| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | ||||
| 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
| 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
| 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
看護雑誌「エキスパートナース」に掲載された記事をまとめたものです。
目次
「管理者としてのナイチンゲール」金井一薫(ナイチンゲール研究家)
「思想家としてのナイチンゲール」綿貫礼子(環境問題研究家)
「世界初の病院建築家」長澤泰(東京大学助教授)
「ナイチンゲールとその時代」長島伸一(長野大学講師)
「階級社会とナイチンゲール」長島伸一
「ナイチンゲール像の再検討」石田純郎(日本医史学会評議員)
「ナイチンゲール誓詞の謎」石田純郎
「ナイチンゲールって、すごい」山田真(八王子中央診療所長)
「ナイチンゲールが新しい」長谷川敏彦(厚生省老人保健課課長補佐)
「『看護覚え書き』の新しさ」西田晃(藍野学院短期大学教授)
「『看護覚え書き』──その深さと限界」田川建三(西洋思想史・宗教学者)
「看護婦になりたかった私」群ようこ(作家)
「ナイチンゲール──その毅然とした姿勢」宮迫千鶴(画家)
ナイチンゲールが活躍したのは19世紀後半ですが、話をその少し前から始めてみましょう。
1815年ワーテルローの戦いは、ブリュッセル近くで行なわれました。ブリュッセルは当時オランダに属していたのでオランダ軍医団は「野戦病院→銃後の病院→基幹病院」のシステムを作りました。これで3000人の負傷兵の処置が可能です。ところが狭い戦場で両軍合わせて30万人以上が近代装備で戦ったため、ブリュッセルには2万7000人の負傷兵が。急を聞いたオランダ国王の勅命を受けた軍医総監ブルーフマンスは周辺の民間医師に非常呼集をかけて臨時軍医とし、患者の過密解消のために移送に耐えうる人はすべて他の町に移し、大テントやバラックの仮設病院を多数建てました。機敏な処置で伝染病の発生は抑えられ、ブリュッセル(と負傷兵たち)は救われました。
クリミア戦争(1854〜1856)のスクタリ。イギリス軍は最初に2000人の傷病兵を出しましたが、彼らは過密で不潔な病院に詰め込まれ、院内感染で40%の死亡率となりました。そこで陸軍大臣は妻の親友で看護の仕事に就いていたナイチンゲールに依頼、彼女は30余人のスタッフを引き連れてスクタリへ乗り込みました。
「これは異常なことだ」と石田さんは述べます。まず軍の医療システムの破綻。そして情報伝達システムの破綻(本来なら「現地の情報を上奏された国王から職階を順々に下へたどって現地の軍医」に到達するべき命令が、「新聞(タイムズ)→陸軍大臣→外部の人間であるナイチンゲール」になってしまっているのです)。ついでに、フランスも英国と一緒に戦いましたが、負傷兵はイギリスほど悲惨な状況にはなっていません。
要するに、大英帝国軍の医療システムはめためただったのです。
で、そこに乗り込んだナイチンゲールたちが行なったのは、病室内の清潔・ベッドの間隔を広げる・良い食事・きれいな水、でした。2000人に30人では、医療的には大したことはできませんが、環境改善によって院内感染が激減し、それで死亡率は2%までに下がったそうです。石田さんは「要するに、上流階級出身のわがまま娘が、自分の食住の習慣の強行を、戦地で権力とマスコミとお金を背景に行なったのである」と皮肉っぽく表現しています。
本邦では「ナイチンゲール精神」を「白衣の天使」とか「奉仕の精神」と“翻訳”しますが、それは明白な“誤訳”です。ナイチンゲールが理想とした看護婦は、「一流のプロ」で単なる善意の慈善運動家ではありません。高度な教育と厳しい訓練(宗教色の薄いもの)を受け、高い理想を持ち、鋭くしかも暖かい観察眼を駆使し、確かな看護技術と患者への思いやりを持つ看護婦、それがナイチンゲールの理想とする「(プロ)看護婦」なのです。理想の実現のためにナイチンゲールは、ナイチンゲール学校を創設、また聖トーマス病院(ナイチンゲール病棟)の設計を行ないます。
アメリカでは、南北戦争で陸軍看護婦が素人レベルであったことの反省から、戦後各地に看護学校が作られ近代看護教育が行なわれるようになりましたが、その指導者はナイチンゲール学校の卒業生たちでした。つまり、ナイチンゲールの理想が、世界の看護を近代化していったのです。
……ところで、クリミア戦争後、48年間90歳で死ぬまでナイチンゲールは寝室にこもり、人にも会わずただひたすら著作活動に専念しました。この行動に精神疾患のにおいはしないか?と石田さんは疑問を投げかけますが、そういった観点からの論文は存在しないそうです。
なお石田さんは「ナイチンゲール誓詞」にも疑念を呈します。“曲訳”ではないか、と。実際に原文と並べて読むと、文章が古くさいだけではなくて、誤訳がいくつもあります。さらに誓詞の“精神”は、欧文は「専門職としての高らかな誓い」なのに和文の方は「奉仕の精神の強調」となっています。おやおや。さらについでですが、「ナイチンゲール誓詞」は1892年(または93年)にアメリカのファランド看護学校で作られたもので、「ナイチンゲール」は名前を使われただけです。石田さんはご自分の指摘を「オチョクリ」と自称していますが、これはけっこう深いところに“問題”がありそうです。「高度な専門職」を目指したはずの看護婦が、日本では看護学生を現場で“戦力”として使ったり、看護婦と准看護婦の二重制度を作ったり、なにか「看護婦の地位」について歯切れの悪いところが歴史的に見えるものですから。日本には、専門職をなるべく尊敬しないか尊敬しても安く使おうとする傾向がありますが、「ナイチンゲール誓詞」にもその“伝統”がにじみ出ているのかもしれません。
「ナイチンゲール」という“ことば”の前で立ち止まるのではなく、そこから一歩(あるいは二歩も三歩も)奥に入って批判的吟味を行ない、そこからまた“今”に戻ってから「現実」の批判的吟味を行ない、その上で「ナイチンゲール」をどのように解釈しそして今の医療を改善するのにどのように生かすかを考えること、その重要性を本書は示しているように思います。「ナイチンゲール」は、まだ“使え”ます。逆に言えば、「ナイチンゲールはもう時代遅れ」と言えるほど、医学はまだ進歩していません。残念なことですけれどね。
書誌情報:『ナイチンゲールって、すごい』群ようこ・宮迫千鶴 他 著、 エキスパートナース編集部 編、小学館、1989年、777円(税別)
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (1) | トラックバック (4)
固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (3)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (9)
以前「死語(24)老人問題」で書きましたが、私は「老人問題」という「問題の立て方」が嫌いです。だってこれだとまるで「老人」が問題の元凶であるかのように見えてしまいますから。老人に向かって「あんたが長生きしたから、みなが困っている」と「老人問題」を個人レベルに還元して「解決」しようと努力するのは、間違っていると私は感じているのです。
人が老人になることには自然の経過なのだからそれ自体には何の問題もありません。それをまず出発点として押さえておきたいと思います。OK?
では、次。
では、何が本当の「問題」なのか、です。
「個人としての老人」には問題が無いが、「(大きすぎる)集団としての老人」には問題がある、ということにしましょうか。私はその見方に、半分だけ賛成します。問題の存在場所を「個人」ではなくて「社会」に移動させる点には賛成なのです。それによって「解決策」も「個人」から「社会」に持って行けますから。
そう、キーワードは「社会」です。
では、『老人の大集団」が問題? 私は首を傾げます。
たとえ老人が多くても、それが安定・継続した社会構造なのだったら、そこに「問題」は生じません。いや、もちろんそれが「何の問題もない社会である」というわけではなくて「“あまりに多くの老人”を原因として不穏となる社会」ではない、と言いたいのです。それはたとえば江戸時代に、(今の私たちから見た“大問題”の)生まれた子どもの半数が5歳までに死んでしまうようなことが平気で継続されている社会でも、それで「安定」していたら社会はその人口構成で不穏にはならないのと、同様です。だって「社会は昔からそんなもの」なのですから。
では何が真の問題か。「変化」です。それも「急激な変化」。
人口そのものの急な増減あるいは人口構成の急な変化は、それだけで社会にストレスをかけます。「個人とストレス」の関係と同様、適度なストレスならそれは社会に活力をもたらすこともあるでしょうが、限度を超えたストレスの下では、社会は下手すると不健康さらには崩壊への道を辿り始めます。それが現在の日本で起きていることだと私は考えます。
ならば対策は? 「個人としての老人」を一人一人とがめ立てすることが無意味なのは明らかです。「原因療法」として、老人を大量虐殺するのは手っ取り早い方法にも見えますが、それは「ストレス」に対して不適合の悲鳴を上げている社会に対する根本療法ではありませんし、さらにそれはそれで別の大問題を引きおこします(倫理的な問題はもちろんですが、数百万以上の死体の処理を物理的にどうするかも大問題です)。さらに「大量虐殺による人口構成の補正」は、これまた「人口構成の急激な変化」そのものですから、また新たな日本社会へのストレスとなります(今でも若年労働者に十分な雇用の場が提供できていないのに、そこでまた大きなストレスをこんどは逆方向にかけたら、雇用の危機はむしろさらに深化する(“パイ”を分けなければならない数は減少するが、“パイ”そのものがもっと小さくなる)のではないかと私は危惧します)。
だからといって、あまりに「老人」に特化した社会を作るのに、私は賛成できません。そんなあまりに特殊な社会は、「進化の袋小路」になるのがオチですから。「どんな方向にでもとりあえず対応できてしまう社会」の方が、環境の変化に強くて望ましいのではないでしょうか。ちょうど個人で、基礎体力と生活に余裕があれば少々のストレスにはびくともしないのと同様に。ただこういうのは簡単ですが、では具体的にどのような社会システムにするか、どうやってそちらに社会を変化させていくか、そもそもそのことに社会の成員の合意をどうやってとりつけるか……難問は山積ですな。ただ、ネガティブな言い方はあまり好きではありませんが「老人を大量虐殺はしない社会」は目指しましょうよ。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
たとえば国立病院機構を事業仕分けすることになったとして、そのときに病院機構の人に向かって「日本の医療戦略を誰が決めているか不明確」と仕分け人が言ったらどうでしょう。言われた方は目をぱちくりさせて「それはあなた方政府の仕事でしょう?」と返すのではないでしょうか。国家戦略を決めるのは国家の仕事なのですから。
ところが「宇宙」では、国家戦略をJAXAが決めている(いや、決めていない)という“指摘”がありました。
※1)「事業仕分け、JAXA広報施設は「廃止」」(TBS News i)
ニュースによれば、ここで「日本の宇宙戦略が誰が決めているか不明確」との指摘があったのだそうです。それって、JAXAを詰問する材料です? 「日本の宇宙戦略」を決めるのは「日本=政府」でしょう。政府の下部組織であるJAXAではなくて。そうそう、JAXAの事業仕分けをばりばりやったとしたら、その“仕分け”をやった人が「日本の宇宙戦略」を決定したことにもなります。ということで、ここで話は明確になりました。「日本の宇宙戦略を誰が決めているかはこれまでは不明確」だったとしてもこれからは「日本の宇宙戦略を決めるのは、事業仕分け人」なのです。
うわぉ。私たちは、歴史の転回点の目撃者ですよ。
茶化して言っていますが、私は事業仕分けという手法自体は肯定的に捉えています。癒着した政官財の既得権砦を崩すには、現時点ではこれ以上の策はないでしょうから。ただ、事業仕分けはあくまで「国家戦略」の下の“戦術”であるべきで、それ自体が“戦略”にまで拡大適用されてはいけないと思っているだけです。落ち目の企業でコストカッターが社長になったら、ほとんどの企業は縮小再生産の負のスパイラルに陥ってしまうのです。
ところで、官僚や政治家そのものを対象とした事業仕分けはいつ行なわれるのでしょう? ぜひ彼らの「費用対効果」(※1)の評価を聞きたいし、それを問われたときに「全部言い訳から入るんですよ。常に問題意識を持っていただかなければいけないのに、すべての質問にすべて言い訳で・・・」(※2)と仕分け人に言われずにすむ返答が聞けるのかどうか、私は楽しみです。
※2)「科学技術も仕分け、日本の将来とは」(TBS News i)
「全部言い訳から入るんですよ。常に問題意識を持っていただかなければいけないのに、すべての質問にすべて言い訳で・・・」(枝野幸男行政刷新相)
オマケです。
「詰問」すればそれに対する返答は「言い訳」になります。穏やかに説明を求める「質問」をすればそれに対する返答は「説明」になります(詰問の場合、対等の立場なら「反撃」もありえますが、「質問」の場合は立場の違いに無関係に普通は「説明」となります)。
自分が聞いたらすべて言い訳が返ってくる、というのはつまり自分は常に詰問をしている、ということになるのではないでしょうか。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
たとえば「虫垂」なんてものは人間には基本的に不要なものです。極端な例ですが、だったらそんなもの取ってしまえ、と全員の腹をかっさばいて手術したらよいか、と言えば、そんな予防手術は人類には利益より不利益の方が多いでしょう。「盲腸(虫垂炎)の手術」は「100%安全なもの」ではないのですから。将来盲腸(虫垂炎)から腹膜炎になって死んでしまう人にとっては利益ですが。ただしごく少数の個人の利益のために人類全体が損害を被る(本来不必要な手術を受け、その中のある割合が失われる)こと……つまり「利益」と「不利益」を総体として比較したら、明らかに結論は出せる、ということです。
ところがこれが「未破裂脳動脈瘤」だと、私の思考はキレを失います。脳ドックでこの未破裂脳動脈瘤がどんどん見つかっていますが、「見つけたら、すぐに手術をして潰しておくべきか」のところで話がややこしくなるのです。
もし放置して将来もしもその動脈瘤が破裂したら、くも膜下出血となります。これは嬉しくありません。動脈瘤破裂によるくも膜下出血は、それ自体が死亡率が非常に高いし、血管痙攣・水頭症などがつづいて起きると様々な障害(あるいは生命の危機)が生じます。
ならば予防手術をするべきか、と言えば、こんどは手術そのものの危険性の話が出てきます。頭蓋骨を開けてのクリッピング(チタン製のクリップで動脈瘤をつまむ)にしても、コイル塞栓術(足の付け根から動脈の中を細いチューブ(マイクロカテーテル)を通して、動脈瘤の中にプラチナ製の細い針金をぎっしり詰め込んで固めてしまう)にしても、成功率が100%ではありません。その手術によって何らかの合併症(たとえば脳出血や脳梗塞など)が起きる可能性さえあります。麻酔事故の可能性もゼロではありません。(局所麻酔剤でさえアナフィラキシーショックを起こす可能性はあります)
片方は最悪/もう片方は最善、なら話は簡単ですが、両者に最悪と最善があるわけで、そうなると次に考えるのは確率ですが、確率に圧倒的な差があったとしても、確率が扱うのはあくまで「集団」であって、「では自分はどうなるか」の個別の疑問に対して確率は何も語ってはくれません。
さらにその「確率」の上に、その手技ごとあるいは主治医ごとにある程度の「経験数」を重ねなければなりません。
このへんまで話が来ると、私は「医学」はちょっと脇に退いて、ほかの何かの出番になるのではないか、と思います。何かって何だ?ですか? そうですねえ、たとえば「人生観」、あるいは「哲学」、あるいは「死生観」。あるいはすべてまとめて「覚悟」。
プロ野球の木村さん(読売巨人のコーチですが、私にとっては(元)広島カープの選手)の急死で、最近脳外科の外来や脳ドックが大賑わいだという噂を聞きました。それは良いのですが、「もし未破裂の脳動脈瘤が見つかったとき、自分はそこからどんな人生を生きたいのか」についてきちんと考えてから受診した方が良いのではないか、なんてことを私は感じています。
人気ブログランキングに参加中です。励みになりますので、クリックをよろしく。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (139)