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以前「死語(24)老人問題」で書きましたが、私は「老人問題」という「問題の立て方」が嫌いです。だってこれだとまるで「老人」が問題の元凶であるかのように見えてしまいますから。老人に向かって「あんたが長生きしたから、みなが困っている」と「老人問題」を個人レベルに還元して「解決」しようと努力するのは、間違っていると私は感じているのです。
人が老人になることには自然の経過なのだからそれ自体には何の問題もありません。それをまず出発点として押さえておきたいと思います。OK?
では、次。
では、何が本当の「問題」なのか、です。
「個人としての老人」には問題が無いが、「(大きすぎる)集団としての老人」には問題がある、ということにしましょうか。私はその見方に、半分だけ賛成します。問題の存在場所を「個人」ではなくて「社会」に移動させる点には賛成なのです。それによって「解決策」も「個人」から「社会」に持って行けますから。
そう、キーワードは「社会」です。
では、『老人の大集団」が問題? 私は首を傾げます。
たとえ老人が多くても、それが安定・継続した社会構造なのだったら、そこに「問題」は生じません。いや、もちろんそれが「何の問題もない社会である」というわけではなくて「“あまりに多くの老人”を原因として不穏となる社会」ではない、と言いたいのです。それはたとえば江戸時代に、(今の私たちから見た“大問題”の)生まれた子どもの半数が5歳までに死んでしまうようなことが平気で継続されている社会でも、それで「安定」していたら社会はその人口構成で不穏にはならないのと、同様です。だって「社会は昔からそんなもの」なのですから。
では何が真の問題か。「変化」です。それも「急激な変化」。
人口そのものの急な増減あるいは人口構成の急な変化は、それだけで社会にストレスをかけます。「個人とストレス」の関係と同様、適度なストレスならそれは社会に活力をもたらすこともあるでしょうが、限度を超えたストレスの下では、社会は下手すると不健康さらには崩壊への道を辿り始めます。それが現在の日本で起きていることだと私は考えます。
ならば対策は? 「個人としての老人」を一人一人とがめ立てすることが無意味なのは明らかです。「原因療法」として、老人を大量虐殺するのは手っ取り早い方法にも見えますが、それは「ストレス」に対して不適合の悲鳴を上げている社会に対する根本療法ではありませんし、さらにそれはそれで別の大問題を引きおこします(倫理的な問題はもちろんですが、数百万以上の死体の処理を物理的にどうするかも大問題です)。さらに「大量虐殺による人口構成の補正」は、これまた「人口構成の急激な変化」そのものですから、また新たな日本社会へのストレスとなります(今でも若年労働者に十分な雇用の場が提供できていないのに、そこでまた大きなストレスをこんどは逆方向にかけたら、雇用の危機はむしろさらに深化する(“パイ”を分けなければならない数は減少するが、“パイ”そのものがもっと小さくなる)のではないかと私は危惧します)。
だからといって、あまりに「老人」に特化した社会を作るのに、私は賛成できません。そんなあまりに特殊な社会は、「進化の袋小路」になるのがオチですから。「どんな方向にでもとりあえず対応できてしまう社会」の方が、環境の変化に強くて望ましいのではないでしょうか。ちょうど個人で、基礎体力と生活に余裕があれば少々のストレスにはびくともしないのと同様に。ただこういうのは簡単ですが、では具体的にどのような社会システムにするか、どうやってそちらに社会を変化させていくか、そもそもそのことに社会の成員の合意をどうやってとりつけるか……難問は山積ですな。ただ、ネガティブな言い方はあまり好きではありませんが「老人を大量虐殺はしない社会」は目指しましょうよ。
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