もう30年以上前のことです。路線バスに乗っていると、よくある話ですが、車内に非常に元気な(平易な日本語を使えば、大変騒々しい)男の子がいました。これまたよくある話ですが、母親が声を嗄らして叱ってますがまったく効果がありません。
「タロー! タロー! もう! タローったら!!」
選挙じゃあるまいし、名前の連呼では効果がないのは当たり前とは私は思います(というか、選挙で名前の連呼がされる一番の目的は、何です?)。問題は彼の名前ではなくて行為なのです。そこで母親は次の手を打ちます。「そんなことをしたら運転手さんに怒られるよ!」「運転手さんに怒られるよ!!」「怒られるよ!!!」
信号でバスが停車したら当の「運転手さん」が振り向きました。穏やかな声で
「奥さん、私は他人様の子どもを怒り飛ばすような、怖い人間ではありません」
私は笑いをこらえるのに忙しくて、その後の記憶が飛んでいます。(ほとんど実話そのままです)
月日が流れ、あのタロー君、じゃなくて、今では大人のタローさん(当然ですが、仮名です)も今では人の親をやっているかもしれません。さて、ではタローさんが自分の子にどんなしつけをやっているのか、少しだけ興味はあります。
この母親の行為で私の目につくのは
1)何を叱っているのか明示していない。
2)他人任せの躾(自分は良い子(良い親)ちゃん)。
3)「怒られからやめろ」と言うのは、つまりは怒られないことなら何をしても良いと主張していることになる。
この三点です。
子供に注意をする場合、「なぜ」「何を」「どんな状況で」してはいけないのかをきちんと明示した方が良いと私は考えます。もちろん子供に言葉や理屈が通じない状況はよくありますが、だからといって親が子供と同じレベルではそれは「躾」とは言えません。
また、具体性も必要です。単に「良い子にしていなさい」と命令するのは抽象的で意味がありません。もし「意味がある」と言われる人がおられれば、試しに「あなたは良い大人でいなさい」と言ってあげましょう。さて、私があなたに具体的に何を期待しているかこの言葉だけで読みとっていただけるでしょうか?
さらに、禁止だけではなくて、そのかわりに何をどうすれば良いのかを親が提示するか、あるいは子供に自分でそれを考えついてもらう必要があります。できたら自分で考えついて欲しいものです。親は普通子供より早く死にますし、二十四時間子供の後をついていって何から何まで一々指示するのは大変です。一々指示をしないと最初は失敗が多くてかえって手間でしょうけれど、失敗から親子が学べば最終的にはどちらも楽になるはずです(私は、人には(人の命がかかるような場合を除いて)「失敗する権利」と「失敗から学ぶ義務」があると思っています。権利・義務というのはここでは強すぎることばかもしれませんが)。
また、「ことの善悪」も自分で判断できるようになって欲しいものです。最初は仕方ありませんが、ある程度代表的なケースについて「なぜ悪いのか」をきちんと躾られたらあとは自分で判断できるだけの能力を普通の人間なら持っているはずです。
さらにさらに、「怒られるから」ではなくて「してはいけないことだから」、を「何かをしないことの理由」にして欲しいと願います。「怒られるからしないようにしよう」で育ったら、コワイ人の目を盗んで怒られなければ、あるいは気が弱くて怒れない人が相手だったら、何をしても良いんだ、と思うようになってしまいません?
昔は「天知る地知る」とか「お地蔵様が見てござる」という言い回しがありましたが、今は流行らないのでしょうね。だけど、言葉の古さとその内容の真実性とは無関係だと言いたくなるのは、これは私が年を取った証拠なのかもしれません。
そういえば、「世間を騒がせて申し訳ありません」という「謝罪会見」を時々TVなどで見聞します。これはもしかして「世間さえ騒がなければ、問題はない行為だった」という主張なのでしょうか? 少なくとも「自分が行なったことの是非」には目を閉じて「(世間に)騒がれたこと」だけに反応していて、「この程度で一々騒ぎがって」と腹の中では舌を出しているのかもしれません……「親の小言は頭を下げていたら上を通過していく」と腹の中で舌を出している子供と同じように。
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