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律令には「癲狂」ということばが記載されています。これは癲癇発作と妄想のようです。(養老律令には「癲狂の犯罪者は刑罰を減免する」とあります)
南北朝時代~戦国時代には「狂気」の多様化が行なわれ、李朱医学(田代三喜、曲直瀬道三)では「癲・癇・狂」と分類されました。狂気に対する認識が深まったのかもしれません。
病気の治療は、基本的にその「原因」に対して行なわれます。したがってその治療手段はそれぞれの病気の「原因」に一番ふさわしいと思われるものが選択されます。
「狂気の原因」が超自然的なもの(呪い、憑依、悪魔のせい……など)なら、それへの対処は超自然的なものとなり、具体的にはたとえば祈祷をすることになります。しかしもしもその原因が「自然」に含まれるものならば、「合理的・科学的な治療」を「人」が試みることが可能になります。つまり、(その治療法が有効だったか無効だったかはともかく)治療法を見たら当時の人が何を考えていたかの手がかりを得ることができます。
たとえば狂気に対して過去の日本では「水治療」が行なわれました。平城〜平安時代からの密教寺院系の治療ですが、主に滝に打たれることで狂気を癒そうというやり方です。これは「水」が持つ超自然的な力を利用する発想でしょう。超自然的なものには超自然的なものでないと対抗できない、という発想です。これは江戸時代にも行なわれていることが知られています。
室町時代頃から、主に浄土真宗系の寺で「漢方治療」が行なわれるようになりました。つまり「狂気は薬物によって治す(あるいはコントロールする)ことができるもの」という概念がその世の中にあったということになります。
江戸時代から、読経療法が日蓮宗系の寺で行なわれるようになりました。ここではまた超自然的な対処法の登場です。ただ、漢方薬の使用法も洗練されています。
繰り返しますが、その治療法が有効だったか無効だったかはここでは問いません。このような内容の記述をしているとすぐに「現代万歳。科学万歳。過去の人間は変なことばかりやる無知蒙昧な野蛮人」と即物的なとらえ方をして思考停止に陥る“現代人”が登場するのですが、大事なのはまず「世界観と発想」だと私は思うものですから、念のために繰り返しておきます。
20世紀半ばにクロルプロマジンに代表される向精神薬が精神分裂病(当時の呼び名)に有効であることがわかり、「狂気」は「精神病(あるいは脳の病気)」になりました。近代社会では「薬物で治療(あるいはコントロール)可能な疾患」という扱いになったのです。
で、現在の日本では(これまでにも書いたことがありますが)「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」によって彼らは「精神障害者」として法的には扱われます。ただし精神症状は精神科医が担当(治療)することは同じですが。ここに私は小さな問題を感じています。「病気」なら「治る」ことがあります。だけど「障害」は治りません。そんな世界観に基づく宣告を最初からしちゃって良いのでしょうか? きちんと福祉で扱うというのだったら良いですよ。でも、だったら「治療」の意味は?
そう言えば、日本語では「気が違う」という言い回しがあります。私はこの言葉が示す世界観・人間観が好きです。
「気が違う」とは、人の精神状態が「正常/異常」の二分論で簡単に分けられるものではなくて、人が正気と狂気の間をアナログ的に漂い行き来する存在である、という世界観・人間観の日本語的表明だと私は感じます。「首を寝違えた」とか「道を間違えた」のと同様、自分たちもいつ“そちら側”にぶれていくかもしれない、でも、違ったものはまた元に戻れるだろう、という希望の表明に見えるのです。そういった希望を持ちたくない人にはまた“違った”ことばの解釈があるかもしれませんが。
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