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 さきほどラジオのニュースで「今回の診療報酬改定でどの程度医療の質が良くなるか、各医療機関へのアンケートで調査を行なう」と言っていました。それを聞いた瞬間浮かんだ感想を列挙します。

・そういうことをわざわざあらためて言うということは、これまで(たとえば医療費削減によって生じた影響について)そういった種類の調査を行なっていなかった、ということです。なぜこれまでそういったことに興味がなかったのでしょう。なぜ急にそういったことに興味を持つようになったのでしょう。その「心境の変化」について、私は興味があります。
・調査は医療機関だけでいいのでしょうか。医療機関以外(たとえば患者や消防)への調査も必要ではないですか?
・「アンケート」が、「医療の質(の変化)」を問うのに妥当な手法でしょうか。「なにかの質を評価するための手段」としての妥当性が保障されるエビデンス、あります?
・「アンケート」に答える義務が、それでなくても忙しい医療機関にさらなる負担を強いることにはならないでしょうか。
・「アンケート」に頼るということは、結局官僚は机の前(または机上)から動こうとしない(自分の仕事は紙をばらまくだけ)、と主張しているのですね。覆面調査(身分を隠して一患者となって実際に現場をチェックする)とか救急車への同乗調査とか、自分で汗をかこうという意欲はゼロですか。ま、現場を知らない人間(それも「現場を良くしよう」ではなくて「あらを探してやろう」の視点しか持たない“お偉い”人間)が現場をうろうろして邪魔したら、大迷惑ではありますが、せめて、豊富な医療の専門知識と信頼できる人間性と患者への共感と日本の医療への広い視野を持った人間をなんとか見つけて、「業務」を委託したらどうでしょう?

 そうそう、根本的な疑問も。今回の診療報酬改定は「医療の質を上げる」ためのものなんですよね?  で、どういう「メカニズム」で医療の質が上がるのでしょう?  「今回の診療報酬改定 → → → 勤務医の待遇改善」あるいは「今回の診療報酬改定 → → → 医療の質が向上」の「→ → →」のところにどんな理屈がはいるのか、その説明を私は知りたい、というか、「アンケート」を取らなくても「説明責任」が政策決定者にはありますよね?  ……よね?
 ブログ「東京日和@元勤務医の日々」の「勤務医の待遇改善にはほど遠い・・・」へのコメント欄にも書きましたが、「風が吹けば桶屋が儲かる」レベルの「説明」しか出てこないんじゃないか、といういやな予感もしますが。

 おまけの感想です。
・ネットでニュースを見たら「医療再生」とか「待遇改善」とか「薔薇色のことば」がならんでいますが、これはつまり「医療崩壊」「劣悪な待遇」が出発点(当然の前提)となっています。再生しなければならないのは崩壊しているからだし、待遇を改善しなければならないのは劣悪な遇し方をしているからです。そういった「出発点」を作ったことに対する責任とか反省とか……は求めないことにしましょうか。「自分たちは無謬である」と主張されるか、響のミツコの口調で「どうもすみませんでした」と言われるのがオチでしょうから。


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 俗に「記憶」と言いますが、医学の世界ではいくつかに階層化されています。
 記憶は短期記憶/長期記憶にまず二分されます。これは記憶の保持期間の差による分類です。次に長期記憶は「手続き記憶」(自転車や水泳は、一度覚えたら忘れない、と言われますね。それのことです)と「宣言記憶」(ことばやイメージとして意識されるもの)に分けられ、宣言記憶は「意味記憶」(言語・記号・概念など)と「エピソード記憶」(過去の個人的なできごとに関する記憶)に分けられます。長期記憶は「身」と「心」に分けられ、「心」はソシュールが言うところのラング(公)とパロール(私)に分けられる、と私はおおざっぱに捉えています。
 で、それぞれについて「記憶障害」があるわけです。もうややこしいのでここでは詳述しません。私自身の記憶の中にもそういった詳しい知識はありませんしね。


 「短期記憶の障害」を扱って最近印象的だった本は『博士の愛した数式』(小川洋子)です。天才的な数学者「博士」が交通事故で「記憶が80分しかもたない」状態になってしまい孤独に生きている、という印象的な状況設定でした。ここで「博士」が失っているのは短期記憶を長期記憶に持っていくところの能力です。短期記憶を長期記憶に定着させることができないものだから、短期記憶の容量を超えたものは脳からはみ出てしまいどんどん失われていくわけ。(実際にはもっと別の高次脳機能障害もある感じの描写ですが、そのへんは枝葉なので著者は詳しく述べませんし私もスルーします)
 この本では「記憶障害と一緒に生きること」「記憶障害を持った人と一緒に生きること」が、「数学」とともに優しく描写されています。そして「数学と数字の愛しさ」も。

 「数学と数字の愛しさ」と言うと一瞬なんだか変な気がします。数学なんてドライなものだろう、と。
 しかし、「博士」は「美しい証明の存在」や「数式の美しさ」、「数字の魅力」を熱く語ります。
 たしかに私も「4色問題(どんな地図でも、それぞれの国を隣接する国と違う色で塗り分けるのに4色で足りる)」を「コンピューターであらゆる場合を設定して塗ってみたら4色で足りた」とした“証明”は、力ずくのもので、美しくもエレガントでもない、と感じました。
 あるいは「数学で一番美しい公式」とも言われる「オイラーの公式」(イーのパイアイ乗プラス1イコールゼロ)。この式そのものを見るだけで私は背筋をぶるぶるっとさせて「う、美しい」と条件反射的に呟いてしまいますが、それはたぶん“主観”の問題でしょう。そしてその「美しさ」の説明は私にはできません。ところが『博士の愛した数式』ではこう描写されます。

>>果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い降り、恥ずかしがり屋のiと握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。

 私はここを読んだとき、とてもウエットな気分になってしまいました。私が感じている「式の美しさ」が、ことばに開かれることによって「他人と共有可能なもの」に昇華したように感じられたから。
 こういった素敵なことばは忘れたくないものだ、と思います。でもそのうち思い出せなくなっちゃうんでしょうね。私の記憶力の限界はたいへん低いものですから(そもそも「オイラーの公式」そのものだって、上に書いたのが合っているかどうか、実はあやしいのです)。ですからせめてここに記録をしておきます。そのうち“再会”して、「昔の自分はこんな文章を書いていたのか」と思う日が来るかもしれませんので。

書誌情報:『博士の愛した数式』小川洋子 著、 新潮社、2003年、1500円(税別)




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