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< 死語(93)盲腸を散らす | メイン | 試食 >
2010.03.09 06:57 |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

ま違い

 ネット上での“議論”を眺めていて、私が好きになれないのは「相手の主張のどこかに傷があったら、それを“根拠”として勝ち誇ったように相手の主張のすべてを否定する(「こんな間違いをしでかす人間に、正しい主張ができるとは思えない」と言う)態度」です。「一部が否定できる」=「全部が否定できる」という論法ですが、それって本当に“正しい(あるいは論理的な)態度”なのでしょうか。まあ、本人は「正しい(相手の全否定には効果的)」と思っているからそれをやるのでしょうが、正しいか間違っているかは別として、少なくとも「対話の継続」を妨害するには効果的とは言えます。

 たとえば冷戦の時代に、ソ連の市民とアメリカの市民が「社会主義と資本主義の違い」について“対話”集会をしたとします(例が無茶苦茶古いですが、私が育ったのはそういった時代だったのです)。
 ソ連の市民が「資本主義の下でいかに人民が抑圧されているか、どんな悲惨な生活をしているか」を縷々述べるのに対して「プロパガンダに目をくらまされて、苦しい生活をさせられているのはあんたたち。そもそも資本主義の下での生活を、あんたら体験したことないだろう?」とツッコミを入れることは簡単です。
 だけど「相手が知らないことへの認識を間違えている」ことを以って「相手の主張がすべて間違っている」というのはやり過ぎでしょう。もしそんなことを言ってしまったら、こんどは自分が「社会主義の社会での生活」についてちょっとでも間違ったことを言った瞬間「自分の主張はすべて間違い」と認めなければならなくなります。ある定理の数学的証明ではあるまいに、そんな一言一句を常にマイクロメーターで測定しながらしゃべるなんて態度は、疲れますし、非人間的です。
 そもそもこの対話集会のテーマは「社会主義と資本主義の違い」であって、「どちらが素晴らしいか」ではないのです。立場が違えば「違い」があるのが当然で、その「違い」に「間違い」も含まれると私は考えます。「違い」でも「間違い」でも、それがあるからといって即座に相手を全否定するのではなくて、そこからもう一歩「なぜそんな違いや間違いが生じたのか」を考えて思考と議論を深めたら、対話の結果に大きな違いが生じるはず……じゃないでしょうか。

 医療崩壊をめぐる“議論”でも「違う」というだけで相手を問題視しているんじゃないか、と言えそうな人がけっこういるのを見ての感想です。(まだ「意見が違う」だったらわかりますが「立場が違う(たとえば「お前は医者だ」、など)」をもって相手を全否定できる、という“論”を展開されると、そこによほどの読者を楽しませる“ワザ”が仕込んでない(あるいは文章そのものに魅力がない)かぎり、読むだけでうんざりします)


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