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2010.05.23 17:24 |  診療  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 0

血漿と血清

 「赤い血潮」と言いますが、血液は様々なものの混合物です。たとえば「細胞」がたくさん含まれています、と書けば医学教育を受けていなくてもたいていの人は「赤血球、白血球、血小板」と唱えることができるはず。それで正解です。その中でも赤血球が圧倒的に多く、血液の体積比で半分くらいは赤血球が占めています。(この血液中の赤血球の体積比をヘマトクリットと呼びます。貧血の場合この数字が下がって「血が薄く」なります)
 血液を採取して試験管に入れてしばらく放置しておくと、沈殿と上澄みの2層に分かれます。下は細胞とフィブリン(血液を凝固させるための蛋白質)とが絡み合って凝固した状態のもので、上は黄色っぽい液体(血清)です。
 ところがここで医者はいらないことを気にするのです。たとえば何かを測定する場合、その物質がフィブリンと何らかの関係を持つ場合、フィブリンが下に沈んでいたら、その物質もそれにつれて血清の中から減っているかもしれません。そうすると測定値が不正確になることになります。
 そこで、試験管の中に抗凝固剤を入れておくとフィブリンは静かにしています。ところが今度は測定が難しい。ふわふわ浮いている細胞が邪魔しますから。そこで試験管を遠心分離器に突っこみます。強制的に細胞を沈殿させちゃうわけ。このときの上澄みを「血漿」と言います。血清にフィブリンや凝固因子(と抗凝固剤)が加わったものです。

 「細かいなあ、どうでも良いじゃないの」と言いたくなりません?  私は言いたくなります。ただ、検査によって「血漿で」とか「血清で」とかの指定がある場合にはその「細かいこと」を守らなければなりません。実際には、試験管(ふつうは真空の採血スピッツ)の色で区別するのですが。

 心臓が弱ってくると、心臓は「これはいかん」と心臓の負担を軽くするために利尿作用や血管拡張作用があって血圧を下げるホルモン、ANPやBNPを分泌します。逆に言えば、そのホルモンを測定したら心臓が弱っているかどうかがある程度判定できるわけです。特に私はBNPを愛用していますが、これが「血漿で測定」という指定がついています。ところがその前駆物質NT-proBNPは、BNPに比べて物質として安定していて測定誤差が少なくしかも血清でも測定可能、という優れもの、というふれこみです。要するにアバウトな取り扱いに耐える、ということで、これからはこちらに乗り換えようかと私は思っています。ただ難点は、名前が長いこと。私が勤務する病院はまだ電子カルテになっていないので、手で書く場合には面倒なんですよね。nBNPとかになってくれないかしら。


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2010.05.23 06:19 |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

ボーイズビー

 端っことはいえ(まだ)北海道にいるので、北海道ネタです。

 クラーク博士の有名な言葉“Boys be ambitious”は、“Boys be ambitious!”なのか“Boys, be ambitious!”なのか、という議論があるそうです。つまり「訓え」なのか「命令」なのか、です。
 ただクラーク博士は、札幌農学校に赴任したら“Boys be gentlemen”を寮の唯一の規則としたそうですから、その流れから判断したら命令であるよりも“Boys be ambitious!”の「訓え」である可能性の方が高いでしょう。

 そういえば私も大学に入学したとき、これもまた“Boys be gentlemen”の一亜形でしょうが、最初の頃に教師から「君たちには、常識ではなくて、良識を期待する」と言われた覚えがあります。常識はCommon sense、良識はGood senseですから、常識を持つのは当たり前、ということだったのでしょうか。いやあ、荷が重い期待でした。なにしろ集まったのは常識どころか非常識が服を着て歩いているような連中がほとんどだったのですから。

 ただ、大人が少年たちに大志を抱くべきだとかジェントルマンであれとか良識を持てとか言いたくなる気持ちを持つわけが、私もこの年になったら少しわかるような気がします。少年たちの未来は、たっぷりあるようですが、浪費をしたらあっというまになくなってしまう(「少年老い易く学成り難し」です)。それと、社会の未来は少年たちの双肩にかかっているのだから、少しでも早くその重みに耐えられるようになって欲しい(そのためにまずは外形的な行動だけでも“オトナ”のものであってほしい)。この二つの気持ちが私にも同じような言葉を言わせようとします。ただ、言うだけではなくて、「私」もまた“そう”であらねばならない、とも思うのです。他人を変えるよりも自分を変える方が楽でもありますしね。

 ……自分自身を“Boy”と自称する勇気はさすがにありませんが。(ただ、常に人生の初心者でありたいとは思っていますが)


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