家内がなぜか自家製青汁というのを作りました。主成分はゴーヤだそうで、苦い苦い。口が曲がります。
私の顔を見ながら「良薬は口に苦し、よ」となぜか嬉しそうな家内。
私は言い返します。
「苦いものがすべて良薬とは限らない」
曲がった口が変なことを言ってます。いつものことですが。
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日本社会の価値観(倫理観)では、「生産」は「とても価値のあること」とされています。
「良い/悪い」で分類したら、生産は「良いこと」です。生産などの結果としての「経済成長」は「大変良いこと」です。経済成長が止まるのは「悪いこと」です。ついでに「成長のない奴だ」は悪口として立派に通用します。
家庭でのしつけや学校での教育も、「無駄遣いは×」「「むだ飯喰らいも×」「人の役に立つものを生み出す人間は○」「稼ぎがよい者は○」「生産向上は○」を基本として行なわれます。つまり、生産や成長は実利面だけではなくて、道徳的にも美徳なのです。
ところが、現代の大量消費社会で“エライ”のは、生産者よりも消費者でしょう。それは、今の日本での第一次産業の衰退ぶりや第二次産業で実際に働く多くの人たちの待遇を見たら、明らかだ、と私には思えます。少なくとも「こつこつと○○を作り続けて、大金持ちになりました」なんて話はあまり聞きません。
本来生産と消費は不可分の関係のはずですが、まず「大量消費は是」が前提としてあり、そのために「生産」が存在している、つまり生産者は消費者に隷属する存在でしかない、という扱いが「大量生産大量消費社会」の現実です。ですから「消費者の利益」に直接つながる「値段を下げる」ためには当然のように情け容赦ない生産コストの削減が行なわれます。
(「そんなことはない。生産者の方が消費者よりエライしそのように扱われている」と主張する人は、農村や漁村や工場で「あなたたちは消費者よりエライから、実際にそのように扱われている」と主張してみてください。現場でどんな反応がかえってくるでしょうねえ? 「扱われるべきだ」だったら私もその意見に賛同しますが、そのためには「実際にはそのように扱われていない」を認めることが大前提となります)
つまり、日本のタテマエでは「生産>消費」、ところが現実は「消費>生産」なのです。この“ねじれ”が“日本の不幸”を多く生産している可能性がある、と私は考えています。
では、どうするか。
ここで「美徳原理主義者」になってタテマエ回帰を行なうことに血道を上げるよりも、現実を認めた方が楽になるんじゃないでしょうか。そして、その上で発想の転換。
一例を挙げるなら、へき地の老人が冷遇されるのは、彼等が「生産者」ではないし経済成長にも無縁の存在だからです。「生産者優遇」というタテマエに支配された社会では「生産の役に立たない人間(あるいは生産の効率が悪い人間)」は冷遇されるべきですから。しかし彼等は、「消費者」としては“役立つ”存在です。問題があるとしたら人口密度が希薄なために輸送効率が悪いことですが、それは「生産と消費、どちらが優遇するか」の問題の“次”の重要性しか持たないでしょう。と言うか、本当に「消費者が大事」だったら、へき地の消費者も大切にした方が“企業の利益”に繋がるんじゃないでしょうか。
医療や福祉も同じ観点から見ることができます。「生産をしない(できない)人」は冷遇されるべきだ、という発想から、患者や障害者は肩身が狭い思いをしていますが、彼等を“消費者”と見なすことができませんか?
ちょっと発想を変えるだけで、「日本の問題」に対して思わぬ解決法が見つかるのではないか、と私は考えています。
※そういえば塩野七生さんは「社会は二種類の人間でできている。生産者と非生産者に。社会のインフラを整備して生産者に生産に専念できるようにするのは、非生産者の責務である。」と述べていましたっけ。(『ローマ人の物語 XV ローマ世界の終焉』)
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