私が医者になった頃には、糖負荷試験(甘ったるい糖液を飲んで、三十分後・一時間後・二時間後の血糖値と空腹時血糖(糖液を飲む前の血糖値)を測定する検査)でその人が糖尿病かどうかを決定していました。それも「正常値」と「異常値」の両方を覚える必要がありました。その中間が「境界型」。飲む糖の量が五十グラムか百グラムで基準値が違い、さらに調べる血液が静脈血(静脈から採血)か毛細血管血(耳たぶにメスで傷をつけて採血)かでまた基準値が違う、というややこしさで、だから覚えるべき数字は全部で三十二。医師国家試験の前にはこの数字を覚えるのに泣いた覚えがあります。
それがいつの間にか、糖負荷試験は七十五グラムだけに一本化され、さらに血液は静脈血だけと単純化されました。さらに10年くらい前には覚えるべき数字は三つだけに単純化されていました。
10年くらい前の糖尿病の定義です。
1)随時血糖(適当な時期に調べた血糖)が200以上/早朝空腹時血糖が126以上/糖負荷試験の二時間値が200以上。
1)の三つのどれかを満たせば糖尿病の疑いと言ってもらえます。しかし、血糖は変動が激しく、正直言ってそれだけで糖尿病と決めつけることはできません。そこでもう一つ条件がつきます。
2)ヘモグロビンA1c(採血前2〜3ヶ月分の糖の平均値)が6.5以上か、別の日にもう一回測定してまた1)のどれかを満たす。
1)と2)が揃ったらあなたは立派に糖尿病持ちと呼ばれるようになる、というわけ。
実際の臨床では、先ほども書いたように血糖の変動が激しすぎるので(満腹と空腹でものすごく動きます)、「間違いない立派な糖尿病」ならともかく微妙なところ(昔「境界型の糖尿病」と呼んでいたようなもの)を見逃す恐れがあるため、ヘモグロビンA1cを測定することが重要視されています。こちらは長期間のデータを平均化してみることができるから信頼性が高いのです。もし私が患者の立場で、主治医が血糖だけで私を糖尿病であるとかないとか確定診断したら、その診断を私は完全には信頼しません。話半分が良いところでしょう。
さて、世の中にはいろいろな薬がありまして、中には「血糖を上昇させるから糖尿病の人には使ってはならない」という薬もあります(ここでは仮にA薬とします)。では、ある人にこのA薬を使いたいとして、主治医はどうすればいいでしょう。もちろんその人が糖尿病ではないことを確認しなくてはいけません。本人が「私は糖尿病で治療中です」と言ってくれれば(そして糖尿病手帳でも見せてくれれば)もちろんA薬は使いません。では「糖尿病かどうかわかりません」の場合には? どうしてもA薬が必要な場合には、糖尿病かどうかの検査をしなくちゃいけません。つまり「糖尿病を疑い」検査をしてその結果その疑いが晴れるかその通りであったと確かめられるか、ということになります。それをしなくては安心してA薬の処方ができません。ここまでは当然のお話でしょう。
ところが健康保険では、「A薬」と「糖尿病」とは両立してはいけないことになっています(糖尿病の人にA薬は使ってはならないのですから)。そこで、レセプト上A薬を処方している人に糖尿病の検査をしていたら、はい、また例の「査定」です。血糖検査一回くらいならお目こぼしが受けられますが、ヘモグロビンA1cはアウトです。「糖尿病の人にA薬を処方してはならない」「A薬が処方されている人は糖尿病ではない」「糖尿病でない人には糖尿病の検査をする必要がない」がすべて満たされなければならないのですから。でも検査しないで糖尿病かどうかわかるんでしょうか? 私より医学に詳しい人、ぜひご教示を。
検査だけ健康保険をはずして自費でやりましょうか? でも、自己負担が増えますしそもそも保険と自費の混合診療は禁止の原則があります。
何と言いますか、現場を知らないで机上の理論を操る人は幸せだろうなあ、とつくづく思う臨床医の一経験談(思い出話)でした。
もしかして、私が何を言っているかまったく理解できませんでした? そんな人は、厚労省にぜひ「もうちょっとわかりやすい保険制度を」との働きかけをお願いします。私たちはそういったお役所の通達と日々つき合っているのです。
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