって分かるなんて なんて不自然なんだろう」と歌ったのは吉田拓郎でした(「イメージの詩」)。初めて聞いたときには理屈っぽいと思いましたが、今聞いたら、たしかに理屈っぽいけれど直感も風味としてよく効いた歌ですね。
「自然に還れ」(ルソー)という言葉があります。たしかにあまりに「自然」から離れたら人は「不自然な存在」になってしまいます。
だけど、完全に自然の中で生きていたら、人は良くて原始人、悪いと動物として過ごさなければならなりません。これはちょっとマズイのではないでしょうか。
もちろん、原始人や動物として“幸福”に過ごすのは良いのですが、それが健康的な生活かどうかに疑問がありますし、何よりこうしてネットに繋がることもできないのは、私はちと困ります。そもそも私は「自然」の中では裸で冬を越すこともできませんし、毎日の餌も確保できません。これはもっと困ります。さっさと死体となって自然に還ってしまいます。
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研修医になってまだ日が浅かったとき、夜中に内科病棟をうろうろしていたら「患者さんが少し苦しそうです」と夜勤の看護婦さんに声をかけられました。緊急事態ではなさそうなので落ち着いて診察すると、慢性呼吸不全で酸素を少量吸入している状態です。で、その看護婦さんもまだ卒業して日が浅くて不安なわけです。自分の勤務中に急変があったらどうしたらいいのだろうか、念のために主治医に連絡しておいた方が良いだろうか、それとも何かできることがあるだろうか、と。そこにふらふらと新人研修医が現われた、というわけで、とりあえず「溺れる者は藁をもつかむ」だったわけでしょう。私は藁です。反論はできませんが。
「先生、酸素が少なすぎるのでしょうか? 増やした方が良いですか?」
そこで私が「いや、急に酸素を増やすと息が止まることがあります」と言ったのは、彼女にはちょっと意外な発言だったようです。でも、頭が良い人だったらしく、私が「ほら、CO2ナルコーシスが」と言った瞬間「あ」と了解してもらえたので助かりました。
呼吸は、できないと困りますが、とにかくすれば良いというものでもありません。血液の中の二酸化炭素と酸素のバランスを絶妙に保つ必要があります。無駄にエネルギーを浪費して過呼吸を続けると、血液中の二酸化炭素が余分に排出されます。二酸化炭素は水に溶けると「H2O + CO2 → H2CO3 → H+ + HCO3-」で酸となります。ところが正常バランスを失してCO2が体外に出ると、結局血液のpHはアルカリ性に傾きます。(動脈血のpHは、ふつう「7.35〜7.45」の範囲内に調節されています。「7.0」より上ですから化学的には「アルカリ性」に見えますが、生物学的にはこの範囲が「中性」です。そこを勘違いすると「アルカリ性だから健康」なんてことを言うことになります) で、血液のpHが(普段の範囲より)「アルカリ性に傾いて、不健康になった状態」の代表が「過呼吸症候群」です。(だから「過度のアルカリ性」は不健康ですよん)
で、ふだんの呼吸は「CO2を過剰に貯めこまない」ことを目標に調節されています。二酸化炭素は要するに「毒ガス」ですし、過剰に貯まるとこんどは血液が酸性になって、これはこれで困るのです。(たとえば動脈血のpHが7.2で、化学的にはアルカリ性でも、これは生物学的(あるいは医学的)には「酸性」と表現されます。もし検査でこんな数字が出てきたら、表現をどうするか、以前に、私は顔色を変えて患者の所に走り始めますが)
そうそう、腎臓も血液中のイオンを尿として排出することで全身のpHを調節していますから、少々の偏食をする程度では体内が酸性になったりアルカリ性になったりすることはありません。なったらそれは立派な病気です。ですから「アルカリ食品を食べて身体をアルカリ性にしよう」としても、それでアルカリ性になるのはおしっこです。身体は“中性”を保ちます。もし食べただけ体内環境が“アルカリ性”になったら、それは立派な病気です。
で、慢性の呼吸不全だと、話の趣が違ってきます。異常事態が長く続くと人体はそれに順応しようとします。「○○であるべきだ」と言っても実際にそれができない状態だったら、優先順位をつけて重要でないと判断されるものは切り捨てます。で、慢性呼吸不全の場合、「病気によって蓄積されるCO2」についてはもう目を瞑ってしまって、生命維持のためにとにかく最低限の酸素だけは確保できるように呼吸しよう、と大方針が変更されてしまいます。CO2を追い出すことに血道を上げてしまうと、それでなくても失われつつある体力がさらに削られてしまって死期を早めることになってしまいますから、血液のモニターの対象をCO2からO2に切り替えるわけです。
さて、そんな状態の人に、うっかり酸素をどんと投与したらどうなるでしょう。体は「酸素が急に増えた。だったら呼吸に回すエネルギーを他に回しても良いよね」と判断します。呼吸が止まり、CO2はますます蓄積します。
ところで、CO2には血管拡張作用があり、蓄積すると脳に影響が出ます。一番目立つのは意識障害です。CO2で麻酔がかかったようだ、ということで「CO2ナルコーシス(narcosis((麻酔薬などによる)昏睡状態)」と呼ばれることになります。こうなると大変です。こうなったとき私が思いつくのは、人工呼吸器だけです。
ときどき思うことがあります。あの夜「呼吸困難? じゃあ、酸素を1リットル増やして」なんて言わなくてよかった、と。
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小泉改革で杜撰な態度で主張されていた「社会的入院はNG」「老人は家へ」を私は少し精細に検討したことがあります。「家に帰せ」ではなくて「どうやったら帰れるか」と設問は変えましたが。
基本的に元気な人なら独居が可能でしょう。少々元気が無くても日中は一人で留守番できる程度の人だったら、仕事を持った人との同居でもなんとかなりそうです。問題は、一人で留守番ができない状態であまり長時間目を離していられない、あるいは、介助がしょっちゅう必要な人の場合です。この場合、家族がその介助を専属で行なうとなると、その家族は稼げなくなります。「家族が面倒を見ろ」と命令したことが自動的に「面倒を見る人は失職しろ」という命令につながる場合、その命令を出した政府が介助手当を出してくれます? それとも命令を出したいだけで金は出さない?
介助者に必要なものは何か、も考えてみました。
まずは「意欲」でしょう。意欲がなければ介助行動はおざなりなものとなり不幸が拡大再生産されます。
意欲があっても物理的・技術的に可能かどうかも重要です。介助者がたとえばぎっくり腰を抱えていたら、他人の全介助は無理です(少なくとも私はやらせたくないしやりたくありません)。移動するのに車椅子や歩行器が必要な人を段差が多い家に放り込んで「幸せに暮らせ」と言っても、それもまた無理です。人と環境の整備が必要です。
さらに「持続可能」かどうか。人間は短時間ならけっこう無理が利きます。マラソン中継で、選手の脇の歩道を「テレビに映っている」と喜んで走っている人たちが時々いますが、そういった人も数十秒ならトップランナーと同等のスピードを維持できます。だけどそれ以上は無理。同じように、介助や介護も「24時間の“それ”を何年持続できるか」を想定しておかなければなりません。「テレビ中継に写っているとりあえずの数十秒」だけでは何の解決にもならないからです。となると、マラソンランナーの基礎トレーニングやレースの経験に相当するものを、介助者の方にも求めなければなりません。事前のトレーニングや経験です。それはどこで積めばいいでしょうか。
小泉政権下の厚労省は「老人の面倒を見ない人」を“ワルモノ”扱いすれば済むと言わんばかりでしたが、それは「家に帰せ」「どうして家が受け取らないんだ」が“問題文”だったからでしょう。そうではなくて“問題文”を「どうやったら帰れるか」にしたら私は“ワルモノ”のレッテルは政府の方につけたくなりました。最初の立問って、大切ですねえ(*)。
*)デヴィッド・リンドリーによると、ウィトゲンシュタイン(ヴィトゲンシュタイン)の有名な「語り得ないものについては沈黙するほかない」(『論理哲学論考』)の意味はこうなるそうです。ウィトゲンシュタインは、いわゆる哲学的な問いの多くは、実は言語と定義をめぐる混乱の結果であり、語が整合的に定義されれば、問いは曖昧なところなく解けるか、空虚あるいは自己矛盾であることがわかるか、いずれかになる、と主張したのだそうです。つまり「最初の(正確な)立問が、大切」。
出典:『ボルツマンの原子 ──理論物理学の夜明け』デヴィッド・リンドリー 著、 松浦俊輔 訳、 靑土社、2003年、2600円(税別)(ウィトゲンシュタインのもっと前「マッハ主義」の時代に、いかに「原子」の存在が人々に認知されていったかを述べた、知的に刺激的な本です)
(ちなみに、私はウィトゲンシュタインのこのことばを、哲学と宗教の“役割分担”の観点から見ていますが、話が完全に逸れてしまうので、ここでは省略)
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