北里柴三郎が1885年にベルリンのコッホの下に留学した直後、来独した軍医本部長の石黒忠悳(ただのり)は北里にミュンヘン大学へ移れと命令をしました。しかし北里は反発します。ミュンヘン大学のペテンコーフェルは、コッホの「黴菌病毒説」を否定する「ミアスマ説(病気は環境によって発病する)」で、北里はコッホの教えを学びたかったからです。そこに仲裁に入ったのが、石黒に同行していた若き森林太郎で、その結果北里はコッホの下での研究を続けることができたそうです。(『物理・化学通史』橋本毅彦 著、 日本放送出版協会)
この森林太郎は後に大出世して陸軍軍医総監(陸軍軍医のトップ)として日露戦争で「脚気は病原菌によって起きる」と主張して多数の戦病者を出すというチョンボをするのですが(海軍は食事の改善で脚気はほとんど出しませんでした)、世間一般では「森鴎外」の方が通りがよいでしょう。もっとも森鴎外としても「この鬼畜め」と言いたくなる行動をしているのですが……(『舞姫』に書かれていることが実話ではないかと思わせるように、実際にドイツから日本へ鴎外を追ってきた女性は追い返されています)
「脚気菌」についての陸軍と海軍のごたごたは有名な話なのでここでは省略します。
ただ、森林太郎を弁護するとしたら、当時の風潮のせいにするという手があります。当時は医学が科学になりつつあった(あるいは、科学が医学に侵入しつつあった)時代で、コッホの原則に代表される「微生物を極めたら病気のすべてが解明できる」という風潮が上げ潮に乗ってブイブイ言わせていました。(現代の、遺伝子を解明したらすべての病気が説明できる、と相似形であると私は思っています) ですから「脚気は病原菌によって起きる」という主張は棄却されるまでは有効な仮説として扱ってもよかったのです。問題はそれを「仮説」ではなくて「真理」として扱ってしまったことでしょう。
ですから私は森を“断罪”はしません。ビタミン欠乏症どころかビタミンという物質も概念もない時代に、「病原菌」という当時最新の「思想」を知った人間として、それを捨てる(それ以外の仮説を検討する)勇気がなかったのかなあ、とやや気の毒に思うだけです。
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