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2010.02.14 17:20 |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

水に流す

 「タミフルが河川汚染? 耐性ウイルス懸念、影響調査へ」(朝日)

 朝日新聞はこの手の話が大好きですね。以前にも同種のニュースが出たはず、と自分のブログに検索をかけたら、「飲用水に医薬品残留」が出てきました。
 そういえば「環境ホルモン」(あのときの“大騒ぎ”を覚えていますか?)が“話題”になったとき、「環境ホルモン(ホルモンと同様の作用を示す内分泌攪乱化学物質)」と「環境にばらまかれたホルモン(ホルモンそのもの)」が違うことを理解していない人が多くてあきれたのを、改めて思い出しました。

 「カキのウイルス、オレガノで激減 食あたり防止に効果か」(日経ネット)には、下水処理場排水口近くで牡蛎を養殖すると牡蛎がノロウイルスをたっぷり持つことが書いてあります。
 これはつまり水洗便所で流されたノロウイルスがそのまま海中に放流されている、ということを示唆します。でもそれは下水処理場の“罪”ではないでしょう。汚水を処理した後放流して良い水質基準に「ノロウイルスの数」はないはずですから。そもそも、標準的に使われている活性汚泥法は、有機物の分解除去が目的であって、殺菌(ウイルス破壊)能力はありません。
 では、別の手段で放流水の殺菌(とウイルスの破壊)を行ないますか?  どうやって?  そうそう、放流水の中の、最初の話題「薬物」の破壊も同時に行ないたいですね。でも、どうやって?
 それとも屎尿中のノロウイルスや薬物が下水処理場に来ないようにするために水洗トイレの使用禁止?  それは個人的にはいやです。

 下水処理場と言えば、最近私が個人的に気にしているのは、プラスチックのリサイクルです。「環境のため」ということでわが家でもきちんとゴミの分別をやっていますが、プラスチックのリサイクルの大きな邪魔になるのが「異物(そのほとんどは食品)の付着」だそうです。ですからリサイクルに協力するためには「ゴミを洗う」必要があります。しかしそれは、下水中の有機物の量を増加させ、下水処理場の負担を増します。わざわざ「汚水」を“製造”しているのですから。

 こういった話題で根っこに近いところに存在する問題は、「“何”が水を汚染しているか」ではなくて「人が水を汚染する」ことのはずです。環境ホルモン・医薬品などの「(水を汚染する)何」を個々に問題にするのは(その記事をばら売りすることで利益を得る人以外には)社会に利益をもたらさないように私には思えます。この世に存在する物質の数だけ記事が書けて、書く人は仕事ができて給料がもらえて嬉しいかもしれませんが、根本的な解決策には到達できません。
 さらに「人が水を汚染する」ことより「根っこ」に近い問題は「総てを水に流す現代社会のライフスタイル」でありそうです。だったらやっぱり「水洗トイレの禁止」ですか?  それはいやで〜す。ではどうしたものか……マスコミは影響力はあっても科学や医学のリテラシーが低くてあてにならないし、さて、誰にどうやって問題提起をしたものか。


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2010.02.14 07:50 |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 0

安楽死

 癌の末期で本人が安楽死を望む状況となって、安楽死が合法的な選択肢として存在していたとしても、安楽死は「あとは本人と家族が決めればいい」ですまされるような簡単な話ではありません。
 安楽死が合法とされるオランダを舞台とした『二つの旅の終りに』(エイダン・チェンバーズ)
に、ちらっとそんなエピソードが登場します。

・末期癌の女性が自身の安楽死を望んでいるのに家族の意見が分かれてしまいます。その女性の娘は安楽死に反対し、さらにその息子(孫息子)は賛成で対立。議論の中で二人はお互いをなじり合い傷つけあいます。「遺産目当てで早く死んでもらいたいのだろう」「自分の母親が苦しむ姿を見たいんだろう」と。
・安楽死の実行を数日後に控えた末期癌の女性はある少年に問いかけます。「わたしの立場だったら、あなた、同じことをすると思う?」  真剣に考え「わかりません」と答えた後、胸の奥で声が止まってしまった少年に「じゃあ、あなたはまだ生きてて幸せなのよ」と彼女は言います。
・かつて自分の祖母の安楽死に賛成した少女が悩みます。「頭では、自分たちが絶対に最善のことをしたのだとわかっている。でもとても後悔している。ほかにできることがあったはず、自分たちはただ利己的だっただけで、安楽死に同意したのは、おばあさんが痛がる様子にこっちまで苦しんだり、看護したりする必要が無くなるからだったんじゃないか」と。彼女はずっと罪の意識に悩まされているのです。
・さらに別の場所では、そういった家族の苦しみを理解しつつでも法的には決定の過程とその結果を共有する立場にない友人たちの苦悩も登場します。

 「安楽死を合法化し、制度としてその手続きを整備すればそれでおしまい」ではないのです。話は“そこ”から始まるのです。
 逆に、「そんなものは禁止すればいい」ですませて思考を停止することも、“解決”ではありません。それはただの逃避(または否認)でしかありません。

 私は思います。「自分とは無関係な他人の死」なんて実は存在しないのではないか、と。そして、他人の死と真剣に向き合うためには、自分の死と(そしてもちろん生と)も真剣に向き合う必要があるのではないか。そういった“死と向き合った人”が集まった上で議論をしなければ、結局それは「議論」ではなくてただの空疎な音波の垂れ流しでしかないだろう、とも。


※誤解があってはいけないので言い添えておきます。『二つの旅の終りに』は安楽死の本ではありません。戦時下(「遠すぎた橋」作戦の時期)のオランダと、それから50年後のオランダ、その両方を舞台にした青春ものの小説(メインはラブストーリー)です。

書誌情報
二つの旅の終りに』エイダン・チェンバーズ 著、 原田勝 訳、 徳間書店、2003年、2400円(税別)



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