「権利」は大切なものですが、ある意味煩わしい面もあります。たとえば「権利」には「義務」がつきものです。義務を伴わない特権というものもありますが、そういった特権階級にはこんどは別に「ノーブレス・オブリージュ」なんて大変なものが生じることになります。
ただしそういった「権利」「義務」という概念は、人が社会で生きるからこそ意味を持ちます。たとえば大自然の中で一人で暮らしている人間には権利も義務もないでしょう。で、その人がたまたまばったりと人を食った狸に出くわしたとします。この場合「私には、お前に食われない権利がある」といくら絶叫しても、その「権利」の行使以前にその人の言葉はその(人を食った)狸には通じないことでしょう。
では「殺人」に関する権利・義務はどうなるでしょう。安定している社会では「他人に殺されない権利」「他人を殺さない義務」はありそうです。「他人を殺す権利」は……フィクションのジェームス・ボンドくらいにしておいてください(おそらく厳密には「権利」ではなくて「違法性の阻却」でしょうけれど)。「他人を殺す義務」……死刑執行や安楽死の場面で出てきそうです。ただ、これは「個人の行為」というより「社会の要請」が、たまたまその時“その場所”にいた人に向けられているわけですから、個人の行為としての殺人を論じる場合とは次元が違うものとして別に扱うべきでしょう。(同様に、「戦争」もまた個人の行為というより社会の行為ですから「社会の中での個人的行為としての殺人」とは別枠になると私は考えています)
私は「他人に殺されない権利」と「他人を殺さない義務」は密接にくっついていると考えています。というか、この二つは掌と手の甲のようなものでばらすことは困難なはず(「義務」を守る人によって「権利」が守られるわけです)。ところが(過失致死ではない)殺人犯は行為(自らの選択)によって「他人を殺さない義務」を侵しました。ならば自動的に(自分が)「他人に殺されない権利」も消失する(自分で放棄した)、と言って良いでしょう。ただしそれによって「他人に殺される義務」が発生するかどうか(死刑が宣告・執行されるかどうか)は、別のお話です。裁判での弁明の過程で「自分は人を殺したが、自分は人に殺されてはならない」と主張する権利はなくなった、というだけ(実際にどんな刑罰が下るかは裁判で決定されることになりますが)。
ここで私は「死刑」について考え始めます。
もしも刑罰が「教育(本人の成長・贖罪・賠償・再犯防止)」なら、死刑は存在してはならないでしょう。しかし刑罰が「報復」や「懲罰」なら、死刑は選択肢の一つとして存在してよいことになります。
では次の問題は「社会」が刑罰をどのようなものと捉えるか、です。今の日本で「刑罰」は「教育」でしょうか、それとも「懲罰」? そのことについて基本的な合意ができていましたっけ?
さらに次の問題は、根拠があるか、です。何の根拠かというと、「刑罰は教育だ」だったら「教育効果」が出るようなプロセスが具体的に検討され確立しているか・結果として教育の効果が出ている(たとえば出所後の再犯がゼロに近い、出所後社会に有益な結果をもたらす人が多い)か。「刑罰は報復・懲罰だ」だったら、それによって被害者や遺族やその周囲の感情が満ちているか(関係ない人間の感情は二の次にして良いと私は考えます)。
現在の死刑は、過去からの慣習で惰性によって行なわれているように私には思えます。議論しても簡単に結果が出ない場合はとりあえず過去の慣習をそのまま守るのもアリですが、感情的なものではなくて、もう少し人と社会の関係を見据えた上での根拠に基づいた論理的な議論があっても良いんじゃないかなあ。刑罰の体系を、ということは刑法の基本と社会のあり方(個人の社会意識)を見直すことになりそうなので、大変とは思いますが。
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被疑者が「真犯人」がどうか、裁判で有罪の判決が出ても冤罪だったケースが少なからずあるわけですから、ここが絶対に間違っていないという保証は誰がするのでしょうか?或いはそれは可能??
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