明治時代に活躍した人の本などを読んでいて感じるのは、彼らの教養が「江戸時代」によって形作られていることです。明治政府は江戸幕府に関係するものは全否定する勢いでしたが、結局各個人の中に「江戸時代(の価値観や教養の厚み)」が生きているように思えます。
これは「現在」から「過去」を見た場合の話ですが、視線を転じて「過去」と「現在」から「未来」を見たらまた面白いものが見えます。
今の時代、特に医療に関しては、その環境を含めて大きく変えなければならない、と私は感じています。「今」を変える、とはつまり「現在の否定」です。
しかし、単なる「否定だけ」で動いたら何が起きるでしょう。ただの破壊です。徹底的に壊せばそこから再生が始まるかもしれません。しかし下手すれば「死」が生じるかもしれません。そんなバクチをするのは、明確な診断もプランもなしで突然手術を始めるようなもので、とても危ういと私は感じます。
では現状肯定? それでは何も変える必要は生じません。「今がそのままでよい」のですから。でもそれで生じるのは「緩慢な死」です。
では、厳密な変更計画の立案? 100%確実な計画を立てるのは困難です。その計画に全国民の合意を取り付けることも困難です。そしていざその計画を発動させたら、不測の事態が連続します。
それでも歴史を見れば確実に「時代」は変わっています。
科学に関して一番目立つのは「科学革命」(天動説 → 地動説 のパラダイム転換)でしょう。そのとき「時代を動かした人」はどんな人だったのか、と私は興味を持っています。
まずはコペルニクス。彼は決して「革命家」ではありませんでした。プトレマイオス天文学(天動説)を徹底的に理解し、その上で「地球は宇宙の中心の不動の位置を占めている、とされているが、地球は自転しているし、『宇宙の中心』は太陽にした方が他の星の位置の計算が楽になる」と述べ、実際にその主張に従ったとても役に立つ星の位置の計算表を示しました(『天球回転論』1543年)。表面上は「天動説の忠実な信奉者」で「ほんのちょっとの視点の修正」を提案した、という体です。ただし、コペルニクスが主張した「地球の自転」や「公転」の“証拠”(フーコーの振り子、年周視差、光行差など)が得られたのは18世紀になってからです。つまりコペルニクスは“エビデンス”なしで時代を変える主張をしていたのです。
ギルバート(『磁石論』1600年)は、磁力が魔術などではなくて科学的に説明できる力であるというそれまでにない「思想」を提唱しました。しかしその“科学的な説明”は17世紀の科学技術では証明不可能なことでした。それでも彼の主張は後世の人々に影響を与えました(たとえばヨハネス・ケプラーは「天球」を否定し各星々がばらばらに移動しているとしましたが、それらの星を結びつける「力」として、ギルバートの「磁力」を持ち出しました。今から見れば無茶な主張ですが)
ガリレオ・ガリレイを見ても同様のことに気づきます。彼はギルバートの「地球は磁石である」と自分の観測した「月は衛星である」「木星には4つの月がある」などを根拠として(なんと薄弱な根拠!)、地動説が間違いないものとしました。万有引力も慣性の法則も角運動量の保存も知らないため『天文対話』でのたとえば潮の干満の説明は悲しいくらい杜撰なものですが、逆に、それだけのエビデンスでも「真理」に到達できたのは偉大なことと言えるでしょう。(というか、ここで「潮の干満の説明が間違っている」ことをもってガリレイの地動説を否定したらそれはあまりに狭量な態度と言えると私は考えます。「木を見て森を見ず」と言うか、枯れ枝一本を以って森全体を否定する態度である、と。さらにオマケをするなら、「科学の世紀」に生きている我々でも、たとえば「満潮は月に海水が引っ張られて起きる。ではそのとき地球の反対側(月がない側)でも満潮が起きる理由は?」と問われて即座に“正解”を言える人は、何割くらいいるんでしょうねえ?)
彼らに共通するのは、先人の業績をきちんと学び我がものとしていることです。ギルバートは『磁石論』で自分の先取権は主張するが他人のそれは無視するというトホホな態度を取っていますが、それでもそこに先人の影響は露骨に濃厚に見えます。つまり出発点は「先人の業績の肯定」。しかしそこで止まっていたら、そのまま安住に流され、時代を変え乗り越えることはできません。また「過去と現在」を自分のものとして他人と共有可能としないと、同時代の人々(多くは現状肯定派)に対して彼らに理解可能な「自分の言葉』を届けることができません。つまり「肯定」と「共通理解」と「否定」とを同時に成立させなければ話は進まないのです。そこでコペルニクスらは過去の学問を学び完全に消化吸収して一度自分の思想的“背骨”としてその時代の“権威”となった上で、それを否定しました。つまり「過去と現在の肯定」と「自己否定」とがセットで登場する、それが科学革命での著名人の特徴と私は捉えています。
そんなことは凡人には無理です。安易な肯定や安易な否定の方がよほど楽。でもそういった困難な道(それも学問的に正しい道)を選んだ人だからこそ、歴史に名を残すことになったのでしょう。
さらにもう一つの「困難さ」があります。時代には「時代の制約」があります。常識や技術面での制約が。「世間の常識」を否定するのは困難ですし、どんな実験を思いついてもそれを実現するテクノロジーがなければそれは机上の空論となってしまいます。そこで「時代を変える」ためにはその時代の中では説明できない領域に踏み込むことが要求されます。コペルニクスやガリレイのように。それはきわめて危うい道であり、成功した人は稀です。このへんになると一種のバクチではないか、という感想を私は持ちます。そういえば「大陸移動説」のアルフレート・ヴェーゲナーが、大陸移動のメカニズムとして「大陸がそりのようにずりずり海底の上を滑っていく」なんて主張をしていて、誰も納得させることができなかったことを私は思い出します。そんな理屈では誰も納得しないのが当然なのです。
ともかく、現状を受けとめそれを肯定できるだけの知識と経験を持ち、その上でそれを(自分を含めて)否定できるだけの志と勇気を持つ、それが「時代を変える」ために現在必要な人材の条件でしょう。単なる不平屋や批判屋や単に新奇なものに夢中になるだけの人ではなくて。
ふっと医学に連想が飛びます。
EBMは大切な概念です。大切ではありますが、ではEBMで時代を変えることはできるでしょうか。「時代を変える」とは上記したように「その時代を否定する側面」を持ちます。しかしEBMは時代を否定するよりも肯定する性質の方が勝っています。「現状(または過去)の中での最善の方法の選択」ですから。「根拠」の無い主張にはEBMの中に生きる場所はありません。ではもし今「現代医学(EBM)のコペルニクス」に相当する人物が生きているとしたら、彼は医学の歴史を変えることができるのでしょうか?
参考図書:
『磁力と重力の発見 3 近代の始まり』山本義隆 著、 みすず書房、2003年、3000円(税別)
『新科学対話(上)』ガリレオ・ガリレイ 著、 今野武雄・日田節次 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1937年(61年14刷)、★★
『天文対話(上)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1959年、★★★★
『天文対話(下)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1961年、★★★
『天球回転論』コペルニクス 著、 高橋憲一 訳・解説、 みすず書房、1993年、3600円(税別)
『コペルニクス革命 ──科学思想史序説』トーマス・クーン 著、 常石 敬一 訳、 講談社学術文庫、1989年、1250円(税別)
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昔は新聞に良く「痔の薬」の宣伝が載っていました。薬事法の改正で第二類以上の薬は薬剤師がとかネット上での薬の販売に制限、とかがあるのであのお薬も通信販売で売れるのかな、と思いますがそれはともかくとして。
なぜ痔の薬が通信販売されていたかと言えば、やっぱり恥ずかしさでしょう。医者に行ってパンツを脱いでお尻をみせるのは、私でも嫌です。見せるどころか、お尻の穴に指まで入れられてしまうのは屈辱的に感じます。だから痔の出血があったらとりあえず通信販売の薬で、というのも気持ちはわかります。
ただし二つ条件があります。
1)その痔が、“その薬”で治るタイプのものである。
2)“それ”が本当に痔である。
1)痔に「いぼ痔」「切れ痔」「痔瘻」などがあることは、皆さんご存じですよね。で、治療法はどれも違います。どれも同じ治療法で良い、のなら話が楽だったんですけどね。
2)合わない薬を使っていた場合、最大の悲劇は「いつまでも治らない」です。しかし、痔ではなくて別の病気だった場合、最大の悲劇は「寿命が縮む」になる可能性があります。その代表が「痔だと思っていたら、大腸癌だった」です。
ですから、「これは絶対に痔だ」という確信があったとしても、医者にかかっておいた方が、吉です。さらに言うなら、それで痔という診断があってもそこでお終いにしないで下さい。入り口(出口?)にたしかに痔があったとしても、その奥に別の病気がない、という確証はないのですから。痔になったのを「幸い」として、大腸のチェックをしておくのは悪いことではないと私は思います。
なお、「痔」でかかるのは「外科」です。「外科・肛門科」と看板が出ていたら、かかる科としては間違いがありません。
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