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2010.07.05 18:27 |  診療  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 1

礼儀正しい電話線

 病棟で患者さんが急変してばたばたしているとき。とりあえず緊急の処置は終わって専門家の所へ転送するための救急車が到着する前に家族の人に「急変しました、これから転送します」と連絡しなきゃ、と電話をかけている最中、「お忙しいところ、すみません。(患者の)αさんが先生と大急ぎでお話ししたいそうです」と病棟スタッフのβさんに話しかけられました。その瞬間電話がつながったので「これこれしかじか」と説明を始めます。で、話が終わってからαさんのところに駆けつけると「糖尿病で間食はダメと言われているのはわかっているんだけど、それでもなんとかならないかとβさんに言ったら『じゃあ、おかだ先生に話してみて上げる』と言われたのですが、やっぱりダメですよね」。
 だめです。
 あ、救急車が到着。

 βさんはきっと「患者さんの身になる良い人」なのでしょう。だけど明らかに忙しそうにしている(それも事務仕事などではなくて人の命がかかっている)状況を無視してまで「患者さんの緊急ではない要望」を伝えるべき場合かどうかの判断ができないという点でただの「電話線」になってしまっています。人を電話線扱いするのは失礼ですが、電話線はTPOを判断しませんから私には同じに見えるのです。
 ああいった場合にはいくら礼儀正しく「お忙しいところ、すみません」と言われても、「忙しいのは見たらわかるだろう、自分で状況を判断してよ」と言いたくなる私は、やっぱりただの無礼者なんでしょうね。礼儀正しくならなきゃいけないなあ。「見ただけで、こちらが忙しいのはおわかりになるでしょう?」とか。


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2010.07.05 06:42 |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 0

走馬燈

 「人は死の前に自分の人生を走馬燈のように見る」なんて言います。実は私はまだ死にかけたことがないし「走馬燈」自体を見たことがないのでなんとなく想像するしかないのですが、ちょうどスライド連写のようなかたちで自分の一生が脳裡に浮かぶのでしょうか。
 あ、死にかけたことはありました。事故ですけれど、「死」が私をかすめていったことなら何度かあります。まあ幸いかすめただけで私自身には実害はなかったのですが。で、そんなときにも「ああ、死ぬかと思った」と言うだけで特に自分の一生をめくってみたりはしませんでしたね。

 ところで「見る」あるいは「脳裡に浮かぶ」ところの「自分の一生」というのは、一体どんなものなのでしょう。おそらく「エピソード記憶」(*)を思い出すのではないでしょうか。自分が何かをしているところ、あるいは誰かと何かをしているところ。
 たとえば懐かしい人を思い出すとき、ある場面の記憶の断片がすっと浮かんできます。その人が笑っている、何かをしている、何かを言っている、そういった場面です。でも実はその「場面」に「自分」の姿はありません。「自分」はその場面を「見ている」立場ですから、そこに「自分自身」は登場できないのです。「自分の記憶」なのに、ちょっと不思議です。もちろん孤独な作業だったらそこでなにをしたかを思い出せます。ただ、私の場合、「自分」よりもその時やっていた「もの」やそこに登場する「人」の方に記憶の焦点が結びやすいのです。

 もしかしたら「(自分自身が登場しない)他人とともに生きたエピソード記憶を豊富に持っていること」、これが「豊かな人生」と呼べるものなのかもしれません。


*)「読書感想『博士の愛した数式』」で記憶について書いています。


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