私の“業務”の一つに「検食」があります。大体どこの病院でも当直の時にやってますが、患者さんと同じ時間帯に同じ食事を食べて、量や食べやすさ、献立の立て方、彩り、温度などをチェックする作業です。(ついでですが、この「温度」は病院機能評価の時には重要なチェック項目とされます。そのため自家用車1台分くらいの値段がする温冷配膳車が、機能評価を受けた病院にはずらっと揃っているはず。こういったメーカーに天下りがあったのかどうか、下世話なことがちょっと気になりますな)
ところが先日ある病院が監査を受けたとき、この「検食の時間」が問題にされたそうです。そう聞いた瞬間私がまず思ったのは「時間が遅いのが問題?」でした。医者が検食する場合、どうしても病棟でばたばたしていることが多いので患者さんよりも遅れて食べることが多く、栄養士さんにけっこう怒られるのです。「早く食べてくれ。古くなって食中毒になったらどうする」と。
ところがその病院の場合は違いました。患者さんの安全のために、事前に食べろ、と言われたのだそうです。つまり……お毒味?
和歌山カレー事件のようなことが病院給食に起きるかもしれない、という想定なのかもしれません。青酸カリなら即効性がありますが、「お毒味」が有効な、食べた瞬間ばたりと倒れる毒って、そんなに多くありましたっけ? あるいは食中毒の検出?
食中毒には毒素型、感染ー毒素産生型、感染型があります。症状発現が早いのは毒素型や感染ー毒素産生型。黄色ブドウ球菌やセレウス菌だと1〜6時間で症状が出ます。ボツリヌスは意外に遅くて12〜36時間。感染型は身体の中で原因菌が増殖してから症状が出ますので早くて翌日、遅いと1週間後、ということがあります。(大量に菌を摂取したら数時間で出ることもあるでしょうが)
ということは「お毒味」に万全を期するなら、一度作った料理を毒味したらその後1週間経過を観察してその人になんの異常もないのを確認してから「お待たせしました、さあ召し上がれ」……調理してから1週間? お毒味役“以外”は全員食中毒になっちゃいましたとさ。
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「人は後ろ向きになって未来に入っていく」という名言があります。身体は未来に向かって進むのですが、後ろ向きだから人は過去しか見ることができない、という意味です。その言葉どおり、人は未来を見通すことができません。何が起きるかわからない未来というものは、人間にとって、「何か良いことが起きるかもしれない」希望であると同時に「何が起きるかわからない」という不安の対象でもあります。
私の仕事の主な対象は病気や障害ですが、この場合もやはりこの「不確定の未来」が問題になります。「現在の病気が何であるか」も大問題ですが、「将来自分がどうなるのか」つまり、病気が進行するのか、治るのか、死ぬのか生きるのか、家族に感染させる可能性はあるのか無いのか、治るにしても治らないにしてもこれからの生活はどうなるのか、これらも大問題なのです。
そうそう、「不安」と「恐怖」は「心配の程度の違い」とすることが普通でしょうが、それ以外の区別のやり方もあります。心理学の専門家と話をしていて、「その心配の対象が明確」な場合は「恐怖」、「漠然としていて対象が不明確な場合」を「不安」と呼ぶ、と教わったことがあります。だとすると、「明確な対象」に対して対策が立てやすい恐怖の方が、具体的な対策が立てにくい不安よりは、扱いやすいように私には思えます。ただ、程度問題ではありますが。いくら思春期〜成人期に「感情をコントロールする技能」を練習して習得していても、その技能を超えた量の恐怖にさらされたら人は容易に「感情にコントロール」されてしまうでしょうから。
両者はさらに「健全(健康的)なもの」と「不健全(不健康)なもの」に分けることができるでしょう。
たとえば、今から大きな手術を受ける場合、本人や家族が「無事に手術が終わるだろうか」と心配するのは、これは不安を感じるのは当然ですから、それを「健全な不安」と呼んでよいと私は考えます。しかし手術をする者が「もし何か起きたらどうしよう」「失敗したらどうしよう」「マスコミにさらし者になったらどうしよう」などと不安に押しつぶされそうになっていたら、それはちょっと「不健全な不安」のにおいがします。むしろ「もしも大出血が起きたらこうしよう」「もしも癒着がひどければこうしよう」……と考えられるだけの事態を想定しそれぞれに対応策を(物理的に、あるいは心の中に)準備する作業に時間をかけていて欲しいと思います。つまり「何か起きたらどうしよう」ではなくて「○○が起きたら、こうしよう」の方がプロとして望ましい。
少し分析的に見ていきましょう。
「何か起きたらどうしよう」 これは先が見えない将来に対する、ごく普通の不安です。ここで不安の対象は、「悪いことが起きるかもしれない」「何が起きるかわからない」「その結果、自分が悪い運命を歩まなければならないかもしれない」つまり、将来への不安と予想ができないことそのものに対する不安とが入り交じった状態です。
一方、「○○が起きたら」は前者の態度とは相当違います。「何か」と「○○が」、文字で書けば「か」と「が」の濁点の違いですが、未来に対する態度が根本的に異なるのです。「○○が」と述べた場合、ここで行われる作業は「予測」です。具体的にどんなことが起き得るのか、現状とこれまでの過程から具体的な予想を試みます。そしてその予想に対して具体的な対策を立てようとします。(例:台風が接近しているときに「こわいこわい。もっと雨風がひどくなって何か起きたらどうしよう。でも何も起きないかもしれないし」が「何か」。「戸締まりはしておこう。植木鉢は全部入れたね。用水路には近づかないように。もし避難する場合には第1候補は学校、もしそこがダメなら公民館」などと家族で打ち合わせをしておくのが「○○が」)
もちろん人は神ならぬ身、すべてが予測可能ではありません。想定外の事態、というものは常に起こり得ます。しかし、何が起きるかわからないまま運命にこづき回されてうろうろする態度の人と、自分の力で予測できる限りの予測を立てそしてその対策を準備する態度の人とでは、その「何か」が起きたとき、その「何か」が想定内のものであっても想定外のものであっても、対応は全然違ってくることでしょう。
医療に限らず、何かプロジェクトを進行させようとするときに会議の場で「もしも何か起きたらどうするんだ」と言い出す人がいませんか? 「その“何か”って、何です?」と聞いてもたいていは答えてはくれません。「たとえば○○が起きる可能性が大きい」とか「可能性は小さいが××が起きたらプロジェクトの致命傷になる」とか言ってくれればみなで対応策を考えることができますが、そんなことを言わずに「もしも歩いていて隕石が降ってきて頭に当たったらどうするんだ」とか「万が一ゴジラが出現したらどうするんだ」レベルのことをヒステリックに言われたり、あるいは「よくわからんが、とにかく心配だ」と自分の「不安」を回りに強引に共有させようとする人の場合、これは対応が困難です。さらにそういった人に共通するのは「自分は動かないから、誰か他人が自分のこの不安を解消するために汗をかけ」と強く要求することです(ちなみに「自分がプロジェクトのために動かない理由」は具体的に山ほど述べ立ててくれることが多いのも、こういった人の共通の特徴でしょう)。
となると、あとは会議の進行役の腕の見せ所、ということでしょうか。私だったら「その“何か”って、たとえば何です?」とか「じゃあ、言い出しっぺの法則で、言い出したあなたが対策を考えてください」と言いそうですが(もちろん妥当な「もし○○が」の場合には「それは皆で考えましょう」にします)。
学生時代に「正しい問題文には、すでにそこに解答が含まれている」と習ったことがあります。都合良く「解答そのものずばり」がある場合もありますが、そうではなくても少なくとも設問者の「意図」はきちんと読み解けるはずだ、と。すると「何か起きたらどうする!」は“間違った”問題文で、「○○が起きたらどうする?」は正しい問題文ということになります。
もちろん、問題解決の努力をするより心配をしている方が(頭も身体も動かさずに舌だけ動かせばよいから)はるかに楽なのはわかるのですが、「自分は何もしない(何をしてよいのか判断できない)」したがって「誰かが何とかしろ」という怠惰または無能の証明を会議に参加した皆の前で提示する、というのが「どのような問題文か?」は、見なかったことにしましょうか?
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