「九大生体解剖事件」について初めて読んだのは『海と毒薬』(遠藤周作)でした。高校の時でしたが、ショッキングでした。ところが『海と毒薬』は事実を元にしたフィクションであって、“真相”は違う、というのが本書の主張です。
昭和20年4月、著者は九州大学医学専門部に入り、解剖学の平光教授の研究補助員となりました。5月11日、平光教授のところに不審な電話があります。アメリカ兵の捕虜が負傷しているのでその手術をするから、解剖学実習室を使わせろ、というのです。5月17日、教授が留守の時トラックが二人の捕虜を運んできます。著者は実習室へ一同を案内しますが、その目の前でドアは閉じられました。
それに先立つ5月5日、久留米市郊外大刀洗飛行場を爆撃して帰投中のB29は日本戦闘機にエンジンを撃たれ、全乗務員はパラシュートで脱出しました。住民は「鬼畜米英」と竹槍などを持って山狩りをします。ただし、終戦後に行なわれた、占領軍による捕虜虐待および虐殺に関する厳しい追及のため、住民の記憶は“封印”されてしまいました。そのため、終戦後の著者の調査は難航しますが、それでも少しずつ事情がわかってきます。猟銃で射殺された米兵もいますし追い詰められて自殺した人も。逆に、取り囲まれてあわや、のところで、「捕虜は殺してはならない」と命令された警察官や(「アメリカのスパイ」と囁かれている)英語ができる獣医や日露戦争の古強者が体を張って米兵の命を救った例もありました。パラシュート降下した11名(または12名)の米兵で生き残った9人は、所轄の熊本憲兵隊と大分憲兵隊に引き渡され、さらに福岡の西部軍司令部に護送されました。中央からの暗号電報による指示は「すでに俘虜収容所は一杯なので、情報を持っている機長だけ東京に送れ。あとは各軍司令部で適当に処置せよ」でした。適当? 処置? 無差別爆撃は国際法違反だから、軍律会議で死刑を宣告することができる、と日本軍の法務部は考えます。しかし軍律会議には時間がかかります。戦略爆撃による大損害に対する怒りと、米軍の九州上陸は目前という焦燥。そこで「負傷した俘虜に、実験的な治療を行なう」という“大義名分”が浮上してきます。さらに「どうせ銃殺になるのだから」という言い訳も。軍から話を持ちかけられた大森軍医は、出身大学の九大に話を持ち込みます。
当時胸部外科では「片肺摘出手術」は「現在は無理だが将来にはチャレンジしたい課題」でした。さらに、代用血液の研究も当時の日本医学では重要な課題でした。輸血に必要な血液は圧倒的に不足していました。そこで海水を蒸留水で薄めたものがその代用にならないか、という研究です。すでに兎ではある程度の実績を上げ、次は人体実験、という段階でした。
教授たちは「軍の要請だから」と言い訳をしつつ、“悪魔の所業”の準備を始めました。
二人の捕虜は片肺摘出の「手術」と代用血液の点滴を受け、そしてそのまま殺されます(著者の見解では、大森軍医が大量に脱血して死に至らしめたようです)。そのあとで死体解剖が行なわれましたが、エーテル麻酔科での手術と死後の解剖、この二つが混同されて「生体解剖」という呼称が後世に伝えられることになりました(少なくとも著者の目撃が正しければ、ですが)。
5月22日に第3例目と第4例目の“手術”が行なわれました。最初は胃の手術と開胸心臓マッサージです。次は肝臓切除。どちらも当時の日本医学では最先端の手術です。米兵はまたも手術台の上で死亡します。
5月25日、こんどは脳の手術でした。たまたまそこに居合わせた平光教授は解剖学的なオリエンテーションを術者に聞かれ「そんなことも知らずに“手術”をするとは、何が目的でやっているのだろう」と不審に思います。
6月に入り、著者が知らないうちにまた3人が手術台で殺されました。
6月19日の福岡空襲で大森軍医は重傷を負い、7月9日に死亡しました。空襲に対してB29搭乗員への憎しみが爆発し、九州では生き残った捕虜の(手術の形も取らない)処刑が次々行なわれます。最後の一人の処刑は8月15日午後のことでした。
敗戦と同時に証拠隠滅工作が始まります。捕虜は全員空襲で死んだことにし、書類や遺骨をでっち上げます。それが通用しそうもないとなると、捕虜の一部(九大で殺した人たち)は広島に送ったのでそこで死亡、残りは敗戦後東京に輸送中に飛行機が墜落、というストーリーを軍部は組み立てます。
陸軍内部でも混乱があります。中央と地方で責任の押し付け合い(自分たちは責任追及されないように、しかしトップ(ひいては天皇)にも責任が及ばないように)があり、話はあちこちでこじれます。陸相によって中央俘虜調査特別委員会が作られますが、委員の調査の対象は自分たちの同僚や先輩です。やりにくくて仕方ありません。
九州地区で墜落したB29の搭乗員が一人も生き残っていないことを、米軍は怪しみます。当然厳しい取り調べが行なわれました。偽証と沈黙の固い防壁を破り、ついに九州大学に捜査の手が及びます。そこでもまた組織防衛の論理が発動しました。医学部長を守らないと、医学部と病院全体が接収されたりするのではないか、と。そのためには「責任者」は現場の人間でなければなりません。執刀をした外科の石村教授と、場所を提供した解剖学の平光教授とに。二人は逮捕され、石村教授は一部を告白した後自殺します。
著者も連日の(ほとんど精神的拷問とも言える)厳しい取り調べを受けました。結局28人がこの事件で戦犯裁判に起訴されます。新聞はGHQの発表をそのまま鵜呑みにして猟奇的に報道します。まるで戦中に大本営発表をそのまま垂れ流したことの裏返しのように。
検事側の筋書きに散りばめられた「生体解剖」「実験のための手術」「捕虜虐待」「肝臓嗜食」がキーワードとなって裁判は進行します。軍の依頼を受けた外科教授に頼まれて場所を貸した平光教授は、いつの間にか積極的に手術に関与した“主犯”に祭り上げられていました。石村教授は「責任をとっての自殺」のつもりだったのでしょうが「死人に口なし」が逆に作用して「ならば生きている誰かを罰してやる」と裁判の方向が決まってしまったのです。(そう言えば『銀河英雄伝説』で、艦隊決戦に負けた元帥が自殺しようとしたら副官に「あなたがここで死んだら別の誰かが戦犯として処刑されることになる。気の毒だけれど、ここは自殺せずに戦犯として死んでください」と自殺を止められるシーンがありましたっけ)
判決は、死刑5人、終身刑4人。平光教授は(61歳にして)重労働25年の刑でした。ただ「肝臓嗜食」で訴えられた者は全員無罪となり、連日センセーショナルに報道していた新聞は慌て、朝日新聞などは「これら肝臓嗜食関係者には、いずれ何らかの処置が施されると思われる」と見苦しい“社会的制裁”を加えているそうです。
戦争という狂気に彩られた「時代」にすべての責任をかぶせるわけにはいかないでしょう。医者として、さらに人間としての倫理は、どんな時代でも殺してはいけません。ただ、平和な時代にそう言うことは簡単ですが、では実際にそんな時代に生きなければならなくなったとしたら、私自身どこまで自分の良心を眠らせずにすむか、正直自信はありません。いくらかの抵抗はできるだろうとは自分自身に期待はしていますが、実際には両方を体験しないとわからないことでしょうね(*1)。
*1)「奴隷商人になるよりも乞食になるほうがましです」アースタンはいった。「それは、そのどちらにもなったことのない人のいう言葉よ」ダニーは小鼻を広げた。(『剣嵐の大地 ──氷と炎の歌3』ジョージ・R・R・マーティン)
(未読の人にはちょっと解説が必要かな。ダニーは、一家が全員殺され・亡命をし・売られ・強姦され・夫を喪い・死産をし・殺されかけ・人を殺し、そして今では異民族の女族長をやっている、という波乱の人生を送っているまだローティーンの少女です)
書誌情報:『汚名 ──「九大生体解剖事件」の真相』東野利夫 著、 文藝春秋、1979年、
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