医者の仕事は「受け入れる」ことから始まります。
主訴(患者の訴え)を聞くなり「そんなことはないだろう」とは(ふつう)言いません。どんなとんでもない主張(……そうだなあ、たとえば「空飛ぶ円盤に拉致されて以来、身体の調子が悪い」)であっても、とりあえずは受け入れます(私だったらカルテには「空飛ぶ円盤に拉致されて以来、身体の調子が悪い、と本人は言う」と記載します)。
検査データもそうです。予想外のとんでもないデータが出てきたら(そして症状がそのデータと全然合わなければ)、まずは「異常なデータが出たこと」は受け入れ、その上で対処を考えます。本当に異常なデータをその人が持っている/検査機器の異常/検体の取り違え/検査伝票の取り違え、などの可能性を考え対応をするのです(たとえばもう一回採血をさせてもらって検査を出すことで、検体や伝票の取り違えの可能性はつぶせますし、院内と院外で検査ができる場合には出す先を変えることで検査機器の異常の可能性もつぶせます)。
つまり医者の場合、一応すべてを「受け入れ」たあとで、「疑う」(選別または取捨選択)作業が始まります。この態度って、ある種の人からは「カモ」なんですよね。たとえば詐病の診断書を書かせようとする人たち。ただ、どんなことにもメリットとデメリットがあるわけで、「詐病にだまされるというデメリット」をなくすために「すべての患者の訴えを最初からすべて疑ってかかる」のは社会的なメリットとは私には思えないのです(特に、患者の立場から見た場合)。こちらの精神衛生にもデメリットが多いですし。
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「医療の標準化」が、医師と患者の個性を生かすためのものならその国の医療は豊かになり国民は幸せになれますが、官僚の監督権限のためだったら、その国の医療は薄っぺらく貧相になり国民は不幸になります。
官僚はどんな場合でもふつう「自分のため」とは言わず「国民のため」と言いますから、言葉だけからはその意図を見抜くことは困難です。でも国の医療が政策によってどのように変化しているかは、見る目と記憶力があればわかるはずですし、そこから「官僚の意図」を類推することは簡単に可能です。
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