先週函館まで行ったのは、「医療メディエーター(メディエーション)」についての話を聞くためでした。
医療訴訟に関連してADRという制度があります。これは司法が設ける「中立」の調停制度ですが、裁判所の調停とは違って、裁判というぎちぎちに対決・対立をする制度の“外”に解決の場を求めます。その場を取り仕切るのは中立の立場の弁護士。しかし医療メディエーターは「院内の職員」が行なうところがまずADRとは違います。
「院内の職員が調停をするのなら、どうせ病院寄りの立場じゃないか」と思う人が多いでしょう。私も最初はそう思いました。ところが実際にはちょっと違います。
「院内の人間」の強みは、患者・医療者両方が理解できることです。たとえば「医療者の心も傷つく」ことに、多くの人は無頓着です。医療者自身も含めて。でも、しっかり傷つくんです。そのことを医療メディエーターは理解して動けます。それによって「医療者」も「患者・家族と“対等”の当事者」として「関係」を構築することができるようになります。(そもそも“健全(健康的)な人間関係”は「対等」が基本ですよね)
メディエーターが守らなければならないことはいろいろあるそうですが、私の印象に残ったのは「自分の意見や見解を言わない」「自分の決定を押しつけない」「誰かの代弁をしない」でした。じゃあ何を言うのかといえば「質問」です。お互いの当事者に相手が何を考えているのか何を感じているのか、を知らせるための質問。患者・家族が本当に知りたい、でも医者に遠慮して聞けないことを「どんなことを一番お知りになりたいんです?」と医者の前で聞き出すことで医者に知らしめる。現場で実際に起きたことを「そのときどのくらい出血して、それに対して何を考えてどんな処置をされたんです?」と患者・家族の前で医者に質問して事実を明らかにしていく。そうすることで、当事者同士が“共通の基盤”の上に立って話し合いができるように環境調整を行なう、それが医療メディエーターの仕事、と私は理解しました。
子育ての方法論はいろいろありますが、その中の一つ「親業」の「能動的な聴き方」を私は思い出しました。親業では親による「叱る」「否定する」「命令する」「指示する」「示唆する」などは禁止されています。では親は何をするかと言えば「傾聴」です。それも受動的にただ黙って聞くのではなくて能動的に傾聴する、というちょいと癖のある方法論。私は、この親業の方法論と今回函館で知った医療メディエーションの方法論とに、“似た匂い”をかぎつけました。(親業では「親が子どもを育てる」のではなくて「親は、子どもが自力で育てるように黒子に廻って支援をする」という発想のようで、医療メディエーターの役割と共通した部分が多いように私には思えるのです)
なお、今回特に印象に残ったのは、「生きている以上、コンフリクトはあるのが当然」という言葉です。些細な行き違い、思い違い、期待はずれなど、「自分の思い通りにならないこと」は日常茶飯事です。それを今回の講師は「コンフリクト」と表現しました。そして「コンフリクトのない人生などない」と。
ではそのコンフリクトにどう対応するか。私が思いつくのは以下の四つです。
1)少々のコンフリクトには耐えられるくらい強くなる
2)コンフリクトを紛争に育てて戦う
3)コンフリクトと共に生きる
4)逃げる(他人とかかわらない)
さらに3)は
3−1)泣き言を言う
3−2)共存共栄
に分かれるでしょう。
コンフリクトに出会うたびに、派手に傷ついたり派手に戦ったり派手に泣いたりするのも一つの手ですが、コンフリクトを感じた相手と共存共栄(ただ我慢するのではなくて、コンフリクト込みで一緒に実りのある人生を生きる)路線で行くのは、地味ですが豊かな生き方、と言えるかもしれません。
私は興味を持ちました。もう少しこの医療メディエーションについて、勉強をしてみたいと思っています。
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かつて子どもを多く殺し、今はほとんど見られなくなった病気の一つに「ジフテリア」があります。これは「真性クループ」と呼ばれる急性喉頭炎を起こし「犬の遠吠えのような」と表現される苦しそうな咳をすることになります。三種混合(あるいは二種混合)ワクチンによって幸いこの病気はほとんど姿を消しましたが、逆に現在この病気が発生したら早期に診断がつかないのではないか、という恐れはあります(何しろ医者も親も最近はこの病気を見ていないのですから)。統計上は日本では1年の発生数は10人以下で死亡者はほとんどなしとはなっていますが。
なお、喧嘩に勝った犬と負け犬とで遠吠えがどう違うのかは、私にはわかりません。
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